2026年3月1日日曜日

丹田に関わる修行法について

 「丹田」という概念が武道の修行において重要視されているが,修行する武道などによって説明が異なっており,それぞれの方法において異なる解釈がされえちることがわかる。しかし,「丹田」という概念は,東洋において,武道に関わらず精神や心の修行に重要であることは共通であるようで,その概念や修行法においては多くの類似点が見られるようである。

「丹田」は「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと区別されることもあるが,たとえばこれらの概念は,インドのヨガなどで言われる「チャクラ」の概念に近いと思われる(多くの人がそう思っているだろう)。人体においてチャクラは,尾骨,仙骨,胃,胸,喉,眉間,頭頂付近に計7つ存在するといわれていて,それぞれ生命力や感情などを司ると言われている。ヨガや呼吸法などの修行法はこれらの「チャクラを開く」ことを意識して行われる。最近では「チャクラ」という概念はヨガの普及とともにかなりメジャーな概念となっている。もしかすると「丹田」は知らなくても「チャクラ」は知っているという人の方が多いのかもしれない。

こうしたチャクラの開発においては体内のエネルギーの循環を意識して修行されるが,その修行法に類似しているものが,中国道教(気功法)における「小周天」という気をめぐらす功法である。体内の経脈にしたがって気を循環させるのだという。気の循環を天地と行えば「大周天」となるらしい。体内にエネルギーの循環をイメージする点では同じである。

そして日本にはもっと静的な修行法として禅がある。これは丹田をしずめて瞑想することが指導されるようで,あまり体内のエネルギーの循環を意識するということは聞いたことがない。しかし,剣豪 白井亨が行ったといわれる白隠禅師の練丹の法「軟酥の法」は「軟酥」の移動を意識するのでなにかしらのエネルギーを移動するイメージが使われているといえ,やはり修行法に共通点があるように思われる。

結局のところ,体内のエネルギー(のようなもの)の循環を意識するという修行法は東洋においては普遍的なものであり,普遍的であるということはこれらの修行法の実効性が高いということを示しているといえるだろう。

ただし,これらの修行法にはどうも危険が伴うらしい。ヨガにおいてはチャクラの開発においてクンダリーニが暴走してしまい,心身に不調をきたすことがあるらしいし,道教においても修行において気の循環が暴走すると「走火入魔」と呼ばれる状態になって心身を害するといわれる。安全そうな禅でさえ,「禅病」と呼ばれる心身の不調の危険性があるのだ(「軟酥の法」は白隠禅師が禅病から回復するために行った練丹の法と言われている)。

人間の心は,私たちが思っているよりも身体と密接な関係があり,そしてかなり脆いということが,私がこれまでの稽古を通して実感したことである。心の修行は,ちゃんとした師について行うことがやはり望ましい。

2026年2月28日土曜日

丹田という概念

 私が稽古している合氣道では,「丹田」ではなく,丹田を一点に集約した「臍下の一点」という体内の点を重要視する。すなわち「臍下丹田」の「臍下」であり,臍下三寸くらいのところと教わる。しかし,一般的にはそこまで細かいことを言わず,「丹田」全体に言及する武道が多いだろう(丹田を重要視するのは武道だけではないけれど)。

「丹田」は通常はこのように下腹の部分を指し,よく,大事な時には「下腹に力を入れろ」などと言われたりする。しかし,この丹田という概念が実はあいまいなのではないかと思っている。そもそも「丹田」という概念を言い出したのは誰なのだろう?

この「丹田」も「上丹田」「中丹田」「下丹田」などに分かれて解説されることがある。私の理解では,「上丹田」は額の中心の「天帝」とも呼ばれる場所(お釈迦様の白毫の位置)であり,「中丹田」は「膻中」付近の場所,「下丹田」は下腹である。それぞれ心や気の修行には重要であるとされているが,昔の武芸書を読んでみて「丹田」ではなく「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと分類されているものを見たことがない。これらの概念は誰が言い出したものなのだろうかと不思議に思っている。もしかすると近代以降,中国やインドの知識が入ってきてからの概念なのではないかと考えている。

さて,私が稽古している心身統一合氣道では,力を抜くことを重要視する。普通に丹田を意識すると確かに下腹に力が入りやすい。それは面積をイメージするからである。意識するのが点であるならば力の入れようもなく,全身の力も抜ける。なので「臍下の一点」に心をしずめるのである。たいへんよくできた指導であると思っている。









2026年2月23日月曜日

宝石商が本物を見分けるための修行の話

 以前にも書いたけれど,いかにも人生の大事なことを示しているような例え話が嫌いである。誰かの名言というのは好きだけれど,どこの誰が話したかもよくわからなくて若者を大人がだますような感動話というのが嫌いである。いや,個人的にはそうした話を収集するのは大好きなのだけれど,自分自身はそうした話に安易に納得するのが大嫌いなのである。

以前に書いた「壺と大きな石,小さな石」の話が典型的なのだけれど,今回はまた別の話を紹介する。

伝統ある宝石商における修行の話。その店では新入社員に,持ち込まれる宝石のどれが本物でどれが偽物かを見分ける方法については具体的には教えないのだという。その新入社員にはただひたすらに本物の良い宝石だけを見るようにさせる。そのうちに修行年月が経つと偽物を見たときに本物とどこかが違うとおのずとわかるようになるのだ。という話。

これはある武道の先生から伺った話である。すなわち,本物の技を見て練習していれば,おのずとインチキで偽物の技を見分けることができるという教えであった。

私はこの話を聞いたときに,なぜ宝石商の例え話を出してくるのかと思った。最初から武道の技の話として話せばよいのに,と思っていたのである。この話が示している内容はある意味真実であると今では理解できているけれど,その当時は宝石商の例え話に嫌悪感をもったことを覚えている。また,初級者に教えをありがたさせるための話だ,などと思っていた。

しかし,現在では,嫌いではあるけれど例え話の目的も少しは理解できるようになってきた。それは私の講義の中の雑談と同じである。教科書の内容ばかりを講義しても学生の記憶には残りにくい。ところどころに雑談を交えて,そのくだらない話にバインドさせて重要なことを覚えやすくするための工夫なのだ。実際に私もこうしてこの宝石商の話を覚えている。そしてこの話を思い出すと,本物を見る修行の重要性もまた思い出されるようになっているのだ。


#藤平光一先生が話された千利休の話もよく覚えている。この話には嫌悪感はあまり抱かない。たぶん内容は同じでも誰が話すかということが大事なのだろう。酒場で同じ話を聞いても心に残る度合いは全く違うだろう。





2026年2月22日日曜日

刺身にあうお酒とは

 長岡に来て,日本酒を飲む機会がぐっと増えた。それまで日本酒は少し遠ざけるところがあって,あまり注文することがなかったのだけれど,長岡に来てスッキリと美味しい日本酒を飲めるようになって,すっかりその魅力にハマってしまった。いまでは刺身や煮魚などの日本料理を見ると日本酒の味を思い出して喉がゴクリとなるほどである。

こう思うと,日本酒は刺身や煮魚,焼き魚によくあうお酒なのだとあらためて思う。実は私はビールでこれらの料理を食するのも大好きなのだけれど,刺身とビールの組み合わせが苦手な人もいることについては理解できる。日本料理には日本酒一択という人も多い。

私も刺身などには日本酒かビールを合わせることが多い。一方で若い人によく見かける刺身にチューハイやハイボールを合わせることは苦手である。ましてソフトドリンクとして,コーラやオレンジジュースで刺身を食べているのをみると,彼の口の中に広がるであろう味をついつい想像してしまって,「うっ」となってしまうのだ。その甘い飲み物と刺身の組み合わせはないだろう。ウーロン茶などならよいと思うけれど。。。

いつだったか,子連れ狼などの原作者で知られる小島一夫が,

日本の大人の男には、「金を持ったにすぎない子供」の男が多過ぎる。大の男の暇潰しが課金ゲームではいけないし、コーラで飯を食ってもいけないし、聴いているCDに握手券が付いていてもいけないのである。大人の男として扱われたいのなら、大人の男になれ。いつまでも、少年のフリは出来ないのだ。

とツイートしていたのを思い出す(ネットで調べました)。日本酒と刺身の組み合わせの素晴らしさに気づくには味覚の成熟が必要なのだと思う。私も長岡に来てから成熟中なのかもしれない。



2026年2月21日土曜日

大人の舌と胃袋の老化

 苦いものの美味しさを理解できるようになって,大人の舌になってきたと思うようになったのは30歳を超えたくらいの頃だろうか。ビールに限って言えば,22歳の頃にはあの苦みがたまらなくなっていたけれど,その他の料理,たとえばフキノトウとかセリなどの苦みが美味しく感じられるようになったのは30歳を超えたくらいの年頃だろう。

一方で,たんぱくな味を美味しく感じるようになったのは40歳くらいだろうか。たとえばタイやヒラメ,フグ(めったに食べたことはないが)などの刺身,湯葉やこんにゃくなどは,どういう味なのか説明はできないけれど,美味しく感じられるから不思議だ。

一方,脂を身体が受け付けなくなりつつある。魚の白子も今はそれほど量を食べたいと思わなくあったし,ホッケやノドグロなどの脂ののった焼き魚も少量で十分である。もっというと,すき焼きなんかは,2枚目の肉からはあとは食べることが「修行」となってしまうし,ステーキや焼き肉も,A5ランクの霜降りのお肉よりも赤身が美味しく感じられるようになってしまった。これが胃袋が年をとるということかと実感している(最後の砦であるトンカツもとうとう量が食べられなくなりつつあるし)。

この先,仙人のようにカスミしか食べられなくなるのではないかと心配しているが,コレステロール,中性脂肪の値はいまだ高いので,まだまだ修行は必要なようだ。

2026年2月15日日曜日

バツ印がみつからない

 最近は老眼が進んで小さな文字が見えづらくなってきた。特にスマホでブラウジングなどしていると,書いてある文字が見えづらくなる。だからiphoneの私はよく拡大機能を使ったりしている。年は取りたくないものである。

もっと困るのが小さな記号が見えないこと。具体的にいうと,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないことである。

ブラウジングをしているとページを移行した際に,広告のウィンドウなどが勝手に開かれることが多くある。それはなにか商品の広告ページであったり,数秒のCMを見るとブラウジングを続けられるであったりとか,とにかく次のページを読みたい私にとっては邪魔するものたちなのである。

最近腹が立つのは,こうした広告ページが開かれた際に,ウィンドウのCloseボタン(バツ印)が見つからないことである。例をあげると,

  • 「バツ印」がそもそも小さくて見つからない
  • 「close」と書いてあるけれど,その文字がウィンドウとは全然異なる位置に表示されている
  • あるいは「close」がページの端かド真ん中の位置に表示されていて見つかりにくい
  • 「close」の文字や「バツ印」がわざと広告の図の中に重なって表示されて見つかりにくい
  • 背景を透過色のグレーにして,「close」の文字もグレーで表示される   などなど

とにかくひどい。ReadabilityというかVisibilityというか,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないのである。もうイライラしてしまう。

若い人を見ていると,それでもちゃんとスムースにcloseボタンを見つけて次のページに移動しているようなので,やはり老化による対応の悪化なのだろう(若い人でもときどき怒ったようにスマホの画面を指でたたいている場面を見ることがあるから,老化とばかり言えないのかもしれないけれど)

PCであってもcloseボタンを探すのに苦労する。この先,もっと複雑な表示になっていったら,もう私などは対応できなくなるだろう。Webページのデザイナーはもう少し,老人にやさしいページ作りをして欲しいと切に思う。

2026年2月14日土曜日

「人間力」という言葉が嫌い

 私が嫌いな言葉に「人間力」がある。「人間力」とはなにか定義がはっきりしていないのに,あたかも人間としての魅力を測るような能力としてちやほやされている,偽善的な言葉にしか感じられないのである。

人を惹きつけるというのであれば,「人たらし」という言葉があるし,コミュニケーションが上手であるならば「社交的」という言葉がある。「人間力」などというあいまいな言葉を使うことによって,あたかも素晴らしい能力であるかのような印象を与えている。そうやって一種「煙に巻く」ための手段として使われている場面にあうと,「あー,また騙している」と思ってしまうのである。

こうした「いかにも」といった話は,ビジネスのスキルアップのような話の中ではよく出てくる。私はそういった人生訓のような話を聞くと,「フン」と鼻で笑ってしまう人間なのだけれど,実はそうした話を聞くのは好きだったりする。なぜならば,どんな教訓が人間に響くのかと考えられてその「うまい」話が作られているのか,なかなか興味深いからである。

たとえば,壺と大きな石,小さな石の話。壺の中に石を順番に入れていく際に,小さな石から入れていくと,大きな石が入らなくなってしまうという話。この石は目標,願望であり,目の前の小さな目標に心を捉われてばかりいると,人生にとってもっと重要な大きな目標がたっせできなくなってしまう,という教訓の例え話になっている。

もちろん素晴らしい話なのは認めるのだけれど,私はやっぱり鼻で「フン」と笑ってしまうのである。そんな単純な話ではないのに,身近な例が人生の深淵につながっていると思わせる手法である(実際は日常の些細なことが重要なことにつながっているのは真理だとは思うけれど)。いかにも啓発セミナーにありがちな話なのである。

人生の経験を積めば,現実がそんなに単純でないことは身に染みてわかっている。だけれども人間は話を単純化し,そこに教訓を求めようとする。人間は,単純化されたものを好むから仕方がないのだろう。現実は複雑で,複雑なことをありのまま複雑に受け止めればよいのに。。。

単純化された教えは,単純であるがゆえに強いものになって,自分を縛るだけでなく,周りの人にも強制し始めることもしばしばである。どこかの宗教の教義のように。

私たちは,複雑なことを複雑なまま受け止める訓練をしなければならないのだと思う。AIが発達したとしても,矛盾をそのまま受け止めるような,清濁併せ呑むような,そんな実世界との向かい合い方が必要なのだろうと思っている。その間口の広さ,奥行きの深さこそが人の深みであり,「人間力」なのだろう。

丹田に関わる修行法について

  「丹田」という概念が武道の修行において重要視されている が,修行する武道などによって説明が異なっており,それぞれの方法において異なる解釈がされえちることがわかる。しかし,「丹田」という概念は,東洋において,武道に関わらず精神や心の修行に重要であることは共通であるようで,その概...