2024年5月12日日曜日

「金刀比羅神社」と「湊稲荷神社」

 前回に続き,新潟入船地区の神社を二つ紹介する。

ひとつは,「金刀比羅神社」。新潟は北前船の重要地であったので船にまつわる縁起が多い。この金刀比羅神社も,1812年,香川の金毘羅様を信心していた船主の船が暴風雨に遭い難破寸前であったところを,金毘羅様に救われたことが創建の所以になっている。金毘羅様が去ったあと,金の御幣がひとつ残されていて,それが香川の金刀比羅神社の本社に5本あった御幣のひとつであったという。それ以来,金刀比羅神社として新潟で祀られたのだという。本社には,この由緒を絵で表した木彫りの額が飾られていて,参拝者は直接見ることができる。そのほか,立派な舞楽殿もあって,狭い境内ではあるけれど見るものは多い。Google Mapで見ると「救いの神」と書いてあって,ちょっと驚くのだけれど,上記の由緒もあって困難から救ってくださる神とのことである。

金刀比羅宮 正面

鳥居と舞楽殿

舞楽殿

もうひとつの神社は,この金刀比羅神社の近くにある「湊稲荷神社」である。こちらも創建から300年以上経っているという由緒ある稲荷神社である。360度回すことができる狛犬が有名で,回せば願い事が叶うという。どうも花街の女たちが意中の男が港から出ていかないよう、狛犬の向きをわざと変え、荒天になるように祈願していたというのが始まりらしい。私ももちろん回してきた。しかし,男は右側の狛犬を回し,女は左側を回すことになっていることを知らず,左側を回してきた。残念...本殿はサッシの戸の向こうにあり,現在の狛犬に取り換えられる前の狛犬が置かれている。おみくじを引いてみた。中吉。良かった...

湊稲荷神社

この日,入船地蔵尊,金刀比羅神社,湊稲荷神社,旧新潟税関庁舎,旧第四銀行住吉支店,新潟市歴史博物館みなとぴあ,と午前中の合氣道の稽古のあと歩いて回った。さすがに疲れて夕方新潟駅近くでビールを飲んだ。美味しかった。

#私は日本の神様にそれほど詳しくないので,今回調べてみて初めて「金刀比羅様」が「大物主」であることを知った。しかし,この「大物主」がどのような神様なのか,私はよくわからないのである。大国主と同一なのか?大己貴神なのか?それともそれらの幸魂,和魂,奇魂なのか?Wikipediaを読んでもよくわからない...まぁ,稲荷神社も各社によって祭神が違っていたりして難しいのだけれど。この湊稲荷神社はオーソドックスに宇賀之御魂神とのことである。



2024年5月11日土曜日

入船地蔵尊の伝説

 民俗学に憧れる。もしも,私の家がお金持ちで,私が稼ぐ必要がなかったのであれば(つまりは道楽息子でいられたならば),民俗学者になろうとしていたかもしれない。あちらこちらにフィールドワークに出かけて,伝承された話,モノをおじいさん,おばあさんから収集する。地域地域に残る習慣,ならわしの中から文化や技術をすくい上げる。そんな素敵なことで暮らしていけたらどんなに素晴らしいだろう。

特に私は民話が好きである。民話にはその当時の生活習慣,あるいは通過儀礼・禁忌などを含む文化が含まれている。その背景にあったろう生活を想像するのが好きなのである。神話や妖怪が好きなのもそうした理由なのだろう。また寺社仏閣が好きなのもその建立の経緯が面白いからなのだ。

さて,せっかく新潟にいるのだから近隣の寺社を巡ろうと思っていて,先日は,新潟市にある入船地蔵尊 浄信院を訪ねてみた。18世紀末,大飢饉で亡くなった方のために建てられたお寺とのこと。浄土宗。私がなぜこのお寺にわざわざ行ったかというと,そこに祭られている地蔵菩薩の像に伝説があるからなのである。

新潟妖怪研究所のガイドブックによれば,次のような話が伝わっているという。1718年,佐渡から新潟に渡ろうとしていたお坊様(佐渡羽黒山)が船夫に断られてしまった。その船夫の船が新潟の港に入ろうとしたところ,船の動きが鈍くなってしまった。そこで,船を調べたところ,その船の船尾に石の地蔵があるのを見つけて,船夫は海に投げ捨てた。その結果,船は全く進まなくなった。これは地蔵を粗末にした罰に違いないということで地蔵を引き揚げたところ,入り風が吹いて船は入港できたとのこと。そのときの地蔵ということで「入舩地蔵尊」として崇敬されることになったということである。地蔵の背中には享保3年(1713年)「佐州羽黒山覚念」と刻まれているらしい。

当日私が行ってみると,お堂の戸は閉められていて,お参りすることはできそうになかった。「縁がなかった。残念ながら次の機会にしよう」と思ったところ,ちょうど建物の脇から寺の女性の方が出ていらっしゃった。ちょうど外出されるところだったようだ。私を見て,「どうされましたか?」と尋ねてくださって,わざわざお堂の戸を開いてくださった(ご親切,ありがとうございます!)。

お堂の内側は立派な壇が据えられていて,多数の金色の仏様の奥には黒い外見をした菩薩像が置かれているのが見えた。お寺の方が,あれが佐渡から渡ってきたと伝えられているお地蔵様ですと説明してくださった。

お堂のとなりには,別の小さなお堂があって,その中も見せていただいた。お堂の中には金色の地蔵菩薩像が多数おさめられていた。知らなかったのだけれど,明治以降,北前船の船主の信者のみなさんが寄進され,千体地蔵として有名らしい。こちらも伝説があって,明治の頃,もともとはある船主の長男の嫁が船主の病気平癒のため毎日参詣して,小さな木の仏像を寄進していたとのこと。二百体ほどに達したころ,夢にすべての仏像を金色にすれば平癒するというお告げをうけて,船主が金箔代を寄進したのだという。以来,信者が寄進した小さな仏像は二千体にも達するとのことである。

こんなふうに新潟の地元にもいくつもの伝説が伝承されている。少しずつそうした場所を訪れるのが楽しみとなっている。


入船地蔵尊浄信院

#現代の「都市伝説」もいつか将来の民俗学の対象になっているだろう。電子的なアーカイブが残っていれば,それはそれは興味深い研究資料になるに違いない。


2024年5月6日月曜日

壊れてしまったラジオ

深夜ラジオは中高時代の受験勉強の友で,オールナイトニッポンやミスDJリクエストパレード(川島なお美,飯島真理,斉藤慶子なんてよかったなぁ)を毎晩のように聞いていた(新潟は毎日放送もよく電波がはいったのでヤングタウンもよく聞いていた)。ラジオ番組を特集した雑誌なんてのも良く読んでいた覚えがある。

中学校に入るときに自分の貯金でSONYの銀色のポータブルラジオを買って、それをずっと高校を卒業するまで使っていた。自分の貯金だから断る必要もないのに、親には「これから「基礎英語」を聞いて英語を勉強するから」と断って、確か当時で定価15,800円した高価なものを買った。実際には割引して売られていて,その差額は親によってなぜか妹のモノを買うのに回された。不条理を感じたけれど,ラジオを買ったうれしさもあってうまくごまかされてしまった。

SONYのその新しいラジオは当時の最新式の電子式チューニングシステムを使っていて,チューニングダイヤルがない。そして現在の周波数を示す液晶画面もないめちゃくちゃカッコいいモデルだった。自動選局,7つの周波数をメモリ可能で,メモリボタンを押せばすぐにニッポン放送や文化放送を聞かせてくれた。表には「PLL SYNTHESIZER」と書かれていた。今だったらPLLの意味も分かるけれど,当時の小学6年の私にはなんのことだか全く理解できなかった。

この記事を書くにあたり,このラジオをネットで調べてみた。45年も前のラジオなので見つけるのに苦労したけれど,とうとう見つけた。「ピットインFM ICF-M20」という機種らしい。今見てもカッコいい。当時の私のセンスを自慢したい。

ずいぶん前に実家に帰った時に見つけて電源を入れてみた。もうウンとスンともいわなかった。「壊れかけのRadio」ではないけれど,喪失感がひどかった。私のラジオへの愛情が損なわれたようだった。その後そのラジオをどうしたのかは覚えていない。しかし,オートチューニングを始めると放送局を探してくれる「ピピピ」という音と小さなボタンをプチっと押す感触だけはいまも覚えている。。

2024年5月5日日曜日

わが青春のオールナイトニッポン

オールナイトニッポン(ANN)といえば,私にとってみれば受験勉強の友で,青春の一ページを飾るラジオ番組である。

当時は,深夜1:00-3:00が第1部,3:00-5:00が第2部というスケジュールで放送されていた。中学生の頃にはクラスでも聴く人が多くなっていて,翌日になると教室のあちらこちらでANNの話をしていた。当時の第1部のパーソナリティは,中島みゆき,所ジョージ,タモリ,ビートたけし,吉田拓郎,笑福亭鶴光あたりで,私は特にビートたけしのANNを毎週楽しみにしていた。受験勉強をしながら聴くのが毎日で,だいたい2:00過ぎくらいになると眠くて,コーヒーを飲んでも目が覚めないので諦めて床に入るのが常だった。

高校生くらいになると火曜日はとんねるずの担当になっていて(小泉今日子もそのころ水曜日を担当していた),それはそれは楽しみな番組で夜中にクスクス笑いながら勉強したものである(おかげで暗記科目はからきしダメだったが...)。

残念ながら私はネタを投稿するハガキ職人ではなかったけれど,当時の常連の投稿者がそのまま放送作家になった,あるいは芸人になったなんてことは今になってよく聞く話である。とにかくラジオが熱かった。

ANNは今でも,力ある芸人や俳優,アイドルが担当して放送されている。今ではネットでタイムシフトして聴くことができるから,長時間の運転時の眠気覚ましなどにちょうどいい番組なのである。

ただし,芸人が担当している場合は,各番組に常連のリスナーがいて,”ファミリー”のノリが強すぎてちょっと聴くのにハードルが高いと感じてしまう。例えば,オードリーのANN。先日,東京ドームでイベントをやって会場を満員にしたというニュースを聞いても,相当に人気のある番組である。しかし,そのニュースを聞くと固定ファンのネタに自分がついていける自信がない。それが理由でなかなか聴く勇気が起きない...

一方で,まだまだラジオのファンがいてうれしく思う。テレビ全盛期にもラジオの危機感を感じていたけれど,ネット全盛の現代になっても熱いリスナーがいることがうれしい。確かにラジオを聴いている学生は少なくなっているようだし,全国的にもリスナーは減少傾向にあるのは間違いなのだろうけれど,これからも一部の熱いファンがラジオを支え続けるのだろうと思う。

"Video killed the radio star"や"Radio Ga Ga"で歌われるような昔のラジオへの郷愁もあるけれど,ラジオは現代においてもまだまだ新しいファンが入れ替わりしながら支え続けている。ラジオが消えるのはまだ先のことになりそうである。


2024年5月4日土曜日

新潟市歴史博物館みなとぴあ

 前回は「新潟市歴史博物館みなとぴあ」の話をしようと思って、古町芸者の話に終始してしまったので、今回は博物館の話をする。

展示をみると新潟の歴史は、港町としての繁栄と水との闘いであったと感じられる。

長岡は縄文時代(火焔土器で有名)の次に弥生時代があって、その後ヤマト王権によって統治されていくような歴史であったけれど、新潟は弥生の生活様式の時代の形跡があまりなく、縄文時代の次はヤマト王権による古墳時代となっていたようである。ヤマト時代から港町としての役割を新潟は果たしていて、江戸時代から昭和くらいまでは相当に栄えていたようで、当時の新潟の産物や港町として栄えていた証となる書物などが展示されている。

一方で新潟は地名の通り、「潟」と呼ばれる池・沼ばかりで水はけがよくなかったようであって、新潟の歴史は治水をどのように行ってきたかという歴史でもある。最終的には大河津分水の完成を見て、水害はずいぶん減ったとのことであるけれど、それまで水田を生業とする人たちの苦労は江戸時代からの水路の図面、そして昭和にかけての写真などによってしのばれる。

今年は新潟地震から60周年、中越地震から20年の記念の年でもある(来年は新潟大火70年)。日本の他の土地とかわらず、新潟も数々の苦難を乗り越えてきている。先人たちの苦労を知ることは、今後の防災などを考えるためにも重要であるなぁ、とまじめに考えさせられた...

#新潟が原爆の投下候補地のひとつであったことはあまり知られていない。長岡にも原爆の模擬爆弾が試験的に落とされている。今回、原爆の投下候補地であることを知った新潟の人々が「原爆疎開」をして、多くの人が新潟の地以外で終戦を迎えたのだということを初めて知った。


2024年5月3日金曜日

古町芸妓、「新潟美人と花街」

 「旧第四銀行住吉町支店」、「旧新潟税関庁舎」と紹介してきたけれど、それらは「新潟市歴史博物館みなとぴあ」の敷地内にある。もちろん、訪問した。

長岡市にある新潟県歴史博物館は、どちらかというと縄文の暮らし、長岡藩と戊辰戦争、そして雪とくらし、という感じの展示だったけれど、新潟市歴史博物館は、やはり港町としての繁栄の歴史に関わる展示が中心だったように思う。特に、明治以降、横浜、函館、長崎、神戸とならんで開港された新潟は、貿易の拠点として栄えた歴史があって、その頃の民俗を示すモノや文書が並んでいてたいへん興味深かった。

特に私が訪れたときには、「新潟美人と花街」という開館20周年を記念する特別展が開かれていて、往時の繁栄がしのばれた。友人から教えてもらって知ったのだけれど、三大芸妓といえば、「京都祇園」、「東京新橋」そして「新潟古町」だったのだそう。幕末に開港されるまでも北前船でにぎわっていて、「新潟は松と男は育たない」(海風が強くて松が育たない。男は女遊びの誘惑が多すぎて育たない)という言葉があったくらいだそうである。多い時には400名近くの芸妓がいたとのことであるけれど、今回の展示をみると娼妓(遊女)も多かったらしく、かわいそうな身の上の女性も多かったのだろう。

明治くらいになると芸妓の写真が撮られ、現在の風俗嬢のような(というと怒られるだろうか)女性のカタログが作られていて、それも展示してあった。そのカタログには「新潟美人」という言葉が躍っていて、これが全国的に「新潟美人」を知らしめる一助になったことを知った。今見ても美人ばかりが載っている。一方で新潟新聞や読売新聞なども今であればコンプライアンス的にどうかと思われるような芸妓の美人コンテストなどを催していたりして、現在と変わらない。有名画家が描いたコンテスト10位までの芸妓の掛け軸も飾られていたけれど、一位の芸妓は数万票を集めていたりして驚いた。一票投票するために新聞社の何かを買うかなにか契約していたらしく、少し前のAKB48と同様の推し活動があったようである。

現在は60名程度しか古町芸妓には在籍していないようである。ひとつの文化であるから、消えないようにみんなで盛り上げてあげたらどうだろう。(私にはそんな経済的な余裕はないので、どなたかにお願いしたい)

「金刀比羅神社」と「湊稲荷神社」

 前回に続き,新潟入船地区の神社を二つ紹介する。 ひとつは,「 金刀比羅神社 」。新潟は北前船の重要地であったので船にまつわる縁起が多い。この金刀比羅神社も,1812年,香川の金毘羅様を信心していた船主の船が暴風雨に遭い難破寸前であったところを,金毘羅様に救われたことが創建の所以...