2022年12月31日土曜日

2022年はなんて運が悪かったんだ!

 2022年は私にとって過去類を見ないほど運が悪いことが起こった。

1月:奥歯が割れて抜いて,部分入れ歯のお世話になった。

4月:足を剥離骨折。

4, 5月:盲腸で開腹手術。入院でゴールデンウイークがつぶれる。

8月:台風の影響で福井の高速道路が通行止めになり,敦賀で折り返して長野経由で長岡へ帰る羽目に。

そして12月,携帯電話が壊れて新品取り換え。。。

その他,鳥のフン被害や車の修理もあったし,訪ねた店が事情で休業なんてことも本当にびっくりするほどの頻度で起こった。

昨晩だって,「かつや」に閉店1時間以上前に行ったのだけど,肉と御飯がなくて,ヒレカツとメンチカツとエビフライしか提供できないと言われてショック。次の店では,すでにラストオーダーが終わっていたし(長岡は閉店時間が早いのだ),雨の中,車であちらこちらをさまよって,結局スーパーの弁当で終了。こんなことがしょっちゅう起こっている。神社で引いたおみくじも相当驚いたものだったし。

たぶん車の運転のときの信号のタイミングと一緒で,赤信号に引っかからずに進むことができるかどうかはほんのちょっとの差で決まるように,こうした運の悪さもほんのちょっとの違いで運の良さになるのかもしれない。これまでの人生,そのちょっとの差が良い方に転んでいたのだろう。それが,潮目が変わった。これからの人生は,そうした流れの中で生きていかなければならないのかもしれない。

私が初めて就職した際に,研究所の所内報に載せた言葉を今またかみしめて来年を迎えたいと思う。

天薄我以福、吾厚吾徳以迓之。

天労我以形、吾逸吾心以補之。

天阨我以遇、吾亨吾道以通之。

天且奈我何哉。(菜根譚より)

天が私に福を薄くするならば私は徳を厚くしてこたえよう。

天が私を身体で苦労させるならば私は心をリラックスして補おう。

天が私の境遇を行き詰まるようにするのであれば私は我が道を貫こう。

そうすれば天は私をどうすることもできなくなるだろう。

同じ言葉だけれど,自分が年をとったためか,あの若いころとちょっと感じ方は変わっている。


♯「運が悪い」と感じるのは,そう思うバイアスがかかっているから,そうした事象を特別に記憶してしまっている,とは思うのだけれど,そうしたことを考えても今年はひどいことばかりが起きた…

2022年12月4日日曜日

ジョン・ウィック:とにかくキアヌ・リーブスがカッコいい,アクション映画の金字塔

 もう12月に入ってしまった。2日には初雪が長岡でも降った。いよいよ冬本番である。

相変わらず毎日が忙しい。どうにもならない状況で,努力も実らない状態がずっと続いていると,心の元気が減ってくる。合氣道の稽古もできないとなると,どうやって気分を落ち込ませないように維持するか,工夫が必要になってくる。

そこで,気分をスカッとするために,久しぶりにアクション映画

「ジョン・ウィック」(監督:チャド・スタエルスキ,主演:キアヌ・リーブスj,2014年)

を観た。やっぱりいいなぁ。少しは気が晴れた。

ジョン・ウィックの良いところは,まずその物語の設定である。殺し屋組織(主席連合と呼ばれる)があり,中立・安全地域として「コンチネンタルホテル」があり,誓印をめぐる特別な関係や金貨,そしてルールがあったりして,それだけでワクワクする。そこへ引退していた伝説の殺し屋が妻との思い出のために復讐するというストーリー。たまらない。

次に良いところはそのアクションである。Gun-Fuと呼ばれる銃撃戦とカンフーを組み合わせたような格闘・戦闘シーン。カンフーとは言いながら,実際は,「柔道」,「合氣道」,「空手」などを組み合わせた技術となっていて,日本の格闘技をやっている人であれば,「おーっ」と声をあげてしまうのである。もちろん,銃撃戦も派手で,一体何人殺しているのか,その数だけでも他のアクション映画とは一線を画している。

とにかくキアヌ・リーブスがカッコいいのだけれど,撮影の頃は年齢が50歳直前くらいと考えられるから,彼にとっても相当アクションがハードだったのではないかと思う。この映画のクオリティまで高めるためにどれだけの訓練を積んだのかと思うと,私も元気が出てくる。

この映画の欠点は,最後のファミリーのボスとの戦いのダサさであると私は思う。結局,徒手の殴り合いやナイフの切り合いになってしまっている。そこで使われる技術も,他の戦闘シーンに比べるとかなりチープである(まぁ,相手役が激しいアクションに耐えられないだろうとは容易に予想がつくけれど)。しかし,しかしである。もっとスマートにガンファイトで戦いを終えることはできなかったのかと思う。

しかし,その欠点を差し引いても,この作品は「ボーン」シリーズ同様,アクション映画の金字塔の一つであることは間違いないのである。なので評価は当然,

★★★★★(星5点満点で5点!)

シリーズ4作作られるほどの傑作だけれど,どうも日本では知名度が低いような気がする。アクション映画のみなさんにはぜひ観てほしい映画である。

#ウィレム・デフォーが珍しく味方側の親友を演じている。そのことにびっくり。そしてその老け方にも少し驚いた

#ジョン・ウィックが乗る車は,車好きにはたまらないクラシックスポーツカーであって,最初に乗っている車は,フォードのマスタング1969年式。かっこよすぎる!どうも特別仕様のマッスルカーらしい(BOSS429?)。「ブリット」といい,この頃のマスタングはかっこよくて憧れてしまう…

2022年11月27日日曜日

テレビを見る時間がない!

 なにか,とても忙しい。TVが楽しみの私としてはゆっくりと番組を見る時間がとれずに,いや無理やり見ているから,毎日たいへんにつらい。TVくらい見る自分の時間は欲しいものだ。今期は以下の番組しか見ていないのに。。。

エルピス,最高のオバハン 中島ハルコ,チェンソーマン,

鎌倉殿の13人,アトムの童,城塚翡翠

(その他,音楽番組(「クラシックTV」とか),バラエティを見ているけれど。。。)

結局,スキマ時間にネット放送で見ている。Tver万歳!そしてワールドカップも気になって見てしまう。AbemaTV万歳!

ドラマを見ると,少しスッキリする。私の趣味からいくと,重苦しいドラマが好きだ。今期でいうと,エルピス,鎌倉殿の13人あたりが重くていい。たぶん主人公がつらい立場にあるとき,「つらいのは私だけでない,この人物もつらいんだ」と思えるから,見たいと思うのだろう。チェンソーマンも主人公デンジの願いが本当に切実,せつなくていい。このアニメはバッドエンドに違いないと思う。だからこれからもずっと見てしまうのだろう。

同じ理由で,最近の朝ドラで好きなのは「スカーレット」なのである。戸田恵梨香演じる主人公の人生が本当にシビアで,毎朝ついつい気になって見てしまっていた。こんなにつらい人生を朝ドラにするなんて。。。すばらしいドラマだった。

TVをゆっくり楽しむ余裕が欲しい。でも余裕ができるとたぶん番組を見なくなるんだろうなぁ。自分が生活からTVに逃げていることを知っている。


2022年11月26日土曜日

「何度でも何度でも」ということの愚かさ

 Dreams come trueの歌で,「何度でも」という曲がある。

なんどでもなんどでもなんどでも立ち上がり呼ぶよ,君の名前,声が枯れるまで

というフレーズが耳に残る名曲である(と思う)。

しかし,この曲を聞くたびに,「同じことを何度も繰り返す」ことの愚かさを思う。もっといえば,「同じ過ちを何度も繰り返す」ことの愚かさを思う。これがわからない人(学生)がいる。繰り返すことによって,異なる結果が得られると思っているのだろうか。

狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること

という言葉を知らないのだろうか(アインシュタインの言葉と言われているけれど,よくわからない)。私も全くこの言葉通りだと思っている。

線形時不変系の制御を考えればすぐに分かる。入力が同じであれば出力はいつも同じなのだ。出力を変えようと思ったら入力か,システム自体を変えなければならない。すなわち「やり方」を変えなければならないのだ。そんな自明な事実がわかっていない人(学生)がいる。それは過去の成功体験にでも引きずられているのだろうか。

実際は,世界の大体の物事は非線形時変システムなのだけれど,ある限られた時間で成果を出すために,対象,課題が変化して同じ入力で期待する出力を得ようとするのは,あまりにも非効率的すぎる,いや不可能である。まずは自分が変わり,入力を変えることが必要だ。人間関係でも,相手が変わることを期待してはいつまで経っても良い結果は得られない。自分が相手に対する態度を変えることが肝要である。

では,最初のドリカムの歌詞は愚かなのだろうか。。。その通り。しかしその愚かな繰り返しをしなければならないほど,相手をあきらめられないということなのだろう。

1万回ダメで望みなくなっても1万1回めは来る

そして恋愛は,非線形時変システムということなのだろう。

2022年11月20日日曜日

回路 黒沢清:ネットを通じて死者の魂があふれ出す

 映画「CURE」を紹介したので,黒沢清監督つながりで,

「回路」(監督:黒沢清,主演:加藤晴彦,麻生久美子,2001年)

という映画を紹介したい。

怖いと評判の映画なのだけれど,私はそれほど怖くなかった。「CURE」が大傑作過ぎたからなのか,少し拍子抜けという感じだった。

主人公たちの周りの人々が,黒い影を残して消えていってしまうということなのだけれど,ストーリーの設定が,死者の魂の数があの世のキャパシティを超えてしまったのでネットを通じてこの世に溢れ出てくる,というもので(輪廻転生はないらしい),なんというか,なかなか難しい。ただ,「黒い影を残して消える」,「知らぬ間に接続されてしまうサイト」,「ネットに接続されている怪しい人物たち」,「赤い梱包テープで目張りされた開かずの間」,「絶望して自殺」などのエピソードが不穏な雰囲気を演出していていい感じだった。

ストーリー自体は難解で,最後は世界の破滅につながるような壮大な話につながるのだけれど,いかにもチャラい男の加藤晴彦と普通の女の子である麻生久美子の視点で最後の方まで話が進むから飛行機が墜落するような世界の終わりに,観ている方は驚いてしまう。

設定も面白く,雰囲気を素晴らしいけれど,好き嫌いは分かれる映画と思う。ただ映画は世紀末から21世紀の始まりの頃の時代の雰囲気をよく表していて,特に女の子の服装が目をひいた。有坂来瞳が意外に良い演技をしていた。麻生久美子は現在と雰囲気が違っていて最初誰だか気づくのに時間がかかった。そして加藤晴彦の彼女(?)となる小雪の美しさが記憶に残る。

21世紀の始まりにこの映画が公開されたことには意味があるような気がする。

私の評価は,★★★☆☆ (星3つ。5つが満点)

#アメリカでリメイクされたらしい。タイトルは”PULSE"。"Circuit"ではなかったらしい。予告編を見ると,コケる女性の幽霊,飛び降り自殺のシーンなどは踏襲されているようだ

2022年11月19日土曜日

CURE 黒沢清: 催眠の伝道師にゾクゾクする

 最近,久しぶりにこの映画を観る機会があったので紹介する。

CURE (監督:黒沢清,主演:役所広司,1997年)

この映画はホラーなのかサイコなのかよくわからないが,ゾクゾクする怖さ,面白さがある。私の生涯に観た映画の中でも,少なくとも邦画の中ではトップ10にランクインするほどの面白さである。黒沢清という監督を知ったのもこの映画がきっかけである。役所広司がホラー映画に適性があるというのを知ったのも,この映画である。

ストーリーは記憶喪失の身元不明の怪しい男 間宮(演じる萩原聖人が素晴らしい)が関わった人々の周りで起こる不可解な殺人事件。犯人を追う刑事の渡部とその友人の心理学者 佐久間(演じるのはうじきつよし。これがまた素晴らしい)の調べによって,間宮が催眠暗示を与えて殺人を起こさせているらしい。間宮の目的はなにか?そして間宮の力に巻き込まれていく渡部と佐久間はどうなるのか。。。というもの。

間宮は催眠暗示によって,人々のストレスを取り除く,すなわち殺人を犯させるように誘導しているのだけれど,間宮の底知れぬ闇に渡部も佐久間も影響を受けていくのが恐ろしい。結局,渡部は精神を病んでいる妻を看護婦に殺させ(そうだとは明示されていないが),ストレスを開放して,「怪物」(本作の黒沢清監督と役所広司の公開インタビューでそう彼らは表現していた)となってしまう。渡部は劇的に変わるのではなく,徐々に影響を受けていくところが現実味を感じさせる。心理的なスリラーなのである。

今回,見直したのは何度めかだけれど,やはり多くの謎が残る。間宮の目的は一体何だったのか?映画では間宮は人々のストレスを解放させるように誘導する役割を,誰かから引き継いだように描かれていて,それはまさに「伝道師」である(この映画のタイトルは「伝道師」であったと上記インタビューで話されている)。素直に映画のラストを解釈すると,今度は高部が伝道師の役割を引き継いだように思えるのだけれど,なぜ「伝道師」が存在するのか謎は謎のままである。そしてそれはたぶん解けない謎なのだろう。

催眠暗示は本人が嫌がることをさせることはできないと言われているので,この映画のようなことは起こらないかもしれないが,具体的に催眠暗示をしなくても,あるいは明示的に洗脳をほどこさなくても,その人の周りにいるだけでなにかしらの考えに感化される,あるいは考え方に影響を受けることは十分に有り得る。負の場をつくる人は実在するのではないだろうか(もちろん,正の場を持つ人も確実にいるけれど)

その他にも猿のミイラ?など思わせぶりなショットがいくつも出てきていて,不穏な雰囲気は満載なのだけれど,意味は不明なままである。小説が出ているというのだけれど,読む気はあまりないし。。。

とにかく観終わったあとに,人の心の闇が気になるような,奥行きのある映画となっている。ときどき観たくなる映画なのだ。1997年の映画だけど,全く色褪せていない,いや今こそ観るべき映画であるとオススメできる。

評価:★★★★★(星5つが満点)

#実は,ずいぶんあとで「ドレミファ娘の血が騒ぐ」という映画の監督も黒沢清であったと知った。この映画はナンセンスなコメディ映画?で,同じ監督なのかと驚いた。(CUREにも出ている洞口依子が主演)。

2022年11月14日月曜日

霊媒探偵・城塚翡翠の最終話を見て

 霊媒探偵・城塚翡翠の最終話を見て...

清原果耶,おそろしい子!

この一言しかない。ひとりで滔々と長セリフを回していた。

よく間を持たせることができるものだ。演技力が素晴らしい。期待の俳優さんである。

#共演の小芝風花もNHKドラマ「トクサツガガガ」を観て以来,期待している俳優のひとり。ただドラマの中で瀬戸康史からナイフを取り上げる殺陣はちょっといただけなかったけど…

2022年11月13日日曜日

結局,信心とは傾聴である

 父の十三回忌の法事において住職に伺った説話を紹介してきた(その1)。

結局のところ,浄土真宗では,私たちは仏の御心をいただいているのだから,人を導くためにはただただ傾聴することが重要らしい。

しかし,人の話を自らの先入観,価値観にとらわれることなく,そのままに聴くことの難しさは,これまでの人生で嫌というほど感じてきている。

  • 人の話の進み方が遅いと(説明の要領が悪いと),話の途中で「結論を話せ」と遮ってしまう
  • 人の話をただ聴けば良いだけなのに,解決法を考えてそれを相手に押し付けてしまう
  • 自分の価値観で人の話を判断してしまい,話している人がなにに悩んでいるのか理解しない(理解できない)

などの反省を私は山ほどしなければならない。

しかし先入観なしで話を聴くということはどれほど難しいことか。住職にこんなクイズを出された(テレビでやっていたそうだけれど)。

Q: 白い豆と黒い豆を混ぜて鍋でよく煮た。煮たあとに白豆と黒豆をたった3秒で分けることができた。どのようにしたのか?

私は「煮汁によって白豆はすべて黒豆のようになったので分ける必要がなかった」とひどい答えをしたのだけれど,住職から聞いた答えは「黒豆は最初から一粒しかなかったから」というものである。つまりは,先入観によって,白豆も黒豆も多くあると勝手に想像してしまっていたために答えを導けなくなっていたわけである。

他人の話も同様で,自分の先入観,価値観にとらわれず,ありのままに受け入れるということがどれだけ難しいことか。つねに自分というフィルタを通してでしか理解できない。しかし,それは人間の認識の限界で仕方ないと私は思う。結局,自分の価値観のフィルタから逃れることはできないということを認識し,それを考慮した理解,行動をしていくしかない,ということだろう。

人に話を聴いてもらう。それだけで救われる人も多い。信心を背景として人の話を傾聴して癒やしていく,それが寺の住職の昔からの役割だったのだろうと思う。

2022年11月12日土曜日

猫の信心,猿の信心

 法事のときに聞いた説話その3(その2はこちら

今回は他力本願と自力本願のちがいのお話。

猿が子猿を川の向こう岸に渡らせる際には,子猿は親猿にしがみついて渡る必要がある。親猿は川の向こうに子猿を渡してくれるけれども,子猿は親猿にしがみつく必要がある。すなわち悟りに至るには,なんらかの自分の努力(修行)が必要ということを表している。いわゆる自力本願である(普通の仏教)。

一方,猫が子猫を向こう岸に渡らせる場合には,親猫は子猫の首をくわえて運んでくれる。子猫は何もしない。これが他力本願ということになる。

親鸞はいくら自らが修行を積んでも,悟りには達するのは難しいと感じ,結局,阿弥陀様の本願によって救われるとの考えに至ったのだという。

『猫の信心」と「猿の信心」。自力本願と他力本願の特徴をよく表している例えだと思った。

2022年11月6日日曜日

我を捨てる

 法事の際に伺った説話のその2(その1はこちら)。

私たちはどうしても我に捕らわれてしまう。

あるとき,バスに乗っていたらおばあさんが乗車してきた。そこで自分はおばあさんに席を譲ってあげ,おばあさんは譲られた席に座った。その後,そのおばあさんは自分に礼も言わずバスを降りていったという。このとき自分は,「せっかく席を譲ってあげたのに,礼もなしか」と腹を立てないだろうか。自分は善い行いをしたのだとどこかで我が増大していないだろうか。

たとえおばあさんが礼を言わなくとも,「おばあさんのお陰で自分は善行をさせていただいた。どうもありがとう」と思うことができたらどんなに素晴らしいだろう。

教育の現場で腹を立ててばかりいる私には耳が痛い話である。

2022年11月5日土曜日

催眠術は倫理観を越えさせることができるか

 先日,新潟駅の前の通りで,全裸の男が捕まったというニュースを見た。ニュースによれば26歳のその男は裸足で,何も身に着けておらず,それでいてアルコールも検出されず,交差点の信号も守って堂々と歩いていたのだという。逮捕後,男は全裸で歩いていたことは認めているのだけれど,なぜ歩いていたかは思い出せない,と話しているということが非常に興味深い。この事件が私の想像力をそそる。彼がこうした行動に出た理由について考えてみたい。

1.彼は罰ゲームかなにかに理由で男は全裸で歩く必要があった。だからその理由については話せず,思い出せないと嘘をついている: 最も確率が高い理由として,「男はゲームで賭けをしたか,借金を抱えたりして,街を全裸で歩く必要があった。その詳細な理由については恥ずかしいので,覚えていないと供述している」ということが考えられると思う。このケースのポイントは,男が自分の意識や行動を意識して歩いていたということである。「思い出せない」というのは嘘ということである。これが最もまともな理由ではないかと思う。

2.夢遊病などの行動障害: 男は夢遊病などの行動障害の病気を抱えていて,今回の行動をしてしまったという理由も考えられる。しかしこの場合,交差点の信号を守り堂々と歩くなどということができるだろうか,と疑問に思う。男は夢の中(幻想の中)行動していたのだろうか。私はそうは思わない。当然,彼には行動中,そうした顕在意識はない。

3.催眠状態にあった: 私がこうだったら興味深いと考える理由は,男が催眠状態にあったというものである。男は何らかの理由で誰かに催眠をかけられていたのではないだろうか。そうであれば,記憶支配,思考操作されていたということになる。彼は,意識をもって行動していたことになるのだ。

催眠術というのは,術者と被術者との協力関係によって生まれ,被術者の催眠のかかりやすさの特性が催眠の深さに関係すると私は思っているのだけれど,もしも催眠術が理由であれば,この男はよほど催眠術にかかりやすかったのだろう。

繰り返すけれど,催眠術は術者と被術者との協力によって可能となる。だから,被術者が嫌だと思うような指示はできないとされている。例えば,殺人や自殺を行わせるような指示は与えることができないというものである。

しかし,私はそれは可能ではないかと考えている。「殺人」や「自殺」という倫理的に問題がある概念については,それを「陽」に指示すれば被術者は拒否反応を起こすだろう。しかし,人がチーズに見えるようにして,そこにナイフを刺して切り分けるという指示であればどうだろう。あるいは車が見えないように暗示をかけて歩行者天国だと思わせて交差点で踊らせる,などという「陰」に与える指示は可能ではないかと考えているのである。

今回の男も,なんらかの背景を与える暗示,たとえばヌーディストビーチで開放的な気分になるなどという,すなわち裸でいることが当たり前と思わされる思考操作をされていた可能性があると私は思うのである。この場合,誰が,なんのために,彼に催眠をかけたという非常に面白い謎が出てくるのだけれど。

催眠についてはあくまでも私の想像でしか無いのだけれど,こうしたことを考えるとき意識によって行動が支配される動物である人間というものは,非常にやっかいなものだと思うのである。肉体的な強制ではない,言葉によって与えられる催眠のようなものに支配されてしまうのだ。

明示的な催眠だけではない,この世はすべて催眠と暗示,そして洗脳でできているといっても過言ではないと思っている。そして,それらの精神的デトックスを行おうとすれば,その人の価値観が壊れ人格破壊に至る可能性だってあるほど,私達の精神に深く刻まれていると思うのだ。だからこそ,人間関係は複雑でつらく,そして面白いのだけれど。


2022年11月3日木曜日

こだわりを捨てる

 私の家の宗派は浄土真宗なので,法事の際に説話がある。そのときに聞いた話のその1.

お坊さんが村に出かけ,帰宅途中に井戸の周りに村人たちが語らっていた。お坊さんはお水を一杯所望して,いただいたかわりに一つお話をした。そのお話である。

川で,自分の妻と母親が溺れてしまっているとする。さてどちらを助けるか?という問題。妻を助ければ,自分の母親に申し訳が立たない。一方,母親を助ければ,妻に申し訳が立たない。村人たちは意見を言い合うけれど答えは一向に出ない。そこでお坊さんは,「そんなことで迷っていては,ふたりとも溺れてしまうぞ!」と急かす。しかし,とうとう村人たちはどちらかを選ぶことはできなかった。そして村人たちはお坊さんに「どうしたらよかったのでしょうか」と尋ねたという。「そばで溺れている人から助ければ良い」とお坊さんは答えた。「妻」だ,「母親」だ,と肩書を気にしてそれにこだわるから答えがでない。そうしたこだわりを捨て,そばで溺れている人からすぐに助けに行けば,「妻」も「母親」も助けることができるだろう。ということなのである。

そうしたこだわり,先入観が煩悩ということであり,そうした煩悩を修行によってひとつひとつ消すことが悟りへの道である,というお話であった。

単純な話だが,いろいろと考えることは多い。

2022年10月30日日曜日

50代半ばの男にはトレーニングが必要だ

 最近,野放図に3日間連続で大食する機会があった。一週間ほとんど身体を動かすこともなく,である。

まず体感したのが,自分の体力の無さ。深夜までモノを食べることになるとテキメンに翌日に影響がでる。疲労が一晩ではとれない。朝からすっきりしない。

次に集中力の無さ。集中力は体力なのではないかとつねづね思っているのだけれど,その事実を思い知らされた。疲れていると午前中であってもどこかおかしい。午後の講義においても板書で間違いばかりを犯していた。頭の中まで疲労が支配しているのだ。

お酒を飲めば,更に状態は悪くなる。疲労回復のために働く肝臓がアルコール分解の仕事にまわされる。水を大量に飲めば翌日見事に顔と身体がむくむし,お酒を飲んだあとは甘いものを大量に食べてしまうので,翌日の内蔵の調子もすこぶる悪くなる。なにもいいことはないのだ。

これを克服するのは,大食・深酒をやめるのが一番だけれど,そうも言っていられないこともある。いや,そうした機会でストレスを発散しているのもれっきとした事実だ。なによりこうした機会が楽しめなくなるということが悲しすぎる。回数は減らすけれど,ときどきは楽しみたい。

そこでトレーニングである。「トップガン マーベリック」を観た後に腕立て伏せをやってみて,ほとんどできないことにショックを受けたけれども,やはり男としてそれではいけないような気がする。美味しいものを飲んだり食べたりするためにもトレーニングをしようかなと思う。頭の働きもたぶん良くなることは間違いない。散歩も脳にいいらしいし。

50代半ばを過ぎて,どんどん体力はなくなるばかり。老化に少しでも抗うために少しは身体を動かそうと思うのである。その目標がトム・クルーズの5%くらいの体力であったとしても(そしてこれまでのように,それが三日坊主になる可能性が高いにしても)。

2022年10月29日土曜日

錆色の長岡と小川未明の「眠い町」

 長岡の街は茶色い。街中の道が赤茶けた錆色をしている。私が長岡の大学に赴任することが決まったとき,真っ先に思い浮かんだのはこの赤茶けた錆色の道路である。

長岡を訪れた人はこの錆色の道路に驚く。たとえば東京の明るい灰色をしたアスファルトの道路とあまりにも違う。街全体が錆びついているような印象を与える。曇り空の下,憂鬱な街といった雰囲気を醸し出している。

なぜ道路が錆色をしているのかというと,それは融雪パイプのせいである。雪が多い長岡では道路の雪を溶かすために,道路の中央に融雪パイプが埋められていて,雪が積もりそうになると公園の水飲み場の水のように水が吹き出す仕掛けになっている。おかげで道路の凍結などが防げるのだけれど,その水は地下から汲み上げている。もともとの地下水が鉄分を含んでいるのか,それとも融雪パイプ自身が鉄管なのかわからないけれど,融雪パイプから出てくる水は鉄分を多く含んでいるようなのである。そしてその水が錆びて道路を赤茶色ににじませているのである。

私は,この錆色の長岡の街を思うとき,大好きな小川未明の「眠い町」という作品を思い出す。主人公のケーは「眠い町」で出会ったなぞの老人から分けてもらった「疲労の砂」を世界に撒きながら旅をする。この疲労の砂をかけられると,ものは腐れ,鉄は錆び,人は疲労のうちに眠くなってしまうのだ。世界の工業化に逆らうようにケーは砂をまいていたのだけれど,とうとう砂はつきてしまう。ふたたびケーが「眠い町」を訪れると。。。

長岡の街はこの「疲労の砂」を撒かれたのではないだろうか。そんな空想をすることがある。私がときどき異常に眠くなるのも,その砂のせいではないだろうか。ケーはいつかこの街を訪れたに違いない。


#小川未明の作品は,どこか藤本タツキの作品に似ているような気がする

2022年10月22日土曜日

チェンソーマンのアニメがすごい。そして藤本タツキの才能がすごすぎる。

 この年齢になってあまり多くの本数のアニメは観ないのだけれど,今期観ようと思っている作品の一つが,

「チェンソーマン」(原作:藤本タツキ)

第1話を観たけれども,非常に絵が美しい。3Dの背景と2Dの登場人物たちがあまり違和感なく融合した画となっている。アクションも素晴らしいし,細かい描写も手を抜いていないように思える。非常にクオリティが高くて感心した。そして,たぶん多額の制作費がかかっているものと想像し,その費用の回収はどのようになされるのか心配になった。MAPPAがつぶれるほど疲弊しなければいいのだけれど。

原作は,ずいぶん以前に2巻(?)まで読んだ。その後は読んでいない。なぜか。それは物語が切なすぎるからである。私は悲しみで胸が締め付けられる切ない話が苦手なのである。このチェンソーマンに出てくる登場人物はそれぞれに背景があって,切ない思考・切ない行動をしている。主人公のデンジなんて,現代人のつらさそのものを背負っているようだ(デフォルメされてはいるけれど)。友達であった悪魔ポチタとの交流も切ない。ありえないような純粋な関係が描かれている。こうした物語を読むうちに私は胸が痛くなって,漫画から少し距離をおいたのである。

しかし,この原作者「藤本タツキ」は本当に才能がある。それを感じたのはチェンソーマンもそうだったけれど,「ルックバック」という読み切り作品を読んだときには,その素晴らしさ,切なさに感動した。この作品については私が述べるまでもなく,多くの人が絶賛していたけれど,本当に素晴らしい。この数年で一番感動した作品かもしれない。

「感動するということは,心に引っかき傷をつけることだ」,と誰かが言っていたけれど,藤本タツキの作品はまさにこれを実現していると思う。読むと切なくてつらい。だからずっと感動が残る。そんな作品を彼は生み出している。このまま多くの作品を描き続けてほしい。世間や出版社につぶされることなく。

「チェンソーマン」は今後も見続けたいと思う。私は3巻以降は読んでいないけど,第1部は完了しているはずである。まずは第1部最後までアニメ化して欲しい。関心がない私世代の人にもぜひおすすめしたい作品である。

#しかし,ジャンプって,同時期に「チェンソーマン」,「鬼滅の刃」,「呪術廻戦」を連載していたのか。すげぇ。

霊媒探偵・城塚翡翠:オカルトではなくミステリー

 私はオカルトが大好きなのだけれど,その私がタイトルに惹かれて観たドラマが,

「霊媒探偵・城塚翡翠」

である。主人公が女性霊媒師で,殺された人の霊を降ろし犯人を知る。しかし,霊視では犯人であるという証拠にならないから,バディとなるミステリー作家が推理をして論理的な裏付けをする,という内容であった。テレビの宣伝によれば原作である小説はたいへんな人気で,ミステリー小説としていろいろな数々のタイトルを受賞しているらしい。

確かに面白い設定である。霊媒によって犯人を知るだけではなく,それを裏付けるためにあとづけの推理をする。そんな小説はこれまでなかったと思う。いろいろな伏線があるということだから,今後はオカルトというよりももっとミステリー的な要素が強くなって,推理が難しく,そして面白くなっていくのだろう。それを楽しみにしている。

主人公は清原果耶が演じていて,芸達者なところを見せている。特に降霊しているシーンは良かった。謎めいた女性霊媒師を演じてはいるけれど,実は普通の女の子だったりするギャップもいい。彼女の魅力がこのドラマの魅力の多くの割合を占めているのは間違いない(というか,他にこの役をやれる若手女優はいるだろうか)。

バディとなるミステリー作家は瀬戸康史が演じている。今回はコメディ的な要素を排して演じている感じがする。妙にシリアスだ。彼にはなにか裏がありそうだから,今後が楽しみ。

今後が楽しみといえば,小芝風花もいい味を出している。まだ出番は少ないのだけれどこれから活躍しそう。刑事役の及川光博だけがちょっと役を作りすぎているような気が。。。悪い方向に働かなければ良いのだけれど。

私としては,おどろおどろしい心霊モノが大好きなのだけれど,このドラマは少し毛色が違うミステリー小説ということで期待している。そして主演の清原果耶に大期待。朝ドラ「おかえり,モネ」以来注目している女優なのだ。彼女の演技はなぜか心に残る。そうした俳優は数少ない。


#小説では,「Medium 霊媒探偵城塚翡翠」となっているようだ。Mediumは,服のサイズのMであるように中間を意味する言葉だけれど(Medium Voltageとか例であげたくない),実は媒体という意味もあって,オカルトの世界では「霊媒」を意味するのだ。昔,「メディウム」というオカルト・ファンタジー漫画雑誌もあったのだけれど…(大好きな高橋葉介の「夢幻紳士」が掲載されていた。姫野命シリーズもあった)

2022年10月16日日曜日

ブレット・トレイン:バカバカしくてスタイリッシュなアクション・コメディ映画!

 久しぶりに映画を観た。

ブレット・トレイン

英語でも"Bullet Train"。弾丸列車,超特急列車ということになる。ブラッド・ピット演じる悪運続きの裏社会の運び屋(?)が多くの殺し屋と同じ電車に乗り合わせ,混乱の極みとなるアクション・コメディ。ハリウッドというのはこういう馬鹿げた映画に巨額を投じて大作として制作するのだから本当に素晴らしい。細々とした暗い映画ばかりを作っている日本とは違う。

原作は伊坂幸太郎で,原作では新幹線が舞台らしい。映画でも東京から京都へ行く超特急となっているが,名前は「ゆかり」となっていた。この映画では,デフォルメされた日本のカルチャーが楽しめる。

ほんとに好きだなぁ,こういう楽しむだけの映画。ブラッド・ピットも楽しんで演じていたに違いない。いや,この映画の出演者はノリノリで演じていたに違いない。出演している真田広之もインタビューでそんな感じで答えていた。

真田広之は今回も映画の中で「運命」・「宿命」を語る人物になっている。アメリカ人から見ると彼はそうしたことを語りそうな日本人というイメージなのだろう(例えば「モータルコンバット2」でも過去の因縁を語っていたような気がする。「ジョン・ウィック4」でも語っていそう…)。でも彼が出演することで,なんとかこの映画のストーリーがまとまっているようだから,よかった,よかったと思う。

主要な出演者の中でも印象的なのは,殺し屋のLemon&Tangerine。特に,機関車トーマスに人生のすべてを学んだLemonがいい。この二人がいなければ,この映画にこれほどの笑いは生まれなかっただろう。

基本的にコメディ映画なので,アクションにもリアリティがなく(派手だけど),漫画のように楽しめる(さすがディビッド・リーチ監督)。しかし,スタイリッシュで金がかかっていることは人目でわかる。頭を空っぽにして楽しむにはもってこいの映画である。

なので,あまり人生の教訓になるようなことはないだろうけれど,今年悪運に苦しむ私にとっては「悪運は見方を変えれば,異なる捉え方もできる」という唯一の教訓にはいろいろと思うところがある映画だった。

ブラッド・ピットのかっこよさが際立つアクションコメディ映画。星5つ満点中,星4つ!★★★★☆。映画好きとブラッド・ピットファンは観るべき映画。

2022年10月15日土曜日

人は物語によって踊らされる

 人は事実によってではなく,それに付随する物語,ストーリーによって心動かされ行動する,という話をこのブログでは何度も取り上げている。人々はデータそのものではなく,そのデータを説明する文脈において判断しているように思われる。だから,新聞の記事なども執筆者が考えるストーリーにしたがってデータが解釈される。その解釈を私たちは理解し,そのストーリーを信じてしまう。そんな事実を何度も繰り返し見てきた。

1999年,東海村で発生したJCOの被爆事故。2名の当事者が多量の被爆で亡くなられたけれど,周囲の住民への影響はその被爆量の小ささからほとんど無いと考えられた。しかし,新聞や週刊誌などは被爆して健康被害がある,という文脈で記事を書き,結局住民の不安をあおり,風評を呼び,多くの人を傷つけた。私はその頃東海村に住んでいたので,そうしたマスコミの無責任さに本当に腹が立った。

例えばある新聞では,被爆症状の例を記事で取り上げていた。被ばく線量が広島・長崎の原爆による被爆レベル(数シーベルトとか)以上の急性被ばくの場合に現れる症状を紹介したのち,今回の周辺住民の被ばく量は数マイクロシーベルトレベルと想定される,と記事を結んでいた。1000000倍も違うような事例を並列して例示し,そのうえ「マイクロ」の部分は小さな文字で記されていた。明らかに印象操作を狙っている。そんな記事が数多くあって,本当に悲しくなった。

東日本大震災のときも同様である。ある新聞の連載では原発事故のために関東圏でも人が住めなくなる,なんて記事も掲載されていた。あるいは東京都で鼻血を出す子供が増えているだの,魚から大量の放射線量が検出されただの,とても科学的なデータ処理に基づいた記事とは思えない記事が多かった。ある個人の主張だとして記事を掲載すれば,新聞社の責任は問われないと思っているのだろうか(新聞社の意見は,「読者の意見」欄に表れると言われているが)。

テレビだって同様である。ある研究者もテレビ局の取材を受けた際に,全く逆の主張をしているように編集されて放映されて非常に憤慨していたのを知っている。

つまりは,私たちはこうした記事,番組を見るときには,よほど気をつけなければならないということなのだけれど,それはたいへんに難しい。意図・主張が明らかにされていなくても,いつのまにかある印象を持たされるようなことはたくさんある。そして,私たちもそうしたストーリーを(無意識的にも)求めているために,そうした記事,番組が数多く作られていくのだ。

私たちはどうしても単純な善悪に二分割されたストーリーに惹かれる。世界中の神話からしてそうした構造になっている。誰かが悪者になるのをどこかで欲している,世の中が陰謀によって動いていることをどこかで信じたい,そして自分のこの幸せでない状況は私自身のせいではないと信じたい,そんな欲求が,こうした物語を変わらず生ませているのだろうと思う。

人間が物語によって生の価値を求めている限り,私たちは誰かの物語に踊らされるのだろう。自分の物語を確立して,踊らされることなく生きていくことは可能なのだろうか。

2022年10月8日土曜日

心を整えることの意味:「整える習慣」

 最近,サウナブームということで「ととのう」という言葉が流行っている。心と身体がリラックスするという意味で使われているようだ(「ねづっち」の謎掛けではない)。

ちなみに私はサウナは苦手なようで,少しの時間入るだけで暑さに耐えられなくなる。あるスーパー銭湯のサウナに入ったら,床面が熱くてその上を歩くことさえできずにすぐに退散したくらいである。

さて,サウナで整うのとは別に,日頃の生活の習慣を気をつけることによって自律神経を整えようというのが,今回紹介する本の趣旨である。

「整える習慣」小林 弘幸 著

仕事や運動の調子がいい,というのは主に自律神経が正常に働いている状態を言うのである。仕事に集中できるとか,身体が軽いとか,体力にも影響されるが,自律神経にも大きく影響されている。いかに自分の100%のパフォーマンスを発揮するために,自律神経を整えていくか。それがこの本のテーマになっている。そうした項目が108個紹介されていて,それらを通していかに心と身体が密接な関係にあるかを知る。

この本を読んで一番驚いたのが,怒りによって一度自律神経が乱れると再び落ち着くのに3~4時間かかるということである。私なんて短気だからすぐに怒ってしまうのだけれど,そのたびに心が乱れパフォーマンスが落ちているかと思うと反省することしきりである。

私が稽古している「心身統一合氣道」では,この心と身体の働きについて非常に丁寧に教わることができる。心と身体の密接性については「心身一如」を前提として稽古の内容が組まれていて,まさにこの心を技を通して整え最高のパフォーマンスを発揮することを目的としている(だから多くのアスリートが学んでいるという)。この本を通して,私が稽古している合氣道との関係性を強く感じた。そんな形而上学的な崇高な事柄ではなく,日常の具体的な心がけ,行動を通じて,自分の心を整えていく。そのことの意味をあらためて考えるきっかけになった。

座禅や瞑想,中国の武術では,「調身,調息,調心」と言われる。結局のところ,自律神経を整えることに関係している。日頃のちょっとした心がけが,その秘奥につながっているのだということを本書を読んで再認識したのである。

2022年10月4日火曜日

完璧に美しいブリッジ:アントニオ猪木のジャーマンスープレックスホールド

 アントニオ猪木に関する記事を連続して書く。

なんだかんだいって,私の世代であればアントニオ猪木の思い出ってそれなりに多くある。猪木の伝説としては,例えばヒンズースクワットを1万回できたとか,関節が俗にいう「ルーズジョイント」で猪木には関節技が効かないとか,そんな話が思い出される。

では「猪木の最高の必殺技とは何なのか?」ということに関する答えを私の限られた知識で考えたい。

最も有効な技は,ズバリ「チョークスリーパー」である。実は喉を締める「チョーク」はプロレスでも反則技である。その反則技を猪木は審判に見せないようにギリギリのところで使うのが,ファンにとってはシビれるのである。猪木は実は「チョーク」である必要は全然なかった。彼は「スリーパーホールド」の使い手だった。馳戦では,本当に一瞬(2秒もかからないくらい)で馳を「落としている」。チョークは喉の気管を締めるのだけれど,本当のスリーパーは頸動脈を腕で抑えて締める。その結果,脳に血がのぼらなくなって一瞬で相手の意識を失わせることができるのである。猪木はその技術が本当に素晴らしいのである。彼はその技術に絶対の自信を持っていたのか,ここぞというときにスリーパーを出している。あのカッコいいスリーパーはもう見ることができないのか…

そして最も美しい技はなんといっても「ジャーマンスープレックスホールド」だと思う。この技の使い手は多くいるのだけれど,中でも猪木のブリッジはピカイチに美しい。スープレックスからフォールに持っていくためのブリッジの弧がやわらかく美しいのだ。ゴッチ直伝ということだったと思うけれど,ゴッチの弟子の中でもその美しさは一番なのである。私の中では,猪木と言えばこの美しいスープレックスを思い出すのである。

以前,スープレックスを練習したことがある。首で支えるブリッジを練習していた(首を鍛えれば殴られ強くなると聞いていたし)。柔らかく丸いブリッジを目指して練習したけれど結局低くつぶれたブリッジしかできなかった。猪木のブリッジは,目指すのもおこがましいものだった…(結局,できないままあきらめてしまった)

猪木がスープレックスでゆっくりと描く弧はみんなが目を離せなくなる美しさがあった。その完璧なスープレックスだけでも,アントニオ猪木はみんなの記憶に残り続けるだろう。

2022年10月1日土曜日

ある夜の水道橋駅の「ダーッ!」:アントニオ猪木の訃報を聞いて思い出す。

 アントニオ猪木の訃報を知る。

私が中高生の頃すごいプロレスブームがあって,彼はスーパースターだった。そして,その後の格闘技ブームにおいても彼は中心人物であり続けた。私は高校時代は空手道部でプロレスには興味はなかったのだけれど,空手道場のとなりのレスリング部の練習場には「週刊 プロレス」や「週刊 ゴング」が積まれていて,レスリング部に遊びにいくと時間つぶしに読んでいたような記憶がある。その頃,IWGP(「池袋ウエストゲートパーク」じゃないよ)が盛り上がっていて,猪木はハルク・ホーガンと戦ったとか,ビッグバン・ベイダーの方が強いとか,そんな強さ談義の他に,新間寿の監禁事件の真相はなんだったのか?などの怪しい話題も多かった。

大学時代になるとさらに大きな格闘技ブームがやってきて,プロレスは本当に強いのか?だとか,UWF設立時の猪木の役割はなんだったのか?などという話題で盛り上がっていた。彼が一線を退いてからは彼の人物記があちらこちらから出版されていて,それを読む限り人間的には完全だったとはいえないようだけれど,彼がいなければ日本の格闘技界は今とは全く違っていたものになっていたに違いない。それだけは間違いない。

私は猪木の試合を先輩に連れられてたぶん2度ほど観に行ったことがある。場所はどちらも東京ドーム。試合のひとつは坂口征二とタッグを組んでいたような覚えがある。もうひとつは確か馳浩と戦ってスリーパーで一瞬で馳を落としていたような...

そしてそのたぶん馳戦があった日だったと思う。試合後,猪木は「ダーッ!」と拳を天に突き上げた。観客のみんなも「ダーッ!」と叫んでいた。それからだと思う,みんなが「ダーッ!」と拳を突き上げ始めたのは。

そのどちらの日だったか,タッグ戦のあとだったか,猪木がリングにあがってこの「ダーッ!」をレクチャーしていたのを覚えている。まだまだ,「1,2,3,ダーッ!」が認識されていない頃だったので,猪木はマイクをもってやり方の説明を始めた。

(猪木)「私が,1,2,3,と言っ。。。」

(観客)(拳を突き上げて)「ダーッ!」

(猪木)「。。。たら,『ダーッ!』って言ってください」

(観客)(全員でズッコケ。笑い)

ってな感じで,なんとなく噛み合わず笑いが漏れていたのをよく覚えている。もちろん,このあと猪木の「1,2,3,あ,ダーッ!」は大成功だったけど。


この日,東京ドーム大会が終わり観客は一斉に東京ドームを出て水道橋駅に向かった。私も先輩も混雑極まりない駅に入り,切符を買って(スイカなんて無いし。オレンジカードというプリペイドカードはあった),ホームに上がった。そこで誰かが叫ぶのが聞こえた。

「1,2,3!」

その次の瞬間,ホームにいた人たちが一斉に拳を振り上げ,「ダーッ!」と叫んでいた。また誰かが,叫ぶ。

「1,2,3,」
(全員)「ダーッ!」

電車が来るまで,その儀式は何度も繰り返されていた。その夜,そんな熱い気持ちをもってみんな帰途についていた。その後,この儀式は全国に広がり,猪木のトレードマークとなった。

彼の訃報を聞き,そんな夜の出来事を思い出した。楽しかった夜をどうもありがとう。そして現在の格闘技界をどうも有難う。ご冥福をお祈りいたします。

#もしかして,今の若い人たちは,「1,2,3,ダーッ!」って知らないのかも...

2022年9月10日土曜日

ゴーストバスターズ:アフターライフ

 「ゴーストバスターズ」に,続編「ゴーストバスターズ2」ってあったの?全く覚えていない。いやただ観ていないだけなのかもしれないけれど。とにかく第1作は面白かった。あの当時(1984年)80年代のふざけた,イケイケな雰囲気がよく出ている。

その後,女性たちがゴーストバスターズになって活躍するリブート版があったのだけれど(3作目にあたる),どうも継子扱いされているらしい。ゴーストバスターズの本流に含めてもらえず,今回紹介する「アフターライフ」が第3作目ということにされていて,出演者たちが苦情を言ったとか。私は,これは観た。確かにあまり面白いとは思わなかったのだけれど(すみません),少しヌケているイケメン役でクリス・ヘムズワース出ていて,これがずいぶん良かったのを覚えている。事務の仕事には役立たずなのだけれど「目の保養」として雇われていて,クリヘムの魅力が全開。アメリカのマッチョなハンサムというステレオタイプの役を演じている。私が彼のファンになったきっかけの映画である。このクリヘムを見るだけでもこの作品を観る価値があると思う。

さて,本題。今回の「ゴーストバスターズ:アフターライフ」(2021)はどういう立ち位置かというと,本流の設定を継いだ正式な続編ということになる。正式な続編ということになると1,2作で主要な配役を演じていたハロルド・ライミスがすでに亡くなっているから,どうなるのかと思ったら,本作で冒頭亡くなってしまった。今回の主人公の女の子はこのハロルド・ライミスの孫という設定である。その他の主要な役者は今作でも出演しているから同窓会的に,それはそれで楽しいのだけれど(ダン・エイクロイドってまだ生きていたんだ!),ストーリー的には少し”パンチが足りない”(死語。アフターライフだけに(死後)…)。結局,魅力的なその孫娘の冒険譚と家族の和解という映画となっている。私はもう少し悪ふざけしたコメディを期待していた。ゾンビーランドみたいな。まぁ,それはそれで良いのだけれど。個人的にはビル・マーレイが相変わらず駄目な男を演じているのがいい(エンドロールの後も見逃さないで!ゾンビーランドもエンドロールの後のオマケで彼が出ていたけれど)。彼はいろいろと悪評がついてまわるけど,私は好きだな。クズ男が。

ということで評価は星3つ(満点は星5つ)。観ておいて損はないけれど,見逃したらもったいない,と思うほどではないという感じ。

#ちなみに監督は第1作,第2作を撮った監督の息子。この映画の撮了後にお父さんはなくなってしまった。


2022年9月3日土曜日

アーク・カラヤン広場

 お盆を過ぎて朝晩はすっかり涼しくなった。7月のあの酷暑が懐かしく感じられるほどである。

今週は,電気学会産業応用部門大会が上智大学で開催されていたので,しばらく東京に滞在していた。ホテルは六本木だったので,久しぶりにアークヒルズまで足を伸ばしてみた。まだ学生だった20年ほど前にはコンサートを聴きにしばしばサントリーホールを訪れていたけれど,東京を離れてからはすっかりご無沙汰である。近くの森美術館に「アンディー・ウォーホル展」に来た覚えがあるけれどそれももう7~8年前のこと。だからサントリーホールに足を運ぶのは20年以上ぶりなのかもしれない(入り口の前に行っただけだけれど)。

サントリーホールの前には,カラヤンの名前がつけられた広場がある。サントリーホールを建設するときにカラヤンがいろいろと助言したとか,このホールで演奏した際に音の綺麗さに感激して「宝石箱のようだ」と話したとか,そういった所縁で名前がつけられたのだろう。カラヤンが音響が素晴らしいとお墨付きを与えたホールとなれば,世界的にも評価が高く有名になったことだろうし。

今回六本木を散歩するにあたりGoogle Mapにカラヤンの名前を冠した広場を見つけ,そういえばそんな名前の広場になったんだっけと思い出し,フラフラと訪れた。夜の六本木はそれはそれは綺麗で,いつも越後長岡の歓楽街しか知らない(それも私はほとんど訪れないのだけど)私にとってはドキドキする街だった。

六本木の交差点

そしてサントリーホールとカラヤン広場。美しい建築だなと改めて思う。多くの外国人の人たちがあちらこちらのテーブルでアルコールを片手に歓談している。やっぱり東京だ,と思う。

次回来るときは,ぜひホールの中に入ってコンサートを聴きたい。そんな大人の余裕が時間的にも経済的にも(!)欲しい…

カラヤン広場のプレート

アーク・カラヤン広場

サントリーホールの入り口


2022年8月18日木曜日

大阪中之島美術館

 「展覧会 岡本太郎」が開催されていたのは大阪中之島美術館である。2022年2月開館というから,私が知らなかったのも無理はない。今年できたてほやほやの美術館だったのだ。

暑い中,大阪駅から歩いて行った。2階に芝の広場があり,そこが入り口となっている。直角に構成されている建物,窓が印象的で美しい。こんな美術館,私が関西にいた頃に欲しかった。

庭や屋内には,ヤノベケンジの作品と思われるオブジェがある。まだ新しいからかピカピカしている。

中之島美術館の外観

美術館の別の壁面。直角が美しい。

芝の広場にあるヤノベケンジと思われる作品

屋内にもヤノベケンジと思われる作品がある

私は美術館の建物が結構好きである。たとえば上野の国立西洋美術館。コルビュジエの設計による,やはり直線的な構造が美しい建物である。

中之島だって,もともとシーザー・ペリ設計の国際国立美術館がある。夜にライトアップされた姿は大変に美しい。

やはり美術館は美しくなければ。でも訪れなければ意味がない。全国の美術館,博物館巡りができたらどんなに幸せだろう!

2022年8月17日水曜日

書と呪術 ~岡本太郎 (2)~

 岡本太郎の晩年の作品には,黒い線で何かが描かれたものが多いのだけれど,書道の文字を書いた作品に似たものも多くある。私は「書道」というものに強く惹かれるのだけれど,書には呪術的な要素があるのは間違いない。だから昔から「呪符」などというものがあるのだ。その文字になんらかの超自然的な力があると信じられてきたのである。

だから「芸術は呪術である」という岡本太郎が,「書」に親しみを感じたとしても別におかしくはないと思う。書道の作品には,描かれた瞬間の作者の想いが閉じ込められているのを感じる。その念が観ているものの心に働きかけるのだ。それは結局岡本太郎の作品と同じではないかと思う。いや,本当の芸術とはそういうものなのかもしれないけど。

「呪い」(まじない)という言葉を岡本太郎の作品を観て思い出す。文字の意味はわからなくても,作者の想いが伝わってくる。それが本当の書なのだろう。中国で「書」はとても高級な芸術として取り扱われていたのもわからないでもない。

いつか,私もそうした力をもつ「書」を作りたいものだとずっと思っている。たとえ現実は書道4級であろうとも。


ひとつ前の記事にあげた「明日への神話」の壁画。渋谷駅にある。


2022年8月16日火曜日

芸術は呪術である ~岡本太郎 (1) ~

 「展覧会 岡本太郎」に行く機会があった。人気があるとは思っていたけれど,実際,会場である中之島美術館に訪れてみて人の多さに驚いた。そして若い人の多さに驚いた。今日になってもこんなに多くの若い人たちに岡本太郎が興味を持たれる芸術家であったことにあらためて感激した。なぜなら「芸術は爆発だ!」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」などのパブリックイメージは私の世代には馴染みの深いものだけれど,若い人たちとは共有できていないと思っていたからだ。彼の著書だって最近読めるかどうか怪しいのだから。

展示作品のいくつかはすでに観たことがあるものだったが,数百点にも渡る展示は変わらず新鮮に感じたし,またたいへんな心に圧力を感じた。そうなのだ。岡本太郎の作品は観ていてウットリするとか,気持ちよくなるというものではない。だから観たあとに心に圧を受けたような気持ちになる。

岡本太郎の有名な言葉に,

「今日の芸術は,うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」

とあるが,まさにその通りなのだ。もしも私の居間に彼の作品が飾ってあったら落ち着かないことだろう。彼の作品は,きれいごとではすまないドロドロした生への欲望がある。それは彼が探し求めたように原始的な,根源的なものに共通している。美しさや癒やしなどではない,もっと生々しい生への渇望があるような気がする。だから観ている私も不穏な感情になるのだ。日常では抑圧されている生々しい感情に働きかけてくる。

「芸術は呪術である。人間生命の根源的渾沌を、もっとも明快な形でつき出す。人の姿を映すのに鏡があるように、精神を逆手にとって呪縛するのが芸術なのだ。」

岡本太郎は,「芸術は呪術である」と喝破している。そうなのだ。ドロドロとした感情に働きかける芸術は呪術と非常に近いものがある。私が探究してやまない,人間の心に働きかける術,それを一つの形として表したものが岡本太郎の作品なのだ。

彼の作品には「目」が描かれているものが多い。すなわち,なにかしらの「生き物」を描いていると考えられる(よくわからないけれど)。しかし,その目は丸々としていてやはり不穏な雰囲気を漂わしている。しかし生命力を感じる。こちらに挑みかかっているような。

こんな活力がなくなったと言われる時代に彼の作品が人気があるのは,こんなところに理由があるのかもしれない。若い人たちに人気がある理由も。そして私が強く惹かれるのも。


「明日の神話」の小さいもの

手すりにより掛かる太陽の塔






2022年8月14日日曜日

ドラマの特殊記憶力の設定をみてリヒテルを思い出す

最近の映画やドラマをみると,突出した記憶力を持っている設定が多いような気がする。今期のTVドラマだと,「競争の番人」の坂口健太郎演じる公正取引委員会の男。彼は検査に入った企業の帳簿などを一度見ただけで覚えてしまうという驚異的な記憶力を有している。また「石子と羽男」の中村倫也演じる弁護士。彼も一度見ただけで覚えてしまうフォトグラフィックメモリーを持っているという設定である。実際にないという能力ではないのでファンタジーではないのだけれど,ちょっと都合が良すぎるような気がする。

しかし,この特殊な記憶力という設定を聞いて思い出す現実の人物がいる。それは,ピアニストのスヴャトスラフ・リヒテル。彼は異常なほど記憶力がよく,小さな頃からいろいろなエピソードを詳細に覚えていた。「リヒテル<謎エニグマ>」という彼の伝記的なドキュメンタリー映画で彼自身が述懐している。そして「記憶力が良すぎてそれが苦痛だ」とも言っている。本当にそうなのだろうと思う。

もしも,なにもかも忘れることができないのであれば,私の人生は後悔で満たされてしまうだろう。忘れることができるからこそ,なんとか明日に希望が持てるのだ。絶望のエピソードを何度も何度もループしてプレイバックする。そんな毎日には私の心は耐えられないだろう。

リヒテルは晩年,演奏会において「暗譜」することをやめている。記憶力が衰えたのだろうか。いやもっと違う理由があったに違いない。なぜならば,映画「リヒテル...」でつらそうに「苦痛だ」と話していた頃には彼はすでに暗譜をやめていたはずだから。

彼は,ソ連の時代を生き抜いたが,父親が処刑されるなどその人生は過酷だった。そうしたつらい経験を克明に記憶して生きていかなければならなかったと思うと,彼はどのような気持ちで演奏会に臨んでいたのかと思う。ひとつでも多くの演奏会が彼の心を晴れやかにできていたのであればうれしい。リヒテルのシューベルトがまた聴きたくなった。

#主人公がすぐに忘れてしまうという設定の映画やドラマ,小説の方がずっと数が多いけど(「掟上今日子の備忘録」とか「博士の愛した数式」とか「メメント」とか)

2022年8月11日木曜日

電柱が連なる墓標に見えた

 先日,午後7時過ぎに高速道路を走っていた。日没時間も過ぎてあたりはすっかり灰青色になっていて,建物や標識はみな影として見えるくらいの明るさだった。

その高速道路はその地域の市街地を高架で突っ切るように走っており,道路に並行して電線が引かれていた。当然その架線は電柱によって支持されていて,高架の道路から見るとちょうど道路脇にさまざまな「十字架」あるいは柱を組み合わせた「標」が並べられているようだった。

私は車で走りながら,これらはまるで墓標が並んでいるように見えることに気づいた。灰青色を背景に道路に並行してどこまでも続く様々な形の十字架の影。「シン・エヴァンゲリオン」のイメージ図に出てきそうな墓標の連なり。そんなことを思い浮かべながら一定速で高速を走っていた。

「庵野秀明展」でも再認識したのだけれど,庵野秀明は電柱にかなり愛着を持っているようだ。そう認識しているだけで理由については深く思わなかったのだけれど,このたび電柱が墓標に思える風景を見て,これがその理由なのかもしれないと思った。

その風景は不吉には思わなかったけれど,少し現実の世界から離れたもののようにも思えた。そんなことを考えながら車を走らせていた。


庵野秀明展で展示されていた電柱と鉄塔のモデル

2022年7月30日土曜日

心霊番組について

 私は心霊番組が好きである。オカルト全般が好きなのだけれど,中でも心霊に関わる番組,たとえば心霊写真とか,心霊スポットとか,そして心霊体験とか。一方で,「ほんとにあった怖い話」的な番組は脚色が強すぎてあまり興味を惹かれない。演出で怖さが半減してしまうことがしばしばだから。

しかし,最近めっきり心霊番組が減ってしまった。たいへん残念である。夏休みになるとみることができた「あなたの知らない世界」が懐かしい(新倉イワオさんも懐かしい!)たぶんテレビのコンプライアンスの問題なのだろう。つまらない。私達の受け入れの度量が小さくなっているような気がする。

では,私は心霊現象を信じるかと尋ねられると,それには「信じる」と答えたい。

ただし,物理的に存在するかどうかはわからない。たぶん普通に考えれば物理的にはそうした現象は存在しない。しかし,その人が経験したことは,その人にとってみれば事実であり,そうした体験がその人の心理・精神状態に影響を与えるということは間違いなく存在する。つまりは,物理的に存在する事象であることよりも,その人の経験であることのほうが重要なのだ。

幽霊が存在するかどうかよりも,たとえ幻視・幻聴であったとしてもその人が幽霊を見たという体験が大切である。幽霊を見たという経験は,下手をするとその人の価値観が変わってしまうかもしれない大きな体験になるだろう。それが幻や錯覚であったとしても。

私が思う心霊現象とは,このように幻視・幻聴・錯覚などであっても,それをその人が「幽霊がいた!」と認識し,それによって影響を受けることを指す。人がそれを「幽霊」であると思うのは,その人の文化的背景,価値観,社会状況などの先行情報が影響していると思われる。たとえば,墓地とか,心霊スポットでは幽霊が出る,という予めインプットされた情報によって,錯覚を幽霊と認識しやすくなる。「白い服を着た長い髪の女の幽霊が...」などと情報が詳しかったのであれば,(実際に見ていなくとも)そのように認識する可能性が大きくなることだろう。

要は物理的な事実がどうであれ,その人が経験した事象すなわち「物語」によって人の考えは影響を受ける。そして書物で読む「物語」よりも,実際に自分の五感を通して感じられた(と思った)物語(それは「体験」なわけだけど)の方がよりリアリティがあり,より影響力が大きくなるのだろうと思われる。

だから,私は心霊スポットなどには行かない。そこでもしなにか起こったら私の精神が影響を受ける可能性が高いし,そもそもそうした場所はそうした経験をしやすいから「心霊スポット」などと呼ばれているわけなのだし。そんな危険を犯すことはしたくない。私の心は弱くて影響を受けやすいことは重々承知しているのだ。

心霊番組は,自分がそのような体験をしたら影響を受けるだろうなぁ,と想像するから見ていて面白いのだ。また,自分の不可解なことを不可解であるまま受け入れる心の余裕も確認できる。昔から怪談はあるわけなのだから,もっとオープンに心霊番組も楽しんだらいいのに,と思う。正直,占い番組よりもずっとマシだと思っているのだけれど。

2022年7月2日土曜日

トム・クルーズというトップスター

 「トップガン マーヴェリック」を観て,トム・クルーズの凄さをあらためて思う。いまも私の心の成分の5%くらいはトム・クルーズでできている。

とにかく彼のアクションは素晴らしい。それは撮影のセンスもそうなのだけれど,そのアクションシーンを成立するために必要なフィジカルな能力が素晴らしい。そしてアクションにチャレンジする勇気が素晴らしい。つまりは作品に表れる彼のストイックな生き方が私を惹きつけているのだと思う。

「トップガン マーヴェリック」の中で,ビーチで上半身裸になってトップガンの若きパイロットたちとフットボールを夕陽をバックに楽しむシーンがある(前作ではビーチバレーだった)。若い俳優たちに混じって,トム・クルーズも上半身を見せている。その姿は今年60歳となる年齢(還暦!)を感じさせないものだった。

本作は公開が3年ほど延びているので,撮影時55~56歳だと思われるのだけれど,すごい身体をしている。彼はたぶん宗教上の理由で(彼がある宗教の信者であることは有名だ)ステロイドなどの筋肉増強剤は使用していないと思われるから,本当に身体をストイックに鍛えているのだろう。同様の年代である私の身体といえば...本当に比べるのが恥ずかしい。とりあえず映画を観たあとに腕立て伏せをしてみた。

彼は,他のハリウッドのアクションスターとは少し違う。アーノルド・シュワルツェネッガー,シルベスター・スタローン,ドゥエイン・ジョンソンなどの肉体派ではないし,あるいはブルース・ウィリスに比べるともう少し知的な感じがする。それでいてハンサムだし。そして映画を作る人でもある。つまり,トム・クルーズは他に比べるべき人がいない,トム・クルーズはトム・クルーズなのだ。

その彼はエンターテイメントがなんたるかをを知り尽くしているように思う。クリント・イーストウッドのように中身がある映画ももちろん作っているけれど,今回のように中身が空っぽな(だからこそ感動する)超一流のエンターテイメント作品も作ることができる。何十年にも渡る映画人生でそこまで到達したのだろう。彼がいる限り特にアクション映画は大丈夫なのだ。CGに頼らない,観客が没入できる娯楽作品を製作することができる稀有な映画人の一人なのだ。

ただし彼も60歳。次のミッション・インポッシブルでさすがにアクション俳優はそろそろ卒業しようと思っているのではないか。彼がアクションを引退したあとどうなっていくのか,アクション映画は。「トップガン・マーヴェリック」のような超一級の作品は今後生まれるのだろうか(次は本物の宇宙船の中で撮影をする予定と聞いているけど...)。

彼がこれまでトップスターとしてのステイタスを維持できているのは彼のたゆまぬ努力のおかげだとは容易に想像できる。彼が完璧主義者であることは有名だけれど,それを続けてきたからこそ,彼は尊敬を集める人物であり続けているのだ(まぁ,完璧主義者すぎて嫌っている人も多いだろうけど)。

というわけで最近,トム・クルーズの株は私の中で爆上がりしているのだ。日本で彼と同様の路線を歩んでいる俳優といえば,木村拓哉くらいしか思いつかない。キムタクはまだ50歳前。これからの彼の成長に期待したいけれど,やはりハリウッドスターであるトム・クルーズとはちょっと格が違う(だって「トップガン・マーヴェリック」の制作費は1.7億ドルで,キムタクの「信長」は20億円。約10010倍(修正。ケタを間違ってました)も違うのだから仕方がない)。比べることができないのだ(でもキムタクもいつか製作側の人間になって欲しいな)。

「トップガン・マーヴェリック」後のトム・クルーズがどうなっていくのか,彼というトップスターの晩年がどうなっていくのか楽しみで仕方がない。それだけ私は彼を信頼しているということなのだけれど。

#クリント・イーストウッドと同様に活躍するとなるとあと20年以上は第一線にいることになるのだけど


2022年6月25日土曜日

トップガン マーヴェリック

 「トップガン マーヴェリック」を観た。今,私の心の成分の少なくとも5%は「トム・クルーズ」でできている。

この作品はパーフェクト。最初から最後までダレることもなく,とにかく面白い。こんな完璧なエンターテイメント映画って,この10年,いや生まれてこの方観たことないのではないか。それほど無欠な映画であると自信を持って言える。

この作品,もう3年くらい前から公開が延び続けていて,ようやくこの6月に公開。私は最初の頃の予告編を観てから,これは絶対に映画館に観に行こう,と決意していた。そして映画館で観て,全くの満足感を味わった。映画館で観るべき映画であることは間違いない。

ストーリーは全く単純。どこかのならず者国家の核施設を爆撃するというミッションを果たすために,マーヴェリックがトップガンの教官として呼ばれ,トップガンのパイロットたちといろいろあって,結局ミッションを成功させる,という話。スパイ映画のように敵との騙し合いや登場人物の間の複雑な心理戦のようなものもない。単純だからこそ,観客はブレずに作品を楽しむことができるのだ。

オープニングから物語に引き込まれる。前作を観た人たちは(私が観たのは大学1年の時か),最初の戦闘機の艦上発着のシーンを観て,そして映し出される文字のフォントを観て,前作と同じことに気づき,そこからもうトップガンの世界に引き込まれている。マーヴェリックが教える若きパイロット同士の確執と和解についても前作と同様の展開だ。だからこそ,また安心して感動することができる。

トム・クルーズは観客を戦闘機F-18のコクピットに放り込むことを狙ったと思うけど,その目論見は見事成功している。私が観たのは4DXでもなんでもない普通の映画館だったけれど,パイロットが加速度Gを感じているシーンになると私だけでなく,他の観客も身体を緊張させているがよくわかった。それはそれらのシーンがCGではないからなのだろうと思う。

安易にCGを使って説明するのではなく,作戦を事前にパイロットたちに(そして観客たちに)説明し,その後そのミッションのハードさをコクピットのパイロットが映し出されるシーンによって実感させる。その試みは成功していて,パイロットの俳優たちが感じている加速度を体感しているような感じがする(もちろんそんなことはないけれど,身体が反応して緊張する)。トム・クルーズが実写にこだわる理由が理解できる。

そうなのだ。トム・クルーズがいる限りアクション映画は大丈夫なのだ。CGに頼らないアクションを彼が映像化してくれる。彼が映画を撮るとき,多くのアクションシーンはたいへん危険でまさにMission Impossibleなのだけれど,そのスタントなしの撮影が,そのリアリティが観客たちの共感・追体験を呼ぶ。それを彼は理解しているのだ。

もちろんこんなパーフェクトな映画はトム・クルーズだからこそ撮ることができたのは間違いない。前作のトップガン以降,36年間(!)ずっとトップスターでいたからこそ,こんな企画ができ,こんな撮影ができたのだ。この作品の完成度にはトム・クルーズも手応えを感じていたのではないだろうか。

評価はもっと高得点をつけたいけれど,5点が満点なので仕方なく5点!非の打ち所がない完璧な映画。心が折れそうなとき,元気を出すために本作を映画館で観たい。そして今度は,IMAXで観たい。なので,ロングラン,できればいつでも映画が観れるようにして欲しい。

とにかく映画館で観る価値があることが間違いない映画。こんな映画が存在すること自体が幸せ。

#もしもケチをつけるとすれば,字幕の和訳が…

#この映画でもトムは全速力で走っていた。そのことについてはまた別の機会に。

2022年6月19日日曜日

全く同じおみくじをひく

 実は今年になって,私は災難に見舞われ続けている。

奥歯が割れて部分入れ歯になったし,足首を剥離骨折してしまったし,そしてゴールデンウィークは手術のために病院のベッドの上で過ごすことになってしまった。厄年でもないのに,と思う。日頃の生き方に問題があるのだろう...

さて,私の散歩コースには少し大きな神社がある。夜の散歩が多いのだけれど,昼間に立ち寄るときには2ヶ月程度に一度おみくじを引く。私は占いは信じないけれど,おみくじは地方のあちらこちらの神社に参ったときに結構な頻度で引くのだ。まぁ,運試しである。

手術前,この神社でおみくじを引いた。結果は「末吉」。なにごとも今は耐えて待つべしという感じの内容が書かれていた。災難が続いているから,そうなのだろうと思いつつ,自らを省みたのである

手術が無事終わって退院し,リハビリのためにまた散歩を始めた。お礼参りも兼ねてまた神社に1ヶ月ぶりに立ち寄った。そしてあらためておみくじを引いてみた。運が上向きになっているかもしれないと期待を込めて。

結果は「末吉」。前回と変わりがなかった。おみくじに書かれていた内容を読むと...明らかに既視感がある。そう,手術前に引いたおみくじと全く同じものだったのである。私は,引いたおみくじは持ち歩いているので(新たに引いたら持ち替えるのだ),取り出して比べてみた。やはり全く同じ。おみくじの番号が一緒だった。

こんなことってある?って思った。たぶんおみくじは100種類くらい準備されていそうだけれど,全く同じ番号を2回続けて引くなんて。今,私の運勢は「末吉」で間違いがないようだ。

以前に,宮島の厳島神社でおみくじを引いたとき,「凶」を引いてしまって,また引き直したことがある。次に引いたおみくじは「凶」だった(書いてある内容は違ったけれど)。悔しくてもう一度引き直したら,またまた「凶」だった。さすがに怖くなって4回めを引くのはやめたけれど,今回のおみくじはそのとき以来の驚きの出来事だった。運がいいのか,悪いのか。

おみくじは自分の生活を省みるきっかけにちょうど良いと思っている。おみくじの言葉をもとに毎日の暮らしで至らぬ点を考えてみる。それが神様の言葉かどうかは,ちょっとよくわからないけれど,今回のおみくじの出来事は少なくともこれまで以上に真面目に生活を自省しようと思った。生活態度をあらため,健康になろうと決意した。

次回はどんなおみくじをひくのだろうか,楽しみである。

2022年6月18日土曜日

なぜ人に会うのはつらいのか-メンタルをすり減らさない38のヒント

 私は人と話すことは苦ではないけれど,基本的に「ひきこもり」の性格であると思っている。人と会わないことがほとんど苦にならない。一週間や二週間,人と会わなくたって全然構わないし,実際,学生時代は夏休みになると,誰とも会わない週を作っていたりしした。

一方,人と会うのにはエネルギーが要る。人と会うのに外に出るのが億劫になる。もちろん人間は社会的な動物で,他人や社会環境とのつながりがなければ生きていくことはできないし,人に会わなくなったら私のボケは加速することだろうから,人に会うことはずっとやめることはできないのはわかっている。しかし,それでも会うことがつらく感じることがある。

私は人と話すことは好きである。平日は毎日学生の皆さんと結構な量の雑談をするし(学生の皆さんは迷惑に思っているだろうけれど),初対面の人であっても会話は弾む方であると思っている。

しかし,新型コロナウィルスのパンデミックによって,大学の講義や会議,学会の大会や会議がオンラインで開催されるようになるとそれが大変楽に感じられるようになってきたのも事実である。もちろん反面寂しく感じることも多いのだけれど。

この本は新聞(だったかな)の書評で見つけた本である。紹介されていた

「人に会うのに苦痛を感じるのは,そこに「暴力性」があるからだと理解する」

との言葉に,はっとさせられることがあって,以下の本を書店で求めたのである。

「なぜ人に会うのはつらいのか-メンタルをすり減らさない38のヒント」佐藤優,斎藤環

そうなのだ!と思った。コミュニケーションとは,なにかしらのものを相手に差し出し,それに対する何かを手に入れる。等価交換とは限らない。相手から得たものが,相手の冷たい態度だけということもある。それでも何かを交換している。そしてその結果として何かしら私達の心は変化する。その変化は心が傷つくものであったりする。それを「暴力」と形容するのは自然なことのように思えるのだ。人に会うことには暴力性があるとの言葉のあとには

「その暴力には意味がある」

とも,語られている。結局人間というのは,コミュニケーションを取らなければ生きていけないのであるならば,本質的に暴力的な生き物であるような気がする。そうであるならば傷つくのも仕方ないような気がする。

人と会うことには,「暴力性」があるのであれば,小説や芸術作品にあうことにも一種の暴力を感じると言えるかもしれない。やはり心が動いたり,傷ついたりするから。人の変化には痛みが伴うものであるという当然の結論に辿り着いたのである。

2022年6月12日日曜日

未来への10カウント,木村拓哉への期待

 50歳を過ぎてから私の中でこの数年,木村拓哉,キムタクの株が上がり続けている。彼ももう50歳になろうとしているけれど,私にとって彼の魅力は増し続けているのだ。

私はヒーローの晩年の生き方に強く惹かれるところがある。たとえば野球の巨人軍のスター選手たち。期待されてはいたものの不本意な成績のなかでどのように生きていくのか。どうやって選手生活に幕を下ろすのか。晩年の過ごし方こそ彼らの(才能ではなく)性格が出る。

もちろんスポーツ選手だけでなく往年の芸能界のスターたちの晩年にも興味がある。たとえばクリント・イーストウッドやマイケル J フォックス。順調な人生であっても,難病とともにある困難な人生であっても,彼らは彼らの人生の中における役を全力で果たそうとしている。日本でも,石原裕次郎や渡哲也,あるいは原田芳雄,松田優作。ヒーローたちがどうやって人生の晩年を過ごすのか。そんなことが気になるような年齢に私もなったということだろう。

そんな私が,今後の大成を強く期待しているのがキムタクなのである。彼がもし普通のスターだったらたいへんに難しい立ち位置にいたのだと思う。彼のパーソナリティが強く出すぎて,あるいは私達がそのイメージを強くモチすぎたために,彼が演じる役の範囲が狭くなる恐れがあった。

しかし,彼は彼独特のブランディングによって,つきぬけた存在になりつつある。往年の石原裕次郎,高倉健,三船敏郎,勝新太郎などに連なる,存在こそが魅力ある役者の系列に入りつつあるのではないだろうか。

今期の彼主演のドラマ「未来への10カウント」を観た。正直,今の時代にあまり流行らない高校が舞台の学園ドラマだったので驚いた。フォーカスされているのはキムタク演じる主人公の再生の物語なのだけれども,ボクシング部の学生たちが抱えている悩み,恋愛,いじめなどの問題にそれぞれスポットが当てられて,今時めずらしい青春ドラマでもあった。

ただし,現在のドラマで視聴率が良いものは,だいたいドギツい人間関係や不条理な悲劇,陰惨な猟奇事件などの展開があったり,真犯人探しなどの謎解きがあったりするのに対し,本作はあまりにもストレートな学園ドラマだったので,視聴率が上がらないのではないかと心配し,実際そうであったみたいだけれど,私は悪人が出てこないこのドラマが結構好きであった。キムタクがこの作品を選んだというところに彼の考えが現れているような気がする。

ドラマのストーリーはひねくれたものではなかったけれど,彼を囲む登場人物たちを演じる俳優のみなさんがたいへんに魅力的で,単調になりがちな展開に色を与えていた。

特に,満島ひかりと村上虹郎の存在が大きかったように思う。満島ひかりのあの華やかさがなければ,特に前半の男ばかりの地味な展開に耐えられなかっただろうし,村上虹郎が登場してからは物語が引き締まって,このドラマでなにを描こうとするのか輪郭がはっきりしてきたように思う。もちろん,内田有紀や安田顕,生瀬勝久,柄本明などがしっかり周りを固めていたからこそ,ストーリーに集中できるようになったわけだけれど,上記の2名は物語に不可欠なスパイスであった。両名ともに映画やドラマにひっぱりだこなのがよく分かる。

自暴自棄であった主人公はボクシング部で出会った人たちによって再生を遂げていくわけだけれど,改めて書くけど,キムタクがこんな未来に希望が持てるような物語のドラマを選んだことの意味を私は思う。SMAP解散後,彼もいろいろと言われたけれど,自分の役割を淡々と果たしていく彼が私にはたいへんに魅力的に思えるのである。かっこよくトシをとっていく手本かな。今後彼がどのようなドラマ・映画に出演していくのか,ますます気になるのである。

#次回作はキムタクがキムタクである,ずば抜けてカッコいい役もいいなぁ。ただ「信長」には少し不安を感じている...彼も50歳ということで,この役を選んだのだろうけれど…


2022年6月4日土曜日

シン・ウルトラマン

 「シン・ウルトラマン」を観た。

私はたいへん楽しむことができたのだけれど,世間では評価が割れているらしい。私は,初代ウルトラマンの世代ではないけれど(「帰ってきたウルトラマン」の世代),やはりあの時代のウルトラマンのシリーズには惹かれるものが今でもあって,今回の作品にある数々のリスペクト・オマージュには心浮き立つところがあった。

ただし,悪評価をする人の気持ちも分からないではない。昭和の特撮感が強くて,アヴェンジャーズのCGを見慣れている人から見ると本作のCGはチープに見えるし(制作者はそれを狙っていると思うのだけれど),ストーリーが雑なところも結構目につく。しかし,それを考慮しても,そしてこれまでウルトラマンを知らかった人にとっても,及第点をあげられる作品なのではないかと私は思う。

今回具体的に書きたいことは2つ。

ひとつは,ウルトラマンになる男を演じる斎藤工と,メフィラス星人を演じる山本耕史の演技がたいへんに素敵だということである。この二人は結局宇宙人なのだけれど,地球人のことを守ろうとするウルトラマンである斎藤工は,少し人間を外れている感じ,まさに宇宙人的な雰囲気を出している(たぶん瞬きしなかったんじゃないかな)。一方,地球を手中に収めようとするメフィラス星人を演じる山本耕史は,とても人間臭い感じがする。だからこそ胡散臭い。それをうまく演じている。その対比が面白い。私達に近く感じる方こそ敵という構図がよく出ていると思った。

もうひとつ書きたいことは,私が個人的にオススメしたい,最初の怪獣(映画では別の漢字だけど)が変電所を襲うシーンについてである。鉄塔や変電設備がやけにリアルで,壊されるシーンにドキドキしてしまった。私達の日常が破壊されていくということを実感する。脚本の庵野氏,監督の樋口氏のコンビといえば「シン・ゴジラ」もだけれど,「シン・ゴジラ」の中でも,電線と電柱が揺れて破壊され,停電が発生するシーンがリアルっぽく描かれていた。

どうもこの二人は電力設備がとても好きらしい。今回は樋口氏がこうしたマニアックな演出をしたのだろうし,庵野氏も東京で見た「庵野秀明展」でエヴァの鉄塔,電線などの縮小モデルが展示されていて電気大好きなのがよく分かる。変電所内の送受電設備が火花を散らしながら破壊されていくさまに私は妙に興奮してしまった。このシーンだけでも本作を観る価値の20%ぐらいはある(個人的に)。

ただ映画を最後まで観て,私が一番印象に残ったのはヒロインを演じた長澤まさみの元気の良さである。コンプライアンス的に演出がいろいろ言われているようだけれど(私も幾分思ったけれど),長澤まさみはやっぱり魅力的であり,彼女が演じるヒロインが私達の希望を表しているのだと思う。エンドロールに流れる米津玄師の曲がそれを裏付けしてくれる。続編はなさそうだけれど,また観たい映画である。

評価は,星5点満点で4点。

#私の今年の年賀状も電柱と電線だったけれど

2022年5月28日土曜日

The Batman

 "The Batman"を観た。

最初に言うけど,私の個人的な趣味にピッタリな映画だった。ダークな雰囲気,弱さを抱えたヒーロー,でも友人が犠牲になるような悲しい展開にはならない。また見返したいと思う作品であった(実はクリストファー・ノーランのバットマンシリーズは,大事な人がなくなっていくのが怖くていまだ見ることができない)

まず主人公が笑わない映画である。こんな映画で思い出すのはスティーブ・マックイーンの「ブリット」くらいだけれど,この映画も主人公が楽しくて笑うようなシーンはひとつもない。コメディ要素は廃されているのだ。もちろん,皮肉はたっぷりあるけれど。

主人公は,ロバート・パティンソン。バットマンの影をもつ暗い雰囲気がいい感じ。さすが,昔バンパイアを演じていただけのことはある。私はずっと彼は単なるアイドル的なスターなのかと思っていたのだけれど,昨年に観た「テネット」で,全く彼のファンになってしまった。未見の人はぜひ「テネット」で彼の素敵さを確かめて欲しい。

さて,この映画は,ヒーローアクション映画ではなく,探偵ものの作品となっていることが特徴である。今回の敵役が「リドラー」であることも関係しているのかもしれない(余談だけれど,昔のバットマンでは,「ナゾラー」という名前になっていた悪役)。事件の背景を,そして事件の首謀者を探っていく展開で,観ているものをずっと飽きさせない。事件現場の被害者の状況は,映画「セブン」を思い出す。主人公が追い詰められていくにしたがって,緊張も高まっていく。

バットマンの装備はあまり活躍しない。バットモービルはすごい性能だけれど,ギリギリ現実にありそうなデザインになっていて,ここらへんがフィクションではあるけれどリアルな世界から乖離しないような設定になっている。個人的には,ブルース・ウェインとして登場するときに乗っていた車が,黒のピッカピカに磨かれたシボレー・コルベット・スティングレー(たぶん1960年代のクラシックカー)であったことの方がずっと印象に残っている。この車の後姿が本当に美しい。

そして,この作品では,キャットウーマンが端役ではなく,ストーリーの展開に重要な役割を果たす。なかなか魅力的な女優で,今後も期待できそう。

私の不満となる点について書くと,バットマンが最後に人々をテロから救うことによって,自らが救われるところのエピソードがちょっと弱いような気がした。本当にあのようなことで彼は救われたのだろうか。そしてこれからもバットマンとして活動することを決意するのだろうか。ちょっと共感ができなかった(私の感情が薄いから共感できないのかもしれないけれど)。

ということで,私の評点は5点満点中,4.5点の高得点。0.5点の減点は,上記の不満とおよそ3時間という尺の長さ。3時間は私にとっては長すぎる。映画の最後の方はずっとトイレを我慢していて,ストーリーが頭の中に入ってこない感じだった(探偵ものだから,最後にいけばいくほど,大事なシーンを見逃すのではないかと思って,トイレにはずっと立てなかった…)。続編はあることは間違いない,と思うので(映画の中にそのヒントはある),次の展開が待ち遠しい。

#今年は映画を観て,感想をブログに書いていく,と決意したのだけれど,達成できていない。頑張ります。





2022年4月6日水曜日

ミステリと言う勿れ 最終回をみて

 菅田将暉主演のテレビドラマ「ミステリと言う勿れ」は全話をみることになった。芸達者な役者さんばかりで彼らの演技を見るだけでも価値があるドラマだった。

原作は最初の数巻ほどを読んだことがあり,内容について,いやその物語の進め方について興味があったのだけれど,ドラマは詳細はともかくその雰囲気,趣旨をちゃんとつかんでいたように思う。すなわち,単なる推理ドラマというだけではなく,主人公が社会の常識について種々の見解を述べる語りがメインであるという側面もちゃんと描かれていた。菅田将暉のセリフ回しも良くって,私は十分に楽しめた。

それが最終回。いかにも「続編に続く」という終わり方で,視聴者は宙ぶらりんのまま取り残される。あー,これはちょっと,と私も思った。

こんな最終回をみて思い出したのは「仮面ライダーディケイド」。ディケイドの最終回,それは「映画に続く」という終わり方だった。息子と最終回をみていて,「これはひどい!」と声をあげた覚えがある。もしかして,「ミステリと言う勿れ」も続編は映画?と疑ってしまう。それはひどいよ,フジテレビと思う。

そして次に思い出したのが「Sharlock season 1」の最終回。これはすごい最終回だった。宿敵モリアティーがワトソンに爆弾を巻き付けて,シャーロックが爆弾に拳銃のねらいを定めたところでシーズン終了。まさにクリフハンガーな終わり方。このあと視聴者は続きをみるために(シーズン2が始まるまでに)1年半程度待つことになった。この最終回を見終わったときも「これはひどい!」と思ったけれど,続編が映画にならなかったのは許せた。Season2も面白かったし。

思えば,「ミステリと言う勿れ」と「Sharlock」はどこか共通点がある。主人公が観察力に優れ,推理力に長けているのもそうだし,社会常識に対して意見をとうとうと述べるのもそう。そしてちょっと社会不適合者的なところも。なにかが足りない主人公は魅力的なのだろう。

ということで「ミステリと言う勿れ」もクリフハンガーで終わってしまった。続きを見ることができるのはいつのことだろう。主人公の菅田将暉をはじめ,伊藤沙莉,永山瑛太など人気者のスケジュールを抑えるのはたいへんだと思うのだけれど,早い時期がうれしいな。「半沢直樹」ほど間をあけないでくれるといいな。そう思って,次作を待つことにしよう。

2022年4月2日土曜日

2022年のエイプリルフール

 昨日(4月1日)に書いた内容はもちろん,エイプリルフールの冗談です.<ここからが本題>以降はほとんどウソです。しかし,どうも面白くないんだなぁ.一般受けも相変わらずしないし。3年ぶりのエイプリルフールだからかな。反省します...


来年こそ,来年こそ,もっと素敵なウソがつけるよう「ウソ道」に邁進いたします.


これまでのエイプリルフールのウソ
2022年 仮想Siインバータ(Virtual Si Inverter)

2022年4月1日金曜日

仮想Siインバータ(Virtual Si Inverter)

 太陽光発電や風力発電が電力系統に大量に導入されるようになると,電力系統はいろいろな問題を抱えることになる。そのひとつが「慣性不足」である。

系統において発電機脱落や負荷変動などの擾乱が発生した場合には,電力の需給バランスが崩れてしまい,周波数が変動することになる。すぐに需給バランスがとられるように速やかに発電機の出力が調整され,系統の周波数は元の値に戻ろうとするのだけれど,過渡的には周波数は公称値から外れてしまう。このときの周波数の変動のしにくさを系統の「慣性」と呼ぶ。慣性が大きければ周波数変動の変化率が小さくなることになる。

従来この慣性は系統に並列された複数の同期発電機によって系統に供給されてきた。すなわち系統で電力変動が発生した場合に,同期発電機の回転子が加速したり減速したりすることで,その変動を(機械エネルギーとして)吸収し,周波数変化を緩和するのである。

しかし,太陽光発電や風力発電が系統に大量に接続されるようになると,この慣性が不足することになる。なぜならば,太陽光発電や風力発電は同期発電機によって発電するのではなく,発電された電力はインバータと呼ばれる直流/交流半導体変換器を用いて系統に供給されるため,系統で発生した電力変動を吸収することができないからである。

それを解決する手段として研究されている技術が「仮想同期発電機(Virtual Synchronous Generator, VSG)制御」インバータである。これはインバータの制御が高速であることを利用して,インバータがまるで従来の同期発電機のようにふるまうよう制御する手法である。このため,電力系統からみると太陽光発電や風力発電はこれまでの同期発電機のように扱うことができ,系統に慣性を供給することも可能なのである。

このようにVirtualで何かを実現しようという試みは,仮想現実だけでなくパワーエレクトロニクスや電力の世界でもなされるようになってきている。

<ここからが本題です。マクラが長い...>

そこで,今回はパワーエレクトロニクスに関する最新の仮想技術について紹介したいと思う。

近年では,従来のシリコンSiによる半導体素子(トランジスタなど)に代わり,SiC,GaNなどの次世代素材を用いた半導体素子による変換器が市場に現れてきている。これらの次世代素子は高耐圧,低損失,高速などの特徴を持つため,今後ますますの適用拡大が期待されている。

その「高速制御性」を活かした次世代インバータを用いて,仮想的に実現しようとしているのが,実は従来のSiインバータなのである。

Siに比べSiCやGaNを用いた素子は高速に動作でき,それらで構成されたインバータも高速に動作する。そこで,従来使用されてきたSi素子を用いて構成されたインバータ(Siインバータ)の挙動を,次世代インバータで模擬しようとするのが「仮想Siインバータ(Virtual Si Inverter, VSiI)」である。これによって,これまで安定に動作していたSiインバータと同様の特性を得ることができ(動作が速いのが良いとばかりは限らない),新装置との置換が容易となる。そのうえ,Si素子のオン・オフ動作(立ち上がり,立下り)を各次世代素子で模擬できるように検討されていて,これが実現できればほぼSiインバータを模擬できることになる。新装置への置換がシステムにあたえる影響がオンサイトで実測できるのである。

VSiIの研究はまだ始まったばかりで,携わっている研究者もまだ少ない。しかし,ニッチではあるが,そのニーズは高い。近いうちにパワエレの世界では常識になるのかもしれない。

#つづきはこちら(4/2以降)

2022年2月11日金曜日

あなたを陰謀論者にする言葉

 今年は1ヶ月に1冊は本を読もうという目標を立てているのだけど,やっぱりそれは難しい。それでも,一般教養として読書の重要性はわかっているつもりだから(読書をしない大人ってどうなの,って思ってしまっている),なんとか時間を見つけて読んでいる。最近,雰囲気の良いコーヒーショップを見つけたので,そこでコーヒーを飲みながら読むことをルーチーン化しようと考えている。

さて,記念すべき2022年の第1冊目は,

あなたを陰謀論者にする言葉」 雨宮 純 著

である。

この本はネット上で紹介されていたので手にとってみたのだけど,心霊主義,神智学あたりから,ヒッピー文化,カウンターカルチャー,サブカルチャー,自己啓発セミナー,陰謀論,マルチ商法と続く怪しい文化の歴史をわかりやすくまとめたものになっている。近年のオーガニックブームやヨガブームなどのメジャーどころから,最近のトランプ大統領に関わるQアノンや反ワクチン陰謀論までそのムーブメントについて紹介している。

とにかく大作。著者がこの一冊を書き上げるまでにどれだけの資料を読んだのだろうかと尊敬の念を抱く。私も1970年代のオカルトブームくらいからはリアルタイムで知っているのだけど,あらためて知った事柄も数多くあった。例えば,エサレン研究所のワークショップにチャールズ・マンソンが参加していたとか,日本全国に謎の黒い粉が送られてきた事件の真相など,膨大な数の事件の中で主要な事件を取り上げて紹介しており,こうした怪しい話のメインストリームを知るのにたいへん有用である。

私は,オカルト,スピリチュアル,都市伝説,陰謀論が大好きだから,もうワクワクして読んだ。あまりこうした分野に興味のない人にとってみては,もしかすると本書はある意味歴史の教科書のような単調な印象をもってしまうかもしれない。しかし,本書に紹介されているワードを一つでもいいから,少し掘り下げて調べてみてほしい。そこには人間が動かされざるを得ないような魅力的な事柄が見つかることだろうから。私もそうした魅力から逃れられず,常にこうした世界へのアンテナを張り,ついには全国の民話までも興味の対象となっている。

本書は人々が陥りやすい言論,思想,ブームについて,その源流や関連性を紹介し,「これは怪しい」と気づくことができるような内容になっている。そうなることを願って著者は本書を著したと書いているから,その目的は達成されているだろうと思われる。私だっていつそうした世界の罠に陥ってしまうかもしれない。そうした恐れを持ちつつ,本書は,ぜひ百科事典と同様に手元におき,折に触れて参照したい良著である。


2022年1月1日土曜日

謹賀新年,2022年の目標

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。


さて,今年の目標は,昨年達成できなかった

「叶えたい夢を見つける」

ということの他に,

「身体を鍛えて体重を5kg減らす」

「合氣道の稽古量を増やす」

「本を12冊読む」

「映画を12本観る」

としたいと思います。昨年の目標とほぼ同じなのだけれど,どの目標も達成できなかったので,今年はより具体的な数値目標をあげてみました。

映画は,TVでも動画でもよいことにします。とにかく映画を観て感想をブログに書くことを目標にしたいです(過去には1年間に60本観たこともあったのだけど)。

あとは,

「明るい未来を予想する」

です。私の性格はどうも悲観論者であるので(性格は明るい方だと思うのだけど),将来にあまり希望が持てないのです。これをなんとかよく考えて,明るい未来を確信できるようにしたいと思います。

どうもこの年齢になって,成長が足踏みしているような感じがするのです。今年はもう少しなんとかしたいものです。

今年の年賀状の写真です
こんな画像をつかうようになるなんて,私もヤキが回ったものです




桜を見ると思い出す

桜が満開である。 研究室でも花見BBQが行われ、まさに「花より団子」 、学生はだれも桜など見ずにひたすら食べることに集中していたけれど、食べづかれた私は桜をぼんやりと見ていた。 学生の一人が 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と梶井基次郎の文章 について話していたので、そうい...