超能力があったらいいのに。そんなことを私は今でも思う。
もしもサイコキネシス(念動力,念力)があったなら,グローブボックスなしで実験ができる。遠隔からいろいろなものが操作することができれば,wired, wirelessなどのリモートコントローラなど不要となるだろう。実験が実に簡単になる。なんてすばらしい理科学世界!
という冗談はやめにして,ハリウッド映画など見ると超能力バトルがアクション映画の見せ場になっていることが多い。巨大な岩や大きな建物が念力によって飛んでいって敵を倒す。スカッとするシーンである。
マンガでもこうしたシーンは多い。例えば超能力で人が壁に飛ばされると背面のコンクリートの壁が半球型に大きくくぼむ。その画をみて,私たちは放たれた念力の大きさを感じる。ちなみにこうした超能力表現は,大友克洋の「童夢」が最初ではないかという話を聞いたことがある。それまでの超能力は,光線のような線が主人公から引かれて何かエネルギーの放出を表していたけれど(ドラゴンボールのかめはめ波のように),大友克洋はその力が作用した側の物体の変形を描いて念力の大きさを表した。素晴らしい漫画表現の変革である。
そうした表現を用いた映画「AKIRA」の超能力シーンももちろん素晴らしいし,「幻魔大戦」の念力もスケールが大きい。アニメで再制作された「Night Head」も念力バトルになっていたし(オリジナルの豊川悦司と武田真治のドラマではガラスのコップが壊れるくらいのもう少し抑制が効いた念力だったが),最近だと韓国の「The Witch 魔女」シリーズの戦闘シーンが面白い。念力を用いた暴力のアイデア集になっている。
そうなのである。こうした表現が当たり前になりすぎて,私たちは念力バトルを想像するとそうした物体の破壊が伴う戦闘が思い浮かぶようになった。しかし,もしも念力があるのであれば,そんな大げさな戦闘をするだろうか?
私だったらそんなことはしない。またせいぜい数百グラムのものを動かすことができる念力さえあれば十分である。なぜならただ術者の脳の中の神経を少し壊すだけで十分だからである。たとえば敵の視床下部の細胞を物理的に壊す,あるいは発熱ができるのであれば,脳の一部を加熱してその機能を不全にする。それだけで相手を倒すには十分なのである。(もしも超能力を用いた物理実験をする場合にはもう少し力が必要だろうけれど)
だからもしも念力があるのであれば,世界は要人の暗殺合戦になるだろう。アメリカも,ロシアも,中国も,大統領や国家主席は決して人前に出てこないに違いない(もしかして,実は念力の術者が本当にいて暗殺を実行しようとしているのだけれど,また一方で超能力の防御者がいて暗殺を阻止しているなんて,そんな複雑な世界なのかもしれないが)。
昔,超能力者のユリ・ゲラーがアメリカ政府に超能力の仕事を頼まれたなどという話があったけれど,もしも彼が念力で人を殺すことができるのであれば,まずはユリ・ゲラーの命こそ狙われることだろう。
というような考えをめぐらしていると,残念ながらサイコキネシス(念力)の存在は不条理になって,映画のような超能力バトルは難しそうである。うーん,本当に残念。
#もちろん,物理的に念力でモノを動かすことができるのであれば,エネルギー保存則は成立しなくなってしまう(モノを動かしたエネルギーはどこからやってくるのか?)。そんな野暮なことはもちろん言わない。