その会長 藤平信一先生の最新刊「動じない。」.広岡達郎氏,王貞治氏との鼎談である.
動じない。
会の主たる内容は合氣道ではあるけれど,多くの運動選手が学びに来ているということである.何を学ぶかというと,いわゆる「心身統一」.大事なときに心を静めて,事に当たる.それが恒にできたらどんなに素晴らしいだろう.それを運動選手たちは学びに来るのである.
現在となっては,トップアスリートに限らず運動選手がなにかのヒントを得るために武道を学ぶというのは,そんなに珍しいことではなくなったけれど,昭和30年代には先代の藤平光一先生がすでに野球選手の指導などを始めていたというのだからその先見性には驚かされる.
その野球選手の指導で有名なのが,王選手である.王選手が一本足打法を完成させるために学んだのが心身統一なのである.王選手に藤平光一先生を紹介した広岡氏もやはり心身統一合氣道を学んでいた.野球に活かせるヒントを武道に求めていたのである.
どのような経緯で一本足打法を完成させたかは,本書を読んでいただくことにして,私が印象に残ったのは,技術を習得するために(完成させるために)広岡,王の両氏がたいへんな猛練習を行ったということ.いまだったら,身体が壊れてしまうという理由でそんな猛練習は許されないに違いない.今の選手はケガをしやすい,と両氏がいうのも納得できるけれど,昔の人は本当にすごかった.なにが現在の選手と異なるのか.これはたいへん興味深いテーマだ.
次に印象に残ったのは,試合を真剣勝負の場として捉えていたということ.もちろん,現在の選手にとっても試合は真剣勝負の場なのだろうけれど,お二人の「真剣」とは本当に「命がけ」という言葉にふさわしい気構えがあったように思われる.ちょうどオリンピック前だけれど,「試合を楽しんでくる」という選手たちの言葉に違和感を覚える,とのお二人の言葉に私も全く同感なのだけれど,お二人がいう「真剣勝負」の厳しさは,私にはずっと遠い世界のものに感じられてしまう.それほど,異なる次元で勝負されていたのだ.
最後にぜひ書いておきたいのは,広岡氏や王氏が語る,ある意味「達人」としての境地が,昔ながらの剣豪小説のような世界に非常に近いということなのである.私達は剣豪小説に出てくるような達人の境地は,フィクションのように感じてしまうのだけれど,その世界に達するとやはりそういうような感覚になるらしい.
広岡氏の言葉.「『静止』の状態のというのは,無限に詰めていった『動』の極致.逆に言えば無限の『動』を含みながら最も安定した状態」
「『静止』に向けての動きを二分の一詰めろ」
王氏の言葉.「池の水が静かなときは,水面に映った 月 は, 月 の姿のままでくっきりと映っているでしょう。風が出て池の水面が揺れたり波立ったりしたら,月の形はぼやけてしまう.(中略)この話における月は,僕にとってはボールと思えばいいんですね」
もう形而上学的な話すぎて,とても野球の話だとは思えない...事実は,小説よりもフィクションに近いのである.講談のような話の世界が本当に達人の世界にはあるのだろう.
広岡氏によるあとがきには,本書の目的として,「藤平光一先生の功績を明らかにする」,「『教える側』と『教わる側』の心構えを再確認する」,そして,「ものごとを会得する,体得するには,どれほどの努力が必要なのか.その努力の道の遠大さ,そして目標を目指してその道に精進することの尊さ,それを導くことの尊さ,ということを再認識すること」の3つを挙げている.最初の一つはともかく(もちろん勉強にはなったけれど),残りの二つのテーマは現在の私の心構えがいかに生ぬるいかということを教えてくれた.今の私には自分に対する厳しさが足りないのだ.「もうひと努力」をこれから心がけたいものである.
藤平信一会長は,現在では米国メジャーリーグのドジャースで指導したり(今春は阪神を指導していたのが新聞に載っていたけれど),全日本女子ソフトボールチームを指導したり,と本当にトップアスリートたちを指導している.彼らアスリートたちも必要なものがわかっているのだろう.
私も同じ武道を稽古しているというのが恥ずかしいくらい未熟なのだけれど,こうした話を読むと進むべき方向が見えるような気がする.
オリンピック直前の今の時期,自分にカツを入れたい人におススメの一冊なのである.
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