金曜日の稽古において脚を痛めてしまったこともあり,今日は心身を調えるために温泉に足を運んだ.家族も誘ったけれど誰も一緒には来てくれず,寂しいけれど一人ゆっくりとした時間を確保することができた.
温泉は三田から山奥に進んだところにある「こんだ薬師温泉」.源泉かけ流しの良湯である.しかし,温泉に行く途中に車のフロントガラスの先が見えないほどの大雨に見まわれて,幸先まったく不安だったのだけれど,温泉に着くとまだ雨も降っていないらしく地面も濡れていない.やれやれと一息ついて露天風呂に身を沈めたのである.
温泉でも私は本を持ち込んでゆっくりと読むことが多い(自宅の風呂でもそうである).ところが,そのうち空からポツリポツリとやってきた.これは参ったと本をしまい,それでも湯に沈んでいると,そのうちザーッと湯面に雨滴で跳ねる波紋が一面に広がる状況になってしまった.もう前も見えないほどの土砂降り.そのうち雷も鳴りだしてあたりは騒然となってきた.ピカっときたあとにすぐにドカーンと音がするので,これは危ないと思い(いやいや音がするだけで雷というのは危なくて身の安全を確保する必要があるのですが),屋内の浴場へと退避する.内湯の窓から外を見ても,白滝のような雨の斜線でほんの少し先の景色がほとんど見えない.ただピカピカしていることだけが分かるだけである.
火災報知器が誤動作したこともあって,そのうち人がグッと少なくなった.もちろん屋外の入浴は控えるように指導があったのだけれど,ふと気づくと露天だけでなく内湯のほうも湯につかっているのが私だけという状況になっていた.そうした贅沢に内心うれしくなって,窓外を変わらずに見ているうちに,なにか変な感覚になってきた.どうも異界につながっているようなそんな怪しい気分になってくる.雨と雷との轟音の中,日常と非日常の境目があいまいになってきているような気がする.覗いている窓の向こうに何かが見えてきそうである.
ふと,幸田露伴の「観画談」という作品を思い出す.ある人物が山奥の寺に宿泊中,豪雨に見舞わる.深夜の土砂降りの中,避難してたどり着いたある建屋の一室で,現実と非現実のあわいに紛れ込んでしまった経験をするというものである.この作品を読むと,露伴独特の語り口についつい引きこまれ,自分がそんな体験をしてしまいそうな気分になってしまうのだけれど,今日のそれはまさにそれを実際に体験してしまうかのような時間だった.異界を強く近くに感じた.
いつの間にか雨の降りも柔らかくなり,私も湯から上がって帰途に着いた.これで心身の疲れがとれたかどうかはよくわからない.でも,なにかしら奇妙な体験をしたことは確かである.あちらの世界は思ったほど,こちらの世界から遠くないような気がした.
#露伴には,「幻談」とか「五重塔」のような,もう天下一品の語り口をきかせる作品がある一方,種々の論考をまとめた随筆も素晴らしい.彼の博識ぶりが溢れ出ている.そちらも私は大好きだ.幸田露伴にはなにかしら惹かれるものがある.実は,「氷川清話」の中で勝海舟も彼の名前を上げているのである(露伴と海舟の時代がつながっているということに私は驚いたのだけれど)
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