2020年5月25日月曜日

あー,この曲なんだっけ?: ハイドン「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」

TV番組などをみているとBGMが流れていて,「あー,この曲なんだっけ?」と思うことがしばしばある。それがわからない間はしばらくモヤモヤが続くのだけれど,わかったときのスッキリ感は心地いい。日常の中でこうした小さな幸せはうれしいものである。

最近,「美食探偵」(お気に入りのドラマなんだけど)で流れていた弦楽四重奏曲の作曲者と曲名がわからずずっとモヤモヤしていた。今日もなにかあるとふとそのメロディーが脳内に流れてきて,「あー,この曲なんだっけ?」とストレスがたまるということになっていた。

最初,疑ったのはシューベルト。「死と乙女」かな,と思ったのだけれど,ちょっと違う。

次に疑ったのは,ヤナーチェク。弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」,第2番「ないしょの手紙」。しかし,ネットで確かめてみるとやっぱり違う曲だった(この2曲も私のお気に入りなんだけど)。

モーツァルトではないし,ベートーベンぽくも無い。ドボルザークでもチャイコフスキー,メンデルスゾーンでもない。古典的なハイドンでもないし...

いや,まて。ハイドン....
そして突然ひらめいた。ハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」だ!

やっとわかった。ふーっ。
頭の中のCPUのバックグラウンド負荷が終了して,急にクールダウンしてきた感じ。幸せ。

この曲は,生演奏にもふれたことがある。もう20年近く前?水戸芸術館で水戸カルテットの演奏だった。夏で大変暑く,コンサート会場に入るとクーラーが効いていてひんやり。気持ちよくなって,演奏のさなか,なんどかウトウトとしてしまったのを覚えている。また長いんだなぁ,この曲が。

キリストのエピソードにちなんで曲が作られていて,最後は槍で命を絶たれ,地震が起きたところで曲が終わる。ハイドンらしくないストーリー性の高い作品である。

とにかく,ホッとした。「美食探偵」の悪役はマグダラのマリアを名乗っているから,この曲が選ばれたのもわかるような気がする。最初の導入部の緊張感が作品にあっている。

こんなふうに思い出せないことをふとしたきっかけで思い出すのは,誰を幸せにするわけでもないけれど,私の大事な小さな幸せであることは間違いない。ただ,一度気になると,ずっと気にし続けてしまうのが困りものなのだけど。

#余談だけれど,「チコちゃんに叱られる」の最初の登場シーンに流れる曲は,「名犬ジョリー」のものだとこの前気づいた。NHK-FMの堀江美都子の特集を聴いて。

2020年5月22日金曜日

前を向いて歩く

最近,行動自粛のせいではないとは思うのだけど体調不良が続いていて,運動をしようという気にならない。それが原因とは思わないのだけれど,先日自分が下を向いて歩いていることに気づき本当に驚いた。それも相当下をむいて歩いている。首が直角に曲がっているくらいに。気づかないうちに,そんな姿勢で歩いていたことにかなりショックを受けた。

私が稽古している合氣道では下を向いて歩くなんてことは言語道断である。自分はそうではないと自信を持って生きてきた。少なくともこの2~3年前までは。それがどうだろう。いつの間にかまっすぐ下を向いて歩いているではないか。本当に恥ずかしい。

つまりは身体と心の状態がおかしくなっているのである。自分がそんなことになろうとはちょっと前まで露ほども思わなかった。反省。とにかく反省。

気づいてからは,顔を上げて前を向いて歩いている。身体がまだそれに慣れていない。でも,姿勢を直していこう。少しずつでも。本当に気づいてよかった。

2020年5月20日水曜日

トラックボール!

Web講義を行うようになって,Check用にPCも2台用意し,ディスプレイも4台使用するようになった。

マウスを持ち替えて,ディスプレイからディスプレイへポインタを動かすのに疲れて,トラックボール(親指トラックボール)を購入した。2台のPCで共通して使用できる仕様になっている。

まだ使い始めて2時間もしていない。しかし,なぜこれまでトラックボールを使用してこなかったのかと後悔するくらいに,その便利さを堪能している。

マウスを使っていると手首や腕を無意識に使うことになるのだけれど,トラックボールを使い始めてそれが実は意外に負担をかけていたことに気づいた。ポインタの移動がいかに楽なことか。ディスプレイをまたがって,左から右,右から左へと,スイスイと動かすことができる。これがトラックボールの醍醐味なのだろう。

次に省スペース。マウスを動かすためには,それなりの領域(面積)が必要だけれども,トラックボールは動かす必要がないから,机の上のものに当たることがない。マウスだと,メモやペンや,消しゴムなどにぶつかることがしばしばあった。トラックボールはその心配がない。

その次は,姿勢の楽さである。マウスの場合,マウスを動かすために,腕が動く姿勢を取る必要がある。それがトラックボールの場合,親指だけでポインタを移動できるので,椅子の背中にもたれたままブラウジングも可能である。これがすこぶる快適である。

トラックボールの心配点は,絵をうまく描くのは難しそうだということ。現状,ディスプレイ上でポインタでまっすぐ上から下へ直線を引くのが難しい。どうしてもガクガクとして線になってしまう。まぁ,使い始めて2時間も経っていないのだから,今後習熟したらある程度可能になるのかもしれないが,詳細な図面を描くにはマウスを使うことになりそう。

ということで,トラックボールの良さを実感しているのだけれど,またほんの短時間の印象である。今後長時間使うようになって,また気づいたことがあれば,また記事を書きたいと思う。

2020年5月8日金曜日

面白くない遠隔講義なんて誰が見るのか

遠隔講義が始まっている。私も数学の講義を遠隔で行わなければならない。それでたいへん困っている。

私なんかは,数学なので内容は教科書を読んで自分で演習問題を解けば十分ではないか,などと思ってしまうのだけれど,まずは学生の目の前で問題の解くところを示すことが大事とのことで,昨年は黒板にチョークでガシガシと問題を解いて見せていた。

しかし,今年は遠隔講義である。
どうも黒板を映して問題を解くところを動画で流すと,暗い,小さい,声が届かない,などの問題があるというので,私は共有した画面上でパワーポイントで問題を解くところをゆっくりと見せるか,紙の上でペンで問題を解くところを上から映してそれを流そうか,などと思っている。後者の方が良いように思うのだけれど,講義は動画に残すということで,全部ビデオだとファイルの容量が大きくなってしまう問題がある。まぁ,とりあえず一回講義をやってみて考えようと思う。

しかし,学生は90分もの講義を動画で見るのである。そりゃぁ,学生も疲れるよなぁと思う。通常の講義だって30分もすれば,眠たそうな顔をしている学生の数もぐっと増えてくる。そこでいつもだったら雑談をして,学生の皆さんの注意を引いて目を覚ましてもらうのだけれど,この雑談がだいたい公開NGの話が多いから,動画に残ることを考えるととてもできない。私の雑談はブラックで,自分の愚痴を含むところも多いから仕方がない。自制する。

昔から,バックミンスター・フラーは大学は2種類の教員を用意すべきだという話をしていた。片方は研究のための教員,もう片方は講義のための教員である。講義のための教員というのは話が面白く,講義がうまい人たちのグループであり,これを放映して多くの人に教育を行き渡らせるべきだと言っていた。一方,アインシュタインみたいな研究向きの教授は研究に専念した方が良い,というのだ。講義の動画が公開されるのであれば,自分の大学の教員に限らず,講義がわかりやすく面白い教員の動画を見るほうがよいのかもしれない。たとえば予備校の講義のように。

でも,まだ世の中はそうなっていないし,私の講義を聞いて私の研究に興味をもってもらう学生もいることだろうから,講義に少しでも興味をもってもらうように努力はしたいと思っている。

でも... 自分が学生だったら,自宅で講義の動画を流しながら,となりでゲームをやっているだろうなぁ。当然,講義の方はミュートで。

2020年5月5日火曜日

私が神社に参る理由

私は神社・仏閣に参るのが大好きである。近所の神社にもよく足を運ぶし,出張先でも観光がてらに訪ねることが多い。しかし,最近はこれが趣味だと言うのが恥ずかしくなってしまっている。境内で御朱印をいただく場所に立ち並ぶ女子の列を見ると,自分はあの雰囲気の中には入ることができないなぁ,などと思ってしまうからである(私は御朱印を集めてはいないのだけれど)。

私は特定の宗教は持っていないのだけれど,神仏に手を合わせる心は持ちあわせている。

では,なぜ神様に祈るのが好きかというと,もちろん神頼みということもあるけれど,自分の心の状態をチェックする機会になるからである。ただし,チェックするのは神様ではなく,自分自身である。手を合わせるときに,神様の前に立つことができる心の状態にあるかどうかを自分で確認するのだ。日頃の行い,心の状態を省みる。心身の清潔について考える。実際にはほとんどの場合,今日神様の前に立つ資格はないなぁと思いつつ,さらなる精進を誓うことが多いのだけれど。

また,おみくじを引くのも好きである。そしてその理由もお参りと同じである。自分を省みるためのきっかけにしているのである。「辻占」と同じである。そこで得られた言葉をきっかけに,いろいろな連想をし自分の行動を反省する。こうした良い機会になるのである(もちろん吉がでるとうれしいものだけれど)。

神社は,その成立の縁起などを探っていくとそれだけで面白く,文化的な興味は尽きないのだけれど,私としてはやはり神様に手を合わせに訪れる清められた場所である。散歩するのにいいんだよなぁ。

悠久山の蒼柴神社

2020年5月4日月曜日

Don't look back in angerの"I heard you say." はS+V+O+C の第5文型なんだよ

私はNoel Gallagher's High Flying Birdsに夢中という話をしたけれど,ノエルで思い出した話をひとつ。

彼のオアシス時代の名曲に

"Don't Look Back in Anger"

という作品があるのだけれど(彼がボーカルをとっている。今でも彼はライブで歌っているし,多くの人がカバーして歌っている),その歌の詞で最後に
"I heard you say."
と歌われるのがずっと疑問だった。
"I heard you said."
と,なぜ時制を一致させないのだろうかと不思議に思っていたのである。

それがあるとき思いついた。
なんのことはない,hearが知覚動詞なので,この文章はS+V+O+Cの第5文型となり,目的語の次は動詞原形が続くということだけだった。

わかってみれば簡単なのだけれど,思い込むとずっとわからないものだなぁと,我ながら感心したのである。

ただ,それだけの話でした。

#この曲のイントロは,ジョン・レノンのイマジンをリスペクトしているところもいい感じ。

2020年5月3日日曜日

Noel Gallagher's High Flying Birdsにずっと夢中になっている

 80年代私が聴いていた音楽といえば,アイドルの歌謡曲やニューミュージックが中心だったけれど,洋楽もそれなりに聴いていた。マイケル・ジャクソンやマドンナ,プリンス,ホール・アンド・オーツ,クイーンなどスーパースターが綺羅星のように毎週毎週ヒットチャートに登場していて,私も毎回「ベストヒットUSA」を見ていた高校生であった。

 しかし90年代,私は渋谷系と呼ばれるジャンルに惹かれていたのと,クラシック音楽に興味の中心が移っていたことから,洋楽をあまり聴かなくなっていた。その頃の洋楽シーンといえば,U2から始まって,オアシスとか,ニルヴァーナなどが台頭してきていたのだけれど,音楽が80年代と打って変わって「暗い」雰囲気ばかりになっていたこともあって,ずっと遠ざかっていた。

 その私が50歳を超えて,今またハマっている洋楽が,"Noel Gallagher's High Flying Birds"なのである(今の時代,「洋楽」という言葉も死語になってしまったかもしれないけど)。

 ノエル・ギャラガーはご存知オアシスのギャラガー兄弟の兄の方(ボーカルは弟)。見た目は「サンダーバード」のブレインズみたいだけど,才能の塊みたいな人。ポール・マッカートニー・レベルだと私は思っている。そう,彼の作品からはビートルズへのリスペクトも感じられるし(個人的な感想です)。

 彼を知ってからオアシスの曲も聴くようになった。25年遅れのマイブームである(マイブームも死語だが)。これがまたどの作品も素晴らしい。なぜ25年も聴かなかったのだろうと後悔。今でもオアシスの楽曲がCMで採用されていることが名曲の証だ(例えば "whatever"とか)。

 オアシスの解散後,彼が立ち上げたソロユニットがNoel Gallagher's High Flying Birdsなのだ。オアシスの頃よりも,もっと自由な作風になっている気がする。結構クラシックなロックであったり,やはり90年代の暗いロックであったりと,どれも飽きさせない。私のドライブに必須のお供になっている。

 あまり私の周りでこのバンドの話を聴かないのが不思議なのだけど,渋谷陽一のNHK FMの番組では相変わらず注目してくれていてうれしい。ノエルは一昨年あたりにはサマソニで大阪に来てくれていた。いつか,いつか彼のライブにいきたい,と思っている。



#彼が皮肉屋のところも気に入っている。リアムとの兄弟喧嘩のゴシップもブラックユーモア合戦になっていたりして,それも大好き。

ネットの書き込みは年寄りばかり

SNSというのは大変面白い。たとえば、テレビでは番組に対する視聴者の反応がわからなかったものが、今ではコメントが書き込まれることによって反応をいくぶん知ることができる。あるいはXなどへの書き込みによって、リアルタイムで感想がタイムラインにあふれることになる。そうした双方向性、即時...