2017年4月29日土曜日

勉強こそ一番の近道

勉強が好きな小・中・高校生はかなり少数派のような気がする.だいたいの子供が勉強が嫌いという.私も嫌いだった.しかし,勉強をあきらめるということはしなかった.それは,自分への投資だと思っていたからである.

特に中学時代,学校は荒れに荒れていた.トイレの個室のドアはどれも壊れていたし,洗面所のガラスはみな割れていて使えない.その上,水道の蛇口もとられていて水栓をひねることさえできなかった.タバコの吸い殻も当然のように落ちていたし,あちらこちらにシンナーを吸ったあとも見つかった.そんな学校だった.

そんな校内暴力がひどかった環境だったけれど(ほんとにスクールウォーズみたいだった)それなりに中学生活は楽しかった.しかし,そんな毎日に嫌気がさしていたのも事実である.そうした状況から抜け出す,手っ取り早い手段は勉強だった.勉強で環境の異なる高校に行くこと.それが一番の近道だった.

高校時代,親との関係も悪くなかったけれど,まずは自立がしたかった.親から離れたかった.やはりそこでも一番の近道は勉強だった.奨学金もいただくことができて,あとはわがままを言って東京の大学に進学させてもらった.一人暮らしの大学生活は楽しかったな.

勉強こそが自分が毎日から抜け出すための最も力強い手段であり,もっともリターンの多い投資なのだと中学時代から思っていた.そして今もその思いは変わらない.なぜ,今の中高生,大学生は勉強が嫌いなのだろうと思う.今の環境から抜け出すためには勉強が一番の近道なのに.勉強できるチャンスがあるならば,それを最大限活かした方がいい.なぜそれがわからないのだろうかと思う.現代はそんなことがわからないほど,ぬるくなってしまったのかもしれない.

2017年4月27日木曜日

野球のリズムがあわなくなってきたけれど

最近,めっきり野球を見なくなってしまった.サッカーもその他のスポーツも見る機会がすっかり減ってしまったのだけれど,以前は野球をそれなりに見ていたものだから,野球からずいぶん遠のいてしまったという感が一番強い.

野球というのは,ずっと選手が走り続けているわけではなく,なんとなく投手が作るリズムによって試合が支配される.それが日本人の感性にあっていたのか,それとも晩酌のビールを飲むリズムにあっていたのか,高度成長期においてはたいへんな人気だった.

しかし,どうもそのリズムが現代にはちょっとゆっくりとしすぎているような感じがしている.夕方からの2時間をテレビの前で野球観戦してゆっくりと過ごすという余裕がなくなってきたからかもしれない.この忙しい現代において,野球のリズムがみんなに受け入れられているのかどうか,ちょっと疑問である.

私はしばらく野球から関心が遠のいてしまったけれど,救いはまだ研究室に,野球に興味がある学生がいるというのことである.テレビの前で2時間過ごすのはもったいないような気がするけれど,球場に行ってビールを飲みながら過ごす2時間はいまだ格別である.今年も研究室の学生を誘ってナイターでも観に行きたいものである.

2017年4月26日水曜日

ラップは落語に似ている?

息子と話していて,やはりラップがまだ人気だという話題が出てきた.ラップで対戦するというのが盛り上がるらしい.

どんな基準でラップの勝敗を決めるのか,ということを尋ねると,ライム(韻)やフロー,そしてパンチラインの出来で優劣をつけるのだという.韻を踏みながら,意味のある/なしの歌詞をリズムに乗せて話しているのだけれど,その制約の中でうまいことをいうわけである.

たとえば,
「山奥のモンキーがヤンキーになって街に出てきてジャンキーになって」
みたいな韻の踏み方をしていくのだけれど,そこに二重の意味を持たせるようにして,聞いている人に「うまい」と言わせるわけである.

そこで気づいたのだけれど,これって落語の「なぞかけ」や「小噺」と結構似ているんじゃないの?相手の言葉をお題に,韻を踏みながら,ダブル・ミーニング,すなわち掛詞を持たせて歌っていくのだけれど,これって大喜利みたいなものだよな,と思ったわけである.息子にいったら,そうかもしれないとニヤリとしていた.

ラッパーの人たちに,「なぞかけ」や「大喜利」をやらせてみたら,意外にうまいのではないだろうかと思う.一方,落語家にラップをやらせてみても多分...だめだろうなぁ.

2017年4月25日火曜日

頭のはたらきが鈍いのは

疲れていると頭の働きが悪くなる.
それが歳をとってくるとなおさらだ.
睡眠不足は厳禁.
ここまではなんとかできる.
難しいのはここから.

まずは運動とダイエット.
この2つができたらどんなに素敵な人生を送ることができるだろう?
ダイエットはこの3年間,私の「今年の目標」の不動の第一位である.

次は呼吸法と瞑想.
今,流行である.しかし,毎日時間をとって継続することは難しい.
私の合氣道の先生の先生からは,「なぜこんなに気持ちの良いものを,みんな教えてもやらないのだろう」と言われていたのだけれど...

あとは時間と心に余裕を持つこと.
これが一番難しい.
心に覚悟が必要だ.つまりは毎日修行だということらしい.
頭のはたらきを良くする努力もたいへんだ.

2017年4月24日月曜日

探偵は変人ばかり

今期もテレビでは探偵モノが大流行である.
しかし,つくづく呆れるのは,探偵は変人であるという設定が多すぎること.確かに普通の人が探偵だったとしても,物語上面白くないし,そんな人が突然すごい推理をしても逆にリアリティがないような気もする.

でも,例えそうであっても...とひとつやふたつ文句も言いたくなる.
最近の探偵の設定で言えば,貴族,骨マニア,マッサージ師,謎の大金持ち,大学の超天才准教授,はては小学一年生などで,とても現実世界にありえない人たちが推理を披露している.

まあ,昔から探偵は変な人が多くて,シャーロック・ホームズなんて変人の最たるものだし,ポワロも少しおかしい.日本人だと,金田一耕助なんて人もいて,やっぱり変人である.

それでもまともな人も少なからずいて,ミス・マープルや浅見光彦,キャサリンなんてところは内外の普通の人の代表だけど(頭脳は普通じゃないけど,性格がどちらかといえば普通という意味.マザコンとかは普通の範疇に含まれるとして),私が最も素晴らしいと思うのは,なんてたって明智小五郎である.この人はもう完璧.美貌に名声,そして頭脳とすべてを兼ね備えている.しかし,探偵小説の世界ではこちらの方がたいへん珍しいのである.

一方,刑事ものについて考えてみると少し毛色が異なる.せいぜいしつこい性格に問題があるという人がいるくらいで,正義感あふれる直情派か,逆に涙もろい人情派か,あるいはチーム戦であったりして,真面目な主人公の設定が多い(あるいはドジか).変人が刑事をやるという設定自体がそもそも現実味がなさすぎて成り立たないのだろう.

さてさて,私が好きな探偵は,明智小五郎,金田一耕助あたりなのだけれど,一番は誰?と言われると実のところフィリップ・マーロウかな.そして,工藤俊作.頭は使わなくともハードボイルドが私の憧れなんである.

2017年4月21日金曜日

「竜馬がゆく」で勝海舟のファンになる

私にとって坂本龍馬というのは,どうもとらえどころがない.そもそもあまり興味がなかったから(歴史は不得意),大学生くらいまでどんなことを成し遂げた人かもよく知らなかった.

そんな私だったから,小説「竜馬がゆく」に触れたのも大学院の頃だった.その頃になって私はようやく小説を読み始めたのだけれど,吉川英治の「宮本武蔵」や「三国志」などから始まったので,司馬遼太郎に辿り着くには随分時間がかかった.

武術に興味があるから,まずは新撰組関連の「燃えよ剣」や「新選組血風録」あたりから読みはじめ,その後「項羽と劉邦」に行き,郷里の河井継之助が主人公の「峠」へと進んでようやく「竜馬がゆく」に辿り着いた.しかし,それも周りから「竜馬がゆく」を読まなければ男じゃないみたいなことをずいぶん言われたので,渋々読みはじめた感じである.

もちろん小説は面白かった.でも,坂本龍馬という人物のとらえどころの無さが印象に残った.どうも司馬遼太郎の脚色がすぎるのではないかと思いながら読んでいたからか,みんながいうほど,ヒーローという感じではなかった.

最近,彼は本当に北辰一刀流の遣い手だったのではないかという資料が見つかったけれど,読んでいた頃は龍馬が剣豪だったなんて全然信じられなかったというのもその理由の一つだったのかもしれない(なぜなら手をけがして銃をもつなんて剣豪では考えられなかったから).

むしろこの小説で強く憧れたのは勝海舟や佐久間象山である.特に勝海舟にはその行動力に憧れ,そして皮肉屋なところに親近感を覚えた.「竜馬がゆく」を読んで私にとっヒーローとなったのは勝海舟なのである.

勝海舟についてはまた別の機会に書くとして,今回なぜ竜馬のことを取り上げたかというと,今年は彼の没後150年ということを知ったからである.そして彼は誕生日に暗殺されている(旧暦で.新暦では異なる).今年は龍馬で盛り上がるのだろう.



2017年4月19日水曜日

おじいさんとクリームパン

私は大の甘党だから菓子パンが大好きで,なかでもクリームパンはそのトップ3の中に間違いなく位置するほどの好物である.それもかなりの頻度で食べていて,実は今日の昼にも一個食べてしまった.ダイエットをしている私にとってたいへん危険な敵ではあるのだけれど.

クリームパンといっても,各パン屋さんがそれぞれ趣向を凝らして作っているので,いろんな種類のクリームパンがある.中に入っているクリームひとつをとってみても,半生のカスタードクリームみたいのものもあるし,半透明なクリームもある.結構かためのクリームもあれば,トロトロのやつもある.そこにクリームを包むパンの個性も加わるから,同じクリームパンといっても全く別のパンと考えたほうがよい場合もある.

私はどのタイプのクリームパンも大好きだからどれでも全然こだわらないのだけれど,ときどき無性に食べたくなるのが,昔ながらのグローブの形をしたクリームパンである.どうしてなのだろう.なんの変哲もないスタンダードなクリームパンが食べたくなるのである.

パンを端から食べていってクリームにたどり着いたときの嬉しさとおいしさは今も子供の頃と変わらないからかもしれない.そういえば亡くなった父も,昼食はパンにしようということになるといつもクリームパンを所望していた.アンパンやコッペパンではなく,クリームパン1個だけである.父はそれを黙黙と,でも幸せそうに頬張っていたような記憶がある.

そうなのである.娘とパンの話をしていたら,クリームパンというと「おじいさん」というイメージなのだそうだ.昔ながらのパンだからだろうか.アンパンよりもむしろ今の時代クラシックなのはクリームパンなのだ.

クリームパンが大好きな私は,着実に「おじいさん」に近づいていることは間違いないらしい.それでも,いくつになってもクリームパンを笑顔で頬張っていたいものである.父がそうだったように.

2017年4月18日火曜日

「先の先」の弱点

相手の攻撃する気を察して,先んじて攻撃して勝利を得る「先の先」にも弱点がある.それは社会的に見ると,「先に手を出した」とみなされることである.それが「仕方ない」と判断されればまだいいが,「先手必勝」とばかりに襲いかかったなどと証言されれば,社会的にはかなり問題となってしまう.これが「先の先」が生じる問題である.もちろん,「後の先」を狙ってはみたものの,相手の先制攻撃をかわしきれず,それで一命を落としてしまえば,元も子もないのだけれど.

このように,現代ではケンカなどするとその場での勝負の他に,社会的な制裁が課せられることになる.実は江戸時代でも,武士が刀など抜こうものならばそれだけで事件になってしまい,武士は罰せられたのだという.だから一心太助などが「抜きたいなら抜きやがれ!」と啖呵をきることができたわけだ.

すなわちケンカをする場合には,目の前の相手の他にのちの社会の制裁まで考えなければならない.その覚悟がなければケンカなどしてはならないのである.

「手を出すときは,心に情けを残すな.
   心に情けが残っているときは,手を出すな」

とは,漫画「拳児」に出てきた八極拳士の言葉である.それでも戦わなければならないときには,相手を燃やし尽くさなければならない.二度と立ち上がれないまでに.肉体的にも社会的にも.


2017年4月17日月曜日

空手に先手なし

「空手に先手なし」という言葉は,空手を稽古している人なら聞いたことがあるだろうと思う.しかし,これがどれだけ難しいことか,少しでも武術を稽古しているものであればよく身にしみてわかっていると思う.

相手に攻撃させて,それでいて勝つなんて相当技量に差がなければ不可能である.できることならば「先の先」が一番楽である.相手がこちらを攻撃しようとした気配を感じて,相手に先んじて相手を撃破する.それができれば一番安全である.

しかし,「後の先」となると,相手の攻撃を外さなければならない.これが本当に難しい.相手が素人ならばともかく10年も武術を稽古している人であれば,自分の身が安全な状態で相手の攻撃を外す,あるいは防ぐことなんて,これがとてもとても難しい.ましてその相手が刃物の一つでも持っていたならば,それを避けてさばくなんて私には到底不可能である(もしもマイク・タイソンが私を攻撃してきたとしたら,その第一撃以下を避けることはほとんど不可能だろう).

だからこそ「先手なし」ということが尊いのである.「空手に先手なし」ということは,そこまで空手の技量を高めよという教えなのだと考えられる.言うは易く行うは難し.やればやるほど,その難しさを思い知るのである.

#しかし,個人的には,人 vs 人であれば,「後の先」の方が有利である可能性があると思っている.ただし,それでも相手の第一撃を避ける技量があってこそだけれど.

#翻って「専守防衛」を標榜するどこかの国の防衛力を思う.実戦経験もないのだから,「専守」なんてそんな実力があるなんて信じられない.私は全く期待していないのである.

2017年4月14日金曜日

友達のフリをしているけれど,本当はこの人大嫌い

今朝のラジオ番組で,大学教授でもある作家の高橋源一郎さんが興味深い話をしていた.大学の講義で,受講している学生たちに,だれにも言ったことがない秘密を書いて提出するようにと課題を出したのだという.しかし,その回答では多くの学生が同じ内容を書いてきて,それも3年ほど同じ課題を出したけれども毎年同じ答えが最多数だったので,もうこの「秘密」の課題を出すことはやめたのだという.

私はその多くの学生が抱えているという「秘密」とはなんなのだろうと興味津々で耳を傾けていて,その答えを聞いてなるほどと思った.その「秘密」とは

友達のフリをしているけれど,実はその友達が大嫌い

ということだったらしい(ラジオから聞いたので語句は正確ではないけれど,だいたいこのような意味だった).私はなんと現代の若者らしいのだろうと思った.

現代の若者は,「リア充」アピールというのに忙しいようだ.当然,「友達については多くいたほうが良い」という価値観が共有されていて,「友達とこんなところに遊びに来ました!」などとアピールするために写真をSNSにアップしている.そうでもしないで,友達が少なくて寂しい奴と思われるのが嫌なのだろう.

少し前には,「ぼっち飯」がだめで,ひとりでトイレで弁当を食べている学生がいるなどと話題になったけれど,やはりこれも友達がいなければだめなヤツだという強迫観念に支配されている若者の例である.「らしい」と当時も思ったものである.

「友達は多く持たなければいけない」「いい人でいなければならない」という強迫観念のために,本当は嫌いな人とも友達のふりをしつづけなければならないなんて,なんて住みにくい世の中になったのだろうとため息をつきたくなる.それでいて「友達はいなくたっていい」などと人と異なる価値観を持つことを強く嫌がっている.結局どちらにいっても地獄である.現代の若者は本当にたいへんである.絶対に今の時代には若者でありたくないと思う.

2017年4月13日木曜日

上野の花見には気分がのらない

今週末はめっきり春らしくなって気温が上がるというから,桜を楽しむのはこの土日がピークなのだろう.近くに花見に散歩でもしようかと思う.

梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という文章を書いて,その妖しい美しさの理由を看破したのだけれど,私はある時期本気でその話を信じていた.

大学生になって東京に出てきて,花見といえばやっぱり上野公園が有名だった.でも私はその上野の桜の樹の下には死体が埋まっているという都市伝説を信じていて,満開の桜の下で大騒ぎしている人たちの気がしれなかった.

なぜなら上野といえば,戊辰戦争で上野戦争と呼ばれる彰義隊の激闘があった場所で,たいへん多くの死者が出たけれど,その死体は引き取ることが明治政府によって許されずしばらく野ざらしになっていたという話がある.その死体が上野公園に埋められて,その上に桜を植えたのだと信じていたのだ(実際は引き取られてこっそりと供養されたらしい).

私は梶井基次郎の文章とこの都市伝説をすっかり信じて,上野の桜をみると複雑な気持ちになっていた.今は桜を見ても死体が埋まっているなどとは思わないけれど,上野公園を訪れると上野戦争の凄惨さに思いをはせることがある.単に人ゴミが嫌いなだけではなく,こうした理由で上野には花見にはなかなか行く気にはならないのである.

2017年4月12日水曜日

クラークの第1法則

アーサー・C・クラークの三法則における第3法則については,これまで何度か取り上げてきたけれど,今回は第1法則を紹介したい.

著名で年配の科学者が可能であると言った場合には,彼はほぼ正しい.一方,不可能であると言った場合には,彼はたぶん間違っている. 
When a distinguished but elderly scientist states that something is possible, he is almost certainly right. When he states that something is impossible, he is very probably wrong.
(英文はWikipediaより引用.「また引き」ですみません)


というものである.少しブラックなユーモアが効いているけれど,よくできた法則である.若い人たちにチャレンジしようという気持ちを与えてくれる.クラークは,ユーモアと後進への期待にあふれたとても魅力ある人物であったに違いない.

2017年4月11日火曜日

1994年の小沢健二

1994年,私はまだ学生で(といっても博士課程だったけど),毎週末は渋谷や神田のCDショップをめぐるのが楽しみだった.クラシックのCDの海外輸入盤が目当てで月に4枚は買っていた.

なぜかその日はクラシックのショップではなく,なぜか渋谷のWAVEに足を運んだときのこと,店内に,一度聞いたら忘れられないバブリーな音楽が流れていた.私は一瞬でトランスに入り,そのメロディを追うように注意深く耳をそばだてた.

「ラ~ラ~ラ~~ ララララララ♪」

誰が歌っているのかわからなくて,ショップのレジに少しずつ近づいていき「ただいま演奏中」のCDを確認した.それは小沢健二の「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー 」だった.

私にとってこれはオザケンのセカンドインパクトで,ファーストインパクトは「今夜はブギー・バック」だったわけなのだけど,これがオザケンの曲だとは全然気づかなかった.なんというノリノリな曲.あふれでる多幸感!「これだよ,これ」と理系の大学院生の地味な私でさえ,憧れてしまうような世界がそこにあった.

そのうちにシングルのもう一つの収録曲「愛し愛されて生きるのさ」が流れてきて,これがまた最高!「家族や友人たちと,並木道を歩くように,曲がり角を曲がるように...」と続く語りがグッと胸にくる.この2曲で私はすっかりオザケンの魅力から抜け出せなくなってしまった.

フリッパーズ・ギターも好きだったけど,それから小沢健二にはずっとずっと深くのめり込んだ(少し恥ずかしいけど).あれから23年も経った今年,小沢健二がまた新曲を出した.王子様もいまやすっかりオジサンである.作品は昔のようなキラキラ感はないけれど,ちょっと落ち着いてまろやかになった多幸感が感じられる曲である.次の曲も聴きたいなと思う.でも,正直に言うと小沢健二が歌っている姿を見られるだけでうれしいかったりもする.

2017年4月10日月曜日

映画館こそトランスに入りやすい

人は変性意識(トランス)状態にあるとき,暗示を受けやすくなる.催眠術はその最たる例だけれど,催眠術をかけられたときばかりではなく,私たちはしょっちゅうトランスに入っている.

音楽に気分が良くなっているとき,あるいは集中して本を読んでいるとき,あるいは友人や恋人との会話に夢中になっているとき,私たちはトランスに入っている.ふと目にしたテレビCMに意識をとられるとき,一瞬でトランスに入れられているのである.

スポーツや武道においてトランスに入るのは一種の必然的行為だから,スポーツ選手や武道家は催眠術にかかりやすいのではないかと思っている.なぜなら極度の集中とリラックスをするために,自己暗示をかける必要があるからだ.

一方,私たちが最もトランスに入りやすい状況のひとつが映画館であるとも考えている.映画が始まるとだんだんにホールが暗くなり,みなリラックスしはじめ,スクリーンに集中することになる.そのうち音響効果で大きな音がリアルに身近に聞こえてくれば,もう映画の中の世界に一気に引きずり込まれ,トランス状態の出来上がりである.

それだったら個人で暗い部屋でDVDを観るのもそんなに変わらないのではないだろうか,むしろ他人がいない分集中できるのではないか,とも考えられるのだけれど,私はやはり映画館の方がトランスに入りやすいのではないかと思っている.実は他人がいることで,そしてその多くがトランスに入っていることで,自分も感化されてトランスに入りやすいのではないかと思うのである.すなわち集団催眠である.事実映画自体ではなく,他の観客につられて自分が笑っていることも少なくない.

映画を見て映画館を出る時には,自分がヒーロー・ヒロインになったような余韻をひきずっている.それこそがトランスに入っている証拠である.トランス状態下でいろんなメッセージを映画から受け取っているのだろう.映画をみるということは,そのトランス状態を味わうことなのだ.だから中毒性があるのも仕方がないのかもしれない.

2017年4月7日金曜日

花粉症か.風邪か.それが問題だ.

ここしばらく,鈍い頭痛が続き,身体のあちこちも神経痛やら筋肉痛やらいろんな痛みが出ていて,今週はとにかく毎日が長く感じられた.

そして今日になって朝から鼻水とくしゃみが止まらなくなってしまった.テッシュの箱が手放せない.今日は大阪は朝からずっと雨まじりの天気.花粉が飛んでいるとは思わなかったのだけれど,急に訪れた春めいた暖かさに飛散量もぐっと増えたのかもしれない.

仕方なく鼻炎の薬を飲んで今晩は寝ることにした.もちろんマスクも忘れない.このつらい症状は風邪なのか,花粉症なのか,よくわからない.いずれにしても身体はつらく,なにごとにも集中できない.なんとかならないものかとホトホト参っている.

2017年4月6日木曜日

やっぱり桜の樹の下には屍体が埋まっている

夜に桜をみる.
街灯に照らされて夜に見る桜はピンクというよりもほぼ白色で,ほんのわずかに桃色がのっているかどうかという淡い色合いである.昼間の明るい表情とは別に夜の桜にはなにかに取り憑かれたような美しさがあり,この世に存在しないもののように感じられてくる.それは見ているものに,どこかしら恐ろしさを与えるほどである.

梶井基次郎は,その魔的な美しさの秘密を「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」からだと見破ったのだけれど,まさにその通りとしか思えない.梶井基次郎の洞察には感嘆するばかりである.彼が透視する屍体は,腐乱してうじ虫がわいているけれど,水晶のような液をタラタラと垂らしていて,その液を桜は吸い上げて美しく咲くのである.この退廃的な妄想を直観してしまうほど,桜の美しさは妖しくダークなのである.そうした理由でしか桜の魔性を説明できない.

電灯も無かった頃,人は月明かりの下,桜を見たのだろう.なかにはその美しさに気が狂ってしまった人もいたにちがいない,などと思うのである.

一方,散ってしまった桜の枝も象徴的だ.美しさを失ってしまった佇まいに,人はまた盛りを越えてしまったあとの虚しさを思わずにはいられない.

2017年4月5日水曜日

なにをみても,なにかしら心が動く

映画には,忘れられない傑作もあれば,忘れたくなる駄作もある.たしかに観終わったあとに「時間の無駄だった」と思う映画もあるけれど,そんな映画であっても,どこかしら,そしてなにかしら,心に残るものがあると私は思っている.

どんな映画にもメッセージがある.そのメッセージを強弱は別にして私たちは受け取っているはずなのである.大げさに言えば,人生が変わるようなメッセージもあっただろうし,受け取ったメッセージをすぐに忘れてしまっているということもあるだろう.でもそれは強弱・深浅の違いであってメッセージを受け取っていることには変わりがない.

村上春樹は,自分の小説を読んだ人がほんの僅かでもいいから心が動くようであればうれしいみたいなことをどこかに書いていたけれど,映画も同じである.往年のドイツのソプラノ歌手エリザベート・シュワルツコップは,「リート(歌曲)を聴く前と聴いた後では,その人の人生が変わるようなものでなければならない」と言ったというけれど,そこまで求めなくても,映画は人の人生を変えるようなポテンシャルがあると私は信じている.

もしかすると次に観る映画が私の人生を変えるかもしれない.私の心をどこかへ動かしてくれるかもしれない.そんな期待を胸に映画館に足を運ぶのである.

#そもそも映画を観ているときは,人は変性意識状態にあるから,無意識に直接働きかけ易いはずなのである.

2017年4月4日火曜日

映画の楽しみ

映画(DVD)を昨年は63本観たわけなのだけれど,映画はやっぱりいいなぁ,というのが1年を通じた感想である.

本は読んでいて想像力が自分の思い通りにはたらく自由がある.舞台は自分でどの役者に注目するか,その自由がある.しかし,映画はその自由が少ない.監督が場面を切り取ったようにしか観ることができない.つまり監督の意向を強制されるわけなのだけれど,その不自由さが悪いかというとそうではなく,実はそこが映画の楽しみでもある.クラシック音楽のバイオリニストのようなソリストの演奏のように,その人のアイデアを楽しむ.だから映画は面白い.強いてあげるならば漫画が近いのかもしれない.

もちろん映画の魅力はその他にもあって,たとえば自分で想像するしかなかった場面が存在するかのように目の前に広げられることがすごい.たとえばスタートレックやスター・ウォーズ,インデペンデンスデイのような宇宙戦争.パシフィック・リムのようなロボットもの,ゴジラの怪獣,これらは映画でなければあそこまで楽しむことができないだろう.なかでも一番映画らしいと思うのが,ホラー映画.現実に起こったら大変なことになる凄惨な場面も映画だから安心して楽しめる.ゾンビが町を埋め尽くすなんて,映画でなければあんなに具体的にイメージ化できない.最近はゾンビも全速力で走るのだから,どんどん新しいアイデアで恐ろしい状況が映像化されていく.

つまり映画というのは,実は他人の想像物を楽しむものなのかもしれない.


2017年4月3日月曜日

2016年の映画鑑賞録 (3)

昨年度行っていた一年間に50本映画を観ようとする(個人的な)プロジェクト.もう次の年になって3ヶ月も過ぎたけれど,ここで最終回,3回目のツイートのまとめ.(記した日付はツイートした日時であり,必ずしも鑑賞した日ではない)

51.
幸せへのキセキ
2016年9月28日
「We bought a zoo」邦題は「幸せへのキセキ」倒産寸前の動物園を買った家族の話。マット・デイモンが妻を失った父親役。結構平坦な話なのだけど、ジワジワと良さが沁みてくるような映画。スカヨハが相変わらず存在感抜群。ダコタの妹のエル・ファニングの可愛さが印象に残った。

52.
エージェント・ウルトラ
2016年10月16日
「エージェント・ウルトラ」もしもジェイソン・ボーンがおバカでヤク中だったら、というコメディアクション映画。恋人役のK.スチュワートを綺麗と思ったことはないけれど、今回は至極魅了的。完璧な美人ではないからこそ気になってしまう女優なのだと再認識した。B級の王道アクション映画。

53.
残穢
2016年10月16日
「残穢」実話が元だけに話は地味で映画には期待していなかったけど意外に楽しめた。しかし映画は過去の因縁調査が終わった時点で原作と同様終わるべきだったのではないかと思う。後のエピソードは蛇足だ。現実の不思議は意味不明な方がいい。映画でも主人公とその夫が心霊否定論者であることが面白い。

54.
オデッセイ
2016年10月23日
「オデッセイ」M.デイモンが火星に一人残された不屈の植物学者を好演。危機的状況においても明るさを失わないことの素晴らしさが印象に残った。理工学者が大活躍。政治家は出てこない。個人的には一人を救うために国が莫大な費用と巨大なリスクを背負うことを本当にするだろうかと疑問に思ったけど。

55.
残穢
2016年10月23日
「残穢」子供達に付き合い2回目鑑賞。心霊現象の原因を調査していくミステリーであってホラー要素が少ないのが良い。よくできていると再実感。小野不由美の作品「鬼談百景」に納められた実話怪談をどのくらい脚色してこの小説を書いたのだろうか。話のリアリティ感が読者に想像を生み出す。マジ怖い。

56.
ハンナ
2016年11月17日
「ハンナ」隔離された環境で暗殺者として育てられた少女が、社会に出て適応できない物語。もっとハードな展開を期待していたけど、少しメルヘン的でもあった。結局私は救いのない結末を期待していたのだった。少し自己嫌悪。ヒロインよりも悪役のケイト・ブランシェットて持っている映画だと思う。

57.
グッド・ウィル・ハンティング
2016年11月22日
「グッド・ウィル・ハンティング」M.デイモンはみずみずしく,R.ウィリアムスはまだ若い。青年が精神的にも故郷を旅立つ映画。観終わったあとにジーンと胸の奥が温まってくる。中でも友達役のB.アフレックが一番心に残った。いい演技だった。あんな素敵な人間に私はなれるだろうかと自問した。

58.
グランド・イリュージョン
2017年1月1日
「グランド・イリュージョン」これは素敵な映画。子供から大人まで楽しんじゃう。魔術師四人があまり深く描かれていないのがいい。あくまでも主役は追っている刑事なのだ。W.ハレルソンがやっぱり好き。彼の怪しい雰囲気が映画を面白くさせている。M.フーリマンが悪役なのが珍しい。続編も観たい。

59.
死霊館エンフィールド事件
2017年1月1日
「死霊館エンフィールド事件」実話らしい。英米では悪魔がいて悪霊がその手先になるという共通理解があるらしい。舞台がオカルト大国の英国というのがこの心霊事件に深みを与えている。動画サイトに実際の霊能者と被害者のインタビューが上がっていたけど見ない方がよかった。でもホラーとしては良作。

60.
3人のゴースト
 2017年1月1日
「3人のゴースト」クリスマス前に観たくなる傑作。ビル・マーレイがホント素晴らしい。最後は彼の長ゼリフで締めくくられる。私はクリスマス・キャロルが大好きなのだけど、このバージョンも皆さんにオススメ。今はすっかりおじいさんになったビルもまだ若くてキラキラしてる。

61.
マイティ・ソー
2017年1月1日
「マイティ・ソー」こういう神様の英雄譚が意外に好きだったりする。微妙にこの作品でもSHIELDが出てくるのも面白い。ワーグナーのリングで、ソーの打ちおろす雷のあと虹の橋が架かりワルハラ城に神々が入城するシーンが思い浮かぶ。かっこいい。浅野忠信が無言だけどいい感じだと思った。

62.
イコライザー
2017年1月1日
「イコライザー」荒唐無稽な話なのだけど、デンゼル・ワシントンの演技でリアリティが出てくるからすごい。静かな物腰が人物に深みを与えている。彼はどんな役でもソツなくこなせるのだろう。今回もアクションがかっこいい。SUUNTOの腕時計が欲しくなった。

63.
バイオハザード6
2017年1月1日
「バイオハザード6」前作の終わりから、どうなって今作の始まりに繋がっているのかよくわからないけど、アリスは始まりの場所に向かい、全てに結末をつける。前作までの伏線は全然回収されていないし、いろいろと無理はあるけど、とにかく物語は終わった。もう続きはないのだ。それが少し寂しい。

ということで,昨年は63本の映画・DVDを観た.目標は50本だったのだから,十分だと思う.こうしてTwitterで感想をつぶやくことにより,このようにまとめて記録に残すというのは悪くない趣向だ.今年は本数の目標はないけれど(実際,まだ2本しか観ていない),今後もこのようにして感想を形にして残していこうと思う.

2016年の映画鑑賞録 (1)
2016年の映画鑑賞録 (2)

2017年4月2日日曜日

2017年のエイプリルフール

昨日(4月1日)に書いた内容は,もちろんエイプリルフールの冗談です.ソフトスイッチングに関する二法則のところから私のついたウソになっています.そんな法則なんてありません.今年もウソの切れ味が悪くてすみません.

ノーフリーランチ定理というのはもともと最適化問題での話ですが,パワーエレクトロニクスのソフトスイッチングを用いた回路の効率においても,「ある運転条件では効率が向上するが,全体的な平均の効率を計算すると,従来の回路と大差ない」という意味を持たしています.

少し自虐的な冗談でした.来年こそもっと素敵なウソがつけるよう「ウソ道」に邁進いたします.

これまでのエイプリルフールのウソ

2017年4月1日 パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則
2016年4月1日 地球を利用した無線電力伝送システム
2011年4月1日 パワエレの系統
2010年4月1日 電力の産地指定購入
2009年4月1日 人間の共振現象
2008年4月1日 夜中の台所にて,パワーエレクトロニクスの音色に耳を澄ます

2017年4月1日土曜日

パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則

「幼年期の終わり」,「2001年宇宙の旅」などの作者,アーサー・C・クラークが述べたと言われる3つの法則のうちの第三法則については以前にも紹介した

"Any sufficiently advanced technology is  indistinguishable from magic. "(十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない)

昨年のパワーエレクトロニクス技術の世界最大規模の国際会議ECCEのプレナリーセッションにおいても講演者の一人が上記の法則を講演の最後のスライドで紹介していた.私も以前に書いたとおり,パワーエレクトロニクス技術が行き着くところは,魔法の実現なのだ.

アーサー・C・クラークの3つの法則ほど有名ではないけれど,パワーエレクトロニクス分野においても同様の法則(どちらかというと「マーフィーの法則」に近い)が存在する.今回は,半導体素子のスイッチング損失を低減するために研究されてきたソフトスイッチング技術に関するものを紹介する.

”ソフトスイッチングを実現するために回路を工夫すればするほど回路の効率は下がる”
”ソフトスイッチング技術が導入された回路の効率においてもノーフリーランチ定理が適用される” 

回路の小型化を図るため動作周波数の高周波化が進められ,それに伴うスイッチング損失の増加を抑制するためにソフトスイッチング技術が不可欠となってきているが ,上記二法則はそれは万能ではないということを経験則的に表したものである.今後,ますますこの二法則は広まっていくのであろう.

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