2012年11月26日月曜日

この世に不思議なことなどなにもないのだよ,いや,あった方が面白いのだ

最近,あらためて「新耳袋」を読み返している.仕事の合間,ほんの数分間の息抜きに,数話ほど目を通す.異次元の話に気分が少しほぐれるのである.

私はとにかく怪談話が好きなのだけれど,人の情念や因縁による暗い話は苦手で,どちらかといえば不思議系の話が好きなのである.不可思議な現象がおこったエピソードは話されるけれど,その理由は謎のまま.そんな話が大好きなのである.

思えば,こうした構図(不思議なことは起こるが,物語が終わっても謎は謎のまま残される)は,村上春樹の小説でも同じである.もともとこの世界には説明がつかないことがあって当然ではないかというのが私の考えなので,その理由が示されなくても(科学的な説明ではなく,因縁めいた理由がほとんどなのだけれど)村上春樹の作品も「新耳袋」の怪談も私にストレスを感じさせないのである.

ただ実際の世界においては,ほとんどの不思議な現象はいろいろなことで説明がつくのではないかと思ってはいる.「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とよく言われるけれど,人間の心理的な状態がなんでもないことがらを不可思議な現象にしてしまうのではないだろうか.あるいは結局は物理的に説明がつくことが多いのではないかと思うのである.

「この世に不思議なことなどなにもないのだよ」とのたまう京極堂のごとく(京極夏彦の小説の登場人物です),理路整然と物事を解き明かしていく,そうした態度こそが私が憧れるところである.

しかし,小説や怪談の楽しみ方は違う.そんな興ざめなことはしない.不思議は不思議のまま受けいれ,その不思議が起こる背景,理由,そしてそれが示唆すること,そうしたことに思いをはせる方がずっと面白いではないかと思う.ケチをつけたところで,なんの意味があるというのだろう.むしろそれで自分がどう思うか,体験談であったらその心理的・社会的な背景はなんであったのか,それを考えた方がずっと興味深い.

たとえば,

近所の子供たちが遊びに来ていて,母親がおやつを出そうとするとひとつ足りない.数えてみると,ひとり見かけない女の子が含まれている.女の子は,「私はいいから」と一言いうと,庭の木の方に走っていき,するすると登っていったかと思うと木のてっぺんですぅっと消えてしまった.

という話が紹介されている.子供たちが一緒にそうした不思議な経験を共有するということに素晴らしさを感じてしまう.私だったら憧れてしまう.そんな体験ができる人生の方がずっと素敵に違いない.結局,ファンタジーなのである(もちろん,そんなことも言えない,怖い話も多く紹介されているのだけれど).

異世界への恐れと憧れ.誰もがそれをもっているからこそ,怪談話はいつの時代も流行るのだ.変に「スピリチュアル」などといわないで,もっと健全に怪談話を楽しんでもよいのではないか.また怪談ブームが来るような気がする(そしてそれはゾンビブームよりも健全な気がする)

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