2026年4月26日日曜日

なにもかも手に入れた金持ちは武術の習得を目指す?

 人生におけるほとんどの幸せはお金で買える。これは間違いの無い真理であり,私は全く同意する。

しかし,もしも自分がたいへんな金持ちになって,世界を救おうなどと考えず(笑),自分のためにそのお金を使うことができるようになったら,私は次に何をするだろう?

なにもかも欲しいものが買えるようになったら。。。たぶん次の目標は「修行の達成」である。精神的な満足を求めて,修行を始める(続ける)に違いないと思う。それは,武術かもしれないし,仙道かもしれない。つまりは,お金では買えない幸せを次に追い求めるのにちがいないと思う。

「セイバーキャッツ」という漫画の中にはそんな話が出てきたと記憶している。登場人物がお金持ちになると宇宙中の(漫画なので,国とか世界中とかではなくスケールがでかくなる)武術の達人を探し,その教えを乞うのである。そして修行して天地とひとつとなることが金持ちのひとつの目標となる。

このアイデアに私は大いに賛成する。お金は大事だけれど,お金の次の目標は自己実現である。社会的地位で自己実現をする人もいるが,武術の修行で自己実現を目指す方が私にもあっている。お金もそんなにかからないし,社会的地位が上がって仕事や社会的責任が増えることもない。

ただ武術とは仙術などとは違って,日常万般に活用することこそ目的である(日常生活で武技を使うということではない)。武術の考え方,身体の運用法を用いて「事上磨錬」をすることこそ修行といえる。社会とのつながりを断つ修行もあるだろうけれど,社会とのつながりを重視して修行するのが武術なのかと思う。私は金持ちではないけれど,ささやかに修行の達成を目指したい。


2026年4月25日土曜日

もしもサイコキネシスがあったなら

超能力があったらいいのに。そんなことを私は今でも思う。

もしもサイコキネシス(念動力,念力)があったなら,グローブボックスなしで実験ができる。遠隔からいろいろなものが操作することができれば,wired, wirelessなどのリモートコントローラなど不要となるだろう。実験が実に簡単になる。なんてすばらしい理科学世界!

という冗談はやめにして,ハリウッド映画など見ると超能力バトルがアクション映画の見せ場になっていることが多い。巨大な岩や大きな建物が念力によって飛んでいって敵を倒す。スカッとするシーンである。

マンガでもこうしたシーンは多い。例えば超能力で人が壁に飛ばされると背面のコンクリートの壁が半球型に大きくくぼむ。その画をみて,私たちは放たれた念力の大きさを感じる。ちなみにこうした超能力表現は,大友克洋の「童夢」が最初ではないかという話を聞いたことがある。それまでの超能力は,光線のような線が主人公から引かれて何かエネルギーの放出を表していたけれど(ドラゴンボールのかめはめ波のように),大友克洋はその力が作用した側の物体の変形を描いて念力の大きさを表した。素晴らしい漫画表現の変革である。

そうした表現を用いた映画「AKIRA」の超能力シーンももちろん素晴らしいし,「幻魔大戦」の念力もスケールが大きい。アニメで再制作された「Night Head」も念力バトルになっていたし(オリジナルの豊川悦司と武田真治のドラマではガラスのコップが壊れるくらいのもう少し抑制が効いた念力だったが),最近だと韓国の「The Witch 魔女」シリーズの戦闘シーンが面白い。念力を用いた暴力のアイデア集になっている。

そうなのである。こうした表現が当たり前になりすぎて,私たちは念力バトルを想像するとそうした物体の破壊が伴う戦闘が思い浮かぶようになった。しかし,もしも念力があるのであれば,そんな大げさな戦闘をするだろうか?

私だったらそんなことはしない。またせいぜい数百グラムのものを動かすことができる念力さえあれば十分である。なぜならただ術者の脳の中の神経を少し壊すだけで十分だからである。たとえば敵の視床下部の細胞を物理的に壊す,あるいは発熱ができるのであれば,脳の一部を加熱してその機能を不全にする。それだけで相手を倒すには十分なのである。(もしも超能力を用いた物理実験をする場合にはもう少し力が必要だろうけれど)

だからもしも念力があるのであれば,世界は要人の暗殺合戦になるだろう。アメリカも,ロシアも,中国も,大統領や国家主席は決して人前に出てこないに違いない(もしかして,実は念力の術者が本当にいて暗殺を実行しようとしているのだけれど,また一方で超能力の防御者がいて暗殺を阻止しているなんて,そんな複雑な世界なのかもしれないが)。

昔,超能力者のユリ・ゲラーがアメリカ政府に超能力の仕事を頼まれたなどという話があったけれど,もしも彼が念力で人を殺すことができるのであれば,まずはユリ・ゲラーの命こそ狙われることだろう。

というような考えをめぐらしていると,残念ながらサイコキネシス(念力)の存在は不条理になって,映画のような超能力バトルは難しそうである。うーん,本当に残念。



#もちろん,物理的に念力でモノを動かすことができるのであれば,エネルギー保存則は成立しなくなってしまう(モノを動かしたエネルギーはどこからやってくるのか?)。そんな野暮なことはもちろん言わない。



2026年4月19日日曜日

インバータ制御ではないエレベーター

 横須賀で泊ったホテルのエレベータの話。乗って目的の階に止まるときの動作がどうもぎこちない。エレベータが止まるときの振動が尋常ではない。ぎくしゃくとした動作が乗っているものの不安をかきたてる。

どうしてなんだろう,と思っているとエレベータの中に「横須賀市で第1号のエレベータである」との張り紙を見つけた。そしてインバータ制御ではないので,動作がぎくしゃくするのはご容赦ください旨のメモも貼ってある。すごい。インバータ制御ではないエレベータなのだ。この時代,それらはほんとに珍しい。

そこで次々に疑問が湧いてきた。インバータ制御でないエレベータの昇降はどのように制御されているのだろうか?加減速はどのような制御系で行われているのだろう?停止した時のブレーキ,そしてロックの機械的な機構は?そして昇降開始の時にモータに突入電流が流れないのだろうか?などなど。インバータによるきめ細かい速度制御ができる現代のようなエレベータと違うのだ。モータの直接投入,もしかして機械的な変速機の利用,ブレーキロック機構,ダンパー機構など,現在では電気制御によって解決されている数々の問題が,インバータの無い時代にどのように解決されていたのか。たいへん興味深い。。。

製造メーカは「横浜エレベータ」。今も同社によって丁寧にメンテナンスがされているらしい。乗るのはちょっと怖いけれど,いつまでも変わらず運転されて欲しいと思う。



#横須賀は昔ながらの趣きが残っている良い街だと感じた。道路は細くて大変だけど。



2026年4月18日土曜日

横須賀にて薄着の人をうらやむ

 先日,仕事で横須賀に行く用事があった。もう4月も半ばのことだったので三浦半島はすでに初夏の兆しを感じるくらいに暖かかった。海から吹き付ける風は強かったけれど,それでもコートは着なくても良いと感じるほどであった。

長岡から出張していた私は,過剰なくらいな防寒装備のウィンドブレーカーを着こんでいてために,少し歩くだけで暑さを感じるだけでなく,行き交う人の薄着に恥ずかしさを感じるくらいだった。

そう,横須賀の人は薄着だった。長袖シャツが風に吹かれて揺れていても颯爽と歩いている人が多かった。道行く人に海外の方が多いのも驚いたけれど,そうした海外の人たちはTシャツ1枚で歩いている人も多くてびっくり。寒くないのだろうかと疑問に思うと同時に私の厚着のひどさがますます恥ずかしくなってきた。

そういえば海外の人は寒くてもなぜ薄着で平気なのだろうかと思うことが多い。11月の木枯らしの季節でもTシャツを着て平気な顔をしていたりする。皮下脂肪が厚い割に寒がりの私から見るとうらやましい限りである。

今回の横須賀もそうだった。もしかして米軍関係の人が多くて,鍛えられた身体はそんなに寒さを感じないのかもしれない。いや,日本の高校生くらいの若い人も多く見かけたけれど,彼らも薄着だった。これは衣がえのヒステリシスが関係しているのだろうか?いや,身体の代謝の効率が違うのだろう。。。

私も身体の代謝を高めて,寒さを感じなくなるようになりたい。代謝を高めるということはダイエットにも良い影響を与えるだろうし。

2026年4月12日日曜日

同じ話を繰り返す理由

 以前から老化のせいか,同じ話を繰り返すことが多くなっているような気がする。ある人にその話をしたかどうかが曖昧で,結局同じ話を繰り返してしまっていることがあるのだ。そして話が中盤に差し掛かったころに,「それは~でしたよね」と話のオチを相手から言われて,「うっ。またやってしまった」と気づいて顔が赤くなる。

しかし,実は意図的に同じ話を繰り返していることもあるのだ。同じ話を繰り返すのはその内容が大事なことだからなのである。

ある教えに関する話を再び聴くとする。このとき,「この話,前にも聞いた」と思ってしまうと,すぐに頭が真剣に聴くことを拒否しようとし始める。少なくとも話の内容について新鮮さが損なわれ,傾聴の真剣さが目減りして聴いてしまうのだ。そして心のどこかで「わかった」ような気になってしまうのである。

しかし,重要な話であればこそ何度も何度も繰り返す必要がある。話の内容である教えを一回で理解し実行できるような人がどれだけいるだろうか。だいたいのところ,一度や二度話を聴いても,それを「知行合一」のレベルで理解できる人は少ないのではないだろうか。

孔子の弟子の子貢は同門の顔回の才能について,「一を聞いて十を知る」と評したことは有名だけれど,たとえ「一を聞いて一を知る」だけの才能だけでも十二分に天才と呼ばれるにふさわしいと思う。どれだけ学習速度が速くなることだろうか。私などは「一知半解」もよいところである。。。

人に伝えたいと思う重要なことは,やはり何度も何度も話を繰り返すべきのだ。そして話を聴く側は,話を繰り返すことの意味を理解し,真摯に耳を傾けるべきなのである。たしかにそれは人間のなまけようとする特性からして,なかなかできないことなのだけれど。


#そして私の場合は上記のような深い意味から話を繰り返すのではなく,単に老化によるボケであるけれど。。。

2026年4月11日土曜日

悠久山は桜の名所

 長岡市で桜の名所といえば悠久山が挙げられる。悠久山には,蒼紫神社という長岡藩牧野家代々の墓所がある他,サル山を有する動物園があり,池などが整備された公園がある。そして,今悠久山公園の桜が満開なのである。夜になればライトアップがされるし,綿あめなどの夜店も出ている。長岡なので夕方は気温が下がって少々肌寒いのだけれど,それさえ気をつければ,たいへん良い観光名所となっている。

山の頂上には城の形をした郷土史料館があって,長岡出身の偉人たちがゆかりの品々と一緒に紹介されている。もちろん,河井継之助や山本五十六なども紹介されている。やはり私もこのふたりのことは大好きで,戦争に反対しつつも身を投じざるを得なかったというふたりに共通する境遇を思うとつらくなる。史料館に足を運ぶたびに展示されている書などを見て,彼らの生き方を思う。(そういえば,以前に展示されていた山本五十六の白い軍服は最近見かけなくなってしまった)

そして史料館を出ると,花びらが舞う桜が目に入ってくる。感慨ひときわである。

研究室では,花見を恒例行事としたいと思っているのだけれど,今年は私の参加はスケジュールの関係で難しそうでちょっと悲しい。毎年の桜は変わらないように見えるけれど,見に来る研究室のメンバーは毎年変わっている。そのことを思うたびに次の言葉を思い出す。

年年歳歳花相似
歳歳年年人不同

2026年4月5日日曜日

袈裟斬り

 日本刀の斬り方に,袈裟斬りというものがある。自分の右側に刀を振りかぶって左下側に斜めに斬り下ろす技である。斬られる方からみると,自分の左肩から右脇腹にかけて斜めに斬られることになっていて,ちょうどお坊さんが着る袈裟と同じように左肩から右脇腹に斜めの軌道を描くことになるのが特徴である。

現在の剣道では相手を真っ直ぐに斬り下ろす正面打ちが重視されていて,防具の面を外して肩から袈裟斬りしてもたぶん有効打とは認められないので,試合ではほとんど見ることができない(と思う)。

しかし,この斬り方は斬る方の人間の身体的特性によくあっていて,剣を真っ直ぐに斬り下ろすよりも袈裟斬りの方が刃筋も立ちやすく,実戦向きであると思われる。また殺傷能力も強く,鎖骨を砕き,その下の動脈まで刃が達すれば致命傷を与えることができる。実際,戊辰戦争などの刀傷の記録などを見ても袈裟斬りで斬られたものが多かったという記事をどこかで読んだ(たぶん雑誌「秘伝」)。

戦国時代ころまで鎧兜をつけて戦闘をしていたころは,兜が邪魔になって太刀を真っ直ぐ振り上げることなどできなかっただろうから,太刀を斜めに振り下ろす技法が中心だったと思われる。もともとは斜めに斬り下ろす方がメジャーな方法だったと想像される(そもそも甲冑をつけた闘いで,戦場で太刀で戦うことなど少なかったと思われるが)。江戸時代になって介者剣術から素肌剣術となり,正面打ちの重要性が増していったと思われるけれど,わざわざ難しい正面打ちを稽古するのは,いくぶん(精神的な意味も含めて)修行的な意味もあったのではないだろうか。

もちろん剣を右肩付近に立てて構える「八相の構え」などは多くの流派に存在しているし,示現流などは八相よりもさらに高く構える「蜻蛉の構え」が特徴となっているから,古流などでは袈裟斬りがちゃんと重要視されていると思われる。「剣道」の競技の発展が袈裟斬りの存在を薄くしていったのではないだろうか。

最近は時代劇が少ないので,「袈裟斬り」といわれてもピンとこない人が多くなってきている。袈裟斬りにも,「左袈裟斬り」(袈裟斬りの左右反対の斜め斬り)や「逆袈裟斬り」(袈裟斬りの軌道と逆に自分の左下から右斜め上に斬り上げる),この逆袈裟にも左右があったりして,なかなか分類がややこしい。私も恥ずかしながら,ときどきどちらがどちらだったのか迷うときがある。

ということで自分への覚え書きという意味も込めてここにまとめておく。

#映画「椿三十郎」のラストシーンの切り上げは左手の逆手で剣を抜いて斬り上げているけれど,あれは斜めに斬り上げているわけではないから袈裟斬りではないのだろう

2026年4月4日土曜日

2026年のエイプリルフール

 もちろん,4月1日に書いた内容は実はエイプリルフールの冗談です.<しかし,最近,>以降の文章はほとんどウソです。そもそもポールシフトは短時間で起こるものではなく,数千年オーダーでゆっくり起こるものであって,リングに誘起される電圧はいくら超伝導導体であっても小さくなるものと予想されます。また技術的にも実際の構想では,リングの途中途中に半導体電力変換器などが挟まれるために過電流が流れることはありません。だからウソなんです。まあ,この夢の構想は昔からあるものなんですが。。。

本来,4/1の午前中早々に記事が公開されるべきものですが,今年もエイプリルフールをすっかり忘れていて,学生さんに言われてはじめて思い出して,昼休みに30分程度で書いたウソになってしまいました。昨年もウソをつき忘れていたので,今年は焦りました。

相変わらずひねりもなく,誰にも注目されないウソでした。来年のエイプリルフールはもっと素敵なウソをつきたいと思います。



これまでのエイプリルフールのウソ


2026年4月1日水曜日

夢の世界太陽光発電電力システム構想

 電力の問題点のひとつは,発電する場所と使用する場所,すなわち供給と需要の地域が遠くに離れることが多いということである。たとえば,柏崎の原子力発電所において発電した電力を遠く離れた東京に送電している。そこには当然送電ロスも発生するわけで,遠くであればあるほど,無駄が大きくなることになる(実際には長距離になればなるほど,系統の安定性の維持や事故時の保護が難しくなるなどのもっとややこしい問題がある)。だから家屋の屋根で発電してすぐに電力を使用できる太陽光発電などは,電力を送るという観点からは非常に有効であるといえる。

しかし,太陽光発電にも問題はある。まず,メガソーラーなど大規模な発電所を作ろうとするとやはり都市部から遠く離れた広い土地が必要で,そこからの送配電設備がやはり必要となり,長距離送電によるロスという既存の発電所と変わらない問題が生じる。さらに太陽光発電は夜間に発電できないという根本的な問題がある。この問題の解決策としては蓄電池を使用して,昼間に発電した電力を貯蔵して夜間に使用するということが考えられているが,蓄電池のコストが高すぎてなかなか導入が進まない難しい状況である。

こうした問題を一括して解決する方法がある。それは世界太陽光発電電力システム構想である。簡単に説明すると,地球を一周する超伝導導体による直流の送電システムを作るのである。すなわち地球の赤道上に一本の超伝導導体のリングを巻き付けるのである。そこに,世界各地に設置された太陽光発電システム(太陽光パネル+変換器)をそれぞれ接続する。

地球のどこかは昼間であるから,このシステムのどこかでは常に電力が発電され,24時間世界中に供給されることになる。これで,太陽光発電は夜間は発電しないという問題が解決される。

次に送電ロスの問題であるが,送電線を超伝導導体で作ればロスは冷却分だけになりかなり効率化される(もちろん高温超電導体を用いる)。地球一周4万Kmの長さであっても送電ロスは基本的には問題にならない。系統の安定性の問題も,交流ではなく直流であるため解決されるはずである。

このシステムさえ実現できれば,世界のいつも地球上のどこかで発電し,その電力を共有することができるのである。エネルギー偏在の問題もこれで解決できる。まさに夢のシステムである。

しかし,最近,この夢のシステムにある問題があることに気づいた。それは地球が磁石であるということである。このシステムは,大きな超伝導導体のリングの中に地球という磁石をいれているのと同じ構造をしている。この状態が未来永劫続くのであれば問題ないのだろうけれど,地球にはポールシフトという現象がある。地球の磁極が逆転したら,一体どれだけの磁束の変化が,超伝導導体のリングに起こるのだろうか。このポールシフトが短時間で発生したらこのリングにはかなり過大な誘導電圧が発生し,過大な電流が流れてしまってシステムが損傷してしまうに違いない(最悪,フープ力によってリングが引きちぎられてしまうとか。。。)

この電力システムは,地球のポールシフトの壮大な検出器でもあるのだ。。。

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2026年3月15日日曜日

私のコーヒーの好みをまとめてみた

 月に2~3度は珈琲店を訪れ,美味しいコーヒーを飲みながらブログ記事を書いている。長岡に来てから6年が経つから,これまでに相当な杯数のコーヒーを飲んでいるはずである。そこで私のコーヒーの好みについて,たまには書いてみようかと思う。

珈琲店ではハンドドリップコーヒーを飲むことが多いのだけれど,その銘柄はいつも店のお薦めを飲んでいるから訪れるたびにコーヒーの種類は変わっている。コーヒーの名前には,ブラジル,コロンビア,コスタリカなどの産地名が冠されていて,そのたびに少しは気にするけれど,コーヒーを飲んで産地が分かる,なんてことは全くない。その他名前には,ナチュラルとかウオッシュドとかアナエロビックなんて製法名が含まれていたり,ときにはinfusedとか書かれたりしている。これらの言葉を私が理解しているかといえば,そんなことは全くない。コーヒーは全然詳しくない。そもそも私は味音痴なのだ。そんな製法にこだわるような男ではない。ただし,それでも,「美味しい」と思うか,「まずまず」と思うか,その判断はする。そうした基準で私が選ぶコーヒーは次の通りである。

・ブレンドでなくスペシャルティの単一の豆を用いたコーヒーを選ぶ:まず,私はブレンドコーヒーというものがあまり得意ではない。ブレンドコーヒーというものはどうも味がはっきりとしない。各店舗によるオリジナルブレンドをよく飲むけれど(普通の喫茶店やチェーン店ではいつもこれ),味はあまりぱっとしないというのが私の印象である。豆の味の特徴が混ざり合って凡庸になっているような気がするのだ。もちろん,これまで私が素晴らしいブレンドコーヒーに出会っていないだけかもしれないが。

・苦いコーヒーよりも酸っぱいコーヒーを選ぶ:苦いコーヒーも時には美味しく感じるのだけれど,普通の体調のときはどちらかというと酸っぱいコーヒーが好きである。フルーティーなものも大好きである。口に含んだときに香りが口の中に広がって,その後酸味を感じられるようなコーヒーが好きなのである。

・できれば時々水を飲みながらコーヒーを飲む:コーヒーを飲んでいると,舌が味にどうしても慣れてきてしまう。水を時々口に含むと舌がリフレッシュされて,美味しさを味わえる時間が長くなるような気がする。またコーヒーを飲んだ後の口臭も抑制されるようである。

・ぬるすぎるコーヒーは文章を書くのに適さない:コーヒーそのものの味を賞味するために,ときにはコーヒーの温度はびっくりするぐらい低く提供されることがある。あまりに冷えてきたときには白湯を入れて香りを再び立てるようなこともする。こうした楽しみ方は,確かにコーヒー自体の味を賞味するには良いのだと思うのだけれど,コーヒーを飲んで考え事をするにはあまり適していない。ブログ記事を書くような場合には,考えの小休止としてコーヒーを飲む。そのときはやっぱり熱いコーヒーの方がその役割を果たすのによいと思うのだ。

ということで,私はスタバとかタリーズとかのブレンドよりは,珈琲店の単一豆のハンドドリップを好む。通常のチェーン店でブレンドを選ぶのはだいたいその価格がやすいからなのである。

私の好みを書いてきたけれど,実際のところ美味しいコーヒーであれば,なんであっても構わない。コーヒーを味わう贅沢が千円以下で楽しめるのはたしかに日常生活の小確幸である。美味しいコーヒーを飲ませてくれる店を見つけることがまずは第一歩である。

#とはいえ,平日は居室で飲むゴールドブレンドで満足しているのだけれど


2026年3月14日土曜日

珈琲店の会員制度の終了とブログの更新頻度

 ブログ記事は,週末に少しお洒落な珈琲店でコーヒーを飲みながら書くというのがこの数年のルーティンになっている(この記事もそうだ)。美味しいコーヒーを飲みながら,こうして記事を書きながら考えをまとめる時間は,それなりに日常生活の中で重要なものになっている。まるで誰かに愚痴を言うように,記事がとりあえずまとまるとスッキリするのがストレス解消になっているようだ。

ブログ記事を書く場所にこの珈琲店を選んだのは,内装が木製で心が落ち着くからであるし,それでいて若いカップルや熟年夫婦などが会話やコーヒーをにぎやかに楽しんでいる姿をみるのも心を温めるからでもある。しかし,なんといってもこの喫茶店を訪れる理由は,会費を払って月会員になるとハンドドリップコーヒーが半額になるという特典があったからである。 コーヒー3杯を飲めばもうお得なのである。

しかし,この会員制度が今月で終了することになってしまった。店から届いたメッセージには昨今の価格高騰が終了の理由だと書かれてあった。それは確かに仕方ない。輸送費を含め物価は何もかも上がっているし,コーヒーだってブラジルなどの不作で世界的に高騰しているとどこかで記事も読んだ覚えがある。よくぞここまで価格を抑えてきてくれた,と感謝したいくらいである。

しかし,それでも,である。出費が増えるのはつらい。この店を訪れる頻度もそれなりに少なくなってしまうだろう。しかし,これは好機であるともいえるかもしれない。これまで会員だからということでこの珈琲店に通ってきたわけだけれど,他にも美味しい珈琲店は市内にあるだろう。そうした店をひとつずつ開拓する楽しみも今後はあるに違いない。

ただブログ記事を書くほど落ち着いた環境の店というのはなかなか見つからないかもしれない。そのときは,このブログの更新頻度も残念ながら下がることになるだろう。もしも更新頻度が下がったら,そうした理由なのだと推しはかっていただければと思う。

2026年3月7日土曜日

最近,デスゲームのルールが複雑すぎる

 「呪術廻戦」はテレビのアニメをこれまで見てきて,今期も期待して視聴を続けているのだけれど,最近正直をいうと見るのがなかなかつらくなってきた。今期は「死滅回遊」と銘打って,呪術師同志の殺し合い,すなわちバトルロワイヤルを描いているのだけれど,このデスゲームのルールが複雑になってきて,頭が追い付いていかないのである。

そもそも私が番組を見るのは,頭の中を空っぽにして何も考えずに楽しみたいからであって,知的ゲームを解き明かしていくという楽しみを求めているわけではない。主人公と敵との単純な構図があって,味方と敵とが戦いあうようなスカッとした物語が好きなのである。

それが今期の「呪術廻戦」といえば,登場人物たちの業を説明する話がところどころに挿し込まれ,殺し合いについても複雑なルールがプレーヤーたちに課されている。ルールが複雑になると,そしてそのルールの盲点を突いた攻撃などがあると,そのルールがどうだったのか,そのたびに確かめる必要が出てくる。それが面倒なのである(そのルールを確認しても理解できないこともしばしばだけれど)。そしてその面倒くささが,私から番組の視聴を遠ざけるようになっていく。

(ちなみに登場人物の背景の説明も実は苦手である。この理由のために「鬼滅の刃」の映画を観に行く元気がまだ出ていない。。。)

同じ理由で苦手な漫画が「ハンター×ハンター」である。物語の途中からはルール(制約)が多すぎて,とても理解できない。単行本を読んでいても,途中からとても漫画とは思えない文字数で紙面が埋められ,まるで小説を読まされているような気分になる。それが好きな人もいるのだろうが,私みたいに単純な話を好む人間には少々つらいものになっている。

カイジやライアーゲームなども,正直苦手である。。。頭が単細胞でできている私には,単純な話がお似合いなのだ。「ハンター×ハンター」のあの文字で埋め尽くされたページをめくっていると,これを本当に理解して読んでいる人はどれだけいるのだろう。。。といつも思うのである。

2026年3月1日日曜日

丹田に関わる修行法について

 「丹田」という概念が武道の修行において重要視されているが,修行する武道などによって説明が異なっており,それぞれの方法において異なる解釈がされえちることがわかる。しかし,「丹田」という概念は,東洋において,武道に関わらず精神や心の修行に重要であることは共通であるようで,その概念や修行法においては多くの類似点が見られるようである。

「丹田」は「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと区別されることもあるが,たとえばこれらの概念は,インドのヨガなどで言われる「チャクラ」の概念に近いと思われる(多くの人がそう思っているだろう)。人体においてチャクラは,尾骨,仙骨,胃,胸,喉,眉間,頭頂付近に計7つ存在するといわれていて,それぞれ生命力や感情などを司ると言われている。ヨガや呼吸法などの修行法はこれらの「チャクラを開く」ことを意識して行われる。最近では「チャクラ」という概念はヨガの普及とともにかなりメジャーな概念となっている。もしかすると「丹田」は知らなくても「チャクラ」は知っているという人の方が多いのかもしれない。

こうしたチャクラの開発においては体内のエネルギーの循環を意識して修行されるが,その修行法に類似しているものが,中国道教(気功法)における「小周天」という気をめぐらす功法である。体内の経脈にしたがって気を循環させるのだという。気の循環を天地と行えば「大周天」となるらしい。体内にエネルギーの循環をイメージする点では同じである。

そして日本にはもっと静的な修行法として禅がある。これは丹田をしずめて瞑想することが指導されるようで,あまり体内のエネルギーの循環を意識するということは聞いたことがない。しかし,剣豪 白井亨が行ったといわれる白隠禅師の練丹の法「軟酥の法」は「軟酥」の移動を意識するのでなにかしらのエネルギーを移動するイメージが使われているといえ,やはり修行法に共通点があるように思われる。

結局のところ,体内のエネルギー(のようなもの)の循環を意識するという修行法は東洋においては普遍的なものであり,普遍的であるということはこれらの修行法の実効性が高いということを示しているといえるだろう。

ただし,これらの修行法にはどうも危険が伴うらしい。ヨガにおいてはチャクラの開発においてクンダリーニが暴走してしまい,心身に不調をきたすことがあるらしいし,道教においても修行において気の循環が暴走すると「走火入魔」と呼ばれる状態になって心身を害するといわれる。安全そうな禅でさえ,「禅病」と呼ばれる心身の不調の危険性があるのだ(「軟酥の法」は白隠禅師が禅病から回復するために行った練丹の法と言われている)。

人間の心は,私たちが思っているよりも身体と密接な関係があり,そしてかなり脆いということが,私がこれまでの稽古を通して実感したことである。心の修行は,ちゃんとした師について行うことがやはり望ましい。

2026年2月28日土曜日

丹田という概念

 私が稽古している合氣道では,「丹田」ではなく,丹田を一点に集約した「臍下の一点」という体内の点を重要視する。すなわち「臍下丹田」の「臍下」であり,臍下三寸くらいのところと教わる。しかし,一般的にはそこまで細かいことを言わず,「丹田」全体に言及する武道が多いだろう(丹田を重要視するのは武道だけではないけれど)。

「丹田」は通常はこのように下腹の部分を指し,よく,大事な時には「下腹に力を入れろ」などと言われたりする。しかし,この丹田という概念が実はあいまいなのではないかと思っている。そもそも「丹田」という概念を言い出したのは誰なのだろう?

この「丹田」も「上丹田」「中丹田」「下丹田」などに分かれて解説されることがある。私の理解では,「上丹田」は額の中心の「天帝」とも呼ばれる場所(お釈迦様の白毫の位置)であり,「中丹田」は「膻中」付近の場所,「下丹田」は下腹である。それぞれ心や気の修行には重要であるとされているが,昔の武芸書を読んでみて「丹田」ではなく「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと分類されているものを見たことがない。これらの概念は誰が言い出したものなのだろうかと不思議に思っている。もしかすると近代以降,中国やインドの知識が入ってきてからの概念なのではないかと考えている。

さて,私が稽古している心身統一合氣道では,力を抜くことを重要視する。普通に丹田を意識すると確かに下腹に力が入りやすい。それは面積をイメージするからである。意識するのが点であるならば力の入れようもなく,全身の力も抜ける。なので「臍下の一点」に心をしずめるのである。たいへんよくできた指導であると思っている。









2026年2月23日月曜日

宝石商が本物を見分けるための修行の話

 以前にも書いたけれど,いかにも人生の大事なことを示しているような例え話が嫌いである。誰かの名言というのは好きだけれど,どこの誰が話したかもよくわからなくて若者を大人がだますような感動話というのが嫌いである。いや,個人的にはそうした話を収集するのは大好きなのだけれど,自分自身はそうした話に安易に納得するのが大嫌いなのである。

以前に書いた「壺と大きな石,小さな石」の話が典型的なのだけれど,今回はまた別の話を紹介する。

伝統ある宝石商における修行の話。その店では新入社員に,持ち込まれる宝石のどれが本物でどれが偽物かを見分ける方法については具体的には教えないのだという。その新入社員にはただひたすらに本物の良い宝石だけを見るようにさせる。そのうちに修行年月が経つと偽物を見たときに本物とどこかが違うとおのずとわかるようになるのだ。という話。

これはある武道の先生から伺った話である。すなわち,本物の技を見て練習していれば,おのずとインチキで偽物の技を見分けることができるという教えであった。

私はこの話を聞いたときに,なぜ宝石商の例え話を出してくるのかと思った。最初から武道の技の話として話せばよいのに,と思っていたのである。この話が示している内容はある意味真実であると今では理解できているけれど,その当時は宝石商の例え話に嫌悪感をもったことを覚えている。また,初級者に教えをありがたさせるための話だ,などと思っていた。

しかし,現在では,嫌いではあるけれど例え話の目的も少しは理解できるようになってきた。それは私の講義の中の雑談と同じである。教科書の内容ばかりを講義しても学生の記憶には残りにくい。ところどころに雑談を交えて,そのくだらない話にバインドさせて重要なことを覚えやすくするための工夫なのだ。実際に私もこうしてこの宝石商の話を覚えている。そしてこの話を思い出すと,本物を見る修行の重要性もまた思い出されるようになっているのだ。


#藤平光一先生が話された千利休の話もよく覚えている。この話には嫌悪感はあまり抱かない。たぶん内容は同じでも誰が話すかということが大事なのだろう。酒場で同じ話を聞いても心に残る度合いは全く違うだろう。





2026年2月22日日曜日

刺身にあうお酒とは

 長岡に来て,日本酒を飲む機会がぐっと増えた。それまで日本酒は少し遠ざけるところがあって,あまり注文することがなかったのだけれど,長岡に来てスッキリと美味しい日本酒を飲めるようになって,すっかりその魅力にハマってしまった。いまでは刺身や煮魚などの日本料理を見ると日本酒の味を思い出して喉がゴクリとなるほどである。

こう思うと,日本酒は刺身や煮魚,焼き魚によくあうお酒なのだとあらためて思う。実は私はビールでこれらの料理を食するのも大好きなのだけれど,刺身とビールの組み合わせが苦手な人もいることについては理解できる。日本料理には日本酒一択という人も多い。

私も刺身などには日本酒かビールを合わせることが多い。一方で若い人によく見かける刺身にチューハイやハイボールを合わせることは苦手である。ましてソフトドリンクとして,コーラやオレンジジュースで刺身を食べているのをみると,彼の口の中に広がるであろう味をついつい想像してしまって,「うっ」となってしまうのだ。その甘い飲み物と刺身の組み合わせはないだろう。ウーロン茶などならよいと思うけれど。。。

いつだったか,子連れ狼などの原作者で知られる小島一夫が,

日本の大人の男には、「金を持ったにすぎない子供」の男が多過ぎる。大の男の暇潰しが課金ゲームではいけないし、コーラで飯を食ってもいけないし、聴いているCDに握手券が付いていてもいけないのである。大人の男として扱われたいのなら、大人の男になれ。いつまでも、少年のフリは出来ないのだ。

とツイートしていたのを思い出す(ネットで調べました)。日本酒と刺身の組み合わせの素晴らしさに気づくには味覚の成熟が必要なのだと思う。私も長岡に来てから成熟中なのかもしれない。



2026年2月21日土曜日

大人の舌と胃袋の老化

 苦いものの美味しさを理解できるようになって,大人の舌になってきたと思うようになったのは30歳を超えたくらいの頃だろうか。ビールに限って言えば,22歳の頃にはあの苦みがたまらなくなっていたけれど,その他の料理,たとえばフキノトウとかセリなどの苦みが美味しく感じられるようになったのは30歳を超えたくらいの年頃だろう。

一方で,たんぱくな味を美味しく感じるようになったのは40歳くらいだろうか。たとえばタイやヒラメ,フグ(めったに食べたことはないが)などの刺身,湯葉やこんにゃくなどは,どういう味なのか説明はできないけれど,美味しく感じられるから不思議だ。

一方,脂を身体が受け付けなくなりつつある。魚の白子も今はそれほど量を食べたいと思わなくあったし,ホッケやノドグロなどの脂ののった焼き魚も少量で十分である。もっというと,すき焼きなんかは,2枚目の肉からはあとは食べることが「修行」となってしまうし,ステーキや焼き肉も,A5ランクの霜降りのお肉よりも赤身が美味しく感じられるようになってしまった。これが胃袋が年をとるということかと実感している(最後の砦であるトンカツもとうとう量が食べられなくなりつつあるし)。

この先,仙人のようにカスミしか食べられなくなるのではないかと心配しているが,コレステロール,中性脂肪の値はいまだ高いので,まだまだ修行は必要なようだ。

2026年2月15日日曜日

バツ印がみつからない

 最近は老眼が進んで小さな文字が見えづらくなってきた。特にスマホでブラウジングなどしていると,書いてある文字が見えづらくなる。だからiphoneの私はよく拡大機能を使ったりしている。年は取りたくないものである。

もっと困るのが小さな記号が見えないこと。具体的にいうと,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないことである。

ブラウジングをしているとページを移行した際に,広告のウィンドウなどが勝手に開かれることが多くある。それはなにか商品の広告ページであったり,数秒のCMを見るとブラウジングを続けられるであったりとか,とにかく次のページを読みたい私にとっては邪魔するものたちなのである。

最近腹が立つのは,こうした広告ページが開かれた際に,ウィンドウのCloseボタン(バツ印)が見つからないことである。例をあげると,

  • 「バツ印」がそもそも小さくて見つからない
  • 「close」と書いてあるけれど,その文字がウィンドウとは全然異なる位置に表示されている
  • あるいは「close」がページの端かド真ん中の位置に表示されていて見つかりにくい
  • 「close」の文字や「バツ印」がわざと広告の図の中に重なって表示されて見つかりにくい
  • 背景を透過色のグレーにして,「close」の文字もグレーで表示される   などなど

とにかくひどい。ReadabilityというかVisibilityというか,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないのである。もうイライラしてしまう。

若い人を見ていると,それでもちゃんとスムースにcloseボタンを見つけて次のページに移動しているようなので,やはり老化による対応の悪化なのだろう(若い人でもときどき怒ったようにスマホの画面を指でたたいている場面を見ることがあるから,老化とばかり言えないのかもしれないけれど)

PCであってもcloseボタンを探すのに苦労する。この先,もっと複雑な表示になっていったら,もう私などは対応できなくなるだろう。Webページのデザイナーはもう少し,老人にやさしいページ作りをして欲しいと切に思う。

2026年2月14日土曜日

「人間力」という言葉が嫌い

 私が嫌いな言葉に「人間力」がある。「人間力」とはなにか定義がはっきりしていないのに,あたかも人間としての魅力を測るような能力としてちやほやされている,偽善的な言葉にしか感じられないのである。

人を惹きつけるというのであれば,「人たらし」という言葉があるし,コミュニケーションが上手であるならば「社交的」という言葉がある。「人間力」などというあいまいな言葉を使うことによって,あたかも素晴らしい能力であるかのような印象を与えている。そうやって一種「煙に巻く」ための手段として使われている場面にあうと,「あー,また騙している」と思ってしまうのである。

こうした「いかにも」といった話は,ビジネスのスキルアップのような話の中ではよく出てくる。私はそういった人生訓のような話を聞くと,「フン」と鼻で笑ってしまう人間なのだけれど,実はそうした話を聞くのは好きだったりする。なぜならば,どんな教訓が人間に響くのかと考えられてその「うまい」話が作られているのか,なかなか興味深いからである。

たとえば,壺と大きな石,小さな石の話。壺の中に石を順番に入れていく際に,小さな石から入れていくと,大きな石が入らなくなってしまうという話。この石は目標,願望であり,目の前の小さな目標に心を捉われてばかりいると,人生にとってもっと重要な大きな目標がたっせできなくなってしまう,という教訓の例え話になっている。

もちろん素晴らしい話なのは認めるのだけれど,私はやっぱり鼻で「フン」と笑ってしまうのである。そんな単純な話ではないのに,身近な例が人生の深淵につながっていると思わせる手法である(実際は日常の些細なことが重要なことにつながっているのは真理だとは思うけれど)。いかにも啓発セミナーにありがちな話なのである。

人生の経験を積めば,現実がそんなに単純でないことは身に染みてわかっている。だけれども人間は話を単純化し,そこに教訓を求めようとする。人間は,単純化されたものを好むから仕方がないのだろう。現実は複雑で,複雑なことをありのまま複雑に受け止めればよいのに。。。

単純化された教えは,単純であるがゆえに強いものになって,自分を縛るだけでなく,周りの人にも強制し始めることもしばしばである。どこかの宗教の教義のように。

私たちは,複雑なことを複雑なまま受け止める訓練をしなければならないのだと思う。AIが発達したとしても,矛盾をそのまま受け止めるような,清濁併せ呑むような,そんな実世界との向かい合い方が必要なのだろうと思っている。その間口の広さ,奥行きの深さこそが人の深みであり,「人間力」なのだろう。

2026年2月11日水曜日

大事なことは単純化できない。言語化できないこともある。

 最近は,物事を単純化して考えることが流行している。複雑な困難事を小さく分解して,それぞれについてそれらの困難を解決していく,というのは昔からあるデカルトの重要な教えだし,科学的な考え方でもある。しかし,物事をいきすぎて単純化することの弊害について私は懸念している。

たとえば,二分法。物事を,良し悪し,善悪,などに分解することは,判断を単純化し意思を決定しやすいけれど,二分法で考えることができるところまで困難事を落とし込んでいくまでに多くの重要なことを切り捨ててしまっている可能性があるのではないかと思う。複雑なことを分解し不要だと思われることを切り捨てていく段階で,その切り捨てるための判断基準には自分の思考のバイアスがかかっているし,決断するまでの時間的な制約もあって検討が十分でないこともあるだろう。しかし,こうした切り捨てられた多くのことの中に,実は将来を見据えた解決策のヒントがあったりすることも多いように思われる

書店に行くと,「言語化する」ことの重要性を説いたビジネス本を多く見かける。確かに人はテレパシストではないので,人に情報を伝えるためには言語化することが必須である。いかに的確に簡潔に人に情報を伝えるかというスキルはビジネスで不可欠だし,日常生活においてもその効率化においてたいへん重要なことだと思う。また「言語化」する過程において思考が深化されたり,ロジックが整理されたりするだろう。

しかし,それでも言葉で伝えられない多くの大事なことがあるのである。それを昔から「不立文字」という。特に武道においてはそうである。秘伝書にいくら言葉で技術が解説されていたとしてもそれを読むだけでは習得できない。師から経験を通じて伝承が行われ,その感覚を自分のものとすることができて,技術をようやく承継することができるのである。そこには肉体的な伝達だけでなく,心的な伝達こそが大きな役割を占める。すなわち「以心伝心」である。

(余談:中国の武侠ドラマのように武道の伝書を読むと頭の周りに金の文字が回り始め,読み終えるとすでに技を習得する,なんてことはないのである。また,映画「マトリックス」ではヘリコプターなどの操作マニュアルが時空を超えて主人公の頭の中にロードされていた。たしかにマニュアルという情報レベルであれば,将来そうしたことも可能かもしれない)

以前から世の中が単純化されることの弊害について考えている。人間は複雑なことを複雑なままに放っておけない特性をもつから仕方ないとも思うけれど,世の中の思考の単純化が進むと,どうしても世界は排他的になっていくように思う。

単純化することに終始するのではなく,複雑なことを複雑なまま受け止めるということが成熟した考え方だと思う。そして世の中のことすべてが言語化されるわけでもなく,「不立文字」や「以心伝心」という言葉の意味についてもう少し注意を払うべきなのではないかと思っている。




2026年2月8日日曜日

慈眼温容(2)~小我を捨てる~

 「慈眼温容」が私には必要で,眉間にシワを寄せる癖を直すために努力を始めたという話の続き。

眉間にシワを寄せることをやめようと決意したのだけれど,ふと気づくと眉間にシワを寄せて歩いている。あるいは考え事をしているのである。眉間にシワを寄せることは本当に無意識的なものであり,それが癖になっているのだ。

そして,自分の心身を細かく見てみると,眉間にシワを寄せているとき,身体には緊張がいくばくかあることに気づいた。この少しの緊張の重大さについて考えてみた。

私が稽古している心身統一合氣道では「眉間にシワを寄せると氣が止まる」と教えられる。この武道では完全にリラックスした状態を統一体と呼び,この状態を維持することを目的としている。どこかに力が入っていると,この統一体が崩れるのだ。統一体である状態を「氣が出ている」といい,統一体が崩れている状態は「氣が出ていない,止まっている」などと表現する。すなわち眉間にシワを寄せるということは統一体が崩れるということを意味する。

心身はひとつであるとするならば,身体に緊張があるとき,心にも緊張があることを示している。私はこれまで「眉間にシワを寄せる」ということは,眉間に力を入れるということになるので,氣が止まるのだ,と単純に思っていた。しかし,「眉間にシワを寄せているとき,身体の奥深くに少しの緊張がある」ということに気づいたときに,実は眉間に力を入れるのではなく,もっと心の奥深くで緊張を生み出しているということを実感したのである。

往年の大横綱,千代の富士に藤平光一先生が,千代の富士があるときから立ち合いの際に相手をにらみつけるのを止めた理由について尋ねたことがあるという。そのときに千代の富士は,誰かからもらった本ににらみつけると気が止まると書いてあったからやめた,と答えたとのことだけれど,藤平光一先生が私の他にそんなことをいう人が他にいるのかと思い,誰の本かと尋ねたところ,結局それは藤平光一先生の本だった,というオチなのだけれど,その話を伺ったとき,この意味は私には単に顔に力を入れることを戒めるものである思われた。

しかし,違うのだ。もっとこの話には含蓄があることに最近「慈眼温容」を心掛けるようになって気づいた。なにか外部からの刺激に対して,無意識に「抵抗しよう」とする心が起こっているときに眉間にしわが寄るのだ。ほとんど反射的に私は眉間にシワを寄せているけれど,それは単なる肉体的な癖なのではなく,心が無意識に外部に対し抵抗しようとしていることの表れなのだと気づいたのである。これは,これまで生きてきた経験の上に積み重ねられた癖(無意識の反応)なのだ。それはたいへん小さな気持ちなのかもしれないが,確かにそこには「我」を張ろうとしている自分がいる。反射的にそうしてしまっているのだから,相当根が深いことに気づいた。ただ,このことに気づいたのだから,この癖は直すことができるのではないかと考えている。

藤平光一先生は,別の機会には「小我を捨てて大我に生きる」のようなことをおっしゃっていた。「小我」とは外部に対して「我」をはる私を意味していたのかもしれない(単に「私利私欲」という意味ではなくて)。気づいたことは喜ばしいけれど,この修行の先の長さを思うと,「小我」を捨てることが死ぬまでに達成できるかどうか,自信が持てない。しかし,修行するしかない。息を引き取るまでにどこまで行けるか,それはそれで楽しみである。

2026年1月10日土曜日

慈眼温容(1)~眉間にシワを寄せるのをやめる~

 私が一番にご恩を受けている合氣道のO先生のお話。

O先生はたいへんご自分に厳しく,自己を律していらっしゃった。しかし,あるときに藤平光一先生が,

「O君は,”春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む”ではなく,人に接するときも秋霜を以てしているね」

とおっしゃられたそうである。また,あるときには藤平光一先生自ら

慈眼温容

という言葉お色紙に書いてO先生に贈られたと伺った。O先生は眉間にシワを寄せる癖があったということである。

私はこのお話を伺った際には,「そんなものか」と思っていたのだけれど,最近,私自身も「眉間にシワを寄せる」癖がいつのまにかついていることに気づいた。

私はいわゆる人相が悪い顔立ちで,眉間にシワを寄せるなどしたならば相当イヤな印象になっているに違いない。そう思うようになったのは,私とすれ違う人が私に微笑むことが多いことに気づいたからである。特に米国出張のときなど,道行く人たちが私と目を合わせるたびにニッコリとほほ笑んでくれる。そして次の瞬間目をそらすと元の無表情な顔になって歩き去っていくのだ。この切り替えがあまりにもはっきりとしすぎていて笑ってしまうくらいである。

目があったら微笑むことは海外でよくあるマナーなのだけれど,あるときひょっとして私の人相が悪すぎるから,目があった人は「自分は敵意を持っていない」ということを表明するために私に微笑みかけることを意識的に(あるいは無意識的に)行っているのではないかと気づいたのである。たしかに街をあるいていて,ショーウィンドウなどに映る自分の顔をみると確かに眉間にシワを寄せて歩いている。。。

そこでO先生の「慈眼温容」のお話を思い出した。私もいつのまにか無意識に誰かをにらむような表情になっていたのだ。そのことにはちょっと前から気づいていたけれど,昨年末から本気で直そうと心掛けている。しかし,これがなかなか難しい。眉間にシワを寄せてしまうのは常日頃の心の在り方が根本的な問題であることに気づく。本当に根が深いと実感している。

2026年1月3日土曜日

2026年の目標(2025年の反省)

 新しい年が来た。私もとうとう数え年で還暦となった。昨年に立てた目標も当然のことながら,なにひとつ達成できていない。なんと夢も希望もない還暦なのかと思う。

しかし,毎日絶望のもとに生きているのかというとそうでもない。ネットの動画を楽しんだり,細々と合氣道の稽古も続けている。いわゆる小確幸はそこそこ生活の中にある。

私に足りないのは,長期的な視点に立った目標である。仕事,日常生活,体力,いずれも長期展望に欠けている。還暦を迎えたということはそろそろ自分の終わりを考える必要があるということだ。このブログでも何度もそのタイミングが来た,と書いている。しかし実際には目の前のことにあくせくして対応し,先のことから目をそらしている状態である。

ということで今年は,一日のうち,起きている時間の20%いや1時間でいいから自分のために使うことにしたい。加えてトレーニングも行いたい。これを第一の目標としよう。

<今年の目標>

  • 一日のうち1時間を自分のために使う
  • トレーニングを毎日行う

そして昨年からの目標をここに引き継いで書く。先のない人生,目標を達成することの重要性とその難しさを実感する。

<心の目標>

  1. 慈眼温容 ←昨年末から眉間にシワを寄せないように気をつけている
  2. 沈思黙考明鏡止水) ←これができないと心が仕事から逃げてしまう。。。
  3. 稽古三昧 ←とにかくこれができたら幸せ
  4. 玉簾不断(Mindfullness) ←年をとって集中が続かなくなってきた

<目標>

  1. 叶えたい夢を見つける」 ←いまだ見つからず
  2. 身体を鍛えて体重を5kg減らす」 ←体重に変わりなし
  3. 合氣道の稽古量を増やす」 ←全然増えていない。ひとり稽古を始めるか...
  4. 本を12冊読む」 ←2025年は2冊しか読んでいないらしい...それもオカルトと武道。
  5. 映画を12本観る」 ←2025年は15本観た。しかしどれも映画館ではなかった...
  6. 人生をもっと楽しむ」 ←昨年,生まれて初めて自分のために旅行をした
  7. 身体の姿勢に気をつける」 ←背中の筋肉と骨格の使い方に気づきがあった
  8. 終活をはじめる」← 全然進んでいない
  9. 誠実に機嫌よく生きる」 ←がんばろう。。。


なにもかも手に入れた金持ちは武術の習得を目指す?

 人生におけるほとんどの幸せはお金で買える。これは間違いの無い真理であり,私は全く同意する。 しかし,もしも自分がたいへんな金持ちになって,世界を救おうなどと考えず(笑),自分のためにそのお金を使うことができるようになったら,私は次に何をするだろう? なにもかも欲しいものが買える...