2023年7月29日土曜日

50代半ばのピークが夢だった

 50歳になった頃,自分の体術的なピークは50代半ばくらいだろうと思っていた。つまりは人生で私が一番武術的に強い時期がその頃に来るのだと思っていた。たしかに,50歳になった頃は体力的には衰えて始めていたけれど,技術的にはまだまだ伸びしろがあると思っていたし,事実,日々の稽古の中で新しい発見などもあって,これからまだまだ上り調子だと思っていたのである。

しかし,五十半ばをすぎた今,すでに下り坂にあることを実感している。50歳を過ぎて職場が変わり稽古量が圧倒的に減ったこと,そして度重なる怪我,病気などで体力が思ったよりも急勾配で衰えていること,などが原因なのだけれど,現在の自分は50歳の頃の予想よりずっと下回っている。

気力も衰えている。道場に立って自分の技を試すことにゾクゾクする喜びを感じることもなくなったし,そもそも受身をとるだけで疲労を感じるようになってしまった。もちろん,今後も技術的には進展があると信じたいが,体力・気力の衰えが技術的な上達を上回り,総合的にはどんどん弱くなっていると感じられるのである。今後,稽古は,「強くなる」ためだけでなく「人生を楽しむ」ことも目的となってくるのだろう。

私は,池波正太郎の作品「剣客商売」の主人公 秋山小兵衛のような人生に憧れている。老いてもなお強い。そして世俗を離れず陸沈する。それが夢だったのだけれど,なかなか理想どおりにはいかないようだ。

2023年7月16日日曜日

とうとうブレードランナーが必要な時代がやってきた

 「ブレードランナー」という不朽のSF映画の名作がある。調べてみると1982年の映画なので,現代の学生がこの映画を知らないのも無理はない。しかし,この映画のテーマは今こそ話されるべきものなのではないかと私は思っていて,未見の人には強くオススメしている(とはいえ,私も観たのは随分前のことなので,はっきり言って詳細は覚えていないのだけど)。

21世紀の近未来(2019年という設定?),レプリカントという人造人間が開発されていて,彼らは人間を超える身体的能力と高度な知性を持っていた。しかし,感情が芽生えないように短い寿命を持つように設計されていて,彼らは宇宙植民地で過酷な労働を強制されていた。そのなかで,地球に脱走するものも出てきていて,それらを見つけ処分するのがブレードランナーである。

主人公のブレードランナー,デッカードを演じるのが若きハリソン・フォードで,そのハードボイルドなカッコよさにいまだ私は憧れているのだけれど,彼がレプリカントか人間かを見分けるために対象者に複数の質問をするシーンが出てくる。過去の記憶を植え付けられた精巧なレプリカントは人間と区別するのが難しく,美しい女性のレプリカントであるレイチェル(演じるショーン・ヤングがほんとに綺麗)を判断するためには100問以上の質問が必要だとデッカードが開発者であるタイレル博士に答えていたと思うのだけれど,このシーンが強く印象に残っている。

そうなのである。

「高度に製作されたレプリカントはなにが人間と異なるのだろうか」

この哲学的な問題は,今後AIの技術がさらに進んでいく時代において,ますます重要になっていくに違いないと思うのである。映画「攻殻機動隊」でも過去の記憶を植え付けられたゴミ回収者の男が出てくる。彼はレプリカントとなにが違うのだろうか。一方で,頭脳しか人間ではない主人公 草薙素子は人間と呼べるのだろうか。

ChatGPTなどの生成型AIの開発がますます進むと思われるけれど,その受けこたえから私達は話し相手がAIであるのか,人間であるのか,判断することはできるのだろうか。

卑近な例をあげれば,講義において課題レポートを学生に出したとして,その内容がAIを用いて書かれた内容なのか,学生自身が考えて書いた内容なのか,私は判断できるのだろうか。

ネットの向こうの相手が人間であるか,AIであるか,判断する必要性はこれからどんどん大きくなるだろう。それを見極めるための検査が必要だ。映画「ブレードランナー」におけるフォークト=カンプフ検査にあたるその検査方法はいつか確立されるのだろうか。そしてそれを行うブレードランナーはいつか現れるのだろうか。


#黄昏時,顔がよく見えない人が妖怪であるのか,人間であるのか,それを判断するための手段(自分が妖怪ではないと相手に提示する手段)は「もしもし」と問いかけることである。これも人間でないものを見極める検査方法だ。

2023年7月15日土曜日

名建築で昼食を:東京国立博物館

 意外に私は建築好きで,あちらこちらの建物を巡るのが好きだったりする。かといって,建築を本気で学んでいるわけでもないので,デザインを見て美しいとか機能的とか,そんなことを思うだけなのだけれど。

そんな私にちょうどいいテレビ番組が「名建築で昼食を」(テレビ東京,2020年)。池田エライザ演じる女性OLが,SNSで知り合った田口トモロヲ演じる中年の建築模型士と一緒に,「乙女建築」と田口が呼んでいる名建築をめぐり,ランチに舌鼓を打つ,というぬる~い感じの内容で,見ているとホッとするあたたかくて素敵な,私の大好きなドラマ番組である(現在,再放送中らしい。新潟で放映しているかどうかはしらないけれど)。

どうも番組は人気だったらしく,その後「スペシャル横浜編」と「大阪編」が制作されている(残念ながら「横浜編」は未見。「大阪編」は6話のうち5話は見た)。

番組ではだいたい昭和初期の洋風建築が紹介されていて,たとえばフランク・ロイド・ライト設計の池袋の自由学園明日館とかヴォーリズの山の上ホテルとかを巡って昼食を食べるのである。池田エライザのOLが中年の田口トモロヲと交流することによって少しずつ成長していく話にもなっていて,深夜に見るには重すぎない最適な内容なのだ。

大阪編では,「大大阪時代」の建築が中心に紹介されていて,たいへん栄えていた頃の大阪の様子を垣間見ることができて,たいへん興味深かった。

この番組のよいところは,紹介された建物をいつか訪れてみたいと思うことと,一方で身近にある建築物はどのようなものなのだろうかと興味をもつことである。旅先で,こうした建築物を巡るのは楽しいし,地元の建築物をこれまでと違った視点で巡るのも同様に楽しい。

先日,私は上野の東京国立博物館を訪れた。上野は素晴らしい建物が立ち並んでいるけれど,国立博物館も昭和初期から最近までの複数の建物で構成されていて,展示物だけでなく建物を見ているだけでも楽しい。本館は昭和初期の建築で,内部も当時の洋風なデザインが施されており素敵である。ホームページの解説によると,渡辺仁による案で建設され昭和13年に開館し,2001年に重要文化財に指定されたらしい。展示物とともに,建物自身のデザインもゆっくりと堪能することができる。

東京国立博物館 本館

本館玄関階段

時計もいちいち素敵

ところどころのこうしたデザインが素敵である

建築家という職業が人気なのもわかる。自分の作品がこうして長い時間を越えて愛されていくのだから。

#この日私は結局国立博物館で4時間以上を費やし,ヘトヘトになって長岡に戻った

2023年7月9日日曜日

気分がアガる曲「影の軍団メインテーマ」

最近, 梅雨空と疲れで気分がスッキリしない。そんなとき以前であれば音楽をゆっくり聴いてリラックスしていたのだけれど,このごろはステレオセットもないこともあって音楽を聴く時間も持てていない。それでも聴くと気分がアガる曲などがいくつかあって,車の中で聴いたり,脳内再生をしたりしている。

ドライブのときは断然ブルックナーの交響曲第3番が盛り上がるのだけれど,最近散歩の時間にたびたび脳内再生されるのが,千葉真一主演のテレビドラマシリーズだった「影の軍団」のメインテーマである。これを聴くと気分がアガる。「影の軍団」はシリーズ5作まで制作されていて,このテーマは少なくとも「III」までは使われていたように思う。

当時第1作のテーマとオープニングの映像を見たときは本当に衝撃的だった。私は子供の頃から時代劇が好きだったけれど,この作品は全く新しい忍者アクションであり,ある意味現代劇であった。その後,ショーン・コスギの忍者映画がハリウッドで話題になったけれど,このJACによるアクションこそが本当の忍者の殺陣なのだと,その当時の私は思っていた。千葉真一の意表をつくアクションのアイデアは,今見ても全然古くない。このアクションが,このオープニングテーマとともに脳裏に焼き付いているのだ。クエンティン・タランティーノがこのシリーズの大ファンだというのもよく分かる(Kill Bill Vol.1で彼と大葉健二(宇宙刑事ギャバン!)が一緒に「服部半蔵」という名前で出演している)。

私にはこれくらいのアクションがちょうどいい。マーベルのような超絶超能力バトルでも,カンフー映画のワイヤーアクションも鼻白む。鍛えられた身体を張った肉弾戦。それも忍者という侍とは異なる自由な殺陣。千葉真一の才能が最も現れた作品のひとつだろう(もうひとつは柳生十兵衛!)。

今もこの音楽を聴くとワクワクして元気が湧いてくる。私にはとてもあのようなアクションはできないけれど,忍者のファンタジーに憧れる。

またエンターテイメント性あふれる忍者作品が生まれないだろうか?


#挿入歌やエンディングテーマもいいんだよなぁ。真田広之が歌っている曲も大好き。
#嵐の大野智が主演した「忍びの国」はどうも私とはいまひとつテイストが合わなかった。

2023年7月8日土曜日

アップルウォッチという免罪符

 最近,アップルウォッチをつけている人をたいへんよく見かける。もしかするとそれはアップルウォッチ風の時計なのかもしれないけれど,結局のところ黒くて四角いフェイスをした腕時計を身に着けている人が多い。テレビを見ていてもそんな芸能人が多い。時計バンドはいろいろと工夫しているようだけれど,やはり結局のところアップルウォッチはアップルウォッチなのである。

たしかにアップルウォッチは多機能で便利,そして健康増進にも役立つ(私もスマートバンドをつけているし)から,それが悪いわけではないのだけれど,みんながそれをつけていると味気ない感じがする。そしてそれが最近特に気になるのである。

私は腕時計に頓着しないので安いものしか身に着けていないけれど,腕時計自体はガジェットとして好きである。デザインだけでなくムーブメントの仕組み,精度などは気になって,雑誌やネットの記事などはついつい目を通してしまう。高級時計ももちろん好きだし,映画やTVドラマの中の登場人物がどんな腕時計をつけているかも気にしている。腕時計に気をつける人はやはりおしゃれなのだと思う。

このように私は,誰がどんな腕時計を着けているのかを楽しみにしているので,芸能人などがアップルウォッチを着けていると残念な気持ちになる。時計を選んでおしゃれをするというその人のセンスを感じることができない。あー,この人もアップルウォッチか...と思ってしまうのである。

アップルウォッチは特別なものは高いのだろうけれど,普通のものは10万円はせずに購入できる。アップルウォッチが一時期(だけだけど)オシャレだという雰囲気になったということもあって,アップルウォッチをとりあえず身に着けておけば腕時計のセンスをうんぬん言われることはない,という風潮があるのではないかと思われるのである。つまりアップルウォッチは腕時計のオシャレのセンスの免罪符になっている。それが気に食わない。いや,みんなが同じ時計を着けていても構わない,と思っている人はそもそもオシャレではないのではないかと思うのである。わたしたち一般人であればともかく,芸能人はそこらへんを気遣って欲しいなと思う。

ハリウッドのスターたちをみるとやはり素敵な時計を着けている(映画の中では演ずる役に応じた時計を,プライベートでは高級時計を)。日本でも一流スターはやはりセンスの良い腕時計を着けている。そんな彼らの「特別感」が私は好きなのである。

これだけ言っておいて,私はアップルウォッチを買うお金さえケチって,安い腕時計を着けているのだから呆れられるとは思うけれど,スターはスターであって欲しい。腕時計を見てもセンスを感じさせて欲しい。それがたとえG-SHOCKであったとしても,その人のセンスが感じられれば素敵である。オシャレの免罪符としてアップルウォッチを着けている芸能人には幻滅するのである。



#私について言えば,そもそも共通テストの監督などをする際に機械式時計をつけることなどできない。一秒たりと狂ってはいけない電波時計一択なのである(そして,おしゃれのために別途機械式時計を購入する余裕などない)。

2023年7月2日日曜日

劇場版 呪術廻戦 0:恋愛は呪いか

 そういえば,ずいぶん前に「劇場版 呪術廻戦 0」を観たのだけれど,そのことを書き忘れていた。書き忘れていた理由は,自分がそれほど感情的に盛り上がらなかった,ということではあるのだけれど,面白くなかったということでもない。

ところで,漫画とアニメの「呪術廻戦」のヒットはいろんな影響を及ぼしている。先日もオカルト関係のテレビ番組をちらりと見たのだけれど,呪われた人形などを「呪物(じゅぶつ)」と呼んでいた。オカルト好きの私だけれど,昔は「呪物」などという呼び方は一般的ではなかったと思う。「特級呪物」なんて呼び名にいたっては聞いたこともない。こうした呼び名が一般的になっているのだから,作品の影響力の大きさを感じる。

しかし,この作品は呪術や宗教の歴史背景をいろいろ調査したうえで描かれているようで,それには本当に感心させられる(たぶん優秀なスタッフがついているのだろう)。呪術を駆使した戦いなどは基本的には漫画オリジナルだけれど,ところどころに本当の呪術やその流派を思わせる設定などがあって,観ていてはっと気付かされる。本当のことをあちらこちらに少しずつ散りばめていることによって,作品の世界観の枠組にリアリティをもたせようとしていて,それは成功しているようである。インターネット全盛のこの世の中,嘘ばかりでは読者が興味を持ってくれないのだろう。クリエイターにとってはつらい世の中になったものである。

さて,映画の内容だけれど,主人公は本編とは違う乙骨憂太。彼は幼い頃に仲の良かった折本里香が交通事故で亡くなるのを目の当たりにしてしまったばかりに,彼女の霊・呪いが彼に固定されてしまう。そのため,彼の周りでは不思議なことが起こるようになり,彼は結局呪術高専に入学し,彼自身の呪いを解くために修行を積む。そして,呪術者による世界の支配をたくらむ一派と戦って...というお話。

私がこの作品を観て思ったことは,「結局,人間の恋愛というのは一種の呪いなのだ」ろうということ。相手への独占欲,嫉妬,そうしたものを生む恋愛感情は呪いに非常に近しい。もしも,そのように相手を束縛するものは本当の恋愛ではないというのであれば,そうした負の感情から開放されたものを逆に恋愛感情と呼べるのだろうか。あるいは本当の恋愛とはどういった感情にもとづくものなのだろうか。そんな,これまでに何度も何度も繰り返されているテーマをまた思い出しただけである(結局,こうした議論は安易に神の愛にまで昇華されてしまうことが多くて,ちょっと辟易気味である)。

しかし,映画の画力はすごい。観ていると,戦闘シーンの疾走感が素晴らしく,深い没入感を味わえる。しかし,この映画の美しいエンデイングを素直に受け止められるほど,もう私はピュアではなかった。ということで,評価は星3点。★★★☆☆(5点満点)。

2023年7月1日土曜日

東京工業大学 合氣道部 55周年記念行事

 先日,私の母校において私が9年間属していた合氣道部の55周年記念会が開催された。仲間に久しぶりに会うことができ,たいへん楽しかった。前回は50年記念会で盛大に開催されたので,今回はそこそこの人数でミニ記念会のはずだったのだけれど,いざ集まってみると70名を超える大人数。みんな合氣道部を愛しているのだなと再認識した。

55周年ということで55代のOB・OGが集まったのだけれど,私は第20代。私のあとに35年分の後輩がいることになる。実は私は在学中の9年間も部に通っていたので,9年分の先輩,後輩とは一緒に稽古したのだけれど,それ以外の人とはほとんど面識がない。それでもみな和気あいあいとお酒を交えてお話しすることができた。共通の経験,価値観があるからなのだろう。

話は少し変わるけれど,合氣道の技にも誰から学んだかによって技の特徴が違っていたりする。私はこれを「文法」と呼んでいるのだけれど,同じ先生から学んだ人たちと稽古をすると,文法が同じ,すなわちルーツが同じ感覚がする。一方,別の先生から学んだ人たちは基本は一緒なのだけれど,どこか違うのである。もちろん他流派の技に比べれば「同じ」なのだけれど。やはり誰から学ぶかによって,その伝えられる「感覚」(癖ではなく)が異なり,それが技に現れるのだろう。

同様に同じ合氣道部で長い時間を過ごした仲間は,技だけでない,日常の中にも表れる,同じ立ち居振る舞い,考え方などが影響をしているのだろう。だからこそ,長い間離れていても,すぐにまた現役時代のように笑いあえる。本当に素敵な関係になっている。

一部のひとたちで集まった二次会の面々を見ていると本当に涙が出そうになった。30年以上も経ってもまたこうして集まって,くだらない話がすぐにできる。そんな仲間はそうそう見つからない。私は幸せだ。

次は60年記念会かな。私も還暦になる。まずは元気で参加することが目標だ。

#ほんと,年寄りの記事内容だ…

ネットの書き込みは年寄りばかり

SNSというのは大変面白い。たとえば、テレビでは番組に対する視聴者の反応がわからなかったものが、今ではコメントが書き込まれることによって反応をいくぶん知ることができる。あるいはXなどへの書き込みによって、リアルタイムで感想がタイムラインにあふれることになる。そうした双方向性、即時...