究極のコミュニケーションとは「相抜け」か?
究極のコミュニケーションとは格闘技における試合ではないかと思っている。 ボクシングや空手,柔道などの試合を見ていると,相手と向かい合うときにヒリヒリとした緊張感が伝わってくる。誰が間合いを破って仕掛けるのか,どんな戦略で来るのか,そんなことを読みあっているのかもしれない。 武道における試合とは,本来生死をかけた真剣勝負であり「死合」である。だから合氣道では試合は禁じられていると藤平光一先生もおっしゃっていた。ルールがあって,勝負に終わりがあるスポーツ的な試合ではなく,命のやり取りをする試合だったとしたらどうだろう。相手は何をやってくるのかわからない,もしかすると武器を持っているかもしれないという状況の中で間合いを取り合い,相手の出方を読む。 このとき,全身全霊で相手に集中する。相手の一挙手一投足,そして一呼吸にまで気を遣う。こちらから相手の出方を探るのではなく,むしろ相手と一体化する。これは気の合う仲間と行うリラックスしたコミュニケーションとはまったく逆の状況であるけれど,極限まで相手とひとつになろうとするのは,ある意味究極のコミュニケーションなのではないかと思うのである。それも命を懸けた。 試合の結末はどちらかが命を落とすまでか,あるいは「相打ち」で双方が命を落とすかの二つであるならばなんと殺伐としたものだろう。究極のコミュニケーションの結末は常に悲劇的であるなんて。 しかし,ある流派がこの問題の解決を提案している。それは「無住心剣流」の「相抜け」である。この流派では,死命を決する,あるいは「相打ち(互いに斬り倒す)」で終わる畜生剣法ではなく,どちらも生き抜いて終わる「相抜け(互いに斬り合わず、刃を交えずに生き残る)」を究極の目標としている。そしてこのときの境地を「聖」と呼んでいる。 私は最初にこの流派を知った時には,まだ私も若かったこともあって崇高な目標に感激したものである。開祖 針谷夕雲と二代目小田切一雲が立ち合って「相抜け」を実現したときには,夕雲は一雲に向かって香を焚いたとされ,宗教的な意味もあったのだと思われる。しかし,この流派は実法よりも心法にはしりすぎたところがあって,全盛期は一万人以上の門下生がいたといわれるにも関わらず,失伝してしまったらしい。また三代目 真里谷円四郎と二代目小田切一雲が立ち合った際には「相抜け」とはならず,円四郎が一雲...