2021年6月27日日曜日

呪詛が相手に届くためには

 呪詛の言葉が相手に届くためには,同じ文化的背景を持っている必要であるのではないかというお話。

どんなに怖い呪いの言葉を吐いても,相手が理解できなければ相手に影響を及ぼさないように思われる。例えば,アフリカの部族の言語で私に呪いの言葉を言われたとしても(もちろん言い方がおどろおどろしかったり,怖い顔して言われたりしないことが前提だけれど),私が理解できなければ私には影響は及ばないのではないかと思うのである。

「藁人形」を見て怖いと思うのは,「藁人形」が呪いの道具であるという知識があるからである。つまり,それを見て術者と共通の負のイメージをもつことが前提となっている。もしかすると異なる文化的背景を持つ外国の人が藁人形を見たとしても,子供の遊び道具としか思わないかもしれない(私が釘がハリネズミのように刺されたブードゥーの呪い人形を見たら,残念ながら負のイメージを持ってしまうけれど)。あるアフリカの部族では墓をたてるという文化がないのだという。そうした人にとっては,日本の墓地は別に怖くないだろう。すなわち,私たちは共通の文化的背景を持っていることが前提で暗示的な言葉を遣い,行動を行うのである。

文化的背景というのは,各人がもっている情報空間と言ってもいいかもしれない。同じ文化の中で育ってきた人は,多くの共通した知識・情報によって脳内に情報空間を構築しているに違いない。その前提のもと,私たちは相手の意識に影響を及ぼす言葉を遣い,行動するのである。

暗示や催眠は,相手との共通な情報,感覚,感情などを手掛かりに相手の意識を相手に自覚させずに少しずつ動かしていく技術ともいえるのではないだろうか(もちろん,催眠の驚愕法のように瞬時に相手をトランスに入れる方法もあるがスマートではないと思う)。武道に通じていてたいへん興味深い。

2021年6月26日土曜日

言葉が人に影響を与えるということ

 言葉が人に影響を与えるという事実は,意外に軽く考えられているように思う。たとえば,「がんばれ!」という励ましの言葉だったり,「好きです」という告白であったり,そして,「失せちまえ!」のような脅しの言葉だったり,そうした陽に人に投げかけられる言葉であればその人に影響を与える,ということはわかりやすいが,実はそれだけではない,意識されない言葉も人には影響を与えるという事実を人は見過ごしているように思われる。

例えば,活気づいている居酒屋に友達と入ったとする。このとき,私が「にぎやかだね」といえばポジティブな方向に気持ちが向いていくけれど,「うるさいな」といえばネガティブな方向に偏っていく。私が意識的にそうした言葉を用いれば,友達の気分を私の思う方向に導いてくことも可能となるだろう。そしてうまくすれば友達は私がそうしたコントロールを試みていることに気づかないのだ。このようなことは日常会話において頻繁に行われている。私の相槌のやり方ひとつで,話している相手の気分を左右できるのだ。

もっと意図的に相手を誘導する技術もある。例えば,ミルトン・エリクソンなどに代表される現代催眠がそうだ。術者は普通に会話しているだけで相手をトランスに入れてしまう。相手は無意識のうちにいつのまにか導かれているのだ。相手の目の前で振り子を揺らすようなものだけが催眠術ではない。

エリクソンは患者にある文章を読ませるだけで,頭痛などの症状を改善できたという。もちろんその文章には,患者の気分がよくなるようなワードがちりばめられていたのだけれど,「あなたの頭痛は治っていく」などという明示的な指示はない。あくまでも顕在意識に気づかれず,潜在意識に直接届くようなワードを用いるのである(顕在意識に気づかれれば少なからず拒否反応が起こりやすくなってしまう)。

現代催眠はこのようにまさに言葉によって相手の潜在意識を動かそうとする技術なのだ。しかし「現代」とはいうけれど,いにしえから伝わる「魔術」なども潜在意識の操作を目的としているようなものだから,技術としては古くから存在しているのだと思われる。宗教儀式,修行などもその延長線にあるのかもしれない。この人間の心理とオカルトとのあいまいな境界に私は強く惹かれている。


2021年6月25日金曜日

さんかく窓の外側は夜(2)呪いのルール

 「さんかく窓の外側は夜」という映画の話の続き。

この映画の中では,平手友梨奈が操る「呪い」は,オカルトを信じない人には効かないというルールになっている。そのため,オカルトを全く信じない滝藤賢一演ずる刑事には,平手の呪いが届かないというのが面白い。そういえば滝藤賢一は「残穢」というホラー映画でも,オカルトを信じない小説家(主人公のミステリー作家の夫)を演じていたりする。現実主義者が似合う役者なのだろう。

実際に物理的な「呪い」があるのかないのかわからないけれど,心理的に影響を与える「呪い」というのは確かに存在すると思う。思わせぶりな言葉や現象が続けば,信じやすい人は何らかの影響を感じるだろうし,暗示的な効果もあるだろう。その道具として呪い人形や呪符などがあればなおさらである。人のむきだしの悪意を感じた時に,よい気持ちになる人は少ないだろう。

ただ上記のようなものが呪いというものだというのであるならば,呪われているということをその人が認識しなければその影響を受けることがないように思われる(あくまでも人の呪いが物理的な影響を及ぼさないという前提で)。そして,元来まったくそうしたものを信じない人であるならば,「誰かに呪われている」と認識したとしてもその影響を受けることはないだろう。たぶんそれがこの映画のルールになっている。

「言霊」も基本的には同じルールで働くのだと思う。しかし,言っている本人が信じる,信じないを別にして言葉は無意識に働きかけてくる。言葉が善であろうが悪であろうが心は無条件にそれを受け入れてしまうのだ。それは言葉で思考する人間の業である。自分は大丈夫だと思っていても確実に言葉は心と身体に影響を与えてしまう。だから言霊なのだ。他人はともかく自分には確実に影響を与える。私たちはもっともっと使用する言葉に気をつけなければいけない。

(面白いテーマなので,私の備忘録的に趣味で記事書いてます)

2021年6月22日火曜日

さんかく窓の外側は夜

 本当にひさしぶりに映画を観た。やっぱりエンターテインメントはいいなぁ。心が潤うような気がする。

観たのは,

「さんかく窓の外側は夜」

キャストは,志尊淳,岡田将生,平手友梨奈,滝藤賢一という私好みのラインナップ。そして映画はホラーというのだからたまらない。

正直もう少し怖いストーリーを期待していたのだけれど,ライトなオカルトホラーな映画だった。原作を読んでいないのでよくわからないのだけれど,確かにBLの要素もある。イケメンのバディものなので,女性に人気が出そうなのもよくわかる。

私としては,平手友梨奈が素晴らしいと思った。彼女は呪いを扱うダークな存在なのだけれど,どこか純粋な部分も感じさせる不思議な女の子を演じていた。画面に出てくるだけで,雰囲気をつくることができる稀有な存在なのだとあらためて思った。今後も楽しみ。

ストーリー的には,ホラーミステリーなのだけれど,ミステリー要素がもう少しあってもよかったかなと思う。あるいはもっと悲劇的な要素があってもよかったかも。

この作品の世界観としては,「穢れ」(負のパワー)を用いて「呪い」をかける,というルールになっている。こうしたルールが私は好きだ。

映画の中では,言霊についても言及される。それは呪いでもある。しかし,言祝ぎでもある。人の潜在意識は善悪の区別なく言葉に影響されてしまう。言葉をどう使うかは,そしてどう受け止めるかはその人次第,その仕組みがわかった人がこの世界を理解できる。人は言葉をつかうようになって,抽象的な概念によっても心身に影響を受ける(臨場感をもつ)ようになった。すなわち,言葉によって,人の内部の情報空間に影響をあたえることができるようになった。それは顕在意識に対しても潜在意識に対しても,そして作為的にも無作為的にも可能であり,なにげなく放たれた言葉であっても,自分を含む周囲の人間の思考と行動に影響を与え続けている。

人類が言葉を使い始めたと同時に,呪い(まじない,のろい)と言祝ぎ(ことほぎ)が誕生した。この世の中は言葉でできている。こんな世の中がたいへん面白い。


2021年6月3日木曜日

干からびたエンジンにガソリンが必要

「若いころには」と,つい言ってしまうようになった。コロナウィルスによる自粛のため,運動不足にもなってしまって,体力が落ちている。身体が重い。なんとも。

身体を動かすことを始めなければと思う。これまでは運動をしよう,稽古をしよう,とやる気を出すために,映画,テレビドラマ,小説,漫画などを役立てていたのだけれど,最近はそうしたエンターテイメントに触れる機会さえも減ってしまっていて,本当にキッカケがない。

これではいかぬ。

ここにきて,心と体をアクティブに動かそうと思う。夏に向けてたるんだお腹を引っ込めよう。私はこの干からびたエンジンを動かすためのガソリンを探している。

ネットの書き込みは年寄りばかり

SNSというのは大変面白い。たとえば、テレビでは番組に対する視聴者の反応がわからなかったものが、今ではコメントが書き込まれることによって反応をいくぶん知ることができる。あるいはXなどへの書き込みによって、リアルタイムで感想がタイムラインにあふれることになる。そうした双方向性、即時...