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5月, 2013の投稿を表示しています

テレパシストが大嫌い

<まだまだ自分の好き嫌いを書いていくシリーズ,続きます> 私はテレパシストに会ったことがある. その人はこう言った. 「みんなそう思っていますよ」 (暗に「おまえの考えがおかしい」と言っている) そういうことを言う人には,私はとりあえず「へぇ~」という顔をしてあげる.だって,他人が思っていることがわかると言っているのだから,その人は超能力者なのだと自称しているのだ.そうでなければ,自分の意見を通すために,あるいは私を批判するために,ずいぶんと浅薄な根拠をあげているにすぎない,たいへんにイタい人でしかない.だから私は,相手が本当にテレパシストであったとしても,イタい人であったとしても「へぇ~」という顔をしてあげるのだ. そもそも,まず「みんな」って誰のことを言っているのかわからない.どういうカテゴリーに含まれている人たちを想定して「みんな」と定義しているのか.まさか世界中の全員を言っているわけではあるまいし,そのテレパシストが付き合っているすべての人と限定したとしても,相当な数である.その人たちのすべての思考を読んでわかっているのだから,本当にすごい能力である.一方,超能力者でないのであれば,知性を疑うような言葉である.「みんな」がそう思っていると自分が思い込んでいるだけでしかない.その主張は,かなりイタい. 「XXちゃん(子供の名前)のことは,すべてわかるんです」 と言う親にも会ったことがある.その子供はすでに成人してずいぶん歳をとっていたけれど. この場合,自分の子供だから読心できるのだろうか?もしも本当にそんな超能力者の親だったら,その子供は絶望的に不幸だと思う.だって親からの逃げ場がないのだから.少なくとも自分は嫌だ. 一方,こんなことを言った親が超能力者でないとしても,全くその子供は不幸である.あまりに親がイタすぎるのだ.「すべてわかる」ということは,子供の言動はすべて自分の管理下にある,と言っているのに等しく,その親は大きな勘違いをしているか,その子供に対してひどい虐待をしているか,のどちらかになるのではないだろうか. 「過保護」,「過剰な管理・干渉」は,立派な虐待 なのである.ベストセラーとなった 「毒になる親 ~一生苦しむ子供~」(スーザン・フォワード著) を読めば,こうした考えを持つ親の子供がどのようにスポイルされて,...

「みんながやっているから」という言い訳の未熟さについて

<自分の好き嫌いを書くことによって,自分の性格や思考について明らかにしていこうとする試みを続けています> 先日,子供たちの塾の先生と話していたのだけれど,子供の 「みんながやっているから」 「みんなそうしているよ」 という言い訳が大嫌いという意見で一致した. 実は,子供だけではない.大の大人であっても(たとえそれが定年を過ぎたような人でも) 「みんなやっていますよ」 などと言い訳しているのを見聞きすることは少なくない.子供ならまだしも大人がそんなことを言っているのを見ると,もう私はその人をなんとかするのはあきらめて,その人との付き合いをやめるようになってしまった.もうそんな人たちと関わっている時間がもったいないのだ(そして相手を非難しても相手が変わるわけでもないし,距離をとるのが一番大人の対応なのだ.). 「みんながやっているから」というのは,まずかなり不確かな根拠だということをそれを言い訳にする人たちは認識していない.いったいどれだけの人が,現実にそのような言動や思考をしているのか調査したことでもあるのかと思う.そうした事実に基づいたものではないから,彼らにとっては常識に思えるのかもしれないけれど他人から見ればそれが滑稽であることも多々ある.自分の言動,考えが一般の人たちを代表しているといって強く主張したいのだろうけれど,結局自分の意見を通そうとするわがままでしかないことを認識すべきである. 次に,自分の言動の理由を他人に求めることが気に入らない.「みんながやっているから,自分もやるのだ(あるいはやっていいのだ)」という言葉の裏には,自分の言動に責任をとらないというその人の立ち位置が垣間見える.もしもその言動について責任を追求されれば,「みんながやっているからいいのだと思った」などと答えるのだろう.その無責任さには,腹が立つのを通り越して,悲しくなってしまう.この言い訳は,自分の責任の放棄を表しているのだ. 最後に,自分の頭を使っていないことを他人に示して,それがそんなにうれしいのかと思う.「みんながやっているから」ということは,他人の行動に自分の思慮なく従う,ということである.それを言い訳にするとき,自主性の欠如はもちろんのこと,自分の知性の無さをひけらかしていることにほかならないのだ.そんなことにも気づかないで,それを理由に...

なぜ私は「自分の気持ち第一主義」を嫌悪するか

私が大嫌いなものに,「自分の気持ち第一主義」というのがある. 最近は,世間がわがままを許さない状況になってきたから,ずいぶんとそれを口にする人が減ってきたように思うけれど,数年前くらいには「自分の気持ちを一番大切にして何が悪い」と言ってはばからない学生も数多くいた.そこには,他人の事情はどうでもいいという気持ちが見え隠れしているのうな気がして,私はそうした人たちを嫌悪し続けていたのである. 自分の気持ちを大事にするのは大切だと私も思う.自分が幸せを感じるために生きているのだから.しかし,それを最優先して生きていくことがそれほどいいことなのだろうか?私はそうは思わない.私たちは社会の中に生きていて,環境との関係性を無視して生きていくことができないからである. 自分の気持ちを最優先する,という言葉の裏には,他人の想い・期待を裏切る,あるいは社会に対する責任を果たさない,という事実が隠れていないだろうか.そうしたわがままを通しても構わないという考えの表明ではないだろうか.もちろん,過剰に責任を果たす必要は無い.しかし,私たちは社会的な存在である以上,自分が所属する社会(家族,友達,学校など)と調和をして生きていかなければならないのである.それを無視して自分が幸せになれるはずがないのである. 心理的な治療において,催眠や暗示などの手法が用いられることも多いけれど,被術者の価値観や行動を変える暗示を与えたのちに,その暗示に従った場合に環境と整合がとれるかどうかを被術者の無意識に尋ねるのだという.そこに不整合が起っては,生活に支障をきたすからである.自分の一つの価値観の変化,行動の変化を例にとっても,環境と調和していなければならないのだ. 社会に対する責任を果たしてはじめて,自分の生活,幸せがあるのである.あるいは社会に対して貢献することによってこそ,自己実現があるのだ.だから私は社会との関係,社会に対する責任を軽視するような「自分の気持ち第一主義」は,大嫌いなのである. 震災以降,「自分の人生,好きなように生きる」と口にする人が増えているように思う.しかし,「自分探し」とか,「好きなように生きる」などという前に,まずは社会に,学校に,家族に対して責任を果たすべきなのではないか,と私は思うのである. #先日,同様な意見がツイートで流れていたのを見て,こ...

皮肉屋であるフィリップ・マーロウと勝海舟

私は,レイモンド・チャンドラーのハードボイル小説の主人公 フィリップ・マーロウ が大好きなのだけれど,なぜ彼にこんなにも惹かれるのかと少し考えてみた. 残念ながら,私は彼ほどタフではないし,女性に優しくもなく,モテもしない.彼と私との共通点はほとんどないのだけれど,唯一「皮肉屋」であることが似ているといえばいえなくもないのだと気付く. ただ彼の皮肉は,非常にカッコ良く響くのだけれど,私の皮肉はたんなる嫌みにしか聞こえないというのが大きな違いらしい.私はマーロウばりに気の利いたことを言っているつもりなのだけれど,みんなは決まって嫌な顔をする....どこかが違うらしい.そこがわからない限り,ハードボイルドの道は遠いのだろう.まだまだマーロウにはなれない. フィリップ・マーロウの他にも大好きな皮肉屋がいる.それは幕末の英傑 勝海舟 である.彼が皮肉屋であるというと,少し違和感を感じる人も多いのかもしれないけれど,彼は明治時代にはすでに隠居をしていて,教えを請いにやってくる人たちに対していろいろな話をいていたのだけれど,ところどころに辛辣な皮肉を吐いている.「 氷川清話 」などを読むと,勝海舟の一筋縄でいかない彼の人物像が浮かび上がってきて,本当に面白い. 幕末の三舟といえば,勝海舟,山岡鉄舟,高橋泥舟だけれども,剣術の達人でもなく,槍術の達人でもない勝海舟が一番好きだ(海舟も直心影流の皆伝だけど).どうも山岡鉄舟,高橋泥舟はどちらも誠意と忠誠の人であり,それはそれで素晴らしくてまぶしい人物なのだけれど,私が親近感を持つかといわれるとちょっと違う.一方,勝海舟は幕末にあれだけ活躍したのに明治以降は一線から外されて,世の中を少し斜に見ているところが妙に身近に感じる.そうした境遇から生まれる皮肉には,彼の無念さが少しのぞいて見えるような気がする.ただ私の皮肉と違って,彼の皮肉には人生経験に基づいた深みがあるのがうらやましい. フィリップ・マーロウ,勝海舟,いずれにしろ皮肉屋であるところが,好きな理由のひとつであるらしい.ただ私の皮肉と彼らのものとは大きな隔たりがあるのも事実である. 彼らのような大人の皮肉をつぶやけるようになるのはいつのことだろうか.

インバータエアコンは世界を救う

明日は「いちょう祭」で研究室公開. パワーエレクトロニクス(以下,パワエレ)という聞き慣れない言葉を一般の方にも理解してもらえるよう,説明をそれなりに一生懸命工夫しているのだけれど,あまりピンと来てもらえない.これだけ身の回りに溢れているのにそれを認識されていないというパワエレはある意味成熟した技術なのかもしれない. 「十分に進んだ科学技術は,魔法と区別がつかない」(アーサー・C・クラークの言葉) 私が学生の頃,「インバータ」といえば一般の人は「エアコン」を思い浮かべたものである.「インバータエアコン」といえば,省エネできるエアコンとしての売り文句で,広告が溢れていたからである. しかし,現在. いつものまにかエアコンといえばインバータエアコンであることが当たり前となってしまって,人々の記憶から「インバータ」という言葉は消えつつあるようだ.研究室に見学に来た方に「インバータ」といっても,うなづいてくれるのは40代を過ぎた大人ばかりであるようだ... インバータエアコンはそうでないエアコン(スイッチをオンするか,オフするかしか制御できない)に対してきめ細かい温度制御ができるので,およそ30%も電力を節約できると言われている. 日本では,出荷される住宅用エアコンはほぼ100%がインバータエアコンであるという.しかし,世界は全く違うのである.アメリカや中国では90~100%がインバータを用いていないエアコンなのだ.つまり,オンオフ制御しかできないエアコンが世界の常識なのである.なんと日本は進んでいることか... 日本に4000万軒,住戸があるとする.そのうち半分の住戸に(実際はそれ以上だけれど)一台ずつエアコンがあるとする.ということは2000万台のエアコンが稼働していることになる.その一台一台がわずか5Wずつ電力を削減できたとするだけでも100万kW,すなわち原発1基分の電力が節約できることになるのである. 非インバータエアコンがインバータエアコンの100 / (100-30) = 1.4倍の電力を消費するとすると,インバータエアコンの平均電力を2.5kWと仮定すると,非インバータエアコンは3.5kWの電力消費となる.すなわち1kWの差が生じる.これが中国やアメリカ,全世界で出荷されているエアコンの台数倍すると,インバータエアコンにする...