2021年11月6日土曜日

音楽のある生活

 この数年,音楽を聴くことからすっかり遠ざかっている。もちろんコロナウィルスの影響でコンサートに足を運べないこともあるけど,まずはその時間を持てないことが原因である。

私の住んでいる新潟県長岡市は残念ながら,関西に住んでいた時よりも近隣で「聴きたい!」と思うコンサートが開かれることが少ない。まぁ,フジロックの会場の苗場や,東京が近くなったといえば,そうなのだけれど。

でもそうした聴きたいコンサートが開かれるとなると,それを目標にスケジュールを立てコンサートに行く時間を作る。しかし,そのきっかけがないのだ。新潟にオーケストラがあればいいのに…

では,動画を観ればよいではないか,ということになるけれど,クラシック音楽だとリスニング環境が感動の大きさに大きく影響していて,スマホやタブレット,PCで聴いたとしてもBGM程度でしかない。やはりオーケストラはステレオセットで聴きたいものである(現在,部屋にはない)。今は車の中が最も良いリスニング空間となっている。なんと嘆かわしい環境なのだろう。

それでも,BGM程度でもいいから,音楽を聴くとやはりホッとする。そんな時間を積極的に持つようにしたいと思う。

先日,あるオーケストラ曲の冒頭が脳内再生され続けていて頭から離れないので,ついに,初めて,Googleの鼻歌検索を試してみた。全然認識されない。それでも何度もトライしてようやく検索してくれて,サジェストされた曲はなんと「玉置浩二 田園」だった。私の鼻歌はよほど音が外れていたらしい。

しかし,「田園」というキーワードから,私が探していた曲はベートーベンの第8番交響曲の冒頭だったことに気づいた(「田園」=> 「ベートーベン第6番交響曲」=>「第8番」という流れ(笑))。辿った経路には少し笑ってしまったけれど,とにもかくにも目的の曲にたどり着いた。

「第8番交響曲」の冒頭を聴いてみる。これが華やかでいいんだなぁ。つられて第2,3,4楽章まで聴いてしまった。音楽を楽しむって,構えなくていいのだとあらためて思う。こんな風に生活に音楽があふれていたら,毎日はどれだけ素敵だろう。

BGM程度でもいい。もっと生活に音楽があれば,笑顔になる機会も増えそうだ。今後は,なにかあるたびに,いやなにもなくとも音楽を聴こう。

2021年11月4日木曜日

バッグを新調する

 私はずいぶん前からカバンはリュック派で,この10年くらいはずっとリュックを背負って通勤してきた。吉田カバン,ノースフェイスのリュックなどを経て,この数年はBroski and Supplyの革のリュックを愛用してきたのだけれど,やはり素材が革ということで取り扱いをついつい気にしてしまう(実は革でも防水なのだけれど)。そしてそれなりの重量だったこともあって,気分を転換しようと新しいバッグを買った。

そして今回は3Wayバッグを初めて買ってみた。ace. ガジェタブル スペクトラというシリーズ。ガシガシ使えるように素材はナイロン。防水。どうも相当強い繊維が布に編み込まれているらしい。これでナイフで襲われたときにも盾になる(そんな機会はないだろうけど)。

以前のノースフェイスのシャトルデイバッグ(第一世代)が大変な優れモノだったので,今回もずいぶんと心惹かれたのだけれど,現在のシャトルデイバッグは以下の理由で断念。

  1. 以前はバッグの持ち手(ハンドル)がダブルだったのに,しばらく前からシングルになってしまっていた
  2. ショルダーベルトの部分がちょっとごつ過ぎる(その代わり背負い具合は良好で,重たいものを背負っても軽く感じるくらい)
  3. シャトルデイバッグがあまりに良いバックパックだったために,多くの人が持ちすぎている(これが一番の理由)
シャトルデイバッグは本当に良いバッグなのだ。

でも今回は気分を変えてみようと別のタイプを探してみて選んだのが上記のバッグ。

Tumi,吉田カバン,マムートなど,今は素晴らしいビジネス用のリュックサックが数多く発売されている。リュックサックをビジネスで使用することがマナー的にも認められてきたということなのだろう。

その中で上記のバッグを選んだ理由は,形,サイズ感,軽さ,背負った感触などである(そして価格)。まず形はビジネスということで,スクエア型を選んだ。おじさんにはアウトドア・アウトドアした形状のリュックを背負うにはちょっと無理がある。

次にサイズは,毎日持ち歩くことを考えて,少し小さめの14L。せいぜい一泊の出張にしか使えない。でも,毎日使わない大きなバッグを持ち歩くのもなんだかなぁ,と思って今回はこのサイズにした。その分,1kgを切る重量。この軽さがすごく大切。カバンにとって「軽さ」は正義である。

そして驚いたのが背負った時の感覚。アウトドア用ではないので,背負う感覚にはあまり期待していなかったのだけれど,意外や意外。ノートPCを入れても肩に担ぐと思いのほか軽く感じるのである。これには驚いた。そんなに肩掛けベルトが工夫されているようには見えないのだけど。

さて,このバッグはビジネス用だけあって,小分けのポケットがたくさんあってとても便利である。ただし,ここで,注意したいのがこれらのポケットの方向。3Wayバッグとリュック(2Way)バッグで違うのである。3Wayバッグは横持をメインとして想定されているからか,横に持った時にハンドルの方が上になるようにポケットがついている。一方,2Wayバッグは縦に担ぐことがメインだから,縦方向にポケットがついている。3Wayバッグでリュックのようの肩に担ぐと,ポケットから小物が出てしまう可能性があるので注意が必要だ。

その代わり,3Wayバッグは肩掛けベルトがついていて,肩に斜め掛けする持ち方が可能である。どちらが良いか,それは趣味の問題かと思う。

ということで,このカバンに今のところ不満はない。新しいカバンにモノを入れて歩くと少しワクワクする。いつまでこの高揚感が続くかわからないけれど,しばらくは気分よくカバンを担げそうである。

#このカバンのシリーズは,通勤電車の中で前にリュックを持つことを想定して,小型で,前持ち用のポケットがいっぱい付いているところがウリになっている。たしかに便利。通勤電車になんて乗らないけれど…



2021年11月2日火曜日

アートのある生活

 私はアートには関係のない人間だと思っていた。両親は実家にいろいろな絵画や掛け軸を飾っていていたけれども,私自身はほとんどアートに興味がなかったから,家にも部屋にもほとんど絵を飾ることなどなかったのである。

その一方で,海外を含め地方に行くとその場所の美術館を訪れることが多かったことに気づく。美術館で過ごす時間というのは独特で,知らない街でそうした時間を過ごすことは,日常を離れるという行為なのかもしれない。だから美術館に惹かれるのだろう。

とはいうものの,自分で絵や工芸品などの美術品を買うなどということは思いつきもしないし,日常生活にアートなどは不要だった。

最近買った雑誌「ブルータス」に村上春樹氏の記事が出ていて,彼が家に飾っている絵画が紹介されていた。現代の作家のものばかりだったのが意外というか,やっぱりというか,そんな感想をもったのだけれど,それらの絵画をみると私も脳がリラックスすることに気づいた。それらの作品を見ると,頭がい骨の周りの神経が緩むような気がする。少なくともそういう効果がアートにはあるのだと思う。

それでも自分の生活にはどこかで関係がないと思っていたのだけれど,私の生活にもアートが役立つことに気づいた。それはスマホの待ち受け画面である。最近訪れた美術館で撮影した女性の絵画を待ち受けにしてみたところ(もちろん撮影は許可されていた),スマホを手に取って画面に表示された女性の姿を見るたびに脳が緩むのを感じるのである。けだるくクールに見つめる女性,これが存外にいい。そのうちに飽きるかもしれないけど,それまではこれでいこうと思う。

そして,思った。なんだ,アートは生活に役立つじゃないか。


福岡市美術館 KYNEさんの壁画


2021年10月8日金曜日

NO TIME TO DIE

 「NO TIME TO DIE」を観た。それでしばらく007の余韻に浸っている。

今回で15年間5作,ジェームス・ボンドを演じたダニエル・クレイグが引退するのだという。本当に残念に思う。

私はこのD.クレイグのシリーズが大好きだった。それまでの007というのは,どこか漫画的な設定でユーモアがあって,人物の掘り下げ(特に女性)が少し薄いという印象を持っていた。特に,ロジャー・ムーアの時代の作品をよく観ていたからかもしれない。

しかし,D.クレイグが初めてボンドを演じた「カジノ・ロワイヤル」を観て私の007の印象は全く変わってしまった。007は全くのハードボイルドになったのである。

まずストーリーから滑稽さが無くなり話はドライになって,007シリーズをハードボイルドのスパイ映画へと変えた。そして女性の描き方が深くなって物語はぐっと厚みを増した。さらにこれまでの5作に連続性を持たせることによって007の世界に広がりを与えた。つまり,それまでのアクション映画から,心情的にリアリティのある大人の悲劇となったのである。

D.クレイグ演じる007のカッコよさ,それがこの映画シリーズのすべてである。もちろん,ボンドウーマンも(エバ・グリーンとか,レア・セドゥとか,そして今回はアル・デ・アルマスとか),悪役も魅力的だけれど(なんたってカジノロワイヤルのマッツ・ミケルセンが最高),それもD.クレイグのカッコよさがあってこそ。ハードボイルドな007に憧れる。男はやはりカッコよくなければならないなぁ。

しかし,彼が007を演じると決まった時にはあまり期待する声はなかった。むしろ批判的な声が多かった。でも当時の彼は今の彼とは全然違う。人はペルソナをかぶることによって変わるというが,彼は15年にわたりジェームス・ボンドを演じることによって彼自身も変わったのかもしれない。ただ彼も年をとった。映画の中のボンドも年をとった。今回の結末は仕方ないのかもしれない。

次のボンドは誰が演じるのだろうか。D.クレイグのこれまでの実績がかなりのプレッシャーになることは間違いないだろう。


#余談だけれど,客の多くが私よりも高齢であったことに驚いた。007というのはそうした長い歴史があるのだとあらためて思った。しかし,そのせいか,(1) 通路を挟んで隣の人がいびきをかいてずいぶん最初のころから寝込んでいた,(2) 途中でトイレに立つ人が非常に多かった,などのことがあった。自分も165分という長さに,ちょっとトイレが心配だったけれど。

#個人的には,次のボンドはトム・ハーディがいいなぁ

2021年10月3日日曜日

占いは「呪い」だ!

 人は言葉に縛られる,ということについて,もう少し書きたい。

人は完全な自由思考ということができないようだから,自動思考のために信念とか教条とかにしたがうことによって思考の負荷を減らして毎日を生きているように思える。「そう学校で習ったから」,「テレビや動画で言っていてから」,「あの人がそう言っていたから」という言い訳がそれを示している。

「あの人がそう言っていたから」というのは,著名人や権威ある人の言葉である場合もあるけれど,好きな人,尊敬する人の言葉である場合も多い。それが良い影響を与えるものばかりであればよいのだけれど,人の心を傷つけるものであったり,一生背負っていかなければならない重たいものだったりすることもある。だから私は人にアドバイスしなければならないときには,特に気をつけている。

しかし,思考の負荷を軽くするために,私達はついつい人の言葉に頼ってしまう。最近の「占いブーム」はそうしたことが原因になっているのではないかと,私は思っているのである。

私達はなぜ占い師の言葉を容易に信じてしまうのだろう。それにはすぐ次のような理由が考えつく。

1.そもそも占い師の言葉に頼ろうとして訪ねるから

2.「よく当たる」とか「有名人が通っている」,「テレビに出ている」などの事前情報にに影響されているから

そして,占い師のテクニックがある。

3.「コールドリーディング」によって,自分の関係する事柄について「当てられている」と思わされてから,未来に関わる言葉を与えるから

4.与えられる言葉は,「このままだとだめになる。こうすれば救われる」のように,幾分「脅迫」の要素を含んでいるから

以上のような理由で,占い師の言葉を信じてしまうのだと思う。しかし,この占いのプロセスって「呪い」とほとんど変わらないのではないか,と思いついた。占い師は,ある意味「呪い」を客にかけているのだ。その客は,その後占い師の言葉に縛られて,そして時には恐れを抱いて毎日を生きていかなければならないのだ。

「呪い」と「占い」の違いは,「呪い」は自分の知らないところで,あるいは自分が嫌がるのに,かけられる(言葉で縛られる)ものであり,「占い」は自らが進んで言葉をもらいに(言葉に縛られに)行くものである点である。でも結果は一緒のように見える。

「占い」ブームは,いいかえれば「呪い」ブームではないのだろうか。そんなものが流行る世の中はちょっと心配なような気がする。


2021年10月2日土曜日

言葉は「言霊」であり,「呪い」である

 「呪いは呪われたと思いこんだら負けだ!」ということについて書いたけれど,結局のところ,人間は言葉をもったときから,言葉に縛られることになってしまったのだ。

人間が言葉を使って抽象的な思考をするようになり,その思考や感情が人間の身体と精神に影響を与えるという事実がある限り,言葉による「呪い」(のろい)は存在してしまう。それは「言霊」(ことたま)でもある。

残念ながら人の無意識は善悪を判断せずにどのような言葉も受け入れてしまう。だから他人の言葉によって自分の考えや感情が左右されてしまうし,催眠術や暗示も成立してしまうのだ。そして自分が用いる言葉についてももっと気をつけるべきなのだ。積極的な言葉を使うべき,という教訓はもっと真剣に受け止めるべきである。

「呪い」も「のろい」と読めば闇の技術であるけれど,「まじない」と読めばもっと生活に活用できるものになる。

この世界は暗示と催眠にあふれていて,それらは言葉によって制御されている。

(言葉だけじゃないけど。言葉以外による暗示についての考察はまた別の機会に)


2021年9月28日火曜日

呪いは呪われたと思い込んだら負けだ!

 私が注目していた「准教授・高槻彰良の推察」。とうとうSeason 1が最終回を迎えた。本当の怪異を求めていた准教授 高槻と学生 深町の二人のバディは最終回でとうとう「本物」に出会うことになる。

死者を迎える盆踊りに二人は参加し,死者たちにその代償を求められるのだけれど,そこで二人は,「山ぶどう」,「タケノコ」そして「桃」を死者たちに投げ与えて難を逃れるというストーリー(「死霊の盆踊り」という映画も昔あったが)。話の中で前半,高槻がそれぞれの食べ物を集めていくのを見て,もちろん私は「ははーん」と黄泉平坂のくだりを思い出していたのだけれど(知らない人は「古事記」を読んでください),二人が盆踊りに集まった死者たちから逃げるときに叫んだ言葉が,

呪いは呪われたと思い込んだら負けだ!

である。ああ,また同じフォーマットだ,と思った。

このことについては以前にも映画「さんかく窓の外側は夜」において書いたけれども,「呪い」が存在するかしないかに関わらず,「呪い」が心理的な影響を与えるためには相手が「呪い」をかけられたということを知らなければならない,ということは結構人々の間に信じられているのだな,と思った。ちなみに「さんかく窓」では全くオカルトを信じない刑事には「呪い」は通用しないという設定になっている。

今回の「准教授・高槻」でも,二人は(幽霊を前にして)心を強くもって手をつないで逃げ出すことになった。結局,人の悪意に対抗するためには強い心が必要だ,ということなのだろう。これがこの物語がもつメッセージのひとつなのかもしれない。

今回,このドラマで伊野尾慧の演技になぜかしら強く惹かれた。少し浮世離れした話し方があの美貌にふさわしかったからなのだろうか。そして,私は岡田結実がいつのまにかきれいな女性の役が似合うようになったことに一番驚いた...

♯Season 2はWOWOWで放送だそうだ...

2021年9月7日火曜日

鈴虫の音色は電話では聞こえない

 家の近所を歩いていたら,鈴虫の鳴き声(本当は鳴き声ではないけれど)が聞こえた。もうすっかり秋なのだなぁと思うと同時に,あらためてその音色の美しさに感心した。非常に高くて薄い音だ。リーン,リーンと聞こえる虫の音に,耳をすますこともずいぶん久しぶりだな,ともしみじみ思った。

鈴虫の音は電話で伝えることができない,というのは結構有名な話である。これをネタに,犯人のアリバイを崩すようなミステリーが何度か繰り返し作られているような気がする。例えば,「相棒」。そして「SPEC」。電話の向こうから鈴虫の音色が聞こえたなどと,犯人はすぐにばれる嘘を言ってしまうのである。

電話の音声周波数帯は300 Hz ~ 3400 Hzだという。どうも多重化のために高い周波数の音がカットされているらしい。一方,鈴虫の音色は4000 Hz ~ 4500 Hzほど。電話では聞こえないことになる。

ちなみにモスキート音は,20000Hz付近の音らしい。私にはもう聞こえない。鈴虫の美しい音色はいつの年齢になっても聞こえるようでありたいものである。

2021年9月6日月曜日

黒い蝶

 昨日,川沿いの土手の上にある細い道を散歩していたら黒い蝶を見つけた。その道は両側に雑草が生い茂っていて人が通れる幅が狭く,そしてよくよく気をつけて地面を見ていないとオレンジと黒と白の派手な色の毛虫を踏みつぶしてしまいそうだったのだけれど,ふと目線を上げてみると黒い蝶が細道の真ん中をまるで私を道案内するかのように飛んでいるのに気づいたのである。

気になってその蝶を見ていると,しばらくまっすぐに道の真ん中を飛んでは左右の草むらの中に紛れてわからなくなってしまった。そこでまた私は毛虫に気をつけながら下を向いて歩いた。そしてふと目線をあげるとまた黒い蝶が私を導くように道の中央を飛んでいるのを見つけるのである。そんなことが3~4回繰り返された。

同じ蝶が私を導いているのか。そうも思ったけれど,同じ種類の違う個体の蝶だと考える方が自然である。

しかしそのとき,私は10年以上も前に亡くなった父のことを考えながら土手を歩いていた。だから,その黒い蝶はあちらの世界からやってきた私の父なのではないか,などと思ったのである。

小林秀雄がエッセイで,蛍が飛んでいるのを見て,自分の母親が蛍となって自分を訪れているのだと感得する話を書いている。死者が蝶となって自分を訪れる,というような話もどこかになかっただろうか。

蝶はなぜか,死者を思い起こさせる。そしてその後をついていきたくなってしまう。あの羽ばたきがなにかしらの催眠効果を与えるのだろうか。どんな理由でもよいけれど,蝶を見て昨日,私は父を思い出した。そしてそれによって心が慰められたのである。

2021年8月28日土曜日

嘘がわかる超常能力の可能性について

テレビドラマ「准教授・高槻彰良の推察」がいい感じである。伊野尾慧の少し浮世離れしている感が学者らしくていい。話し方もどうも感情が入っているのかいないのか,ヘンに地についていない。そんな彼がたいへん魅力的なのである。

伊野尾くん演じる民俗学者である高槻は都市伝説などから本当の超常現象を探し求めているのだけれど,物語の語り手である彼の助手(神宮寺勇太)は,人が嘘をついていることがわかるという特殊能力をもつ設定になっている。助手の能力が超常現象を探し求めるときに,超常現象を主張する人たちの証言の真偽を判断するのに大きな武器になるのは想像に難くない。

ドラマの中では人が嘘をつくとき,助手の神宮寺くんはその声が歪んで聞こえるという表現になっている。これが面白い。ドラマの中ではその能力のために助手の彼は,人を信用できないという生きづらい毎日を送っているのだけれど,実際そんな便利な能力は存在するのだろうか。

実は,私はそうした能力を持つ人はいてもおかしくないと思っている。今回はそんなことを書いてみたい。

そもそも人は噓をついたら身体的反応があるものだろうか。「嘘発見器」があるくらいだからそれはあるに違いない。嘘発見器は,血圧,心拍,声などの変化(もしかすると皮膚の電気抵抗?)などを検出して,発言者の緊張を判断するものだと推測される。最近では,携帯電話を使って声紋などから判断するものもあるようだ。

つまり人間のセンシング能力が,それらの検出器と同等の検出精度があれば嘘を見分けられることになる。人間のセンシングは意外に高いと私は常々思っている。視覚,聴覚,嗅覚,触覚,味覚の五感の感度は,専門的な測定器に比べれば能力は低いように思うけれど,感度が低いのは人間の顕在意識の方であり,実は潜在意識の方は相当な量の五感からの入力を得ているのではないかと思っているのである。ただその情報を100%顕在意識に入力すると,たぶん脳の処理能力がパンクしてしまうので,五感からの情報はかなりの量をフィルタリングされて減らされているのではないかと考えている。

潜在意識に入力された情報は,通常時には顕在意識上にあがらないしきい値以下の強さで処理されているけれど,それがなんらかの危険を予知するものだったり,重要だと潜在意識が判断した場合には,その信号がしきい値を超えて顕在意識が察知することになる。

しかし,複数の刺激が統合されて新たに生み出された「嘘をついている」という刺激に対する感覚器はないから,脳はなんらかの形でその信号を認識する必要がある。そのときに「嘘」が「声が歪む」という形で認識されてもおかしくはないと思うのである。もちろん,「色」や「味」として認識されても構わない。要は,その人がわかりやすい感覚に変換されて認識される可能性があると思うのだ。

「人の嘘を聞く」→「五感をもちいてセンシングされた(時には複数の)信号を統合し,嘘だと無意識が判断する」→「信号が統合されたのちに得られた新たな感覚(判断)が,顕在化されるしきい値を超える」→「「嘘」という新たな刺激が顕在意識が認識可能なあらたな感覚に変換される(写像される)」→「(ドラマの場合)「嘘」という刺激は「声が歪む」という形で認識される」ということがドラマの設定では起こっていると推測できるのである。

「人のオーラが見える」などという話も,同様のプロセスが起こっている可能性があると思う。統合された(たとえば健康状態や精神状態に関する)判断結果を表現する五感の感覚がない場合,脳がその情報の度合いを(形而上の新たな感覚といっても良いと思う)色や光やその大きさなどの視覚情報で表し,それを顕在意識が認識しているのではないかと私は仮説を立てているのである。これは音を色で感じるような「共感覚」的な認識なのではないかと私は思っている。

ということで,私はそんなことを思いながらドラマを見ているわけで,民俗学的なテイストといい,私の好みのアイテムばかり。そんな「准教授・高槻彰良の推察」を興味深く見ずにはいられないのである。

2021年8月25日水曜日

素晴らしい自然をバックにスケートボードに乗る!

 オリンピックにおける選手の活躍を見て,あらためて人気が盛り上がるスポーツがあるのは間違いない。私が今回競技を見ていてやりたいと思ったのは,「空手」ではなく,「スケートボード」である。非常に若い人たちが世界のトップに立って活躍している。素晴らしい競技である。

ただし,今回のオリンピックのパフォーマンスを見て,スケボーというのは体操やフィギュアスケートのようにやはり競技者の体重が軽い方が有利なのではないかと思った。となると,デブで年寄の私にはちょっと難しいかな,と思う。スノボーでさえ怖くてできないし。

それでもスケボーには憧れがある。なんといったって,「バックトゥザフューチャー」(BTF)で,主人公のマーティが乗るシーン!過去に行ったときは,まだスケボーはなかったから子供のおもちゃの乗り物のハンドルを取り外してスケボーにして乗りまわす。これがカッコいいんだなぁ。

未来に行ったときは,ご存じ有名なホバーボードに乗る。これは反重力装置でもなければ実現しないと思っていたけれど(映画の中でのマーティが訪れた未来は2015年だったけれど),今から5,6年前にレクサスだったかな,高温超電導体を用いた浮上を用いたホバーボードが開発されていたのを覚えている。もちろん,決められたルートの上しか移動はできないのだけれど,「まぁ,よくやるよ」との感想を持ったのも覚えている。本当のホバーボードは,どういう原理を使ったら実現に近づくかさえも思いつかないけれど,素晴らしい夢の乗り物だと思う。

ということで,スケートボードで映画といえばやっぱりBTFが一番有名だろうけれど,私が印象的だったのは「LIFE!」(原題:The Secret Life of Walter Mitty,ベン・スティラー監督・主演)である。内容は,大人のファンタジーなのだけれど,とにかく背景で描かれる風景が素晴らしい。主人公は雑誌(LIFE)社のさえない男性なのだけれど,スケボーの腕は素晴らしいことになっている。ある男を探して世界中を旅することになるのだけれど,このシーンではアイスランドでロングスケートボードに乗って雄大な自然の中,坂道を下っていくのである。風を切る主人公の姿が素敵だ。本当に主人公は気持ちがよさそうなのだ。彼はさえない空想家なのだけれど,旅の中で現実の世界でも自分が十分に素晴らしい人間であることを知る。夢がある映画だ。私は大好き。

話がそれたけれど,スケボーを始めるのならば,少年のように夢を見たい。でも実際は,転んだ時の痛みを想像して腰が引ける。私はもう夢を見れないほどに年老いたのか。

#最近,ベン・スティラーを見かけないなぁ。少し寂しい。

2021年8月9日月曜日

トランジスタはほろ苦い?

 今更,という感じだけれど,最近,一十三十一(ひとみとい)というアーティストにはまっている。彼女の作品を知ったのは,NHKの「タリオ」という浜辺美波,岡田将生が主演,そして「TRICK]のテイストそのもののドラマの主題歌だったからである。

ちなみにこのドラマ,浜辺美波の魅力全開だっただけでなく,岡田将生の能力の高さを感じさせる佳作だった(岡田将生出演のドラマにハズレなし)。たぶん,いつか続編が制作されるものと期待している。

さて,この番組の終わりには,(たぶん永井博の)イラストをバックに,この一十三十一の「悲しいくらいダイヤモンド」という主題歌が流れる。イラストでいうと永井博とか,わたせせいぞうとか80年代のキラキラした感じの作品づくりをしている。それが耳に残る。歌声もユーミンに似ているような,そんなに音域も高くない感じでたいへんに心地よい。

そして,ちょっと(かなり?)歌詞がちょっとヘンなところが魅力なのである。出だしは,

青い渚のカブリオレで 飛び去る二人は

悲しいくらいダイヤモンド やさしく奪って

という感じで,普通な感じだけれど,途中に

BABY BABY BABY IT'S YOU ほろ苦い トランジスタ

という歌詞が出てきて,???となる。どういう意味なんだろう?トランジスタってラジオのことを言っているのかな。でも耳にキャッチ‐である(と思うのは電気工学者だけ?)。いいなぁ,「ほろ苦いトランジスタ」。食べたことないけど,たしかにほろ苦そう。

最近,City Popというジャンルが話題だけれど,一十三十一の作品もそのひとつと言えるのだろう。耳当たりの良い曲は,この暑い夏にぴったりである。

2021年8月8日日曜日

民俗学者になりたかった

 今ではこんな職業に就いてしまっているけれど,私には高校・大学時代と心惹かれる職業があった。それは,「民俗学者」。柳田国男や折口信夫みたいに,フィールドワークをして各地の民話を収集することが夢だった。

日本のあちらこちらの地方をまわり,おじいさん,おばあさんから昔話(民話)を聞く。それを生業として生きていけたらどんなに幸せだったかと今でも思う。現実には,それは大変難しいことは重々承知だけれど。

不思議な話というのは,これまで村々に伝わる昔話,伝説が主であったけれども,現代においては都市伝説なんてものもフォークロアに含まれるようになって,ますます興味深い状況になっている。その伝説が成り立つために必要な背景,事件,人間の行動,そしてそれを支えるテクノロジー(SNSなど)などを考察すると,本当に面白い。特に私はオカルトが好きなので,実話怪談などが大好物である。

私が好きな漫画のひとつに「妖怪ハンター シリーズ」(諸星大二郎)がある。主人公は別に特別な能力をもつヒーローではなくて,民俗学者(学会からキワモノ扱いされているが)稗田礼二郎(と,最近ではその教え子)で,各地の不思議な現象に巻き込まれていく話である。ちょくちょく民俗学的な話も盛り込まれていて,マニアにはたまらない作品になっている(二作映画化されている。主演はそれぞれ沢田研二と阿部寛。いつかその話も…)

民俗学の漫画といえば,星野之宣の「宗像教授シリーズ」も忘れてはいけない。やはり民俗学者である宗像教授が世界のあちこちの超自然的な現象に巻き込まれていくストーリーで,妖怪ハンターシリーズと双璧をなしている(私的にですが)。

そしてここからが本題。「准教授・高槻彰良の推察」というTVドラマが始まった。主人公 高槻は民俗学の准教授。伊野尾慧さんが演じている(伊野尾さんもとうとう主役を演じるまでになったか,と感慨)。怪異現象を推理して解決していくというミステリー(ホラーではない)。人のウソがわかってしまうもうひとりの主人公の学生も素敵な設定だ(人が嘘をつくと,声がひずんで聞こえてしまうという能力。これはありうる,という話もいつか書きたい)。一回目のテーマは「コックリさん」。こんなところは,妖怪博士と呼ばれた井上円了を思い出す(ちなみに井上は長岡出身です)。もっとグレーな感じでドラマが進行していくことを望む。。。

とにかく,古来の伝承というのは夢がある。人間の無意識が反映されている。昔から神話が好きなのも,こうした理由からなのだろう。ドロドロとした人間の欲望が反映されるのが伝説なのではないかと思っている。

2021年7月15日木曜日

停電が復旧するときには

 昨日の夕方,大学の上空が厚い雲に覆われ,酷い雷雨に見舞われた。連続的に雷光と雷鳴が鳴り響き(決してヨハン・シュトラウスの「雷鳴と電光」のように気持ちのよいものではない),ガラス窓がぶるぶると震えていた。

ひどい天気だなぁ,と思いながらもPCに向かっていたら,プツッと突然暗くなった。そして静寂。雷のために停電したのである。すぐに復旧するかと思ったらなかなか復旧しない。私はPCのデータを心配した。

実は夕方から私がホストとなってオンライン会議をする予定だったのだけれど,停電で始めることができなかった。まぁ,なんとかノートPC引っ張り出して,スマホのテザリングでネットにつないで40分ほど遅れて会議を始めることができたけど(デスクトップPCの中にあった会議資料は使えずじまいだったけど),とにかく大変だった。電気がないと本当に困る。

会議後しばらく研究室の学生と,薄暗くなっていく部屋の中で電気の復旧を待っていたのだけれど,そこで私が驚いたことは,学生が

「停電から復旧するときって,どんなふうになるのかな」

という話をしたことである。「いや,普通に電灯がつくだけだけれど」と答えたのだけれど,そうなのだ,学生たちはめったに停電を経験していないから,復旧の瞬間どうなるのか知らないのだ。そのことに私は感動した。それだけ日本の電力会社は素晴らしい。まあ,北海道出身の学生は数年前のブラックアウトを経験しているから動じていなかったけれど。

結局,復旧には3時間ほど要したらしいのだけれど,どんどん暗くなっていく中で仕事もできないので昨日は早くに帰宅した。自宅は全然電気に問題なし。早く帰宅したことに少し罪悪感を感じながら,昨晩はゆっくりとすることができた(とはいっても20:00頃の帰宅だったけれど)。停電もたまにはいいかもしれない。




2021年7月1日木曜日

西洋人の幽霊には仏教のお経は効かないのか

 一体,幽霊はいるのかどうか。

個人的には存在してほしいと思うのだけれど,残念ながら今のところそうした証拠はないようである。しかし,幽霊は私たちの頭の中に存在する,となると,その存在はかなり可能性が高くなると思われる。

私たちが脳内で幽霊のイメージを構成するのである。他人には認識はできないけれど,イメージを脳内で構成している人にとっては,その幽霊は現実となんら変わらない存在である。すなわち,会話もできるし,私の心身に影響を及ぼすことも当然できる。そうした幽霊は物理的ではないのかもしれないけれど,確かに存在し,私たちの心身の健康を害すことも可能なのである。

幽霊がそのような存在であるならば,それを形作っているのは私たちの顕在意識の知識・経験と,私たちがその存在さえ認識できない潜在意識下の経験・知識である。それらを材料として,幽霊は構成されている。いや,私たちの心が自律的に構成しているのだ。

私たちが作り上げた幽霊なのだから,それは私たちが考えるルールに従っていると考えられる。幽霊が瞬間移動したとする。私たちはそんな動きは思いもかけないというかもしれないけれど,実は無意識はそうした動きを肯定しているのではないだろうか。幽霊はそういう動きをするものだと,幼いころから無意識下に思い込まされているのではないだろうか。そうした洗脳は日本文化の中で生きているのだから仕方がない。幽霊とは物理法則に従わないものだと心のどこかで思っていて,その無意識が「こんな動きをしたら怖いだろうな」と思ったら,あなたの頭の中の幽霊もそのように動くのである。だから怖いのである。

西洋の幽霊があなたの頭の中で構成されたとする。彼(彼女)には,お経が効くだろうか。

それはあなたの知識と経験次第なのではないだろうか。あなたが心のどこかで(無意識で),どんな幽霊にもお経は効果があると思っているならばお経は幽霊に効くだろうし,日本語がわからなそうだからお経は効かないだろうと心のどこかで思っているならば,効かないことになるだろう。夢の中を支配するルールと同じなのではないだろうかと思う。

だから,つきぬけて楽天家の人の幽霊は怖くないのかもしれない。どんな幽霊が出てくるのか,それは私たちの心の状態を映し出す鏡になるのだろう。

2021年6月27日日曜日

呪詛が相手に届くためには

 呪詛の言葉が相手に届くためには,同じ文化的背景を持っている必要であるのではないかというお話。

どんなに怖い呪いの言葉を吐いても,相手が理解できなければ相手に影響を及ぼさないように思われる。例えば,アフリカの部族の言語で私に呪いの言葉を言われたとしても(もちろん言い方がおどろおどろしかったり,怖い顔して言われたりしないことが前提だけれど),私が理解できなければ私には影響は及ばないのではないかと思うのである。

「藁人形」を見て怖いと思うのは,「藁人形」が呪いの道具であるという知識があるからである。つまり,それを見て術者と共通の負のイメージをもつことが前提となっている。もしかすると異なる文化的背景を持つ外国の人が藁人形を見たとしても,子供の遊び道具としか思わないかもしれない(私が釘がハリネズミのように刺されたブードゥーの呪い人形を見たら,残念ながら負のイメージを持ってしまうけれど)。あるアフリカの部族では墓をたてるという文化がないのだという。そうした人にとっては,日本の墓地は別に怖くないだろう。すなわち,私たちは共通の文化的背景を持っていることが前提で暗示的な言葉を遣い,行動を行うのである。

文化的背景というのは,各人がもっている情報空間と言ってもいいかもしれない。同じ文化の中で育ってきた人は,多くの共通した知識・情報によって脳内に情報空間を構築しているに違いない。その前提のもと,私たちは相手の意識に影響を及ぼす言葉を遣い,行動するのである。

暗示や催眠は,相手との共通な情報,感覚,感情などを手掛かりに相手の意識を相手に自覚させずに少しずつ動かしていく技術ともいえるのではないだろうか(もちろん,催眠の驚愕法のように瞬時に相手をトランスに入れる方法もあるがスマートではないと思う)。武道に通じていてたいへん興味深い。

2021年6月26日土曜日

言葉が人に影響を与えるということ

 言葉が人に影響を与えるという事実は,意外に軽く考えられているように思う。たとえば,「がんばれ!」という励ましの言葉だったり,「好きです」という告白であったり,そして,「失せちまえ!」のような脅しの言葉だったり,そうした陽に人に投げかけられる言葉であればその人に影響を与える,ということはわかりやすいが,実はそれだけではない,意識されない言葉も人には影響を与えるという事実を人は見過ごしているように思われる。

例えば,活気づいている居酒屋に友達と入ったとする。このとき,私が「にぎやかだね」といえばポジティブな方向に気持ちが向いていくけれど,「うるさいな」といえばネガティブな方向に偏っていく。私が意識的にそうした言葉を用いれば,友達の気分を私の思う方向に導いてくことも可能となるだろう。そしてうまくすれば友達は私がそうしたコントロールを試みていることに気づかないのだ。このようなことは日常会話において頻繁に行われている。私の相槌のやり方ひとつで,話している相手の気分を左右できるのだ。

もっと意図的に相手を誘導する技術もある。例えば,ミルトン・エリクソンなどに代表される現代催眠がそうだ。術者は普通に会話しているだけで相手をトランスに入れてしまう。相手は無意識のうちにいつのまにか導かれているのだ。相手の目の前で振り子を揺らすようなものだけが催眠術ではない。

エリクソンは患者にある文章を読ませるだけで,頭痛などの症状を改善できたという。もちろんその文章には,患者の気分がよくなるようなワードがちりばめられていたのだけれど,「あなたの頭痛は治っていく」などという明示的な指示はない。あくまでも顕在意識に気づかれず,潜在意識に直接届くようなワードを用いるのである(顕在意識に気づかれれば少なからず拒否反応が起こりやすくなってしまう)。

現代催眠はこのようにまさに言葉によって相手の潜在意識を動かそうとする技術なのだ。しかし「現代」とはいうけれど,いにしえから伝わる「魔術」なども潜在意識の操作を目的としているようなものだから,技術としては古くから存在しているのだと思われる。宗教儀式,修行などもその延長線にあるのかもしれない。この人間の心理とオカルトとのあいまいな境界に私は強く惹かれている。


2021年6月25日金曜日

さんかく窓の外側は夜(2)呪いのルール

 「さんかく窓の外側は夜」という映画の話の続き。

この映画の中では,平手友梨奈が操る「呪い」は,オカルトを信じない人には効かないというルールになっている。そのため,オカルトを全く信じない滝藤賢一演ずる刑事には,平手の呪いが届かないというのが面白い。そういえば滝藤賢一は「残穢」というホラー映画でも,オカルトを信じない小説家(主人公のミステリー作家の夫)を演じていたりする。現実主義者が似合う役者なのだろう。

実際に物理的な「呪い」があるのかないのかわからないけれど,心理的に影響を与える「呪い」というのは確かに存在すると思う。思わせぶりな言葉や現象が続けば,信じやすい人は何らかの影響を感じるだろうし,暗示的な効果もあるだろう。その道具として呪い人形や呪符などがあればなおさらである。人のむきだしの悪意を感じた時に,よい気持ちになる人は少ないだろう。

ただ上記のようなものが呪いというものだというのであるならば,呪われているということをその人が認識しなければその影響を受けることがないように思われる(あくまでも人の呪いが物理的な影響を及ぼさないという前提で)。そして,元来まったくそうしたものを信じない人であるならば,「誰かに呪われている」と認識したとしてもその影響を受けることはないだろう。たぶんそれがこの映画のルールになっている。

「言霊」も基本的には同じルールで働くのだと思う。しかし,言っている本人が信じる,信じないを別にして言葉は無意識に働きかけてくる。言葉が善であろうが悪であろうが心は無条件にそれを受け入れてしまうのだ。それは言葉で思考する人間の業である。自分は大丈夫だと思っていても確実に言葉は心と身体に影響を与えてしまう。だから言霊なのだ。他人はともかく自分には確実に影響を与える。私たちはもっともっと使用する言葉に気をつけなければいけない。

(面白いテーマなので,私の備忘録的に趣味で記事書いてます)

2021年6月22日火曜日

さんかく窓の外側は夜

 本当にひさしぶりに映画を観た。やっぱりエンターテインメントはいいなぁ。心が潤うような気がする。

観たのは,

「さんかく窓の外側は夜」

キャストは,志尊淳,岡田将生,平手友梨奈,滝藤賢一という私好みのラインナップ。そして映画はホラーというのだからたまらない。

正直もう少し怖いストーリーを期待していたのだけれど,ライトなオカルトホラーな映画だった。原作を読んでいないのでよくわからないのだけれど,確かにBLの要素もある。イケメンのバディものなので,女性に人気が出そうなのもよくわかる。

私としては,平手友梨奈が素晴らしいと思った。彼女は呪いを扱うダークな存在なのだけれど,どこか純粋な部分も感じさせる不思議な女の子を演じていた。画面に出てくるだけで,雰囲気をつくることができる稀有な存在なのだとあらためて思った。今後も楽しみ。

ストーリー的には,ホラーミステリーなのだけれど,ミステリー要素がもう少しあってもよかったかなと思う。あるいはもっと悲劇的な要素があってもよかったかも。

この作品の世界観としては,「穢れ」(負のパワー)を用いて「呪い」をかける,というルールになっている。こうしたルールが私は好きだ。

映画の中では,言霊についても言及される。それは呪いでもある。しかし,言祝ぎでもある。人の潜在意識は善悪の区別なく言葉に影響されてしまう。言葉をどう使うかは,そしてどう受け止めるかはその人次第,その仕組みがわかった人がこの世界を理解できる。人は言葉をつかうようになって,抽象的な概念によっても心身に影響を受ける(臨場感をもつ)ようになった。すなわち,言葉によって,人の内部の情報空間に影響をあたえることができるようになった。それは顕在意識に対しても潜在意識に対しても,そして作為的にも無作為的にも可能であり,なにげなく放たれた言葉であっても,自分を含む周囲の人間の思考と行動に影響を与え続けている。

人類が言葉を使い始めたと同時に,呪い(まじない,のろい)と言祝ぎ(ことほぎ)が誕生した。この世の中は言葉でできている。こんな世の中がたいへん面白い。


2021年6月3日木曜日

干からびたエンジンにガソリンが必要

「若いころには」と,つい言ってしまうようになった。コロナウィルスによる自粛のため,運動不足にもなってしまって,体力が落ちている。身体が重い。なんとも。

身体を動かすことを始めなければと思う。これまでは運動をしよう,稽古をしよう,とやる気を出すために,映画,テレビドラマ,小説,漫画などを役立てていたのだけれど,最近はそうしたエンターテイメントに触れる機会さえも減ってしまっていて,本当にキッカケがない。

これではいかぬ。

ここにきて,心と体をアクティブに動かそうと思う。夏に向けてたるんだお腹を引っ込めよう。私はこの干からびたエンジンを動かすためのガソリンを探している。

2021年1月2日土曜日

2021年の目標

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

私としてはめずらしいのだけれど,本年の目標を書いてみようかと(仕事を頑張るというのは別にして)。

【今年の目標1:叶えたい夢を見つける】

最近気がついてゾッとしたのは,私には夢がないかもしれないということである。夢に向かって何かをする,ということが欠けている。「旅行がしたい」とか,「〇〇を買う」とか,そういったものがない。「誰かに会いたい」ということもない。こんなに夢のない自分は,薄っぺらい人間ではないかと恐れている。小さなことでいいから叶えたい夢を見つけるのが今年の目標のひとつである。

【今年の目標2:身体を鍛える】

数年前まで私が人生で最も強くなるのは50代半ばだと思っていた。しかし,職場を異動してからどんどん私は弱くなっていることを感じている。体力も技術も。ここで一回クサビを打たなければ,と思う。少しずつでいいからプラスとなるように身体を鍛えようと思う。「千日の稽古を鍛といい,万日の稽古を錬という」といきまいていたのが遠い昔のようだ。

【今年の目標3:心を鍛える】

いろいろな行法がある。

【今年の目標4:エンターテイメントに多く触れる】

映画をたくさん観る。ドラマも多く観る。本はなんとか読む。音楽もゆっくり楽しみたい。


他にもあるけど,とりあえず有言実行を目指してここに記しておく。

桜を見ると思い出す

桜が満開である。 研究室でも花見BBQが行われ、まさに「花より団子」 、学生はだれも桜など見ずにひたすら食べることに集中していたけれど、食べづかれた私は桜をぼんやりと見ていた。 学生の一人が 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と梶井基次郎の文章 について話していたので、そうい...