2019年10月10日木曜日

ヘミングウェイにとって命がけの競技こそスポーツだったのだ

ラグビーは人生ってやつを教えてくれる」みたいな記事を書いて,ヘミングウェイの言葉を紹介したけれど,実はヘミングウェイは次の言葉を残している.

スポーツと呼ぶに足りる競技は三種類しかない。それは闘牛、モーターレース、そして登山。他はすべてただのゲームにすぎない
There are only three sports, bullfighting, motor racing, and mountaineering and all the rest are merely games.

すなわち,ヘミングウェイは命をかけるものでなければスポーツと呼ぶに値しない,と言っているわけである.「いやいや,スポーツは命がけじゃないから」とツッコミたくなる言葉である.しかし,第2次世界大戦で従軍し,ボクシングをたしなみ,釣りと狩りを楽しみ,スペインで闘牛にぞっこんだった彼には,他のスポーツが生ぬるく感じられたというのも仕方ないような気がする.闘牛についてなんて,「闘牛は死の危険を犯して生み出す唯一の芸術」だとまで言っていて(出典不明でどこかで読んだだけなんだけど),死と隣り合わせなことは非モラルであるけれど興奮するといっている.そこまでやらないと彼には本当のスポーツにはならなかったらしい.

しかし,スポーツというのはそもそも語源が「気晴らし」という言葉なくらいお気楽なものなのだ.そこから考えるとヘミングウェイの言葉は厳しすぎるように思う.私も「武道」と「スポーツ」の違いを訊かれると,そもそもの始まりが違うと答えるようにしている.武道は始まりからして決して気晴らしではないのだ.

でも実際は世界のトップアスリートたちは命がけで競技に取り組んでいる.私みたいなエセ武道稽古者とくらべるのもおこがましいくらいに.そこで私はこう疑問に思う.そこまでして行う競技は「スポーツ」と呼べるものなのだろうかと.それらは決して「気晴らし」ではないのだから.

#ヘミングウェイの短編集を読んでいても闘牛を題材にした話が数多く出てくる.しかし,闘牛といえば,彼には「午後の死」という著作があるらしいけど私は読んだことがない.AMAZONを見ても,該当する本が見当たらない.いつか読んでみたいと思っているのだけれど(そんな暇あるか!),この作品に名前をとった彼考案のカクテルがあるという.この「午後の死」というカクテルは,もともとはなんと「黒色火薬」をシャンパンで割ったものらしい.今ではアブサンをシャンパンで割ったものになっているらしいけれど...

2019年10月7日月曜日

ラグビーは人生ってやつを教えてくれる

ラグビーが盛り上がっていてうれしい.気づいてみれば現在,世界陸上,バレーボールのWカップ,プロ野球のCSなどで,どのスポーツも盛り上がっている.そう,もうスポーツの秋なのだ.

なかでも私はラグビーが好きなのである.私が通っていた高校はラグビーが校技で,男子全員がラグビージャージとラグビーパンツ,そしてソックスを購入させられ,一年のうち結構な時間をラグビーに割いて練習させられていた.まぁ,その頃男子校に近かった母校もこの頃では女子が過半数を超えたというから,今ではどうかわからないけど.

ラグビーの良さは,なんといってもその肉弾戦の迫力である.運動神経がズタズタに切れている私だから,やっぱり体育は苦手だったのだけれど,それでもタックルも練習させられた.タックルマシーンにぶつかるのは楽しかったけれど,あたっても「ポスッ」っていう情けない音がするばかりだった.実は私の同級生たち(ラグビー部)は全国高校ラグビーフットボール大会で花園に行ったのだけど,彼らがタックルすると「バシーン」という硬いものがぶつかる音がした.彼らの身体は筋肉で固められているのだと思ったものである.

とにかくラグビーは,身体と身体がぶつかりあうスポーツでそこが男らしいし,倒れてしまうとプレーはできず石のように扱われても文句を言わない.それも男らしい.選手は常に傷だらけである.だからこそ彼らの笑顔は素晴らしい.そして,試合後はノーサイド.誰よりも紳士らしく振る舞う必要もある.まさに理想の男を磨くためのスポーツなのである.

ラグビーW杯の選手たちのあの超人的な身体能力と不屈の精神力を見るたびにこちらも震え立つ.年をとってすっかり忘れていた勇猛さをちょっぴり(ほんのちょっぴりだけど)思い出させてくれた.それがうれしいのである.

ヘミングウェイの言葉を思い出す.

「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし,またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ.要するに…スポーツはすべてのことを,つまり,人生ってやつを教えてくれるんだ」

私の同級生たちはテレビ番組の「スクールウォーズ」に感動し,花園に行った.

確かにラグビーは,人生ってやつを教えてくれるのだ.

2019年9月19日木曜日

疲労をおさえ,長時間働く方法

結局,毎日,長時間,集中力を持続して仕事を行うことが現代人には必要らしい.しかし,私のように歳をとって体力も落ちてくるとそれが難しくなってくる.仕事に限らない.車の運転だってそうだ.長時間集中力を持続することを困難に感じるようになってきたのだ.

では,どうやってこの老化による体力の減少をだましだまし集中力を維持するか(結局,集中力とは体力なのだと私は信じている).それについて今回は書いてみたい.

今年になって私は,関西と長岡を自動車で往復することが多くなったのだけれど,正味6時間半程度の運転が必要となる.もちろん休憩なしなんて無理である.そこでどのように休憩をとっていくか.その戦略が必要となる.

ひとつは,とりあえず行けるところまで行って,疲れたら休みをとる.それを繰り返していく方法である.しかし,遠距離になると長く運転すればするほど,疲れを感じて休みをとる時間間隔が短くなってくる.そして疲れの度合いがどんどん深くなっていく.最後の方はかなり疲労を感じながら運転をしなければならなくなってしまう.正直しんどい.

そこで私が最近とる戦略は,とにかく1時間走ったら休むという方法である.運転の最初からそのようにする.すると1時間くらいではそんなに疲れないから,最初の頃は休みが無駄なように感じてしまう.しかし,その疲れを感じないで休むということが大切なのである.次にまた1時間走って10分以上は休む.それを繰り返すのである.この方法だと結構疲労を少なく抑えることができ,集中力を維持して運転することができる.結局,関西ー長岡間の運転に8時間程度かかることになってしまうが,到着したときもまだ体力があるような気がするほど,集中力は維持される.いまのところベストな戦略なのである.

これは,人間が疲れを感じたときには,まずすでに時が遅いということを示している.そのときにはもう心身は疲れてしまっているのだ.10分程度休めば体力が回復する,というのであればよいのかもしれない.しかし,人間はそんなに都合よく短時間で体力を充電できないのである.

アスリートが,喉の乾きを感じてから水を飲むのでは遅すぎる,と言っているのに近いのかもしれない.人間のセンサの検出遅れは,ずいぶん大きいのである.

車の運転に限らず,1日の仕事時間にどのように休憩をとれば長時間集中力が続くのか,その解のひとつがこの戦略ではないかと思っている.その意味で25分間集中して5分間の休憩を繰り返すポモドーロ・テクニックはこの戦略と親和性が高いと言えるだろう.

村上春樹も執筆するとき,時間を決めておき,その時間が来たらどんな状態でも仕事を中断してその日の仕事を終えるのだと,どこかで書いていたような気がする.そのように心をハンギングした状態で仕事を一時中断することが結局は長い間,集中力と好奇心を持って書き続ける秘訣なのだろうと思う.

2019年9月13日金曜日

計画を立てるのが億劫な理由

私は計画を立てるのが苦手である.いや,正確にいうとちゃんと計画をして実行はする.しかし,計画を立てるのが億劫なのだ.計画を立て始めればちゃんとその作業をすすめることができるのだけれど,計画を立てるという作業に入るまでが,ハードル高く感じるのだ.

その原因を考えてみた.

自分を否定する大きな理由のひとつに,自分で立てた目標を達成できないというものがある.それは,すなわち,自分自身との約束を破ることである.このとき自尊心が削られる.自分はその目的に値しなかったのだと思う.そのときに自己肯定感はかなり損傷する.

もちろんその失敗の結果を次回にフィードバックするということは行う.しかし,自尊心が多少なりとも削られたことには違いがない.そのつらさを考えると自分と約束することが億劫になってしまう.それが計画を立てることに気後れする理由のひとつなのだと思うのである.

これを回避する方法はいくつかある.

その一つは目標のステップを適切な大きさにすることである.小さすぎるステップでは逆に自分の評価を自分でどんどん下げてしまうことになる.簡単,単純な作業を続けていると,意欲が下がってしまうことと同じである.

一方,そのステップが大きすぎると目標を達成できず,上記の通り自分を傷つけてしまう.イチロー選手もどこかのインタビューで答えていたのを覚えているのだけれど,つまりは,適切に頑張れば達成できる適切な目標を自分に与え続けることが成功の秘訣なのだ.

しかし,どんどんと仕事が降ってきて処理していかなければならない状況では,短時間で達成しなければならない課題が多すぎて,どうしてもステップは大きくなりがちである.そこが難しいところである.

とにかく,適切な目標を設定し,それを達成することによって自己評価を高めていることが大切である.ただそれがギリギリ達成できるほと難度が高いというのもあまりよくない.達成するには,あまりにつらい努力が必要であるということが続けば,目標を立てる際に,これを達成するために費やされる努力のつらさが先に思いやられてしまう.結局それが,現在私が計画を立てるのが嫌いということの原因なのだ.

#もちろん,適切な目標を立てないと最終的にゴールに達しないことも重々わかっているので,計画は立てて実行しています


2019年9月10日火曜日

渋沢栄一を演じた勝新太郎,役者の格

再来年の大河ドラマは,渋沢栄一が主人公らしい.お札になるという効果もあるのだろう.演ずるのは吉沢亮.しかし,端正な顔立ちな渋沢栄一というのはどうなんだろう.感情移入できるのだろうかと心配してしまう.個人的には吉沢亮は大好きな俳優なのだけど.

渋沢栄一というと,私にとって最も印象に残っているのは,映画「帝都物語」で勝新太郎が演じたものである.存在感がとにかく大きな渋沢栄一だった.映画の中では東京(帝都)を魔法陣で守ろうと画策するのだけど,セリフの一つ一つが重い.夢のような話をするのだけれど,彼の一言が重いのでリアリティを感じてしまう.帝都は風水によって霊的に守護されるような気になってしまうのだ.

勝新太郎というのは私が大好きな俳優なのだけれど,それは彼の晩年の「存在感」によるところが大きい(若い頃の座頭市の色気も素敵だけど).渋沢栄一もそうだけれど,「独眼竜正宗」で演じた豊臣秀吉もすごかった.特に小田原攻めで渡辺謙演じる伊達政宗と会うシーンなんて,彼がすごく大きく見えてくる.目が彼から離せなくなる.これが「格」というものだろう.

演技の実力だけでなく,人間としての余裕,洒脱さが大きく見させているのだろう.彼がプライベートで三味線を弾き,都々逸を唄っているチャーミングな姿が,今も忘れられない.

本当の天才は,歳をとっても天才だということを彼は教えてくれる.

2019年9月8日日曜日

印を結ぶ意味

「印を結ぶ」という動作が伝えられている武術(特に古流)がある.たとえば香取神道流とか柳生の流派とか,私が学んでいる合氣道においてもそういった印を結ぶということが伝えられている.もちろん,映画などでよく描かれる忍者などもそうかもしれないし,密教の修行者や山伏は当然のように印を結ぶ.この印を結ぶという行為にはどんな意味があるのだろうかと,個人的な考えをまとめてみる.

1.落ち着く,集中できる
だいたい印は指を組むのがややこしい形をしていたりする.それを迅速にいくつもの印を連続して結ぶのである.もしも,これから印を結ぼうとする人が,俗にいう「あがっている」状態であったら,そんなふうに迅速に印を結ぶことができるだろうか.それはたぶん難しいだろう.一方で,逆に難しい印を次々と結ぶことによって,恐怖や不安から気がそらされて集中し落ち着くことができるのではないだろうか.ここで「落ち着く」というのは,合氣道でいうところの統一の状態,すなわち集中し,臨機応変に落ち着いて行動できる状態を指す.武術のような生死をかけた状況においてこうした心の状態の持ちようは,勝敗に大きく影響していたのではないだろうか.

2.肩の力が抜ける
複雑な印を連続して迅速に結んでいくことは,肩に力が入っていてはできない.すなわち,印を結ぶときには肩の力が抜ける,すなわち落ち着いた状況になるのである.また指を組んでみるとわかるのだけれど,肩が下がるような形になっている.身体の無駄な力を抜くことによって心の状態を落ち着かせているのだと思われる.

3.宗教的な自己暗示
密教などにおいては印を結ぶときに真言を唱える.たとえば不動明王であったり,摩利支天であったり,それぞれの神様の真言を唱えることになる(武術などでは唱えないことも多いけれど).また印形もそれぞれ宗教的な意味を持っている.江戸時代や平安時代,まだ宗教心が人々の間で重要あった頃,生死をかけた危機において頼れるのは神様だったはずである.この神様を身におろす,あるいは御加護を直接受けることができる,と信じることは,非常に効果のある自己暗示であり,非常時に恐怖や不安から脱却するのに大きく役立っていたのではないだろうか.

4.催眠暗示におけるアンカー
日頃の厳しい鍛錬において,好ましいと思われる心身の状態がおとずれることがある.この状態が常に実現できるのであれば言うことがないが,残念ながら闘いの場などの危機的な状況にあったときに,そうした心の状態を実現することは至難の技である.しかし,日頃の厳しい鍛錬の中でそうした状態を会得したときに,その心の状態を印形と結びつけるのである.すなわち催眠暗示におけるアンカーを作っておくのである.いざというときに,その印を結ぶことがアンカーとなって,その好ましい状態を呼び戻すことができるのである.スポーツでルーティンなどと呼ばれる一連の動作と効果は似ているのかもしれない.アスリートも武術家も暗示に自分にかけることができなければ,火事場の馬鹿力など出せないのではないかと思う.

5.刀印による文字を書く動作,あるいは九字を切る動作について
印を結んだあと,刀印で「龍」などの文字を空中に書くような方法もある.あるいは密教では九字などにおいて,空中に格子を切ったり,あるいは五芒星を描いたりする.これは,描く図形に宗教的意味をもたせることにより,やはり自分に強い暗示をさらにかけるものではないかと思われる.また描く図形は尖ったものであることが多い.これは世界的に魔除けと呼ばれる形は,十字であったり,五芒星であったりとトゲトゲしいことが多いことを思い起こさせる.またその描き方は,なにかを切るように鋭く行うことが多いようだ.

ということで,思いつくままにメモ代わりとして書いておく.たぶん時間が経てばまた違う考えをもつとは思うのだけど(あくまでも個人的な考えです).

2019年8月27日火曜日

フィールド・オブ・ドリームス

関西の行きつけのレンタルDVD屋さんでずっと探していても見つからず,店員さんに尋ねてもこのタイトルが見つからなかった(そもそも店員さんもこの映画を知らなかった)のだけれど,数年前に観ることができた映画.先日,来年のメジャーリーグの公式戦(White Sox, Yankees) がその球場で開かれるというニュースを知り,またまた観たくなった.

フィールド・オブ・ドリームス(1989)(監督 フィル・アルデン・ロビンソン)

数年前に観たときの感想がこれ.

--- Twitter ---

"Field of dreams"を観た。最後の父親とのキャッチボールに涙腺がゆるむ。「ここは天国か?」というセリフが何度か出てくる。「天国とは夢が叶う場所」という定義ならば、この世にそれを実現することも出来る。野球は「善」の象徴だ。自分が野球に郷愁を感じる世代でよかった。

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この映画をずっと観たかった.歳を取るにつれ純粋な気持ちを忘れているような気がしていて,この映画はそれを思い出させてくれそうで,ずっと観たかった.私は涙を流すことはほとんどないのだけれど,それでも最後のシーンでは少し涙腺が緩んだ(結局涙はでなかったけれど).

まず,ケビン・コスナーがいい.彼はまだ若く,田舎の気のいい兄ちゃんレイをぴたりと演じている.そんな彼がある日,とうもろこし畑の中で「それをつくれば,彼はやってくる」という不思議な声を聞く.父親のように年齢に負け日常に埋没していく生活を嫌って,その声に従ってとうもろこし畑を潰して野球場を作ってしまう.それから彼の生活が変わっていく.

次に奥さんがいい.「ストリート・オブ・ファイヤー」のマッコイ役の女優だ.ここではレイを支える素敵な奥さんを演じている.謎の行動をとる彼を責めることもなく,一緒に野球場をつくる.

そしてとうとう彼らがやってくるのだ.とうもろこし畑の向こうから.なんという素晴らしいファンタジー.アメリカ人は野球が本当に好きなのだと感じさせられる.大選手の中に混じって,ケビンの父親もやってくる.レイとの関係に問題を残したまま父は逝ってしまった.その心の穴を埋めるシーンがある.

「父さん,キャッチボールをしないか」
ぎこちなくレイが若いままのレイの父親に問いかける.
「ああ,しよう」
そして二人はキャッチボールをするのだ.

父子のキャッチボールほど親子関係を感じさせるものって,そうそうないのではないだろうか.私は父との思い出は少ない方だけれど,やはりグローブを買ってもらって一緒にキャッチボールしたことはよく覚えている.うれしかったな.残念ながら,私の息子は嫌がってしてくれなかったけれど.

「野球」と「父子」.アメリカが「善きこと」として考えるファンタジーが,この映画で結実している.今もこの映画はアメリカのテレビで何度も放映されているのだという.みんな大好きなのだ.

映画のあと,いろいろな活動があって,映画が撮影されたその球場はずっと保存されていたのだ.そしてとうとう本当にメジャーの選手たちがそこにやってくる.そのとうもろこし畑は本当に夢が叶う場所となったのだ.

試合が行われる夜.やはり遠くからくる車が連なって,ライトが星のように並ぶのだろうか.そのひとつの星になりたい.

2019年8月10日土曜日

図書館の本のセレクション

ある雑誌のバックナンバーが読みたくて,長岡市中央図書館に行った.長岡に越してきて初めて市立図書館に行ったことになる.

残念ながらその雑誌は配架されていなかったのだけど,どのような本が並んでいるのか気になって少しだけ本棚の前を歩いてみた.

まず小説系の冊数が少ないような気がした.岩波文庫などのコーナーはあるのだけど,私が好きな現代の海外小説のコーナーが本当に狭いスペースに限られていた.私の好きなレイモンド・カーヴァーの全集もなかった.ちょっとショック.また日本小説の並びも,どうも私にはしっくりとこない.ちょっと気分が沈んできた.自分が読もうとする本が少ないということにこんなにも失望するなんて自分でもびっくりする.どうせ自分には本を読む時間なんてほとんど無いのに.

こうやって考えてみると,図書館も街の書店と変わらないのかと思う.結局のところ,書店の店主の趣味で売る本を決めているのと同じく,図書館も図書館のスタッフが配架する本を決めているのだから,その店主あるいはスタッフとの相性というものがあるのだ.もちろん長岡の図書館の本のセレクションの趣味にあう人もいるだろう.ただ私との好みの領域がオーバーラップしていないということなのだ.

とはいえ,検索システムで見る限り,池澤夏樹の世界文学全集も,チャトウィンのソングライン(実はもってるけど),レドモンド・オハンロンのコンゴ・ジャーニーなどの紀行小説,そしてなんといっても私が登らなければ行けない山脈として考えているガルシア・マルケスの全集などはあるらしく,これだけで数年はつぶせるほどの蔵書はあるようで楽しみは楽しみなのだけれど.

なんどもいうけど,読む時間なんてほとんどない.それでも蔵書があるということで安心する.これは,私の本棚の積読された本と同じ心理的効果なのだろう.いつか読めるという安心感,それを与えてくれるだけで図書館の存在はありがたい.

#新耳袋,ゴーストハントなどの怪談ものも私の好物.図書館においてあるのはほんとにうれしい


2019年7月21日日曜日

50歳をすぎて小沢健二を聴く :「流星ビバップ」

夜,車を運転していると,カーステレオから小沢健二の「流星ビバップ」が流れてきた.今から25年近く前,私も何度も繰り返し聴いていた曲である(私にしては当時珍しくカラオケでも歌っていた).あの頃も大好きだったけれど,ふと今日は,

忘れてた誤ちが大人になり口を開ける時
流れ星さがすことにしよう もう子供じゃないならね

という曲の中の一節が耳にとまって切なくなった.不意打ちだった.

大人になってからこそ傷口が開く誤ちってあると思う.若い頃,私にも青春時代があったとしたならばその青春時代の真っただ中,その誤ちの大きさに気づかないことって確かにある.あとで振り返ったときに気づいても,もう取り戻しがつかないこともわかって,胸が痛くなる.そして50歳を過ぎてもそうした誤ちに気づき続けるのだけれど逃げ場はなく,ただそれを黙って受け止めるしかない...大人になってから味わう青春の苦さ.

小沢健二がこの曲を書いたのは彼が二十代の頃のはずである.今,50歳を過ぎて聞いても彼の言葉になにかを思う.彼の才をあらためて思う.

流れ星静かに消える場所 僕らは思いを凝らす

#この曲のあとに,彼の「夜と日時計」という曲を聴く.こちらも胸にしみた

2019年7月18日木曜日

道は楽しんで歩むもの

「道は楽しむもの」とは,ある合氣道の先生にいただいた言葉である.最近何に対してもポジティブで活動的な方と話す機会があったときに,この言葉の意味にあらためて思うことがあった.「道は楽しんで歩むもの」なのである.

「道を歩む」となるとついついつらい修行を思い浮かべてしまう.仕事だって「道」である.仕事がつらいのは当然だと無意識のうちに思い込んでいた.しかし,「道は楽しむもの」なのだ.眉間にシワを寄せて歩むものではない.ニコニコと天真爛漫に進むこともできるのだ.そのことに思い至った.

ふとなにかにつけ,仕事や雑事の面倒くささ,つらさ,疲労などを行動を起こす前から思い浮かべてしまうけれど,そんな必要はないのだ.そのときを楽しんで物事に取り組めばよい.そうした習慣を身につけようと最近努力しているのである.

2019年7月15日月曜日

シャイニング続編「ドクター・スリープ」に期待してしまう

「シャイニング」は1980年に公開された,今となっては古典ともいうべき映画なのだけれど,変わらす素晴らしいホラー映画だと私は信じている.もう40年近く前の映画だというのに,その美しさ,恐怖はいまだ色褪せていない.しかし,2013年にその続編の小説がスティーブン・キングから発表されて以来,続編の可能性についていろいろと言われていた.

そして,今年とうとう続編の映画「ドクター・スリープ」が公開されることになったという.「シャイニング」のダニー少年が大人になったあとの話ということで,主演はユワン・マクレガーだという.監督はマイク・フラナガンという人で,私は彼のことを知らないのだけれど(過去の作品も見たことはない),予告編を見る限り期待大である.

まず予告編に出てくる"REDRUM"という言葉に嬉しくなってしまう.ダニーが彼の能力"Shining"について語る場面もあって,今回はダニーの能力であるシャイニングも活躍するのだろうかといろいろと気になる.

また予告編で流れる音楽もまたワクワクする.たぶん,ベルリオーズの幻想交響曲第5楽章「怒りの日」のメロディーの引用だと思うのだけれど,それを聞くだけでただならぬ雰囲気を感じる.これはもちろん「シャイニング」でも流れる曲なのだけれど,「レディ・プレイヤー・ワン」でシャイニングのくだりに入るところでもしっかり流れている.

今回も思わせぶりなシーンの連続である.ただ,キューブリックの作品に見られた緻密に計算された画という感じは予告編からは感じられず,ちょっと心配もしている.前作ではそういった人工的で不自然な対称性が無意識に働きかけ恐怖を増幅しているのだと思うのだけれど,今回はなさそうである.次作が単なるコケオドシの恐怖演出でないことを祈るばかりである.

でもやっぱり期待してしまう.そして,同時に裏切られることにも恐れを抱いている.それだけ前作が大好きということなのだけれど.

2019年7月2日火曜日

究極の映像美は恐怖に通ずる:「シャイニング」(1980年,スタンリー・キューブリック,ジャック・ニコルソン)

キューブリックの「シャイニング」は今でも5本の指に入るホラーの傑作だと思っているのだけれど(その割に私が観たのはずいぶん最近であるけれど),この映画について感想をかいていなかったことに気づき,ここに少し書いてみる(残念ながら詳細はすでに忘れてしまっているけれど).

2017年11月11日の私のツイート2連投
Yushi Miura @yushi_m
シャイニング。これは大傑作!今まで観なかったことを恥じる。キューブリックの緻密な絵作りに引き込まれる。J.ニコルソンももちろん凄いけど、彼の妻役の人が怖い。精神的な怖さがずっと心に後をひく。映像の美しさも心に残る。そして謎も多く残される。何度も観たい作品。

Yushi Miura @yushi_m
シャイニングのホテルのバーの人は、ブレードランナーのタイレル博士だった。一目でわかった。一方、黒人の超能力者の人はどこかで観たことは覚えているのに思い出せなかった。でもやっと思い出した。映画版トワイライトゾーンで老人ホームにやってきた缶蹴りをする不思議な老人だった!表情が特徴的。

これらのツイートからも,自分がどれだけ興奮していたのかよくわかる.

この映画で映像美が恐怖につながることを初めて知った(キューブリックはそれを十分に理解していた.予告編だけでもその凄さがわかる).すべてが美しい構図となっている.たとえそれが狂人が暴れていたとしても,子供が逃げ惑っていたとしても,そして死人が主人公に抱きつこうとしても,である.

作り込まれた構図に加え,J.ニコルソンをはじめとするすべての登場人物の役への思い入れが伝わってくる.そこまでキューブリックが役者を追い詰めたのだろうと想像される.本当に狂気に満ちあふれている映画なのだ.

内容については何もここでは触れない.しかし,スピルバーグの映画「レディ・プレーヤー・ワン」を観る前には本作を観ておくことを強くオススメする.

#「シャイニング」とは,本作(スティーブン・キングの原作)の中では,超能力を指す
##「Doctor Sleep」についてはまた近いうちに.

2019年7月1日月曜日

ANZEN漫才みやぞんの言葉に,深く自分を反省する

NHKのEテレに「芸人先生」という番組がある.芸人の方が一般の企業に出向いて,彼らなりの講義をその企業の方々に行う,というものである.先日たまたまやっているのを見たのだけれど,その回はANZEN漫才の二人が講師だった(「芸人先生2」の「愛され社員になる超プラス思考講座 」の回).私は,みやぞんの「凄さ」には常々感心させられるところが多くて,彼がどんなお話をするのか,注目して番組を見ていた.

彼らが,「愛され社員になるため」に挙げたのは2つ.

1.口に出していると本当になる
2.叱られたら一歩前へ

「1.口に出していると本当になる」はどんなにつらい状況でもポジティブな言葉を使うということ.これは私が学んでいる合氣道では基本中の基本として教わることなのだけど(たぶん,1回目の稽古から習う),実は最近ネガティブなつぶやきが多いことをある先生に気付かさせていただいて,反省することしきりであったのだ.耳が痛い教えだった.

しかし,もっと心に深く染み込んだのは,「2.叱られたら一歩前へ」という言葉.叱られたら,むしろ前に出てすすんで叱られるというものである.「うまく叱られる」というのも重要なスキルである.私もそれはそう思う.しかし,今回ひらめいたのは,この教えは私が合氣道で教わってきた次の教えと同じではないかということである.

切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ踏み込みゆけばあとは極楽

(この言葉にはいろんなバージョンがあるようだけど)

一足踏み込むことによって,相手を制することもできるという武道の技術的な格言でもあるけれど,困難な状況でも思い切って進むことによって全く違う結果が得られる(こともある)という生活の教えでもある.「叱られる」という困難な状況においても相手に寄り添うことによって,良い状況を作り出すこともできるということなのだと思う.

難問を前にしてぐずぐずしているよりも,思い切って進んでみる.そのことによって事態が開けることもある.私は生活のなかでその一歩を踏み込んでいないのではないかと,深く反省したのである.そして,いろいろと考えた細かいことはここでは省略する.

みやぞんはやはり凄い.
そして生活の中に活かしてこそ,武道の教えなのだと再認識.自分の未熟さを思い知った.このタイミングでこの番組を観たことに感謝.

2019年6月22日土曜日

暑くて湿ったこの季節,ドライなカクテルが美味しい

長岡に来てのち,腰を痛めてしまい,なかなか生活の中に楽しみを見つけることが少ないのだけれど,最近は週に一度のスーパー銭湯通いとお酒をなによりの楽しみとしている.

お酒は量を飲まないので,自然と美味しいお酒を少量というスタイルになって,バーに行くこともしばしばとなった.

とはいえ,カクテルもウィスキーも味がよくわからず,うまいかうまくないかくらいしかわからないので(それも自分の感覚だし),全部バーテンダーさんにお任せなのだけれど,それでもいくつかのカクテルの名前くらいは知っている.でも,それはなんのことはない,映画や歌,小説などにそれらが出てくるからなのだ.

例えば,小説.レイモンド・チャンドラーの「The Long Goodbye」の有名なフレーズ.「ギムレットには早すぎる」.すべてが明かされたあとで友がマーロウにいうつらいセリフだ.

歌だって,例えばRCサクセションの「雨上がりの夜空に」.「ジン・ライムのようなお月さま」というフレーズが出てくる.松田優作の「横浜ホンキー・トンク・ブルース」では,ヘミングウェイにかぶれちゃった女が飲む酒は,もちろんフローズンダイキリと歌われている(正直に言うと私もそんな時期があった.自由が丘のバーでよく注文していたのが恥ずかしい).

松田優作といえば,映画「野獣死すべし」で刑事の室田日出男に向かって話すリップ・ヴァン・ウィンクルの話の中で主人公が飲むカクテルは,xyz.「これで終わりって酒だ」と言って松田優作が室田日出男に銃爪を引くシーンが忘れられない.

そして映画といえば,私の大好きな007.映画ではいつもウォッカ・マティーニをジェームズ・ボンドが頼むシーンが出てくる(ダニエル・クレイグが演じるようになってからは,Vesperという名前がついたカクテルになっている.オリーブの代わりにレモンピールが添えられる).

Vodka Martini, Shaken, not stirred
彼はいつもこう頼む.「シェイクして.かき回さないで」
不思議なのは,ちょっと考えるとこのカクテルはステアするのが普通そうなのに,わざわざシェイクを頼むところである.まぁ,そこであえて逆に注文するのが,ジェームズ・ボンドのボンドたる所以なのだろうけど.

でも,007の映画でのシーンがあまりにも有名だから,いまではウォッカ・マティーニを頼むとシェイクして出してくれるバーも多いと聞く.

ということで,先日長岡のバーでウォッカ・マティーニを頼むときに,ジョークで「シェイクではなく,かき混ぜてお願い」と言ってみたのだけれど,「最初からステアのつもりでした」と笑われて,冗談を解してもらえなかったようだった(というか,この手のジョークにはもう付き合い飽きていたのかもしれないけど).ちょっと恥ずかしかった.

暑くて蒸す季節がやってきた.こうした季節にはキリッと飲めるドライなカクテルが美味しい.

2019年6月3日月曜日

手に入れようとすると,手の内から逃げてしまうもの

手に入れようとすると,手に入れられなくなってしまう.あるいは,それが損なわれてしまうものがある.

ハリー・ポッターの中に出てくる賢者の石もそうだった.使いたい者には賢者の石は見つからない.ただ見つけたいと思っていたハリーのズボンのポケットには,いつの間にかそれが入っていた.

村上春樹の小説の"Seek and Find"もそうだ.主人公が見つけたときにはそれはすでに損なわれている.あるいは失われてしまっている.鼠も会えたときには死んでいた.キキも殺されてしまっていた.失われた友情.愛.

メーテルリンクの「青い鳥」もそうかもしれない.幸せの青い鳥は探しに出ても見つからなかった(この場合は,身近にいたことを知るのだけれど).

「求めよ,さらば与えられん」で済まないことも多々この世の中にあるということを教えてくれる.それを求めようと「ギラギラ」しても(「ガツガツ」しても),それがかえって欲しいものから自分を遠ざける.

では,どうやったらそれを得られるのか.私も教えてもらいたいと思っている.ただ,それにふさわしい者になれば,欲しいものは向こうからやってくるのかもしれない,とは思っている.

あるいは,他人に理解されないような努力をすることがよいのかもしれない.映画「フィールド・オブ・ドリームス」の主人公のように,とうもろこし畑に野球場をつくるような馬鹿げた努力が.

映画はいろいろと教えてくれる.それが本当のことか,単なる夢想なのかはわからないけど.

2019年5月30日木曜日

腰痛がひどい

腰痛がひどい.

先週はICDCM(International Conference on DC Microgrid)という国際会議に参加するため松江に出張していたのだけれど,顔が青ざめるほど痛かった.しかし,国際会議ということで幸い椅子に座る生活だけだったので,なんとかやりすごせたけれど今はアグラをかくのが本当につらい状態なのである.

どこで腰を痛めたのか,定かでない.朝に目が覚めてみるとすでに腰が痛かったのである.激しい運動をしたわけでもない.重たいものを持ち上げたわけでもない.ただ痛くなったのである.

腰痛というのは二足歩行をする人間の宿痾のようなものだけれど,これほどつらいものはないと,腰痛があるたびにいつも思う.拷問として腰を痛めるものがあってもおかしくないくらいだ.体を動かすたびに,お腹を抱えて笑うたびに,腰がズキンと痛むのである.日常生活の中でその痛みに涙を浮かべ,もう動きたくない,と思い始めるのである.

腰痛はストレスが原因だという話もよく聞く.そうかもしれない.以前はストレスがたまると胃潰瘍になると言われたものである.しかし,医療技術の進歩により,胃潰瘍になることが許されなくなってしまった.しかし心は悲鳴をあげなければならない.そこで腰痛を発症するのだという話である.

私も精神的に弱い人間だから,そうなのかもしれない,と思う.でも,とにかく早く治ってほしい.夏に向けて運動をしたいと思っていた矢先の発症なのである.安静にするのがよいのか,軽く動かすのがよいのかもよくわからないけれど,まずは腰に負担をかけない姿勢を心がけて,ストレスを減らす生活をしたいと思う.ただ,仕事をしないと仕事が溜まってストレスもたまってしまうので,いまのところ仕事をすることがストレスをためない方策であるということが,ちょっと悲しい.

2019年5月14日火曜日

日本では昔から左側通行が一般的だった

今日,学内の廊下を歩いて気づいたのだけれど,学生たちは右側通行に従っている.このルールがいつものことなのかどうか,しばらくちょっと気をつけて観察してみたいと思うのだけれど,関西のマナーに馴染んだ私にとっては,この右側通行になにか歩きにくい感じがした.

関西は逆のような気がする.たとえば,関西の地下鉄などの通路においては左側通行が普通である.左側に寄ってセカセカと歩く.そのことに慣れてしまっているから,右側をだべりながらゆっくりと歩いていたりすると,少しイライラし始めてしまう.私は短気なのである.

しかし,どちらが一般的なのかと考えると,どうも少なくとも昔は左側通行が普通だったらしい.それは江戸時代に描かれた街道の浮世絵などを見てもわかる.人々が左側を歩いているのが描かれている.江戸時代の街道など場所によっては狭いところもあっただろうから,やはりルールがそれなりに決まったのだろうと思う.

では,なぜ左側通行になったのだろうか.その理由としてまことしやかに言われているのは,武士が左側に刀を差しているからというものである.すなわち左に刀を差して右側通行だとすると,刀の鞘と鞘がぶつかってしまい(いわゆるサヤアテ),喧嘩になってしまうというのだ.だから左側通行になったのだという.

確かにこの説はもっともらしいと思うけれど,私はちょっと怪しいと思っている.そもそも侍なんて人口の5%程度しかいなかったのだ.その少数派の彼らのためにルールが本当に決まるのだろうか.また鞘があたったくらいで侍同士が喧嘩なんてしようものなら,その上刀なんて抜こうものなら,捕まって厳罰に処せられるのである.喧嘩なんて本当におこっていたのだろうか.まぁ,どちらかに決めるとしたら,鞘が当たるよりは当たらないほうがいいから左側通行の方が良いには良いとは思うけれど.

近代になって,自動車がイギリス風に左側を走るようになってから歩行者は右側を通行するように指導されるようになったと思われる.それが通路の中でも適用されるようになって,右側通行も増えてきたのかもしれない.

しかし,とにかく左側通行に慣れた私にとっては,右側はなんとなく歩きにくい.身体の中に「関西」がまだ残っているのだ.

#エレベータのどちら側に立つか問題もある.そのことについてはまた別の機会に.


2019年5月10日金曜日

超音速で動くソニックの近くにいたならば...

ポケモンに続いて,ソニック・ザ・ヘッジホッグも実写化されるらしい.予告編を見たけれど,ソニックのデザインが不気味でかなり不評らしい.監督は,ソニックをつくりなおすとまで言っているらしいけど,それはそれで大変だなぁとかわいそうになる.でも確かに手足が長すぎるように見えた.

さて,予告編では,ソニックがたいへんなスピードで動くシーンが描かれている.ミサイルが止まったように見えるほどの高速で動くことができるということらしい.あんな風に速く動けたら確かに痛快だろうと思う.

仮面ライダーカブトだってそうだった.超高速で移動が可能となる能力を持っていた.
そして超高速といえばサイボーグ009.009は加速装置が特殊能力だった.人の目に見えないほどに高速で動くというのは,昔からの人類の夢なのだろう.

しかし,超音速で動くと不都合が起こることが忘れられている.すなわち,音速の壁を破ることによって衝撃波が発生することが設定から抜け落ちているのである.もしも本当に街中で衝撃波が発生していたら,とてもただではすまない.建物は破壊され,近くにいる生物はズタズタになるだろう.人類を救うなんてことと全く逆の結果となるだろう.なんて現実は夢が無いのだろう...

サイボーグ009の映画などでは空中でも加速装置が働いて高速移動が可能となっていたけれど,足場のないところでどうやって加速しているのだろう.アニメはやっぱり謎だらけだ.

#大友克洋の「童夢」で建物に曲面のくぼみができる描写にゾクゾクしたのは,少しリアリティがあがっているからなのだと思う

2019年5月8日水曜日

マルチリモコンを買う

家のTVのリモコンを壊してしまったので,仕方なく新しいものに買い替えた.純正品も結構値がはるので,別のものをと考えていたら,ふと複数の機器を1つのリモコンでコントロールできるものはないのだろうかと思いついた.家には今のところ2台のTVがあるので,これを1台のリモコンで制御できれば楽かなと思ったのである.

家電量販店に行くとやはりちゃんとあった.2台,3台,5台,8台と複数台制御できるリモコンがそれぞれ売られていたのである.結局,悩んでSONYの5つの機器を1台のリモコンで制御できるものを買った.リモコンといっても正式な名称は,マルチブル リモート コマンダーというらしい.なんかかっこいい.そのうちブルーレイやCDプレーヤーも増えるので,メーカーにこだわらず機能を学習できるものにしてみた.値段はおよそ3300円.なかなかの価格である.

さて家に帰ってきて,リモコンを学習させたのかというと実はさせていない.というのは学習させるためのリモコンが壊れているのだから,学習させることができなかったのである.もちろん,機種別に定められている番号を打ち込めばそれで簡単に使えるようになる(そうでなければ,1ボタンずつ機能をメモリさせることもできる)

まずTVを1台.そしてまた1台.操作できる機器が増えていく.機能的には全く問題なく動く.そして次は...とさがして見つけたのが天井の照明である.2部屋の照明がリモコンで動くので,それぞれを設定してみた.ちゃんと設定できた.そう,我が家の2台のTVと2基の照明は1台のリモコンで操作できるようになったのだ.

なんと便利な!
しかしよくよく考えればそれぞれが赤外線の信号によって制御されるのだから,1台のリモコンが操作できるのも当たり前なのである.あとはどれだけそのコントローラのICを安価で提供できるかということが課題だったのだろう.今では4000円も出せば8台の機器を制御できるリモコンが買える.便利な世の中になったものだと思う.買ってきたリモコンをみても,工学とは技術 x コストのバランスが大切ということがよくわかる.

#購入したのは,SONY 学習リモコン RM-PLZ430DL


2019年4月30日火曜日

平成最後の思い出は

30年前,天皇陛下の崩御のニュースを(たしか)スキー場で聞き,その後平成を迎えた.私も21歳(大学3年)と若かった.スキー場では(たしか)B'sの「LADY-GO-ROUND」が流れまくっていたことを覚えている.「恋しかるべき 我が涙かな」が今でもときどき頭の中でヘビロテするくらいにその頃刷り込まれた.

元号が変わる,ということは,なんだかんだいって自分にとっても時代の節目になっている.それを記憶のアンカーとして,いろいろなことを覚えていることになる.30年前の自分がどのようなスキーウェアを着て,どんなブーツを履いて,どのメーカの板をはいていたか,いまでもはっきりと思い出すことができる.そのスキーの格好自体にはなんの思い入れもないのに.

今回の令和の改元だって,もしかするとあとではっきりと思い出すことができるかもしれない.職場が変わり,今日も講義をし,そして平成最後の夜をビールとカツカレーで過ごしたということも.

2019年4月29日月曜日

ユマ・サーマンは今日で49歳.豊臣秀吉は小田原征伐のときには53歳だった.

私は映画が好きなので,IMDbというサイトをよく訪れて情報を仕入れる.IMDbでは,全米の興行収入やユーザの映画批評,そしてこれから公開される映画の予告編などを見ることができるのだけれど,コーナーのひとつに"Born Today"というものがある.もちろん,今日が誕生日のセレブが紹介されているのだけど,現在の年齢も表示されている.有名俳優の意外な年齢を見て驚くこともしばしばである(あの人ももうそんな年齢なのか...などと思うことがほとんどだけれど).

そして,今日4月29日が誕生日の俳優としてユマ・サーマンが紹介されていた.なんと年齢が49歳だという.実は私よりも若かった.これが本当にびっくりした.もっとずっと年上だと思っていた.

ユマ・サーマンといえば,もちろん「Kill Bill」シリーズが有名だけれど,同じくタランティーノの「パルプ・フィクション」とか,トラボルタとの共演の「Be Cool」とかなどで,ずいぶんと私が若い頃から目にしている女優で,若い頃から大人を感じさせる雰囲気だったからか,年齢を勘違いしていたらしい.うーん,でもショック.私の方が年上だったのか...

自分もすでに50歳を過ぎてしまい,この先の人生の短さを思うことがある.最近,年齢といえばもう一つ驚いたことがある.豊臣秀吉の小田原攻めのときの年齢がなんと53歳だったというのだ.小田原攻めの頃には,秀吉はもっと歳をとっていたのではないかと勘違いしていた.思いの外若かった.きっと「独眼竜政宗」のときの勝新太郎の秀吉の印象が強すぎるのだろう.あのときの勝新がまとっていたオーラは,とても53歳には見えなかったのだ.

ユマ・サーマンや秀吉と比べて私はなんと薄っぺらく生きてきたことか,と思う.残された時間はそれほど長くはない.これから何ができるか,それをよく考えてみたいと思う.

2019年4月27日土曜日

もとの姿は変わらざるなり

今日もスーパー銭湯で一週間の疲れを癒やす.
先週は平成最後の満月を露天風呂から眺めることができたが,今日は厚い雲に覆われて月は全く見えなかった.

しかし,この厚い雲の向こうには輝いている月があるのだと想像する.変わらぬ白い光が雲の向こうを照らしているのだと考える.それだけで勇気が湧いてくる.

And when the night is cloudy, there is still a light that shines on me
Shine until tomorrow, let it be

と歌詞が頭に浮かぶ.たるんだ身体は湯船に浮かぶ.

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
       もとの姿は変わらざるなり

と山岡鉄舟の歌も浮かぶ.気持ちも大きくなってくる.

さえぎる雲があろうとももとの姿に変わりはなく,その価値は変わらない.
それに気づけば自信をもって進むことができるだろう

2019年4月26日金曜日

アルコールの度数は体積比率

最近酒席において,アルコールの度数はなんの比率なのかという話題が出た.アルコール15%のお酒があるとすると,アルコールの含有率は質量ベースで計算されたものなのか,それとも体積ベースによるものなのか.さすがにモル比率ではないだろう,とは言ってみたけれど,実際はアルコールの何について計算されているのかはっきりしなかった(その場では,当然重量ベースだろう,という推測をしていたけれど.さすがみんな理工系.信じられるのは質量である)

その後気になって調べてみると,体積ベースで比率が計算されていることがわかった.すなわち,アルコール度数が15%だとすると,1リットルのうち150ミリリットルがアルコールということである.

ちなみにもしも重量比率だったとすると,水の密度が1000 kg/m^3で,エチルアルコールが789 kg/m^3だから,1リットルのアルコール度数15%のお酒のうち,850mlが水,150mlがアルコールだとすれば,アルコールの重量比率は,

(アルコール重量 0.15L*0.789) /(水重量 0.85L*1.0 + アルコール重量0.15L*0.789)*100% = 12.2%

となって,少し比率は下がる計算になる(0.789はアルコールの比重).
実際,料理とかではカップで測量し体積で換算するから,酒は体積比率なのだろう.

まぁ,どうでもいい話なんだけど.

2019年4月24日水曜日

「古市憲寿」くんと「落合陽一」さん

もうなんども書いているけど,私は皮肉屋が大好きで,勝海舟やフィリップ・マーロウがその最たる人たちなのだけれど,最近,また別の私のアイドルを見つけた.

それは「古市憲寿」くんである.

彼は,ぜひ「くん」づけで呼びたい存在である.
彼の魅力は「忖度」から程遠い発言をすることである.正確にいうと「皮肉屋」ではない.しかし,彼は彼の考えを素直に(?)発言してしまうのである.そこが素晴らしい.
彼は「誰の味方でもありません」という著書を最近出しているが,その中立感をちゃんと保っているところに彼の良さがあるように思う.

彼は当初「若者」の代表としてマスコミに登場してきたような気がするが,彼もすでに三十も半ばである.「若者」というにはちょっと歳を取りすぎた.しかし,彼の発言にはまだ若さがあり,世の中に流されていない感がある.そこに魅力を感じる.バラエティ番組にも出ているけれど,今のままちょっと世間から離れた考えをする人であり続けてほしいと思っている.

また「落合陽一」さんにも注目したい.

彼の発想も面白い.しがらみを超えたアイデアをどんどん出している.そのアウトプットがまた次のインプットとなって更に新しいアイデアを生み出しているような気がする.彼は新しい若者の形のような気がする.どんどん時代を切り裂く発言をしていって欲しいと思う.

ついこの前までは「津田大介」氏,「東 浩紀」氏あたりが若者代表だったような気がするが,ちゃんと「若者」の世代交代も進んでいるらしい.次の「若者」にも期待したい.

2019年4月23日火曜日

深夜のお酒のCMに思う

深夜にテレビを見ているとお酒のCMばかり流れているように思う.そしてそれをみて,日本はどんどん貧しくなっていることを実感する.

ビールよりも発泡酒やサワーのような安くて酔える,つまりは燃費がいいというかコストパフォーマンスが良いお酒のCMばかりなのだ.「せんべろ」という言葉があるけれど,日本がどんどん貧しくなっている証拠ではないかと思う.海外にいくと食費をはじめ物価の高さにびっくりするけれど,日本が逆に安すぎるのだ.給料が上がっている実感がないから高いものが買えないのだ.

私が学生だったころ,たとえばマルチェロ・マストロヤンニがコニャックのマーテルのCMに出ていたり(「これはマーテルのたくらみか」),サントリーのウィスキーのCMに見るからにお金がかかっていたり(例えば「ランボー,あんな男ちょっといない」(ローヤル)とかマンハッタントランスファーの「アメリカンで飲る」(VSOP)とか,もっと古いとサミー・ディヴィス・Jr,いや,あれはホワイトで安酒だったか)と,CMに夢があったような気がする.

今は,なにもかもが安っぽい.
世の中が疲れているからなのかな.もっと余裕があってもいいような気がする.

2019年4月22日月曜日

もし聖人ばかりの世界があるとしたら,そこはたぶん地獄と言う名で呼ばれるだろう

今はなににつけてもコンプライアンスが言われる時代である.少しでも偏見や差別が臭う発言があれば,それがクローズアップされネットで叩かれる.もちろんポリティカル・コレクトでない発言は問題だ.しかし,炎上させている人たちはちょっとやりすぎなんかじゃないかと思う.自分はああはなりたくないと正直思う.人間には余裕が必要なのだ(もちろん叩かれる方にもなりたくないけど).

世間がつまづいた人たちを苛烈に叩くことの異常性が最近ようやくあちらこちらで議論され始めているけれど,「正論」には反論が難しいし,炎上させている人たちは自分たちの「正義」に従って人を叩いているので,手加減をしないのだ.ブレーキがかからない.だから苛烈な責めを平気で行ってしまうのだ.

「正義」をふりかざす人はタチが悪い.「正義」なんて時代が変われば簡単に覆ってしまうものだし.「正義」の気分は容易に人々の間に広まってしまうもののようだ.でも,「法」よりも「正義(感情)」が優先する国の,息が詰まるような状況をみるにつけ,あんなところには住みたくないとつくづく思う.

しかし,私も苛烈に人を責めてしまうところがある.人のことは言えないのだ.ネットで行われるように匿名で行うことは私の美学に反するのでしないけれど,面とむかってだったら,腹が立つと正論をふりかざして絶対に論破されないように人を責めることがあった.本当に反省している.

私が憧れる人物のひとりは池波正太郎「剣客商売」の主人公 秋山小兵衛である.歴史上の人物で言えば勝海舟.海外小説でいえば,フィリップ・マーロウ.つまりは,清濁併せ呑むような度量の広さをもつ人間に憧れるのだ.人は自分に足りないところをもつ人に憧れる,というのは本当なのだろう.

清濁どちらもあるから人間なのだ.「清」だけの人間なんてどこにもいないのではないか.

キリストは,姦淫の女を責めようとする者たちに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言った.松平定信の寛政の改革だって「水清ければ魚棲まず」,やりすぎて庶民に嫌われた.なにごともほどほどが大切なのだ.人間は聖人ではない.

銀河鉄道999の「ざんげの国」のエピソードは,次の至言によって締めくくられている.

「もし聖人ばかりの世界があるとしたら,そこはたぶん地獄と言う名で呼ばれるだろう」


2019年4月21日日曜日

引越して初めての床屋

引っ越しして困ることの一つに床屋問題がある.

いままでの馴染みの床屋ではなく,新規にお店を開拓しなければならない.そしてこれまでは,あの倒れる椅子に座って一言「いつもの感じで」といえばよかったものが,最初から細かく「ここはこうして」などとお願いしなければならない.それも初対面の主人に説明するのだから,本当に気が重い.そのうえ,完成された髪型が満足できるものとは限らないという不安がある.失敗したら1ヶ月以上,つらい髪型を通さなければならないのだ.

いずれにしろ,お店を試してみなければ判断できない.今日,勇気を出して住んでるところで一番近い床屋に入ってみた.「予約なしでも大丈夫ですか?」と尋ねてみると,「ちょうど今空いております」と,バンダナを頭に巻いた40代と思しき店主がくるりと椅子をこちらに向けた.もう後戻りはできない.あとは椅子に座って覚悟を決めるしかない.

椅子に座って,最後に床屋に行ったのは1ヶ月と3週間前だったということを話し,そしてその頃に撮影した私の写真を見せて,以前の髪型を理解してもらった.

結局,丁寧に主人は髪を切ってくれた.髪型も以前とあまり変わりない.十分満足の出来栄えだ.最後にコーヒーまで出してくれた.至れり尽くせり.

とにかくホッとした.これでまた1.5ヶ月大丈夫だろう.次も今日の床屋に行くことになるのだろうか.代金が,これまでの床屋より900円も上がったということが気がかりなのだけど.

2019年4月20日土曜日

平成最後の満月をスーパー銭湯でみる

今週も月曜からいろいろなことがあってとにかく忙しかった.時間が全然とれない.でもさすがにもう脳が働かないので,今日もスーパー銭湯に出かけた.最近,一週間に一度のペースで出かけているような気がする.職員住宅の風呂と違って,足と腰をのびのびと伸ばして湯に浸かることができるのが嬉しい.1時間半以上は湯船の中でぼんやりしている.緊張も少しは緩和されるようだ.

スーパー銭湯にも露天があって,見えるのは隣のショッピングセンターの看板(長嶋さんが警備会社の宣伝をしているやつとか)ばかりなのだけれど,それでも上を見上げれば夜空が見える.それだけでも十分開放感がある.

今晩も夜空を見上げていると,流れの速い黒雲の切れ目から真円の月が見えた.白く輝いていて美しい.そうだ,今日は満月だった.朝のニュースで「平成最後の満月」といっていたのを思い出した(もう「昨晩」の話だけど).

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
     雲がくれにし 夜半の月かな

などと紫式部の歌を思う浮かべてみたり.

だいたい私は月が好きなのだ.死と再生の象徴である月が.

平成最後の満月は,スーパー銭湯の壁に囲まれた夜空の中にあった.いつかこの月を思い出すこともあるだろうか.

2019年4月17日水曜日

好きなスニーカーを売っている店が長岡には無かった

初めてスニーカーを躊躇なく購入した.それもそのブランドの専門店で.人生50年を越えて,ようやく大人になったような気がした.

しかし,長岡に来て,その好きなブランドの靴の専門店が無いことを知った.

まぁ,そんなもんだろう.人生,タイミングのすれ違いでできている.


2019年4月14日日曜日

♪ Kenji Ozawaでいいのか

私は小沢健二が大好きだと公言しているほど好きなので,CMなどで彼の曲が流れてくるとピクッと耳が動いて思考が瞬間止まってしまう.

最近だとビールじゃなくて発泡酒のCMで「強い気持ち・強い愛」のイントロの部分が流れているから,ついついそちらを見てしまう.画面の中ではキムタクか檀れいが美味しそうに缶を見つめているのだけど.

オザケンの曲は,名曲から引用(サンプリング)していることが多くて,悪く言えばパクリなんだけど(最初からそれを隠してもいないし,またそれが素晴らしいからなんともいえないのだけど),この曲は珍しく作曲は筒美京平 大先生なのである.たしか筒美先生からオザケンへの指名があって共作の話が進んだのではなかっただろうか.オザケンが作曲を担当しなかったことを当時意外に思った覚えがある.

だから,CMで曲が流れてKenji Ozawaとテロップがでるとちょっと違和感を感じるのだ.この曲は筒美京平作曲ではないかと.歌までは流れないのだから作曲者の名前を出すべきではないかと.

でもアレンジはオザケンと筒美京平の共作とのことなので,この辺はちょっと曖昧.そうであったとしても♪Kenji Ozawa / Kyohei Tsutsumiと書くべきではないかと,オザケンファンの私は少し思うのである.

2019年4月13日土曜日

長岡技術科学大学の長岡駅にある広告

長岡技術科学大学は,実学を重視するだけあって,他の大学とはちょっと違う気がする.

長岡駅の広告もそうである.ちゃんとこうして宣伝している.私はこういうところは好きである.

これは,長岡駅入り口にある広告.

これは新幹線の新潟行きのホームにある広告.

受験生に対する宣伝というよりも,社会的な認知度を高める努力は大切だと思う.

2019年4月12日金曜日

長岡にはなぜラーメン屋が多いのか

関西から長岡にやってきて不思議に思うことはいろいろあるけれど,そのうちのひとつがラーメン屋の多さである.

長岡にはへぎそばという名物があるからそば屋が多いのも理解できる.関西にはうどん屋が多かったし.

でも関西にもラーメン屋はあったけれど,ここまで多くはなかった.東京ほどということもないけれど,小さな都市にしてはラーメン店が多い.新潟市も多かったりする.そういえば朱鷺メッセという催事場でもラーメン博とか開催されていたような覚えがある.新潟県民はラーメンが好きなのだろうか.

学生になぜラーメン屋が多いのかと聞いてみても「長岡が寒いから」などという答えばかりで,はっきりしない.ただ学生の間でもラーメンの人気は高く,卒業生が長岡でラーメンの食べ納めだなどといってラーメン屋めぐりを卒業前にするのだという.

とにかくいろいろラーメン屋がありすぎて,どこへいったらよいのかわからない.やはり人気店には行列ができるのだという.私も少しずつ巡ってみようかと思っている.そのうちなぜ長岡にはラーメン屋が多いのか,理由もわかってくるかもしれない.

ただ,数年前には新潟県の一人あたりのカレーの消費量が日本一になったことがあるとも聞いた.どうなっているのだ,新潟県民は.

2019年4月7日日曜日

子供の頃に遊んだ秋葉公園は本当に小さかった

長岡に落ち着いてしばらく経つ.大阪大学から長岡技術科学大学に異動してきたわけだけれど,長岡に住むのはこれが初めてではなく,幼い頃に住んでいたので2回めということになる.3歳から10歳(小学校4年まで)まで住んでいた.でも,あまりにも昔なのでその頃のことはすっかり忘れてしまっている.それでも小学校のときの記憶が少し残っていて,そのころ住んでいた自分の住所を思い出した.Googleマップで調べてみると今の住んでいるところから意外に近い.そこで散歩がてら,そのあたりを歩いてみることにした.

見覚えのある美容室,床屋,仕出し屋がいまだに通りに並んでいてうれしくなった.もちろん,広い駐車場に変わってしまったところもあるけど,あの頃の面影が残っていることがますます記憶を思い出させてくれる.

そこで私がいつも遊びに行っていた「秋葉公園」を探してみることにした.やはりGoogleで調べてみるとその公園はちょっとだけ離れたところにある.そうだっけ,秋葉公園に行くにはちょっと大きな通りを横切らなければならず,左右から来る車に気をつけていたことを思い出す.

秋葉公園についてみると,まずその小ささに驚いた.本当に小さい.よく「子供の頃はあんなに大きく感じたのに,大人になってから来るとぞの小ささに驚く」なんて話を聞くけれど,自分もそんなふうに陳腐なことを思うなんて思っても見なかった.しかし,本当に小さかったのだ.

地面に線を書いて「肉弾」という遊びをしたり,ゴムボールで手打ち野球をしたり,そして私も大好きだったビー玉をしたりと,あんなにいろいろなことができた公園は,大人になってみれば外周を一周りするのに3分もかからない,住宅街のなかのちっちゃな公園でしかなかった.そのことが思いの外ショックだった.あの頃の自分はどれだけ小さかったのだというのだろう.

秋葉公園という名前は,公園の中に秋葉神社という小さな社が祀られていることに由来すると思われる.今もそこにあったのだけれど,私の記憶ではほとんど覚えがない.記憶の中で公園の片隅のその部分は黒い影で覆われている.子供ながらに神社には畏れを感じていたためだろうか,と思う.そうしたものに対する畏れは今も変わらないような気がする.

近くに住んでいるのだろうか,私が行ったときには小さな子ども二人を連れた夫婦が遊びに来ていた.50を過ぎた男が一人,公園で長居をするのも不審に思われるかと思い早々に公園をあとにした.40年前の公園が残っている.それだけで,その頃私はここで生きていたのだという実感を得ることができた.こうしたことも自分のルーツを知るということに含まれるのだろうか.少し自分というものが確からしい気がしてくる.


2019年4月5日金曜日

新しく元号が変わることは良いことだと思う

新しい元号は不要だ,という意見の人も多く,私も事務的な書類については使用しない方が便利だし,良いと思うのだけど,元号自体は存続する方に賛成である.

不要論の人は,「元号なんて日本人が勝手に時間を区切っているだけだ」と言うのだけれど,それが大切だと私は思うのである.

勝手に人間が時間を区切っているのだ,というのであれば「正月」も同じである.考えてみれば1月1日だって365日のうちの一日であり,他の一日と区別があるわけではない.しかし,人間というのは意思が弱いから,区切りがなければ漫然と一年を惰性のうちに過ごしてしまいがちである.そこで,1月1日を新年の始まりとして区切りを設けることによって心を一新し,事に臨むことができるのである.こうしたお話を,藤平光一先生がされていたのをよく覚えている.私もそのとおりだと思うのである.

元号が変わることによって,人々の心が一新し,また次の時代に向かって歩んでいこうという前向きな心持ちになるのであればよいではないかと私は思う.改元に関係ない,そうでない人もいても構わない.しかし,それなりに大勢の人のマインドが変わることが大切なのではないかと思うのである.過去の時代に区切りをつける良いきっかけとなるだろう.

新しい年号は「令和(Reiwa)」.
私が心配しているのは,「R」の発音で「れいわ」といえるかどうか,ということである.ついつい「L」の発音で言ってしまいそうなので...

※平成31年をH31とか略すことが多いのだけれど,令和元年をR1とか書くと,どこか「お笑い」を思い出させるし,Revision1(改訂版1)という感じもしてしまう.そして,令和15年とかになれば,R15ということで子供は見てはだめなもののような気がしてしまい,ちょっと悩ましい.

2019年4月2日火曜日

2019年のエイプリルフール

昨日(4月1日)に書いた内容はちょっと生生しかったですが,エイプリルフールの冗談です.正弦波に含まれる高調波成分だけでできる内部の推定はほんの僅かなものでしょう.どうもウソがピリッとしないし,面白くないんだなぁ.反省します...

来年こそもっと素敵なウソがつけるよう「ウソ道」に邁進いたします.


これまでのエイプリルフールのウソ

2019年 AIを用いたリバースエンジニアリング
2018年 髪の毛のTHD
2017年 パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則
2016年 地球を利用した無線電力伝送システム

2011年 パワエレの系統
2010年 電力の産地指定購入
2009年 人間の共振現象
2008年 夜中の台所にて,パワーエレクトロニクスの音色に耳を澄ます

2019年4月1日月曜日

AIを用いたリバースエンジニアリング

とにかく世の中はAI(人工知能)ブームである.たしかにAIはこれからの未来において大活躍することは間違いない.人間社会にも大きな影響を与えるだろう.ただ猫も杓子もとびつくというのはいかがなものかと思ってしまうのも実感である.

しかし,先日もAIを利用して昔の白黒写真に色をつけてカラー写真のようにするという技術が紹介されているのをテレビでみた.何千枚もの写真をつかって学習させたのだという.白黒写真というのは本来カラー写真に比べ,情報が不足しているのである.その足りない情報を推測して補ってしまうというところがすごい.たとえばこれを画像のモザイク外しなどに応用してみるとする.画像でモザイクがかかっていても,その中身を推定されてしまうのであれば,プライバシーの保護などずいぶん怪しくなってくる.音声についても同様で,「音声は変えてあります」などと表示されても本来の声を推測されてしまうのである.その上,AIによって推定された情報が正しいとも限らない.どこまで本物に近いのかを評価することは難しい.しかし,人はそのAIが推測した画像を本物だと信じてしまい,誤った判断を下す危険性もあるのである.

欠落している情報を入手できる情報から推定するということができるのであれば,これをリバースエンジニアリングで使用しようとする試みもすでになされている.たとえば,パワーエレクトロニクス分野のPWMインバータ.これは直流の電気を交流に変換し,その出力波形を正弦波に近づけようとするものだけれど,正弦波に近づくのは50Hzあるいは60Hzの周波数が中心で,PWM波形にはそれよりもずっと高い周波数成分が含まれている.この高い周波数成分はLow Pass Filterによって通常はカットされてしまうのだけれど,完全に除去されるのではなくわずかながら出力波形に含まれてしまう.これらの含まれ方は回路方式や制御方式によって特徴をもつから,これらを検出し,AIで推測させると,PWMの手法の推定だけでなく,内部の回路構成,スナバの定数までもわかってしまうというのである.この技術を用いれば,回路を密閉してわからないようにしても非破壊で内部を推測できてしまうのであるから,主要な技術が容易に盗まれてしまうのである.

このようにAIによる推測というのは,本来隠すべき部分でさえ明らかにしてしまう恐れがある技術なのである.こうした技術が確立されてしまうと世界が大きく変わってしまう可能性さえある.

>>> つづきは明日に

*PWM...Pulse Width Modulation

2019年3月28日木曜日

松原みき「真夜中のドア」にハマる

昨年の秋,アメリカに出張に行ったときに,ホテルのテレビをつけるとそれはネットにつながっていて,YouTubeを表示することができた.音楽でも聞こうかとするとYouTubeのおすすめ曲の第1番目に竹内まりやの「Plastic Love」が表示されていたのにびっくりした.だってホテルはアメリカなのに…一番のおすすめが日本の曲だなんて…そしてそれが30年以上も前の曲なのだ.

この「Plastic Love」が収録されていた「Variety」は私も大好きなアルバムで一時期はたいへん良く聴いていた.もちろん今聴いても素敵な曲なのだけれど,どうも調べてみると昨年くらいから世界的にヒットしていたらしい.シティポップと呼ばれる分野に位置づけられている.確かにあのころ(80年代)のニューミュージックはおしゃれだった.山下達郎をはじめとして,大滝詠一,角松敏生,林哲司あたりは今聴いても古びていない感じがする.

実は私もシティポップというジャンルで最近ずっと聴き込んでいた曲がある.それは松原みきの「真夜中のドア」である.彼女は境遇的にあまり恵まれていなくて,確かこの曲でデビューしたのではないかと思うのだけど,それもどこかのバーで飛び入りで歌ったのをスカウトされたということだ.それ以前はずいぶん苦労したらしい.この曲はヒットしたのだけれど,彼女は夭折してしまった.彼女は私より少し年上だったと思う.彼女の動画を見ると,もっともっと活躍してくれればよかったのにと思わずにはいられない魅力を感じる.

「真夜中のドア」も魅力的な歌である.確かにちょっと古く感じるところもあるけれど,何度も何度も脳内再生されてしまう中毒性がある.なんとなく,その当時のオシャレ感が漂っている.少しノスタルジックに感じられるからか,私には親しみやすいメロディなのである.今の若い人が聴いても,そんなに魅力を感じないかもしれないとも思うけど.

80年代,90年代の歌をたまに聴くのも楽しいものである.わたせせいぞうのイラストを見ながらワインを飲む.若い頃はそんな暮らしに憧れていた


2019年3月27日水曜日

竹内まりや,「ファースト・デイト」を歌う

TVをつけたらNHK SONGSが流れていた. 竹内まりやがデビュー40周年ということで特集ということだったらしい.私も彼女が好きなのでチャンネルはそのままつけておいた.

ふと岡田有希子の「ファースト・デイト」が流れてきた.画面をみるとなんと竹内まりやがこの歌を歌っている.私は,ぁあ…と震えて,心が熱くなった.彼女もようやくこの歌を歌えるようになったのだと感動した.


岡田有希子の命日は確か4月8日.私が大学の入学式の会場から出て、新入生向けに作られたプレハブ店舗の大学生協のテレビで彼女の自殺のニュースを見た。あの時のことは忘れることができない.


竹内まりやもずっと岡田有希子の歌を歌うことができなかったという.以前に録音したセルフカバーアルバムでも,結局のところ「ファースト・デイト」をリストから外したとインタビューで答えていたのを覚えている.


今回のSONGSの中では,短いけれど彼女について竹内まりやが語っていた.彼女の33回忌も過ぎてようやく歌ってもいいかな,と思えたのだとか.あれから33年という時間が過ぎてしまったことに驚いたけれど,それでも私も岡田有希子のことが心のどこかに刺さっているのだとあらためて気づく.当時,別に彼女のファンでもなかった.しかし,彼女の事件のあと日本中で自殺の嵐が吹き荒れたことは,同い年の私たちに共通して何らかの影響を与えているような気がするのだ.


岡田有希子が「ファースト・デイト」を歌うビデオも流れた.私はいまでもその姿を真っ直ぐに見て楽しむことができない.でも竹内まりやはとうとう彼女のデビューに提供したこの曲を歌うことができるようになったのだ.それまでに30年以上を要したかもしれないけれど.

2019年3月25日月曜日

Blue Flower: SEKAI NO OWARIを聴いて

ラジオからSEKAI NO OWARIの新しいアルバムに収められているという曲が流れてきた.なにげなく聞いていると,それがBachの鍵盤協奏曲(ピアノとは限らず,チェンバロで弾かれることもある)第1番の出だしそのものでびっくりした.私はこの曲が大好きなのだ.特にグールドの録音が大好きで,冒頭の管弦楽と一緒にピアノが弾かれたあとピアノが強調されたパートがあるのだけど,その切込み方がカッコいいのだ.バーンスタインとの録音などもあるので,ぜひおすすめである.昔,「のだめカンタービレ」というTVドラマがあったけど,千秋がオーケストラで弾き振りするエピソードで弾いていた曲もこの曲だった.

セカオワの方は「Blue Flower」という題名らしい.こちらもなかなか抑えた感じのカッコいい曲で良い印象だった.Bachのピアノ協奏曲なんてFukaseも目のつけどころが違う.さすがドラゲナイだけある.

さて,この「Flower」という単語を見て連想する曲はいくつもあるのだけど(Flowerというグループも複数あるし),今回は「花 a last flower」がなぜか思い出された.「惡の華」というアニメのエンディングでも流れたらしい.とはいっても私はこのアニメを見たことはないのだけど.ちょっと前の前衛音楽的な手法で作られていて,聴いて気持ちよくならないようにサンプリング編集されている.でも今聴いてもおしゃれな感じがする.というか怖い感じがして心が動かされる.これも音楽の一面なのだ.

ということで,Blue flowerつながりで連想したことでした.

2019年3月24日日曜日

映画に飢えている

今年に入って職場が変わったこともあり,また年度末の出張の時期とも重なったため,移動につぐ移動でとにかく休みがとれない.今年に入って休んだのは数日あるかないか,なのだけど,忙しさよりも合氣道の稽古ができないことがまずつらい.身体を動かせないことがこれほどストレスになるとは自分でも驚くほど.たぶん歳をとった分,体力,集中力を維持するためには身体を動かさなければいけなくなったということなのだろう.

身体を動かせないことだけでなく,音楽をゆっくり聴く暇がない,映画を鑑賞する時間がない,そうしたこともずいぶんストレスに感じる.特に映画.映画館に行くどころではなく,DVDを借りてきて観ることもずいぶんしていない.映画が恋しく感じる.

映画というのは,感動するストーリーだけでなく,アクションであっても,ホラーであってもなにかしらの影響が心に残されると思う.わずか1cmかもしれないけれど心が動かされるのだ.映画には没入感があり,結局のところトランス状態に導かれるのだから当然といえば当然なのだけれど.

今気になっているのは「John Wick Chapter 3」.スピード,マトリックスシリーズに続くキアヌ・リーブスの代表シリーズである.一度引退した伝説の殺し屋であるJohnがしがらみから逃れられず,また裏の世界に囚われてしまう.現在は殺し屋の組合(?)の全殺し屋から裏切り者として追われる立場になっていて,Chapter3ではどうやってJohnがこの危機を乗り越えるのかが見どころとなっている(はずである).こんなに面白いのになぜかいまいち日本では話題にならないのが不思議である.世界的には大ヒットしているのに.アメリカでは5月に公開.日本ではいつになるのだろう.1作目のようにアメリカ公開から1年たってようやく日本公開なんてことは無いようにしてほしい.

もう一つ気になっている作品は「YESTERDAY」.これはスターを夢見る若い男性である主人公が事故にあって異世界に飛ばされるのだけれど,そこはなぜか「The Beatles」だけが存在していない世界だった.彼はビートルズの作品をその世界で発表しながら大スターになっていくというコメディ.事故から復帰したのち,主人公が「Yesterday」を恋人や仲間の前でギターでうたうのだけど,いきなり仲間たちが涙を浮かべて曲に感動するのである.そのリアクションに笑ってしまう.ビートルズの作品に世界が熱狂していく様が面白い.昨年は,クイーンが流行ったけれど,今年はビートルズかもしれない,なんて思わせる作品である.

映画に飢えている.春になったらなんとか時間を作って観に行きたい.DVDも観たいリストを作っておかなければ.映画を観て心を動かす.そんな経験に飢えているのだ.

2019年1月19日土曜日

Progress. Not perfection.

先日,知り合いの方のツイッターにマグカップの写真が上げられていて,カップには
"Done is better than perfect"
と書かれていた.アメリカのことわざのようなものらしい.素敵な言葉である.
それでいろいろと思いを巡らすことになった.

私が最初の職場で,上司から言われた言葉で忘れられないのが
「60点の出来でいいから締切を守ること」
である(残念ながら現在私は守ることができているとはいえないのだけれど).まずは100点を狙わなくていいからとりあえず及第点の資料を作成することが大切,いやとにかく動き始めることが大切ということを教えていただいた.仕事に少しでも取り掛かれば頭が動き出す.出来が悪くても時間さえあれば,それを見直してブラシアップすることもできる.クオリティをあげるのはあとからでもできるのだ.最初から完璧を狙っていては動きが取れなくなってしまう.

デンゼル・ワシントン主演のアクション映画「イコライザー」の中で主人公が言っていた言葉も忘れられない.
"Progress. Not perfection."
完璧が重要なのではない.進展があることが大事なのだ.大量の仕事に囲まれ,にっちもさっちもいかず,どうしようかと途方に暮れるとき,この言葉を思い出してとりあえず動くことを始めてみるようにしている.進展がなければ,完璧もありえないのだ.

2019年1月18日金曜日

ブギーポップは口笛を吹かない

「ブギーポップは笑わない」がまたアニメ化されている.私は20年ほど前にこのラノベに出会って以来ずっとブギーポップファンで(この「ブギーポップ」がラノベというジャンルの嚆矢だと思っているけど),このブログでも10年ほど前(!)にこの小説について書いているほどなのだ.

私の記憶によれば(というかWikipediaで調べればわかるけど),この小説はこれまでに実写の映画(吉野紗香!主演)と2度ほどアニメ化されているはずである.このアニメがたいへん雰囲気のあるもので,小説とは異なるストーリーであったけど,非常にクラい,不気味な(ブギーな)作品で魅力的だった.私は救いようのないクラさをもつアニメが好きだから,笑わない主人公がビターエンドに導くこのシリーズがたいへんお気に入りだった.

そして今年(いろいろあって昨年から今年に延期されていた),またアニメ化されている.ストーリーは小説にだいたい沿っていて,話の進め方も小説同様細切れだったりして驚いたけど,一体どれだけの人がこの展開についていけるのだろうかと疑問にも思う.小説を読んでいないと理解できないのではないかと思う.人気が出ないことを心配してしまう.

原作との違いも面白い.小説の挿絵のキャラクターデザインの人が怒っていたけれど,まず制服がセーラー服からブレザーになっている.これは好みが分かれるところ.

そしてなにより私が驚いたのは,ブギーポップが口笛を吹かないことである.原作では,彼が現れるとき彼の吹く少しぎこちない(?)口笛が聞こえてくるはずなのである.その曲はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガーの前奏曲」.あの大仰な旋律を物悲しそうな口笛で吹くのである.もちろん小説の紙面からは聞こえてこないけれど,なんとも想像力をかきたてるシーンじゃないだろうかと思う.その曲が聞こえてくると黒マントに身を包んだ「彼」が現れるのだ.なんて素敵な設定なのだろう.でも,それがこの新しいアニメにはない.「彼」はいつのまにか現れていた.うーん,ちょっと寂しい.

アニメはまだ3話までしか放映されていないので,これから口笛が聞こえてくるシーンがあるのかもしれない.登場人物たちの顔のデザインもいくぶん現代的で明るくなっているので,もっともっと設定とストーリーで展開を暗くしていって欲しい.なんたって「彼」は「不気味な泡」なのだから.

#2作目のブギーポップのアニメは,もうどうしようもなくクラいストーリーだったけど,当時まだマイナーだったスガシカオの歌がOPで流れていて,たいへん印象的だった

2019年1月15日火曜日

アウトプットをしていく

おかげさまでどうも私は社交的な性格と思われているらしい.たしかに,人見知りはあまりしないし,人と話すのも苦手ではない.しかし一方で,独りでいるのもあまり苦にならないのも事実である.週末どころか一週間くらい誰とも話さなくても問題ない.ひきこもりと言われても仕方がない.若い頃は,独り山に籠もって仙人のような暮らしをするのが憧れだった.別に山ごもりの修行というわけじゃないけど(眉毛を片方剃るとかしないし).

だから積極的に人と交流するということに,それほど重きをおいてきたわけではなかった.しかし,これからはちょっと変えてみようと思っている.とにかく私からいろいろと動いてみる.情報を開示してみる.そうして外界との関係を強くしてみようかと思うのである.結局のところ,外の世界に働きかけなければ,自分も環境も変わらないということにようやく気づいたということなのかもしれない.これまで,人と関わることがいくぶん億劫だったし,人間関係が面倒くさく感じることも正直あった.それでもこれからは外に向けてアウトプットをしていこうと思うのである.ずいぶん年をとってからの決心だけれども.

2019年1月12日土曜日

かまいたち

講義をしていると,いつのまにか指から血が流れていた.気づかぬうちに傷がついていた...というわけではなく,私の場合,単に古傷の口が開いたからである.しかし,このことでひとつの現象を思い出した.「かまいたち」である.講義を聞いていた学生に「かまいたち」を知っているかと尋ねてみても,どうもピンと来ていないようだった.最近は話題に上ることがない現象なのだろうか.

「かまいたち」は,いつのまにか手足が刃物で切られたように傷つけられていてしまう現象である.するどい刃物で傷つけられたような傷口だけど,不思議なことに血はでないのだという.

私の父は,昔「かまいたち」にあったことがあるといって,指にある刃物で切られたような傷の治ったあとを見せてくれた.いつのまにかこの傷がついていたのだという.昔はよくあったことのようだ.

「かまいたち」は妖怪のしわざだという話がある(妖怪ウォッチじゃないけれど).ある話によれば,かまいたちは3匹のチームになっていて,一匹目が人間を転ばして,二匹目が鋭い鎌で傷をつけ,三匹目がなぜか薬を傷あとに塗るのだという.だから傷口からは血が出ないことになっているのだ.漫画「うしおととら」においても,かまいたちは3人の兄弟妹の妖怪と描かれていた.

実際は,つむじ風などによって空気中に真空ができ,それが人間を傷つけるのだという話がまことしやかに語られてきた(すくなくとも私のまわりでは).でも今となってはそんな説を私は信じることができない.つむじ風程度で人間を傷つけるほどの真空ができるだろうか?なぜ人間の手足だけ傷つくのだろうか?なぜ衣服は切られないのだろうか?そう考えれば,そんな単純な原因で発生しているとは考えづらいだろう.とはいえ,良い理由は思い浮かばないのだけど.

しかし,最近「かまいたち」の話題を聞かなくなったのは少し寂しい気がする.私達のまわりから「不思議」が消えていくことは,世の中のワクワクが減っているような気がするのだ.妖怪のしわざと考えるほうが,ちょっと世の中すみやすい気もするし.

ヘミングウェイにとって命がけの競技こそスポーツだったのだ

「 ラグビーは人生ってやつを教えてくれる 」みたいな記事を書いて,ヘミングウェイの言葉を紹介したけれど,実はヘミングウェイは次の言葉を残している. スポーツと呼ぶに足りる競技は三種類しかない。それは闘牛、モーターレース、そして登山。他はすべてただのゲームにすぎない “ T...