最近は,物事を単純化して考えることが流行している。複雑な困難事を小さく分解して,それぞれについてそれらの困難を解決していく,というのは昔からあるデカルトの重要な教えだし,科学的な考え方でもある。しかし,物事をいきすぎて単純化することの弊害について私は懸念している。
たとえば,二分法。物事を,良し悪し,善悪,などに分解することは,判断を単純化し意思を決定しやすいけれど,二分法で考えることができるところまで困難事を落とし込んでいくまでに多くの重要なことを切り捨ててしまっている可能性があるのではないかと思う。複雑なことを分解し不要だと思われることを切り捨てていく段階で,その切り捨てるための判断基準には自分の思考のバイアスがかかっているし,決断するまでの時間的な制約もあって検討が十分でないこともあるだろう。しかし,こうした切り捨てられた多くのことの中に,実は将来を見据えた解決策のヒントがあったりすることも多いように思われる
書店に行くと,「言語化する」ことの重要性を説いたビジネス本を多く見かける。確かに人はテレパシストではないので,人に情報を伝えるためには言語化することが必須である。いかに的確に簡潔に人に情報を伝えるかというスキルはビジネスで不可欠だし,日常生活においてもその効率化においてたいへん重要なことだと思う。また「言語化」する過程において思考が深化されたり,ロジックが整理されたりするだろう。
しかし,それでも言葉で伝えられない多くの大事なことがあるのである。それを昔から「不立文字」という。特に武道においてはそうである。秘伝書にいくら言葉で技術が解説されていたとしてもそれを読むだけでは習得できない。師から経験を通じて伝承が行われ,その感覚を自分のものとすることができて,技術をようやく承継することができるのである。そこには肉体的な伝達だけでなく,心的な伝達こそが大きな役割を占める。すなわち「以心伝心」である。
(余談:中国の武侠ドラマのように武道の伝書を読むと頭の周りに金の文字が回り始め,読み終えるとすでに技を習得する,なんてことはないのである。また,映画「マトリックス」ではヘリコプターなどの操作マニュアルが時空を超えて主人公の頭の中にロードされていた。たしかにマニュアルという情報レベルであれば,将来そうしたことも可能かもしれない)
以前から世の中が単純化されることの弊害について考えている。人間は複雑なことを複雑なままに放っておけない特性をもつから仕方ないとも思うけれど,世の中の思考の単純化が進むと,どうしても世界は排他的になっていくように思う。
単純化することに終始するのではなく,複雑なことを複雑なまま受け止めるということが成熟した考え方だと思う。そして世の中のことすべてが言語化されるわけでもなく,「不立文字」や「以心伝心」という言葉の意味についてもう少し注意を払うべきなのではないかと思っている。