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五感に合わせた対話テクニック

 人には,優先的に用いる感覚(モーダル)があるという話をした。また視覚,聴覚,触覚(体感)を優先する人の会話には,使用する言葉に特徴があることも話した。(※ 前回の記事の続きです ) 人とのコミュニケーションにおいては,相手がどのタイプのモーダルを優先的に使っているかを判断することも,良いプレゼン・説明をする際に有効なテクニックである。 例えば相手のリーディングモーダルが視覚であるならば,「どのあたりが見えにくいでしょうか?」とか「見通しがつくのは1週間後です」など,視覚に関わる言葉を使って会話を組み立てたりする。このようにすることによって,相手も理解しやすいように説明を進めることができるのである。 もちろん,対話によるコミュニケーションはこのテクニックだけでなく,複数のテクニックを適宜使用して,良好な関係を築くようにする。人はそれほど単純ではないのだ。 では,多人数を相手にする講演などの場合にはどのようにすればよいか,となるけれど,各モーダル向けの言葉を含めるのである。全方面に対応した言葉のトッピングの「全部乗せ」をするのである。 ただし,私がこれらのテクニックを駆使しているかというと全然そんなことはない。そんな駆け引きをする対話よりも,心のままに自由に言葉を紡いでいくような対話こそが理想だと思っているからである。 ※このあたりの話はNLPなどが詳しいと思う。

CMの『耳たぶを引く仕草』から考える記憶術と、年齢とともに変わる五感の優先度

 最近,女性が自分の故郷の松山の名所をめぐるホテルのCMがよく流れてくるのだけれど,そこでその女性が行う動作が非常に興味深い。きれいな景色の前で右の耳たぶをまるでカメラのシャッターを押すように引っ張るのである。たぶん写真を撮影するのと同様,その景色を心の中に画像として残したい,ということの例えなのだろう。 しかし,この動作は実際にも脳に画像を記憶させようとするときに有効なテクニックとして私は以前から知っていた。耳たぶをカメラのシャッターを押すように引っ張ることによって,見ている風景を画像として記憶させようとすることの「アンカー」(特定の状態を呼び起こさせるためのトリガー)として働かせるのである。その動作を行うことによって,画像をはっきりと記憶しようとする意志が働く。繰り返し行っていけば,習慣化し身体に染みつくのである。 私も以前はこのテクニックを使っていたが,最近の記憶力の衰えがその効果を減少させてしまった。たぶん画像として記憶に残すための脳のコストが大きすぎるのである。だから最近は,人が話す音声や,あるいは言葉の意味として記憶することが多くなってしまった。コンピュータのデータの記憶容量と同じである。音声データの方が動画や画像よりも記憶容量が少なくて済む。 人には,五感のうち優先的に使用している感覚(リーディングモーダル)がそれぞれに存在する。だから視覚が優勢な人,聴覚が優勢な人,あるいは触覚や体感が優勢な人がいる。もちろん,これらの感覚が複合的であることが普通なのだけれども。一般的に,視覚が優勢な人は頭の回転が速く,早口で話す人が多い。「このプロジェクトに光が見えてきた」とか「見通しが立ってきた」など,視覚に関する言葉を使うことが多いと言われている。一方,聴覚が優勢な人は「心に響いた」「変化を奏でる」などの言葉を使い,体感が優勢だと「腑に落ちた」とか「胸が痛い」などという言葉を使いがちだと言われる。 私は以前,視覚優勢だったけれど,現在は聴覚・体感が優勢になっている。以前から聴覚もそこそこ優勢であると自覚していたけれども,先にも述べたように老化とともに画像を覚えることが難しくなってきているからだろう。だからCMの女性のように記憶するテクニックがそれほど有効でなくなっているのが寂しく,悲しく感じられる。 最近は名前だけでなく会った人の顔も覚えられなくなりつつ...

池上遼一の劇画を思わせる映画~『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』~

  トワイライト・ウォリアーズ 決戦! 九龍城砦 (2024) を鑑賞。これは,1980年代の九龍城砦を舞台にした香港のアクション映画である。封切時,香港で観客動員数が歴代1位となり,日本でも話題になっていたので気になっていたのだけれど,ようやく最近観ることができた。 まず開始からの映像のトーンを観て思ったのは,まるで漫画のような色使いだということ。背景を含め全体が暗い色調でまとめられており,各登場人物の影が強く描かれている。漫画の中でもこれは「劇画」を思わせる。そう,例えれば池上遼一の描く黒社会の世界。ちょうどストーリーも80年代後半,返還以前の香港の九龍城を舞台としている。雑多とした臭ってきそうなスラム街に美しく力強く生きている人々の物語だ。 ストーリーは単純である。仁義と友情と復讐。少年ジャンプのような男劇画の王道を行く展開である。女性はほとんどストーリーに出てこない。ただただ黒社会の派閥の野望と闘争が男くさく描かれる。これが潔くていい。 なぜこの映画がそれほどの人気作になったのかという点もここにあると思う。魅力的な男たちによる,老人たちと若者たちの新旧交代,力と力による覇権争いの単純なストーリー。魅力はストーリーではなく,そこに描かれている登場人物たちによって醸し出されている。 アクションも漫画チックである。ありえない格闘シーンで思わず苦笑してしまうほど。しかし,この大袈裟ぐあいこそがこの映画の魅力のスパイスになっていて,ストーリーが深刻になりすぎるのを防いでいる。この味付け具合が劇画調の画像にマッチしていて絶妙である。またこの男たちの必死さが女性にも魅力として届いたのではないだろうかと思う。 そして,スラム街ではあったけれど活気にあふれていた九龍城と,闘争と友情にあけくれた黒社会の喪失に,映画監督ソイ・チェンはノスタルジーを感じているのは間違いない。 さて,この映画には続編があるらしい。どちらかといえばB級といえる本作ではあるけれど,もしも公開されたら観に行きたい,そんな風に思わせる男たちの劇画映画なのである。 #余談だが,音楽は「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(1995年)を手掛けた川井憲次が担当していて,そのせいか,ダンシングヒーローやモニカといった80年代の懐かしい曲が劇中で流れてくるのがうれしかった #もうひとつ題名に...

「手を出すときは心に情けを残すな」――夢の中のフルパワーから考える心の修行

 私は睡眠中の夢の内容を覚えていることはあまり多くないのだけれど,ときどき夢の途中で目を覚ますことがある。そういうときは夢の内容を覚えている。 こういう場合に見ていた夢はだいたい誰かと格闘をしていることがほとんどである。身体が動くこともあって,目を覚ますらしい。こうした夢の中の格闘は現実のものとは大きく異なる。それは,技に心理的なブレーキがかかるかどうかである。 実生活でもしも格闘をすることがあったら,破壊的衝動に心理的なブレーキがかかって,これまで稽古してきた技を100%の出力で使うことはないだろう。相手に技をかけることも難しいし,たとえ完璧に技を行えたとしても相手を壊すことは無意識にでも避けるだろうから,たぶん心のどこかでリミタをかけてフルパワーでの技は行わないと思う。 しかし夢の中は違う。無意識下においてはやはり起きているときと違っているらしく,破壊的衝動を開放してリミタをかけずにフルパワーでの技をかけてしまうのである。そのことに罪悪感を感じない。そのために夢の中では,相手の顔面をフルパワーで殴ったり,投げ技を危険な角度で使ったりしてしまっている。本来これらの状況はあってはならないものである。現実には絶対避けなければならない。そう,夢の中であっても避けなければならないのだ。これはひとえに私の心の修行不足なのだといえるのだろう。 漫画「拳児」に紹介されていた武術家の心得を示した言葉がある。 「手を出すときは心に情けを残すな。心に情けが残る時には手を出すな」 つまり,私は夢の中では心に情けを残さないらしい。夢の中で解放される衝動に日頃からどう付き合うか。そうした心の修行が必要である。

柴田理恵がとにかく最高!映画『来る』の対決準備シーケンスとお祓いシーンに痺れた話

 以前から観たかった映画 「来る」 (2018)をようやく観ることができた。結論からいうと期待通りの面白さだった。しかし,ネットをみてみると高得点のレビューとは言い難い評価が多いようだ。そのあたりの理由も含めて,私の感想をまとめてみたい。 まず,この作品には「ぼぎわんが,来る」というホラー小説大賞を受賞した原作小説があるのだけれど,映画ではこの「ぼぎわん」という化け物が実体となって出ることはない。この映画はそうした面で怖がらせるという感じではなく,あくまでも発生する怪奇現象を描いて恐怖感を与える。ときどきぐにゃぐにゃした物体のイメージの画像が流れるのも恐怖を煽らせようとしているのだろうけれど,私にとっては怖くもなく少し理解不能な印象であった。真っ暗な映画館内で見ていたらと違った印象になっていたかもしれないけれど。。。 そう,この映画はホラーなのだけれど,怪奇現象によって浮かび上がる人間の心の嫌な面こそが怖いのだ。私はSF小説においては特殊な設定下だからこそ描ける人間の物語があると思っているのだけれど,この作品はホラーという設定下だからこそ人間関係の裏側を浮かび上がらせることができているように思う。ぼぎわんから与えられる恐怖が,日頃の欺瞞や嫉妬,虚栄,後悔などをあぶりだしていく。妻夫木聡,黒木華,岡田准一,青木崇高がそれぞれイヤーな部分をうまく演じている。 作品は3つのパートに分かれていて,最初が妻夫木演じる夫の視点,次が黒木演じる妻の視点,そして最後はライターとして事件に関わった岡田の視点からそれぞれ語られていく。そこに青木が演じる民俗学の准教授が絡んでくるのだけれど,どの登場人物も観ていて気分が悪くなってくる。しかし,この映画においてこうして描かれる人間の嫌な部分が,ホラー映画を期待してきた観客の心情を裏切ることになり,評価が低くなっている理由になっているのではないだろうか。最後の結末も理解不能な意外な終わり方だったし。 では,この作品の見どころはどこかというと,間違いなく霊能者集団とぼぎわんとの闘いである。もっというと,闘いのための準備のシーンがめちゃくちゃカッコいい。松たか子演じる最強の霊能者が声をかけて,神職や巫女,ユタや研究者までを集合させてぼぎわんと対決しようとするのだけれど,日本全国から集結していくところや祭壇を作っていくところの過程などのカッ...

気分がアガる曲「大江戸捜査網テーマ曲」~死して屍拾う者なし~

 このブログでは元気がない時に気分がアガる曲をときどき紹介していて,以前には ブルックナーの交響曲3番第4楽章 や 「影の軍団メインテーマ」 を紹介した。今回は知る人ぞ知るという曲を紹介したい。その曲は, 「大江戸捜査網テーマ曲」 である。「大江戸捜査網」というのは江戸時代の隠密同心の活躍を描く時代劇で,人気だったためか何作かシリーズ化されていて,主人公も杉良太郎,里見浩太朗,松方弘樹と交代しながら長年続いた作品である。 新潟ではなぜか日曜日の昼間に放映されていた記憶があって,私が小学生の頃,父親と一緒に毎週のように見ていたような気がする。 番組のクライマックスで,隠密同心4人くらいが悪人を倒すために横に並んで道を歩いていくシーンがあったように思うのだけれど,そこで次の名ナレーションが入るのである。 「隠密同心 心得之條 わが命わが物と思わず 武門之儀 あくまで陰にて 己の器量を伏し 御下命 如何にても果すべし 尚 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし」 これが本当にカッコよくていまでも空で言えるくらい覚えている。最後の「 死して屍拾う者なし」の部分が繰り返されるのがいいのだ。小学生の私でさえ憧れるシーンであった。 そしてテーマ曲の話。時代劇なのにこの曲はアップテンポの西欧風のなんとなく複雑な拍子で演奏される。私は吹奏楽というのをあまり聞かないのだけれど,この曲は非常に魅力的だ。「大江戸捜査網」自体がずいぶん古い番組なので今はあまり聞かれることがないけれど,埋もれるのがもったいない本当に良い曲なので,一度耳にしてほしいと思う。そしてぜひ気分をアゲるためにドライブのお伴に連れていって欲しい。

一度見た映画、一度行った場所。時間を置いて「再訪」する本当の面白さ

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 本を再読することが重要であるという話をときどき見聞きする。年月を経て再読すると,内容の感じ方や興味をもつ部分が変わっていて,あらたな魅力を感じることができるし,自分の成長を実感することができる。 たとえば小説の場合,はじめて読んだときには主人公に共感し寄り添ってストーリーを読んでいたものが,年齢を経てから読むと主人公よりもその周囲の登場人物に思い入れをもったりする。その変化が自分の成長を感じさせてくれる。 映画だってそうである。私が初めて「グッド・ウィル・ハンティング」(1997)を観たときにはやはりマット・デイモン演じる主人公の心情に心を寄せたけれど,2回目に観たときには,ベン・アフレック演じる主人公の地元の少しガラの悪い友達が主人公を快く送り出す姿にすがすがしさを感じてたいへん感動した。初回ではそれほどでもなかったのに。私の中でなにかが変わったのだろう。 本や映画だけではなく,場所を再訪することも同様に面白いことに最近気づいた。今年の夏,水戸の偕楽園を再訪する機会があった。私は大学卒業後,茨城県那珂町の日本原子力研究所に勤めていたので偕楽園にはなんども足を運んでいたのだけれど,研究所を退職して以来,たぶん20年以上ぶりに訪れたことになる。 久しぶりに訪れた偕楽園はひどく暑かったけれど,過去の思い出と照らし合わせながら庭園の散策を楽しんだ。以前は気にしなかった庭園から徳川斉昭が建てた好文亭を見る眺めや,好文亭最上階からみた千波湖の景色に,強く心を惹かれた。年齢を重ねて歴史背景に思いを馳せる余白が生まれたということだろう。江戸時代の人たちはこの場所からコンクリートの建物など無い風景を眺めていたのかと思うと少し感傷的にもなった。 小説や映画のような作品同様,こうした場所を再訪することも,過去の自分と比較して,あらためて現在の自分の立ち位置を確認できるのだとしみじみ思った。 「もうあの場所は行ったことがあるから」と再訪することを最初から除外することはもったいないことなのだと思う。むしろ再訪することによって自分を知ることができるのだから。 好文亭から望む千波湖 好文亭のカフェで休憩することもできる