2023年12月30日土曜日

うちの弁護士は手がかかる,は良質のコメディ・ドラマだった

 今期ですべての回を観たドラマのひとつが,「うちの弁護士は手がかかる」である。主演は,ムロツヨシ。相手役は平手友梨奈。その他,芸達者な俳優のみなさんが脇を固めている。内容もそれほど重くなく,それでいて少し考えさせるような,家族のみんなで見ることができる内容だった。

まずムロツヨシがいい。もちろんこの人の演技力というのは,真面目からボケまでそれは間違いないし,「どうする家康」では,狂気に満ちた新しい豊臣秀吉役を見せてくれた。本作では途中病気で短期間離脱したこともあったようだけれど,心優しい気配りの人を演じている。これが身近に感じられて,ドラマの魅力の中心になっていた。

平手友梨奈は私が好きな俳優・歌手で,自分の世界観をもっている(彼女が出てくるだけで平手友梨奈ワールドが広がる)希少なタレントであると思っている(その他では,木村拓哉とか)。今回はちょっとデジャブ感をもつ「かわった」弁護士で,頭はかたいけれど,心優しい変人という役どころ。やはり彼女しか出せない雰囲気が良かった。

村川絵梨,酒向芳,戸田恵子,松尾諭という事務所の仲間のボケぶりも良くて,気楽に楽しむことができるドラマだった(江口のりこも変に善人にならなくてよかったし)。こうしたコメディはテレビドラマがどんどんやるべき分野だと思っていて,今回はその手本のようなドラマだった。ムロツヨシも大河ドラマの秀吉は怖すぎたので,今回くらいの役がいいなぁ,と思った。

ただ,あちらこちらに80年代~90年代のドラマのネタが散りばめられていたのだけれど,相当ドラマを見ていないと理解できないものばかりで,大丈夫?と思って見ていた。まぁ,私はだいぶわかった方だと思うけれど。


2023年12月29日金曜日

鬼束ちひろ「流星群」

 研究室の学生と話していて,彼が以前放映されていたTVドラマ「TRICK」をネットで見たという話を聞いて,私も最近,鬼束ちひろの曲を聴いていたので,おっと少し思った。

私もなぜかこの一週間くらい鬼束ちひろの曲を聴いていた。といってもメジャーな曲ばかりなのだけれど,それらでも最近の若い人たちは知らないのだろうと思う。ただ相変わらず「TRICK」シリーズの番組と映画の人気は高いので,それらを見た人たちは番組の最後に流れる彼女の曲が心に残っているのではないだろうか。

私が大好きな彼女の曲は「流星群」という曲で,「TRICK2」の主題歌になっている。第1シリーズの主題歌の「月光」も良い曲でもちろん好きなのだけれど,ちょっと内容が重い。というか,神や罪を思わせる歌詞も出てきてテーマが広すぎる(ドラマの最終回のエンディングで出演して歌っていたのには驚いたけれど)。一方,「流星群」の世界はせつない恋愛の話のように思えて,身近なテーマに感じられ少しだけ気楽に聴ける。ただ相変わらず,心が少し痛む内容で,つらい。でもそこがよい。

鬼束ちひろは,もちろん本作を作詞作曲しているのだからソングライティングの才能も豊かであることは間違いないけれど,彼女の歌唱力がなければ本作も不朽の名作にはならなかったと思う。他に誰がこの曲をあんなふうに歌えるのだろう。

彼女の歌い方も独特だけれど,なんといっても声質が素晴らしい。私は歌手の才能というのは,半分以上はその人の声質で決まるものだと思っている。どんなに一生懸命練習して歌唱のテクニックを磨いても,その人が生来持っている声に魅力がなければ,名歌手にはならないし,作品も名作にはならないと思う。鬼束ちひろの声と歌い方はそれだけで歌の世界に引き込まれる魅力にあふれている。「流星群」はその才能を十二分に発揮している作品である。

彼女はいろいろトラブルに見舞われて,その後あまりヒット作を出していないようだけれど,「月光」,「流星群」の他にも,「眩暈」や「私とワルツを」などの曲も大好きである。また彼女にライトが当たって,活動がみんなに知られるようになるといいなと思う。

2023年12月25日月曜日

すべて忘れてしまうから,「そこそこ」の幸せ

 TVドラマ「すべて忘れてしまうから」(テレビ東京)が終了した。私としては原作を含め,とても好きな作品だった。

主人公は,TVの美術下請け会社に勤めながら小説を書いているちょっと情けない男で演じるのは阿部寛。彼は「下町ロケット」の主人公のような熱血漢を演じても素晴らしいが,こうした情けない男を演じてもピカイチである。今回も煮えきらない微妙な小説家を絶妙に演じている。私はこちら側の阿部寛も大好きである。そして彼の彼女がある日突然いなくなる。そんな彼の周りで起きる切ないエピソードが散りばめられているドラマである。

数々のエピソードは,「燃え殻」という著者が書いた「すべて忘れてしまうから」というエッセー集に収められているものから選ばれていて,ドラマの中にうまく溶け込まされている。その一方で彼女が理由も分からず失踪するという作品を貫く経糸のストーリーは番組オリジナルである。彼女が失踪することによって,主人公は少しずつ変わっていくのだけれど,その彼女を演じたのが尾野真千子。彼女も素晴らしい。失踪した彼女は半年後に戻ってくるのだけれど,彼女も種々な経験から以前とは少し変わってしまっていて,結局二人は別れてしまう。そこが大人苦い。

その二人が別れるエピソードは最終回の一つ前の回で描かれる。ある日(半年後?)ひょっこり戻ってきた彼女を主人公は何も聞かずそのまま受け入れ,また一緒に住み始める。そして二人で海に旅行に出かける話が描かれる。その話が本当に切ない。その旅行では(うろ覚えだけど)「そこそこ」美味しいものを食べて,「そこそこ」楽しい経験をする。この「そこそこ」というのが素晴らしい。それぞれの感動が「そこそこ」だからこそ,最大の記憶はなにげなく二人で過ごした時間になる。しかし,そんな観光や食事が目的ではない「二人で過ごす時間」が最高の思い出になった大人の旅行が,彼女の決別の決意のきっかけになっていて,見ていて胸が締め付けられる話だった。

大人ってそうだよな,と思う。若い頃は観光や食事がメインの楽しみになって当然なのだけれど,トシをとると二人で何気なく過ごす時間こそが貴重なものとなる。「そこそこ」の幸せだからこそ,時間を大切にできる。そんな大人の旅行に憧れをもたせてくれる話だった。

残された主人公はその別れを受け入れて,日々の生活を続けていく。大人苦い。本当に大人苦い。でもだからこそ見ているものの心が動く。この作品はずっと忘れずにいるような気がする。良いドラマだったなぁ...

2023年12月24日日曜日

2023年のクリスマス・イブ

 今日はクリスマス・イブなんである。この人生,もう何度も経験している。学生だったバブルの頃は,渋谷や住んでいた自由が丘などの街全体がとにかく盛り上がっていた。あの頃,若者たちがクリスマスにかける情熱というのは,現在の10倍以上はあったことは間違いない。恋人たちの一年のクライマックスがクリスマスだったのである。

最近のクリスマスは,長岡という田舎だからなのか,経済不況だからなのか,それとも私がトシをとって独りで過ごしているからなのか,どうも盛り上がりがないように思える。個人的には,昨年のイブはカツ丼を食べ,その前の年は学食でサイコロステーキ,その前は牛丼を食べていた覚えがある。全然クリスマスではない。私はこんなにもクリスマスが好きだというのに

独りで過ごすクリスマスが定期点検のように当たり前になってしまった今となっては,楽しかった思い出も流星群の軌跡のように次々と消えつつある。寂しいけれど仕方がない。

最後に,このブログで話題にしたクリスマス関連のワードを挙げておく。少しでも記憶が消えないように。

#小説:ディケンズ「クリスマス・キャロル」,ポール・オースター「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」,カポーティ「クリスマスの思い出」,カポーティ「「あるクリスマス」
#映画:ミュージカル「スクルージ」,「3人のゴースト」,「The SMOKE」,「The nightmare before christmas」,「素晴らしき哉,人生!」,「エクソシスト3」
#クリスマスソング:山下達郎「クリスマス・イブ」,ジョン・レノン「ハッピー・クリスマス」,ポール・マッカートニーの「ワンダフル・クリスマスタイム」,ワムの「ラスト・クリスマス」,バンドエイドの「Do they know it's Christmas?」,佐野元春「Chiristmas time in blue」,「Little Drummer Boy」

いつも行くコーヒー店のクリスマスツリー

いつかクリスマスの朝,生まれ変わった気分で街の少年に「七面鳥を買ってきておくれ」と頼めるような素敵なイブを過ごしたいものである。

すべて忘れてしまうから,燃え殻のあざとさ

 「すべて忘れてしまうから」読了。なんとも,著者の「燃え殻」が自分にひどく近いように感じてしまうエッセー集だった。

評としては文庫本あとがきにある町田康のものが秀逸なのでそれを読んでいただきたいのだけれど,決して人生の勝者ではない人たちのエピソードが並べられている。町田康も書いているけれど,しかし絶望で終わらない。そこにはかすかな希望の光が遠くに見えている,そんな終わり方のエピソードが多い。そこに救われる。いや救われはしないけれど,絶望しないで済む,そんな感じである。

もっとも心に残ったエピソードは,実はまえがきにある大槻ケンヂとのエピソードである。小説を書くきっかけになった大槻ケンヂの自伝的小説で,自分が心に残っているシーン,セリフがフィクションだと知らされる。このとき,著者はたぶんショックを受けたとは思うけれど,そこに小説の可能性の広がりを感じたのだろうと私は思った。大槻ケンヂはそのフィクションを「希望」と呼んだ。大槻は燃え殻に問う。「君の希望はどこにあるの?」。そして著者の希望は小説とこの作品に散りばめられている。

読了して思ったのは,著者の「あざとさ」である。あきらかに読者の心に引っかき傷をつけることを狙っている。その傷は深すぎず,浅すぎず,絶妙なラインにある。それを著者は意図的に書いているのではないか。もしかするとそれを無意識に達成しているのかもしれない。どちらにせよ,それは著者の才能なのだと思う。

とにかく,大きくはないけれど,でもそれほど小さくもなく,心を動かされた作品だった。小説を含む,別の作品も読んでみたいと思った。そして,まだテレビ業界の下請け会社で働いている彼の話している姿を見てみたい。そこに私の「希望」もあるかもしれない。

2023年12月23日土曜日

私の葬送曲候補(2):ブルックナー交響曲第9番第3楽章

 自分の葬式に流す音楽を決めることを,自分の終活の一項目としている。前回は,マーラー第9番交響曲の第4楽章を第一候補として紹介した。今回はその第2弾として,ブルックナーの交響曲第9番第3楽章を挙げたい。

ベートーベン以降,交響曲を9つ書くと死に至るのではないかという迷信があったそうで,マーラーも9番目に作曲した交響曲は「大地の歌」として第9番の名前をつけなかった。そして前回紹介した第9交響曲を書き上げ,安心したところで第10番を作曲している最中に亡くなってしまった。マーラーの第10番交響曲は未完となったわけだけれど,ときどきその残された第1楽章が演奏されることもある。

今回挙げるブルックナー交響曲第9番も実は未完の作品である。第3楽章まで書き上げて,第4楽章を書いている途中で亡くなってしまった。やはり交響曲第9番の呪いはあるのかもしれない。

ブルックナーの交響曲は私はかなり好きな方で,長大だけれど壮大な楽想が素晴らしく,一時期よく聴いていた。実のところ1,2,6番の交響曲はほとんど聴いたことがないのだけれど,3番5番,8,番は何度も聴いていて,CDも何枚も所有している。

その中でも9番はもっとも厳しい音楽だと思う。第1楽章からして甘さが全くない。粛々と曲が進んでいく。第2楽章のスケルツォも厳しい限りである。笑顔はない。そして第3楽章。マーラー交響曲第9番の第4楽章は死の甘美さを有しているけれど,この第3楽章はそうした少しの甘えさえも許さない,なにもない終末の世界に流れているような,曲のイメージの色が思いつかない。そんなある意味モノクロな音楽である。

この楽章の秀逸なところは,クライマックスで最高潮に曲が盛り上がったのちに,ほんの少しだけ救いだと思われる旋律が遠くから聞こえるように演奏される箇所である。そのとき,灰色の薄暗い雲の切れ間から本当に薄い北の光が差し込むような気がする。その旋律は二度とは繰り返されず,そのまま曲は終了していく。

もしもこのあと第4楽章が書かれていたならば,どのような曲になったのだろう。ブルックナーは,第4楽章の完成が間に合わなかった場合にはその代わりに「テ・デウム」を演奏してほしいといったらしいけれど,テ・デウムはちょっと勇壮で華やかすぎる気がする。この作品は第3楽章で終了するのがやっぱり良い気がするのだ(第7番交響曲では,第4楽章が少し似合っていない気が聴く度にいつもしてしまう。第9番もそんな感じだったら残念だっただろうなので,これはこれでよかったのかもしれない)

私のための葬送曲としての問題はやはり曲の長さである。私の葬式は,行うとしても小さな規模になるだろうから,本曲のクライマックスまでにも届かず焼香の時間が終わってしまうに違いない。ブルックナーは譜面に「愛する神に」と書いて本作を神に捧げているけれど,この長大な作品は市井の一個人の葬式にはちょっと不釣り合いなのかもしれない。

2023年12月17日日曜日

老眼とはどんな状態なのか,説明しよう

 老眼ってどんな感じなんですか?って聞かれることが多くなった。私が近くを見たり遠くを見たりするたびに眼鏡をはずしたり,つけたりするからだろう。

私も自分が老眼になってここまで不便になるとは思っていなかった。もともと近視と乱視であったので遠くをみるために眼鏡をかけていたのだけれど,老眼が強くなってきて眼鏡をかけたままだと今度は近くが見えないようになってしまった。本を読んだり,説明書を読んだりするときは,眼鏡をはずさないとよく文字が見えなくなっている。目がひどく疲れる。そして遠くを見るときにはまた眼鏡をかける。本当に不便である。

近視は遠くが見えなくなり,老眼は遠視に近いと聞いていて,トシをとったら2つがちょうどうまくかけ合わさって,世界がよく見えるようになるのではないか,などと思っていたけれど,実際はどちらもよく見えなくなる,というのが正解だった。では裸眼ではどうなるかというと,焦点があう距離が本当に狭くなる。ある距離にあるときにしかはっきりと見えないのだ。

したがって,モノを見るときは,そのモノを手で遠くに持っていったり,近くに持ってきたりして,ちょうど焦点があう距離までモノを持つその手で調整しなければならない。はなはだ不便である。

眼鏡には遠近両用というものがあるという。つまりはそういった眼鏡が近々必要になるということなのだろう...

テレビ番組でチャンカワイさんが遠くを長時間見ることで視力を回復できるかというチャレンジをしているのを見た。私もそのような練習をしてみようかと本気で考えている。

2023年12月16日土曜日

私の葬送曲候補(1):マーラー第9番交響曲第4楽章

 私の年齢も50半ばを越え,そろそろ人生の終わりが見え始めてきた(人生百年時代などと言われるとまだ折り返し地点を過ぎたばかりなのだけれど)。引退後のセカンドライフも考えなければならないし,そろそろ独りの良い年頃なので終活を始めようかと考えている。

終活の項目のひとつに自分の葬式に流す曲を決めることがある。もうそんなことを考えるのか!?と思う人もいるとは思うけれど,日頃から候補曲を考えておかないと,いよいよというときに遺言に残すことができないと思い,よい曲を思いついたら記しておくことにしたい。

そこで第1番目に挙げる候補曲は,マーラー第9番交響曲の第4楽章である。誰だったか,自分の葬式にはベートーベンの英雄交響曲(第3番)の葬送行進曲(第2楽章)を流してくれと言っていたらしいけれど,私にはそんなヒロイズムもナルシズムもまったくない。とにかく静かに音楽が式場に流れていてくれれば良い。そう考えるとそれほど劇的な盛り上がりがない曲こそがふさわしい。そして悲しすぎないのがよい。そうして考えた末がマーラー第9なのである。

マーラーの第9番交響曲はマーラーがそう意図して作曲したかどうかは知らないけれど,静かにはじまる第1楽章から静謐な死の雰囲気に溢れた曲で,そのような印象は同時代の作曲家ベルクをはじめ,多くの人が述べているのだという。確かに私もそのようなイメージを持っている。最終の第4楽章は,少しずつ音階が変化する旋律がゆっくりと演奏されていくもので,曲を聴いていると気持ちがどんどん落ち着いていく。いや,気分が下降していくというべきか,ちょっと行き過ぎて負の方向にまで落ち込んでしまうような気もする。でも,それがいいのだ。そんな音楽,他に知らない。

秀逸なのは曲の終わり方。ラフマニノフの作品のようにタン・タカ・タンなどとリズムを刻んで勇壮に終わるのではなく,弦楽によるピアニッシモで奏でられた最後の一音がスーッと消えていって終了する。まさに私の最期にふさわしい曲だ。

この曲の問題は楽章がその最後を迎えるまでに30分近くかかってしまうこと。葬式の間,その曲の最後まで会場に流れることがないかもしれない。それがちょっと残念である(たぶん私の葬式は家族葬となるのですぐに焼香の時間は終わると思う)。

演奏としては,カラヤン&ベルリン・フィルもアバド&ベルリン・フィルも,そしてバーンスタインのニューヨーク・フィルやウィーンフィル,そしてベルリン・フィルとの録音といずれも素晴らしいものになっていて,私も以前はそのときどきの気分によって所有しているCDを聴いていた(最近は音楽そのものを聴くことが少ないので全然聴いていないけれど)。その中からどれかを選ばなければならないわけだけど,私のチョイスはバーンスタイン&コンセルトヘボウ管弦楽団の録音である。バーンスタインによるグラモフォンのマーラーシリーズのものが好きだ。第4楽章は至極ゆっくりと,そして美しく演奏される。この曲が私の葬式場に流れることを想像すると,どこか甘美な感じもする。その式場に私がいないことが至極残念だ。


#正直,私の葬式はない可能性も高いのですが...


2023年12月10日日曜日

レナード・バーンスタインの音楽 (2)

 レナード・バーンスタインは指揮者として有名だけれど,ミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の珠玉の名曲を残した作曲家でもある。彼自身は指揮者としてではなく,作曲家として評価されたかったらしい(ここらへんは,彼と同じくユダヤ系として,ニューヨークで指揮者として活躍していたグスタフ・マーラーに似ているかもしれない)。

もちろん,楽曲「ウェスト・サイド・ストーリー」はミュージカル史上でも燦然と輝く傑作であることは間違いないけれど(このへんは,残されている映像に彼が嬉々として作品を解説しているものがあって面白いので,興味のある人はぜひご覧いただきたい。),その他にも交響曲を3つ残している。しかし,あまり演奏される機会がないため,知らない人が多いのではないか。最近,日本では演奏されているのだろうか。あまりそうしたプログラムを見た覚えがないような気がする。

彼の交響曲は第1番から第3番まで,「エレミア」,「不安の時代」,「カディッシュ」とそれぞれ副題が付いていて,私も一応,グラモフォンのレーベルで「エレミア」と「不安の時代」が入っているCDを持っていたと記憶しているけれど,どんな曲だったか思い出せないし,そのCDが今手元にないので確かめようがない。ただ複雑な曲であるという印象をもったことは覚えている。彼はやはり現代音楽の作曲家なのだ。

一方,私が好きな彼の作品のひとつが「チチェスター詩篇」である。以前にも書いたように,ニューヨークの教会で初めてこの曲を聞いたときのことは忘れない。人道主義者であった彼の理想が詰め込まれた作品だと思う。バーンスタインの作品で「ウェスト・サイド・ストーリー」の次に聴く曲には,この作品を強く推薦する。

交響曲を含め,彼の作品には,彼という人物がよく表れていると思う。彼の考え,主義,感情が感じられるような気がする。だから,こうした作品を聴いたあと,赤や青のシャツを着た彼がメガネを外して上目遣いで「どうだった?」と尋ねてくる,そんな空想をいつもしてしまうのだ。


#バーンスタインについては,あとはピアニストという一面があるのだけれど,そちらは私はあまり聞いたことがないので記事にはしない

2023年12月9日土曜日

パリピ孔明で最も印象的だったのはメンディーだった

 私が今期大好きだったTVドラマ「パリピ孔明」がとうとう終わってしまった。視聴率は振るわなかったみたいだけれど,誰でも楽しめる,そして音楽好きと三国志好きにはたまらない素敵なドラマだった。終わってしまってちょっとプチ・ロス気味。

私は向井理の清潔感が好きだと何度も言っているけれど,今回も諸葛孔明のコスプレをしていてもその清潔感は失われていなかった。彼の孔明があってからこそのこのドラマの成功につながていることは間違いない。しかし,よくこの役を引き受けたなぁ,とは思う。

上白石萌歌が演じる主人公英子は,いろいろ意見があるようだけれど,私はこれはこれでよかったと思う。漫画やアニメではもっと英子はギャルっぽかったけれど,今回の英子は少しボケたイノセントな女の子で,孔明の知略に気づかずに一歩一歩成功に近づいていくのが良かった。歌も当然うまいし。

一番原作に近かったのは森山未來演ずるクラブのオーナーだったかもしれない。なんだかんだいって,おちゃらけただけのドラマになりそうなところを,彼が引き締めていた。若い頃にギターを弾く姿も相当かっこよかったし,一方で三国志の知識を披露するところも嫌味では全然なかった。

他にも,宮世琉弥も,ELLYも,菅原小春も,みんなみんな良かったけれど,私がもっとも印象に残ったのは,前園ケンジを演じた関口メンディーである。彼はバラエティー番組にときどき出演していたのは知っていたけれど,こんな才能があるとはと驚いた。本業ではパフォーマーとして活動しているけれど,歌もなかなか良かった。現在の日本の音楽シーンにいなそうなキャラクターだし,こんな感じでソロデビューして欲しいなとも思った。悪役としての演技もたいへん良かった。作品中では歌いながら毛皮に短パンというかなりキワモノの人物造形なのだけれど,メンディーの演技はそれを不思議と納得させていた。いやぁ,メンディー自身も自信をつけたのではないか。彼の今後の活躍に大いに期待したい。

ということで,いろいろなアーティストのカメオ出演もあって,たいへんに楽しめたドラマだった。作中の楽曲も多くがオリジナルで,それもちゃんと作られていて感心した。手を抜かず作られていることを感じさせる。「神は細部に宿る」なのだ。いつか続編があるといいなぁと思う。


#密偵の女の子役で,石野理子が出演していた。アイドルネッサンスでは歌唱力がピカイチだったから,演技だけでなくこれからも歌手としてもメジャーになって欲しかったりする。

#アニメの映画化も発表された。主題歌は,TV版と同じくチキ・チキ・バン・バンなのが嬉しい。

2023年12月3日日曜日

レナード・バーンスタインの音楽 (1)

 レナード・バーンスタインの映画が最近気になっている。そんなこともあって,バーンスタインについて私の印象を書いてみる(たぶん映画が契機となって,彼の再評価が始まるとは思うのだけど)。

今回は,指揮者としてのバーンスタインについて。

若い頃の彼は本当にカッコいい。TV番組「ヤングピープルズコンサート」の映像をみると,TVのこちら側に向かって話しかけているまなざしは非常に魅力的だ。話し方もいい。そして声もいい。当時アメリカ発の本格的指揮者だと言われていたこともり,注目が集まって人気が出なかったわけがないだろうと思う。

話す内容もかっこいいんだなぁ。私はこの番組でベートーベンの第5番交響曲の,ベートーベンが苦労をして最初の部分を書き直していたという彼の解説を聞いて,この曲を聴く印象が変わってしまった。秀逸な解説は曲の印象を容易に変えてしまう。それを説得力をもって行うところに彼のカリスマ性がある。

年齢を経てくるとより情熱をストレートに表現するようになってきて,指揮台上で両手を突き上げたり,そこで飛び跳ねたり,独特な指揮がまた魅力的である。マーラーなんて祈るように指揮したりしている。そこがまた彼唯一の魅力となっている(彼の弟子の佐渡裕 氏もそんな感じの指揮だけれど)。

リハーサルやスタジオ録音のときの姿もカッコいい。「ウェストサイド物語」の録音の映像なんて,すでに白髪のおじいさんになっているけれど,時々冗談を交えて指揮をしていて,なんてチャーミングな人間なのだろうと思ってしまう(しかし,指示は的確らしく,彼の言葉に対応する楽団の人たちの真剣さが映像から伝わってくる)。こんな風にトシをとることができたらと憧れずにはいられない。

でも実は,彼の指揮は私にとっては正直ハイカロリー過ぎて,バーンスタインのベートーベンをはじめとするドイツ音楽の録音はちょっとToo muchである。だから,あまり彼のCDには手が伸びない。反対に彼の録音で好きなのは,やはり定評のあるマーラー,そして私が好きなのは意外にショスタコービッチの作品だったりする。

全く反対の性格の指揮だと思われるカラヤンとは不仲だったと噂されていたらしいけれど,実際は尊敬しあっていた部分もあったとか。この二人が活躍していた70~80年代はクラシック音楽の指揮者が世界のスーパースターになれる時代だった。そしてバーンスタインは確かにその一人だったことを残された映像は示している(公開される映画もそれを確認するに違いない)。

2023年12月2日土曜日

Maestro その音楽と愛と

 「Maestro その音楽と愛と」という映画が気になっている。マエストロとは,レナード・バーンスタインのこと。「ウエスト・サイド物語」などの名曲の数々を作曲した20世紀を代表する作曲家でもあるけれど,私にとっては指揮者の方が馴染みが深い。私がクラシック音楽を聴くようになったときにはすでに亡くなっていたけれど,カラヤン,ショルティなどと並ぶ巨匠のひとりだった。

彼はアメリカ人として初めての本格的な指揮者と言われていて,いろいろな録音,映像が残っている。クラシック音楽を紹介するTV番組も持っていたりして,彼はアメリカにおいてスターだったことは間違いないようだ(実際,彼のことを私もカッコいいと思う)。

また彼はヤンキー気質であったけれど,人道主義者であり,教育家であった。ベルリンの壁が崩壊したときにもベートーヴェンの第9番交響曲を演奏したり,若手音楽家たちの教育のために札幌でPMFを立ち上げたりと,彼についての記録などを読むと本当に素晴らしい人だったのだと思う。

彼の音楽については,いろいろと思うことがあるので,今後別の機会にまた書きたいと思う。

さて,本作は監督は俳優のブラッドリー・クーパー。そして主演もクーパー。たしか「アリー」だったか,レディ・ガガが主演をつとめていた映画でも,ブラッドリー・クーパーが監督と出演をしていたように思うのだけれど(観ていないけど),今回もそういう形で映画を製作したようだ。

予告編を見て,クーパーの顔がバーンスタインにとてもよく似ているなと思った。案の定特殊メイクをして,鼻を大きくしたりしているらしい。どおりで白髪の彼が赤や青いシャツを着てメガネをかけている姿を見て,バーンスタインが本当にいるのかとドキドキとしてしまった。コンサートで指揮者台に向かう仕草も映像で残っているバーンスタインにそっくりだ。彼を知っている人にはたまらない映画となっているのだろう。

本作は彼のフェリシアとの結婚生活を中心に描かれるらしい。うーん,ぜひ観てみたい。しかし,NETFLIXのようである。新潟の映画館で上映されないかなぁ。


夢も予定もなく

 世の中はゴールデンウイークGWである。今年は比較的天気も良いようで、これまでコロナ禍で自粛していたレジャーがもう一度賑わいを取り戻せばいいなぁ、と心より思う。やっぱり世間が暗いのは、私のような老人にはつらいものである。 ただGWになったとはいえ、私はなにをするともない。というか...