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SNSのおかげで対面のコミュニケーションのハードルが高くなってきている

 現代はSNSが発達し,コミュニケーションの方法が多岐に渡っている一方で実はそれぞれのコミュニケーションの質が落ちているような気がしている。 InstagramやTikTokなどを用いて私たちは数十年前にはできなかった画像や動画付きの発信が容易にできるようになった。しかしそれらはどうしても発信者からの一方通行であることが多く,受信者からの情報が発信者には届きにくい。 双方向コミュニケーションでいえば,以前の音声だけの通話に比べ現在はビデオ通話ができるではないか,という意見もあるだろう。確かにビデオ通話は大きな進歩である。例えば,祖父母と孫がいつもビデオ通話できていれば,実際にあった時に孫が「このおじいさん,おばあさんは誰?」と戸惑うこともないだろう。音声だけでなく,表情や身振りは電話では伝えることができない重要な情報である。 双方向のやり取りができるものとして最も使われているのは,LINEなどのテキストベースのツールだろう。しかし,こうした文字だけのツールではどうしても伝えきれない気持ち,雰囲気がある。送るテキストの不十分な短さがそれを増長している。だから顔文字みたいなものが発明されてきた。 結局,こうしたデジタルデバイス(電話はアナログだけれど)を介したコミュニケーションでは伝えきれない情報があり,そのためにいろいろな問題があることをみな毎日のように痛いほど経験している。 しかし,一方でこれらのデバイスに頼れば対面でコミュニケーションをとらなくて良いので気が楽なのも事実である。対面で謝るよりもテキストで謝った方が楽であるとか,テキストメッセージの方がこちらの様子が伝わらなくて都合がいいという場合も多々ある。いや,実際には対面でコミュニケーションをとるよりも,ずっとテキストベースの方が楽である場合の方が多い。それはこちらが伝える情報が対面よりもずっと絞られるからである。 こうして考えると,対面でやりとりされる情報がいかに多いかを思わざるを得ない。私たちは「 メラビアンの法則 」をあげるまでもなく,話の内容だけでなく,相手の身体の姿勢や表情・視線,身振りなどの視覚情報や,語調や声の高さ,スピードなどの聴覚情報によって,コミュニケーションを成立させている。テキストメッセージ(言語情報7%のみ)がいかに楽で、逆に対面(残り93%の非言語情報も処理)がいかに脳に負担...

白Tシャツで挑むカレーうどんと、あの夏のカレーの思い出

 テレビのCMではないけれど,夏になるとカレーライスが食べたくなる。それもちょっとスパイシーなカレー。食べるとしばらくして額に汗が浮かんでくるような大人の辛さが好きである。 日本人にはカレーライスを大好きな人が多い。「カレーは飲み物」といまだに言っている人もいるし,カレーを食べながら,「おどば阿蘇山たい!怒ればでっかい噴火山たい!」と叫んでいる人もいる(いや,いない)。昔は給食の人気メニューだった。おかわりのためにナベの前に子供たちが列を作っていたものである。いまでも子供たちの好きな給食メニューにカレーは含まれているのだろうか。 こだわりのカレーを提供する店も多くてそれぞれの店に特有の味がある。学生時代は古本をさがしに東京の神田をウロウロすることが多かったけれど,神田は古本だけでなくカレーの聖地だった。ちょっと一杯の値段は張るけれどいろいろなカレーを試すことも神田の楽しみだった。 渋谷にはボルツというお店があって,たしか辛さ30倍くらいのカレーも提供されていたような記憶がある。激辛カレーのはしりだったと思うのだけれど,そこで出されるトウガラシのピクルスなどさえも辛かった(チャツネは甘辛かったけれど)。今もボルツはあるのだろうか。 私が住んでいた自由が丘では,自由が丘デパート(?)2階にあった「レインボー」というお店によく行っていた。卵カレーを食べていたかな。スパイシーということではなかったけれど飽きの来ない味だったから(そして値段もそこそこだったから),ときどき訪れていた店だった。以前自由が丘を訪れた際に思い出してレインボーを探してみたけれど,残念ながら見つけることはできなかった。 一方,新潟では万代バスセンターのカレーが有名だ。典型的なそば屋が出す黄色いルーのカレーで,真っ赤な福神漬けと合わせて,昔ながらの味が提供されている。私が食べたのはミニサイズだったけれど,それでお腹がいっぱいになるくらいだったからコストパフォーマンスも良い。店に行くと長い人の列ができていて驚くけれど,基本,立ち食いなので席(?)の回転率は良く,意外と早く順番が回ってくる。昭和のカレーライスが好きな人にはぜひおすすめである。 ここまで私の好きなカレーライスについて話してきたけれど,実はカレーうどんも大好きである。ただカレーうどんも最近は高価格になってきた。東京駅の古奈屋というチェーン...

筋トレに本当に必要なのは「S・M・N」の三要素?昔の自分が鏡の前で学んだこと

 最近,24時間営業しているトレーニングジムがあちらこちらにできたり,マッチョな芸人が増えているのを見たりしていると,現在は相当なトレーニングブームなのだなと実感する。それだけ健康志向が強まっているのだろう。まぁ, トレーニングは自己肯定感を上げるために行うものであって,ダメな生活への免罪符である と思っているから,それだけつらい毎日を過ごしている人が多くなってきたということなのかもしれない。また他のレジャーに比べ時間が縛られず,比較的安価に続けられることも理由のひとつなのだろう。 私も大学時代,一時期ウェイトトレーニングに熱中していて,バーベルやダンベルなどのフリーウエイト,そしてドラゴンフラッグなどの自重トレーニングを,毎日のように行っていた。そして鍛えられた身体を鏡に映して悦に入っていたものである。 その頃, トレーニングにはS・M・Nの三要素が必要 だと思っていた。 まず,Sとはサディズムである。トレーニングとはどれだけ自分を苛め抜けるかという精神力が必要であると思っていた。肉体を苛めることに快感を感じるようになれば最高である。ウエイトを増やし,自分を苛める。この傾向がなければトレーニングは始まらない(現在のトレーニング理論では少しでもやりすぎるとコルチゾールが筋肉に悪影響を及ぼすことが知られているけれど)。 次に,Mとはマゾヒズムである。肉体を苛め,つらさや痛みを感じることが快感になるところまで自分を洗脳する。ゾクゾクして身体に与える負荷を増やすようになれば,トレーニングは自然と進む。 そして最後のNはナルシズムである。私はこれが一番大事な要素だと思っている。なぜならトレーニングで大切なのは全身がうつる姿見の鏡に毎日自分の身体を映してチェックすることだと思っているから。トレーニング後にパンプアップした全身の筋肉に惚れ惚れする。あるいは風呂上りに,大胸筋をピクピクと動かしたり,脂肪がそぎ落とされた腹斜筋にうっとりしたりするのだ。この自己陶酔が続く限り,トレーニング熱は続く。肥大していく筋肉こそ自分ができる人間であることを感じるようになったら,もう万全である。 ではなぜ現在,私はトレーニングを続けていないのだろうかと考えてみる。それは,S,M,Nのどの要素も昔に比べて自分の肯定感に影響を与えなくなってしまったからではないかと思われる。特に,N(ナルシズ...

学会の休憩時間はAIの情報交換の場になっている

 最近,学会に参加するとあちらこちらでAIの話題で盛り上がっているのを見かける。参加している学会はもちろんパワーエレクトロニクス関係のものでAIの学会ではない。しかし,会期中のコーヒーブレイクや昼休み,はては夜の懇親会まで,AIをどのように使っているか,という情報交換の場になっている。 実は,私がAIの存在を意識し始めたのはちょっと違っていて,都立大学の某先生から3~4年前からAIを使うべきだと強くお勧めをいただいていた。生成AIであるChat GPTが公開されてから一部で話題になっていたのは知っていたけれど,正直こんなに便利だとは思ってもいなかった。そして現在,ようやく重い腰をあげて私も使うようになったのである。 いくつかの生成AIを目的によって使い分けている人も多く,議事録作成だったら****,メールとの連携を考えるとXXXX,またコード生成だったらOOOOなどと便利情報を教えてくださる。おかげで私のブラウザのブックマークには,Chat GPT,Copilot,Geminiの3つのアイコンが並ぶようになった。Claudeはもう少しあとで試してみるつもりである。 私は古い人間のせいか,こうした新しいツールを使おうとする際に一応ちゃんとしたテキスト本(教科書的なモノ)を読むことにしている。AIの話を聞くと,「そんなのネットのあちこちの記事を読めば使えるようになるよ」とアドバイスを受けるのだけど,もう耄碌しているためかそうした部分部分の情報を自分の頭のなかで系統立てることが面倒になってきている。その点,本は系統立てて解説されているから脳への負担が少なくて済むのがいい。まぁ,その本でさえいまだに途中までしか読み終えていないのだけれど。 若い世代がAIへなんでもかんでも相談して依存してしまうことが問題となってきているけれど,確かにAIに頼るようになって自分の頭を働かすことが少なくなってきた。例えばメールを書くにしても説明する話題の順序などを考えなくて良いようになった。これまでそうしたことに時間を費やしてメールを書いてきたのだから,時短ができてそれはそれで素晴らしいことなのだけれど,脳が衰えてくるのも実感できている。自分の脳のアクティブさとAIへの依存のバランスを現在模索しているところである。 学会に参加するたびにAIに関する新たな知識を得て自分のレベルアップを図っ...

タンクトップのマッチョ男子学生をみると身体がむずがゆくなる

 夏になった。そして大学のキャンパスでもタンクトップを着ている男子をよく見かけるようになった。みんな発達した三角筋や上腕二頭筋を見せびらかすように歩いている(なぜか僧帽筋が発達している人はあまり見かけない)。私はそうした男子たちを見ると身体がムズムズしてくる。見ているこっちが恥ずかしくなるのだ。 私も大学時代,トレーニングに集中していた頃がある。大学のトレーニングセンターに毎日のように通って,今日は上半身の日,明日は下半身を鍛える日などと,フリーウェイトのトレーニングを続けていた。そしてちょっとナルシズムに浸っていた。たとえばスタンディングローで僧帽筋を鍛えていて,最後の回が終わるとバーベルをそっと床に置くのではなく,少し上から落として「ドン」という音をさせたりしていた(もちろん床には厚いゴムマットが敷かれていて床面は保護されていましたがあまり許される行為ではありません)。そして,バーベルが置いてあるスペースの前には大きな鏡が設置されているから,そこにパンプアップした筋肉を映して悦に入るのである。そして忘れずに牛乳でシェイクしたプロテインを喉に注ぎこむ。その頃のプロティンは牛乳に実に溶けにくく,ダマになったプロテインの粉を舌でつぶしながら飲んでいた。本当にまずかった... 大学で着ている服もノースリーブのTシャツを着たりして,肥大した筋肉が見えるような恰好をしていた。今思い出すと本当に恥ずかしい...私の黒歴史である。トレーニングをしていると自分の身体に自信を持つようになり,そうした筋肉を見せる服装をしがちであるけれど,若さゆえの自己顕示欲でしかない。その忘れ去りたい思い出がたぶん現在のマッチョな男子を見るときにむずがゆさを引き起こしているのだろう。 そんな私の筋トレライフはある日突然終わりを迎える。修士学生の頃,合氣道の師範に「三浦君,ウェイトトレーニングとかしているの?馬鹿になるからやめるように」と言われて,それ以来サンドバッグトレーニングと少々の自重トレーニングしかしなくなった。そして私はデブになった。

オフィスでハーフパンツを履けない、もう一つの理由

 夏の暑さが酷いので,オフィスでもハーフパンツを履いてはどうかという話がでてきている。おじさん(おじいさん)がハーフパンツを履くのは気持ち悪いという議論が持ち上がるのも仕方がないことだと私も思う。 ハーフパンツはどうもお子様っぽく見えてしまう。家では私も短パンやステテコを履いているけれど,さすがに職場では履く勇気がない。半袖のカッターシャツでさえ私は着るのを躊躇するのにハーフパンツとなると相当ハードルが高い。そもそも履きたいとも思わない。 そのうえ,私の場合はハーフパンツを履くために,エチケットとしてスネ毛の処理が必要だろう。学生時代,ローキック強化のためだといってビール瓶でスネを叩いて鍛えていたころはスネがツルツルになっていたけれど,今は毛を剃るか脱毛が必要だろう。その手間を考えるとちょっと遠慮しておきたい。 私のスネ毛はそれなりに生えていて長さもある。そのことを実感したのは,大学院生の頃。原子力学会の「若手夏の学校」で五島列島に合宿に行ったときのこと。そこでは講義の間に海を楽しむ休み時間が設けられていて,研究室のみんなと一緒にハーフパンツを履いて海へと繰り出した。海の水は本当に透き通っていて,誰もが青い海を満喫していた。私はふとスネをトントンと軽く叩くものがいることに気づいた。足元をみると小魚が波に揺らぐ私のスネ毛を海草と間違えて足の周りに集まってきていた。思いがけないスネ毛の森の訪問者に思わず笑ってしまった。それ以来,人前でスネをさらすのがますます恥ずかしくなってしまった。 ということで私はこの夏もハーフパンツをはいて人前に出ることは遠慮しておきたいと思っている。

一澤信三郎帆布の手さげかばんを新調する

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 最近,かばんを新調した。手提げのトートバッグである。これまで6年以上愛用してきたトートバッグの持ち手がボロボロになってしまったためにこのたび買い直した。 新調したのは 一澤信三郎帆布 の 手提げかばん (大)H-04である。この手提げかばん(トートバッグ)の良さは,構造がシンプルで,いろいろなモノをカバンのなかに「 ガフガフ 」気にせず放り込むことができることである。この「ガフガフ」という形容が私の感覚にはピッタリで,以前にかばん屋さんに行って,「なんでもガフガフ入れることができるかばんが欲しい」と店員さんに尋ねたくらいなのだけど,もちろん店員さんは理解できず,その後一生懸命説明した。毎日,着替えやペットボトル,その他,PCアクセサリ,A4書類など,なんでも放り込んで使っている。トートバッグは上部の口が開いているので,収納にジッパーを開けるなど頭や手を煩わせることがない。そこが気に入っている。 トートバッグといえばやっぱりL.L.Beanの製品に憧れていて,学生時代などは「メンズクラブ」や「BE-PAL」なんて読んでいたから,あのザックリと縫い合わされた生成りの白い帆布に青や赤の持ち手がついているバッグにタオルなどを詰め込んで,海やアウトドアに行くのが夢だった(実はインドア派なのでカッコだけに憧れていた)。氷や水をバケツのように運ぶことができるという機能性がカッコいいと思っていた。 一方,私が6年間使っていた一澤信三郎帆布の手提げかばんは,L.L.Beanのトートのように帆布でできているけれど白ではなく黒色であった。私はこのかばんを現在の大学に赴任する際に以前の大学の研究室の学生たちから記念品としてもらったものである。もちろん私はこのブランドは知っていたから,わざわざそれを選んでくれたことが本当にうれしかった。そして今回新調するにあたっても同じ型を選ぶことにした。 このかばんは、トートバッグとしての長所はもちろん、以下の4点ですこぶる使い勝手がいいのだ。 上部のハトメとひも: 開口部を閉めることができる(数回しか使っていないが便利)。 A4書類が縦に入る: クリアファイルを縦に突っ込める絶妙なサイズ感。 驚くほどの軽さ: しっかりした構造なのに思いのほか軽い。「かばんにおいて軽さは正義」である。 底鋲(びょう)による自立: 床に置いても自立するので...