2012年11月15日木曜日

生きることと死ぬることは,ある意味では等価なのです

先週末は父の三回忌ということで,新潟に帰省していた.家族だけでひっそりと法事を終え,父を偲んだ.うちは浄土真宗なので,法要の終わりに住職の説話がある.浄土真宗では,もともと三回忌というものは,いや法事というものは,故人を縁にして,現在生きている人たちに仏法にあう機会を持たせるために行うということになっているらしい.だから,多くの場合法事の最後は説話で締めくくられることになる.

今回のお話は「生死(しょうじ)の問題」についてだった(私が「三回忌はなんのためにあるのでしょうか?」とお尋ねしたことからこの話が始まった).

まず「人はなぜ死ぬのか」という問題が最初に来る.

「老いるから」だろうか?それならば若い人は死なないのだろうか?

「病気にかかるから」だろうか?それならば健康ならば死なないのだろうか?

いや,誰もが死ぬ.強いて「なぜ死ぬか?」と問われるのならば,「生きているから」としか言いようがない.生きている限り誰もが死ぬのだ,ということなのだ.それも不慮の事故などで命を落とす場合もあるから,「いつ」死ぬのかもよくわからない.今日は生きながらえても,明日はそうではないかもしれない.そんな不確定な毎日を私たちは過ごしているということになる.

生と死は紙の裏表のようなものだと話される.ふたつはとても近い存在で,どちらもとても大切なことなのに,私たちは「生きる」という表側だけを考えて生きてはいないだろうか.いまこのときの次の瞬間,死が私たちのもとを訪れるかもしれないのに,自分に限っては死が遠くにあるように思ってはいないだろうか.もっと私たちは「死」を意識して生きていく必要があるのではないだろうか.

死を前にしては,知識や教養などは全く意味をなさない.唯一頼れるのは仏法である.仏法にあうことによって,すなわち阿弥陀如来のご本願を聞くことによって救われるのである.そして,三回忌などの法事は,故人を縁として,こうした仏法にあう機会をもつために行われるのである.

という法話であった.浄土真宗なので,最後は「南無阿弥陀仏」の教えにいくのだけれど,確かに「生死の問題」は,私にとっても大きな問題である.いろいろと考えるきっかけになった.

そして「生と死は等価」という言葉にたどり着いて,ふと村上春樹の短編「タイランド」を思い出した(「神の子供たちはみな踊る」収録).

女医である主人公はバンコクで開催された国際会議に出席したついでに,リゾート地で休暇を取る.このときに自分についてくれた老運転手かつガイドが,女医が心に「石を抱えている」ことを知り,ある老婆のもとにつれて行き,それを指摘してもらう.そして,その後に女医との会話でこのように話すのである.

「これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」

そう,生きることだけに集中するのではなく,死ぬための準備も行わなければならない.なぜなら,生と死は等価なのだから.

この短編小説はなぜかしら心に残っている.そして,年をとればとるほど「死に向かう準備」の重要さを思うようになってきた.そして,このたびの三回忌であらためてその大切さを考えることになった.

「死は遠くにあるものではない.生と死は続いているのだ」(これもたぶん村上春樹の小説に似たような言葉があったと思う.「蛍」だったか「ノルウェイの森」だったか)

「生死の問題」はとても身近な話である.そして,ことあるごとに思い出したい話である.




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