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筋トレに本当に必要なのは「S・M・N」の三要素?昔の自分が鏡の前で学んだこと

 最近,24時間営業しているトレーニングジムがあちらこちらにできたり,マッチョな芸人が増えているのを見たりしていると,現在は相当なトレーニングブームなのだなと実感する。それだけ健康志向が強まっているのだろう。まぁ, トレーニングは自己肯定感を上げるために行うものであって,ダメな生活への免罪符である と思っているから,それだけつらい毎日を過ごしている人が多くなってきたということなのかもしれない。また他のレジャーに比べ時間が縛られず,比較的安価に続けられることも理由のひとつなのだろう。 私も大学時代,一時期ウェイトトレーニングに熱中していて,バーベルやダンベルなどのフリーウエイト,そしてドラゴンフラッグなどの自重トレーニングを,毎日のように行っていた。そして鍛えられた身体を鏡に映して悦に入っていたものである。 その頃, トレーニングにはS・M・Nの三要素が必要 だと思っていた。 まず,Sとはサディズムである。トレーニングとはどれだけ自分を苛め抜けるかという精神力が必要であると思っていた。肉体を苛めることに快感を感じるようになれば最高である。ウエイトを増やし,自分を苛める。この傾向がなければトレーニングは始まらない(現在のトレーニング理論では少しでもやりすぎるとコルチゾールが筋肉に悪影響を及ぼすことが知られているけれど)。 次に,Mとはマゾヒズムである。肉体を苛め,つらさや痛みを感じることが快感になるところまで自分を洗脳する。ゾクゾクして身体に与える負荷を増やすようになれば,トレーニングは自然と進む。 そして最後のNはナルシズムである。私はこれが一番大事な要素だと思っている。なぜならトレーニングで大切なのは全身がうつる姿見の鏡に毎日自分の身体を映してチェックすることだと思っているから。トレーニング後にパンプアップした全身の筋肉に惚れ惚れする。あるいは風呂上りに,大胸筋をピクピクと動かしたり,脂肪がそぎ落とされた腹斜筋にうっとりしたりするのだ。この自己陶酔が続く限り,トレーニング熱は続く。肥大していく筋肉こそ自分ができる人間であることを感じるようになったら,もう万全である。 ではなぜ現在,私はトレーニングを続けていないのだろうかと考えてみる。それは,S,M,Nのどの要素も昔に比べて自分の肯定感に影響を与えなくなってしまったからではないかと思われる。特に,N(ナルシズ...

学会の休憩時間はAIの情報交換の場になっている

 最近,学会に参加するとあちらこちらでAIの話題で盛り上がっているのを見かける。参加している学会はもちろんパワーエレクトロニクス関係のものでAIの学会ではない。しかし,会期中のコーヒーブレイクや昼休み,はては夜の懇親会まで,AIをどのように使っているか,という情報交換の場になっている。 実は,私がAIの存在を意識し始めたのはちょっと違っていて,都立大学の某先生から3~4年前からAIを使うべきだと強くお勧めをいただいていた。生成AIであるChat GPTが公開されてから一部で話題になっていたのは知っていたけれど,正直こんなに便利だとは思ってもいなかった。そして現在,ようやく重い腰をあげて私も使うようになったのである。 いくつかの生成AIを目的によって使い分けている人も多く,議事録作成だったら****,メールとの連携を考えるとXXXX,またコード生成だったらOOOOなどと便利情報を教えてくださる。おかげで私のブラウザのブックマークには,Chat GPT,Copilot,Geminiの3つのアイコンが並ぶようになった。Claudeはもう少しあとで試してみるつもりである。 私は古い人間のせいか,こうした新しいツールを使おうとする際に一応ちゃんとしたテキスト本(教科書的なモノ)を読むことにしている。AIの話を聞くと,「そんなのネットのあちこちの記事を読めば使えるようになるよ」とアドバイスを受けるのだけど,もう耄碌しているためかそうした部分部分の情報を自分の頭のなかで系統立てることが面倒になってきている。その点,本は系統立てて解説されているから脳への負担が少なくて済むのがいい。まぁ,その本でさえいまだに途中までしか読み終えていないのだけれど。 若い世代がAIへなんでもかんでも相談して依存してしまうことが問題となってきているけれど,確かにAIに頼るようになって自分の頭を働かすことが少なくなってきた。例えばメールを書くにしても説明する話題の順序などを考えなくて良いようになった。これまでそうしたことに時間を費やしてメールを書いてきたのだから,時短ができてそれはそれで素晴らしいことなのだけれど,脳が衰えてくるのも実感できている。自分の脳のアクティブさとAIへの依存のバランスを現在模索しているところである。 学会に参加するたびにAIに関する新たな知識を得て自分のレベルアップを図っ...

タンクトップのマッチョ男子学生をみると身体がむずがゆくなる

 夏になった。そして大学のキャンパスでもタンクトップを着ている男子をよく見かけるようになった。みんな発達した三角筋や上腕二頭筋を見せびらかすように歩いている(なぜか僧帽筋が発達している人はあまり見かけない)。私はそうした男子たちを見ると身体がムズムズしてくる。見ているこっちが恥ずかしくなるのだ。 私も大学時代,トレーニングに集中していた頃がある。大学のトレーニングセンターに毎日のように通って,今日は上半身の日,明日は下半身を鍛える日などと,フリーウェイトのトレーニングを続けていた。そしてちょっとナルシズムに浸っていた。たとえばスタンディングローで僧帽筋を鍛えていて,最後の回が終わるとバーベルをそっと床に置くのではなく,少し上から落として「ドン」という音をさせたりしていた(もちろん床には厚いゴムマットが敷かれていて床面は保護されていましたがあまり許される行為ではありません)。そして,バーベルが置いてあるスペースの前には大きな鏡が設置されているから,そこにパンプアップした筋肉を映して悦に入るのである。そして忘れずに牛乳でシェイクしたプロテインを喉に注ぎこむ。その頃のプロティンは牛乳に実に溶けにくく,ダマになったプロテインの粉を舌でつぶしながら飲んでいた。本当にまずかった... 大学で着ている服もノースリーブのTシャツを着たりして,肥大した筋肉が見えるような恰好をしていた。今思い出すと本当に恥ずかしい...私の黒歴史である。トレーニングをしていると自分の身体に自信を持つようになり,そうした筋肉を見せる服装をしがちであるけれど,若さゆえの自己顕示欲でしかない。その忘れ去りたい思い出がたぶん現在のマッチョな男子を見るときにむずがゆさを引き起こしているのだろう。 そんな私の筋トレライフはある日突然終わりを迎える。修士学生の頃,合氣道の師範に「三浦君,ウェイトトレーニングとかしているの?馬鹿になるからやめるように」と言われて,それ以来サンドバッグトレーニングと少々の自重トレーニングしかしなくなった。そして私はデブになった。

オフィスでハーフパンツを履けない、もう一つの理由

 夏の暑さが酷いので,オフィスでもハーフパンツを履いてはどうかという話がでてきている。おじさん(おじいさん)がハーフパンツを履くのは気持ち悪いという議論が持ち上がるのも仕方がないことだと私も思う。 ハーフパンツはどうもお子様っぽく見えてしまう。家では私も短パンやステテコを履いているけれど,さすがに職場では履く勇気がない。半袖のカッターシャツでさえ私は着るのを躊躇するのにハーフパンツとなると相当ハードルが高い。そもそも履きたいとも思わない。 そのうえ,私の場合はハーフパンツを履くために,エチケットとしてスネ毛の処理が必要だろう。学生時代,ローキック強化のためだといってビール瓶でスネを叩いて鍛えていたころはスネがツルツルになっていたけれど,今は毛を剃るか脱毛が必要だろう。その手間を考えるとちょっと遠慮しておきたい。 私のスネ毛はそれなりに生えていて長さもある。そのことを実感したのは,大学院生の頃。原子力学会の「若手夏の学校」で五島列島に合宿に行ったときのこと。そこでは講義の間に海を楽しむ休み時間が設けられていて,研究室のみんなと一緒にハーフパンツを履いて海へと繰り出した。海の水は本当に透き通っていて,誰もが青い海を満喫していた。私はふとスネをトントンと軽く叩くものがいることに気づいた。足元をみると小魚が波に揺らぐ私のスネ毛を海草と間違えて足の周りに集まってきていた。思いがけないスネ毛の森の訪問者に思わず笑ってしまった。それ以来,人前でスネをさらすのがますます恥ずかしくなってしまった。 ということで私はこの夏もハーフパンツをはいて人前に出ることは遠慮しておきたいと思っている。

一澤信三郎帆布の手さげかばんを新調する

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 最近,かばんを新調した。手提げのトートバッグである。これまで6年以上愛用してきたトートバッグの持ち手がボロボロになってしまったためにこのたび買い直した。 新調したのは 一澤信三郎帆布 の 手提げかばん (大)H-04である。この手提げかばん(トートバッグ)の良さは,構造がシンプルで,いろいろなモノをカバンのなかに「 ガフガフ 」気にせず放り込むことができることである。この「ガフガフ」という形容が私の感覚にはピッタリで,以前にかばん屋さんに行って,「なんでもガフガフ入れることができるかばんが欲しい」と店員さんに尋ねたくらいなのだけど,もちろん店員さんは理解できず,その後一生懸命説明した。毎日,着替えやペットボトル,その他,PCアクセサリ,A4書類など,なんでも放り込んで使っている。トートバッグは上部の口が開いているので,収納にジッパーを開けるなど頭や手を煩わせることがない。そこが気に入っている。 トートバッグといえばやっぱりL.L.Beanの製品に憧れていて,学生時代などは「メンズクラブ」や「BE-PAL」なんて読んでいたから,あのザックリと縫い合わされた生成りの白い帆布に青や赤の持ち手がついているバッグにタオルなどを詰め込んで,海やアウトドアに行くのが夢だった(実はインドア派なのでカッコだけに憧れていた)。氷や水をバケツのように運ぶことができるという機能性がカッコいいと思っていた。 一方,私が6年間使っていた一澤信三郎帆布の手提げかばんは,L.L.Beanのトートのように帆布でできているけれど白ではなく黒色であった。私はこのかばんを現在の大学に赴任する際に以前の大学の研究室の学生たちから記念品としてもらったものである。もちろん私はこのブランドは知っていたから,わざわざそれを選んでくれたことが本当にうれしかった。そして今回新調するにあたっても同じ型を選ぶことにした。 このかばんは、トートバッグとしての長所はもちろん、以下の4点ですこぶる使い勝手がいいのだ。 上部のハトメとひも: 開口部を閉めることができる(数回しか使っていないが便利)。 A4書類が縦に入る: クリアファイルを縦に突っ込める絶妙なサイズ感。 驚くほどの軽さ: しっかりした構造なのに思いのほか軽い。「かばんにおいて軽さは正義」である。 底鋲(びょう)による自立: 床に置いても自立するので...

「軽く説明します」にモヤッとする理由。言葉の『軽さ』と品のなさ

 最近気になる言葉遣いに, 「軽く説明します」 というフレーズがある。学生たちのプレゼンなどを聴いていると,このフレーズがあたり前のように使われているのだけれど,私はそのたびに少し「イラッ」とするのである。 もちろん意味がわからないわけではない。「軽く」という形容詞は,たぶん「簡単に」とか「短く」などという意味で使われているのだろうけれど,「説明」の内容自体が「軽い」ようにも意味が受け取れて好ましくないように思っている。どうも「 品がない 」ように感じてしまう。 同じように「品がない」と感じてしまうのが,「パーセント」を「パー」と短縮して説明することである。こちらもかなりの頻度で聞く。たとえば,"6%"を「ロッパー」などと読むのである。学会でもそのように話す人がほんとうに多いから,今では違和感を感じる人が少ないのかもしれない。でも,私の個人的な感覚ではやはりこの短縮は「下品」に感じられるのである。 研究室の研究進捗報告会などで,学生が「軽く説明します」などというと,「軽く?」と嫌味っぽく,たしなめることも多いのだけれど,あまりピンときていないようである。そもそもそうした話し方に上品も下品も感じないのだろう。 以前にも この題材で記事を書いた ことを思い出したのだけれど,それはもう17年も前らしい。17年経った今も、私の感覚は変わっていないらしい。

新潟における人身御供の話(3)~地すべりを止める「人柱供養塔」~

  妖怪研究所の総会で聴いた人身御供の話の続き。 最後の三つ目の話は,上越にある「 人柱供養堂 」の話。 ひとりの旅の僧が山の中で,大蛇が何匹も集まって村に地すべりを起こす悪だくみの相談をしているところを聞いてしまった。その地すべりを阻止するためには,四十八叩きの秘法(杭かなにかの地すべり対策?)と人柱が必要だという。そしてなんと僧は大蛇たちに見つかってしまい,このことを話したら殺すと口止めをされたとのこと。もちろん僧は村に行ってこの話をした。地すべりを阻止するために,四十八叩きの秘法は行うことができたが,人柱が見つからない。そこで僧はどうせ大蛇に口止めされていたのを破ったので殺されるだろうとのことで自身が御供になることを決心した。そして僧は土中に埋められ,村は地すべりの被害から救われたのだという。 ここまでの話だとよくある伝説で終わるのだけれど,昭和になって田んぼから大きな素焼きのカメが蓋のように穴をふさいでいるのが見つかり,掘り起こしてみると中には座禅を組んだ人骨が本当に見つかったのだという。そこで村人たちは伝説は本当のことだったと知り,現在の供養堂が建てられたのだという。 こちらも怖い話である。その地方に地すべりが多かったのは事実らしく,いろいろと対策がとられていたのは当然のことである。そしてその中の手段のひとつに「人柱」があったとしても,時代が時代なだけに不自然なことではないと思われる。ただし,この対策の問題は,誰が人柱となるかということである。村人の中から候補を選ぶのはたいへんに難しい。当然, 「おさき地蔵」 同様に「よそ者」にその役を押し付けることになるのは想像に難くない。 旅の僧侶というのは,本当にそうだったのだろうか?単に諸国を旅している男にその役を押し付けたのではないだろうか?自分たちのそうした犯罪的な行為を正当化するために,前述のような伝説をでっちあげ,すべてを大蛇のせいにしたということではないのだろうか? 人身御供の3つの話を聴いて,こうしたことを思ってしまった。それぞれが本当に美談なのかもしれないのに,こうした裏事情を想像してしまうのは私の心が清らかではないからに違いない。自分で勝手に想像して,勝手に怖がっているのである。 #「人柱供養堂」では,そのカメと人骨(頭蓋骨も!)が展示されているらしい #ちなみに,「人柱供養堂」は現在,「ス...

新潟における人身御供の話(2)~おさき地蔵と「恩返し」の裏側~

新潟妖怪研究所の総会で聴いた3つの人身御供の話のつづき 。  二つ目は,おさき地蔵。諸国巡礼をしていた「おさき」という女性が,新潟のある村に来た際に行倒れになったのだそう。それを村の人たちが介抱してあげて,おさきは再び元気を取り戻しまた巡礼に出かけたとのこと。数年後,おさきがその村に戻ってくると,村は川の堤防工事をしていたのだけれど,最後に堤防を閉じることができず困っていた。その状況を知ったおさきは村から受けた恩を返すために自ら人柱となったらしい。その後川から遺体があがって供養されたのが,おさき地蔵なのだとか。 私は講演を聴いていて,この話がもっとも怖かった。おさきが人柱となったのは本心からなのだろうか?そこには村人たちからの 「同調圧力」 的なものは存在しなかったのだろうか? もしも,「過去に一度命を助けてやった。今度は恩返しをすべきだ」という村人たちの無言の(あるいは有言の)プレッシャーがあって,おさきは村から逃げるに逃げれず人柱となったということであったら,なんと怖い話であろう。。。幽霊や妖怪が出てくる怪談よりもずっと背筋が凍る話である。私はそのときのおさきの心情を思うと怖くて怖くて仕方がないのである。 ただし,おさき地蔵は事情を知る村の方々のご努力によって維持されているとのこと。今回の私の記事はその方々のご先祖に失礼にあたる話となるので,あくまでもその可能性がなきにしもあらず,という私の想像ということでご容赦願いたい。

新潟における人身御供の話(1)〜大円寺の即身仏と『水曜スペシャル』の謎〜

 先日, 新潟妖怪研究所 の総会に参加してきた。数年前に「新潟妖怪研究所」なる団体があることを知り,会員になった。オカルトというよりも民俗学的な活動をしている団体で,年に2回ほど会誌が送られてくる。最近では, 新潟の妖怪番付 を決めるなどの活動をしている。 総会では 高橋郁丸 所長から「人身御供」に関するたいへん恐ろしい講演があり,今も背筋が凍る思いをしている。所長からは新潟で「本当にあった」と思われる3件の人身御供について紹介があったのだけれど,それぞれが「遺骨が見つかった」とか「遺体があがった」などの証拠があり,本当に犠牲(?)になった方がいたのだと推測されるものだった。 一つ目は,新潟 「大円寺」のお骨 。明治に入定された僧侶のものだという。即身仏になるために土中に入られたそうだが,当時としてはそれは自殺行為であり,7年後に発掘してほしいとの遺言(?)も,お墓を暴くことが犯罪行為となっていることから,昭和の時代までそのままであったという。残念ながら湿気の多い環境のためか即身仏の形を保つことはできず,お骨が見つかったそうである。昭和の時代に掘り起こされたというきっかけがテレビ番組「水曜スペシャル」だったらしい。昭和になって,掘り起こすことが認められたのはどういった経緯だったのだろう? また,入定された僧侶は,明治の時代にどのような思いで即身仏を目指したのだろう?現在では「上人」と呼ばれるようになったけれど,そんな名声だけのために即身仏を目指したわけではあるまい。即身仏となることによって救世できると信じていたのだろうか。大円寺は真言宗だというから,修行の究極として即身仏となり空海上人を目指したのかもしれない。即身仏を目指す考えに至った僧侶の思考の経緯こそが恐ろしく感じられる。。。

ダビンチ休刊に思う

 本の雑誌「ダビンチ」が今秋に休刊するそうである。私も薄々予感していたから,とうとうそのときが来たか,と思っている。 なぜ休刊を予感していたかというと,やはり読書人口の減少である。まず私自身が本を読まなくなってしまった。最後に小説を読んだのがいつのことなのか,全然思い出せない。村上春樹の短編小説も長編小説も部屋の片隅に積読状態である。 まして新しい作家の作品に触れてみようなんていう気持ちにはなかなかなれない。結局は時間不足なのだ。 以前は,「次に読む本」を探すことはひとつの冒険だった。新しい作家に出会うことにワクワクしていた。そして,その冒険の羅針盤のひとつが「ダビンチ」だった。ネットで本を購入することに比べ,リアルな書店で本を探すことの良さは,「本との思いがけない出会いがあることだ」,とよく言われるけれど,そのときの判断基準はだいたい「書店のポップ」や「本の装丁」,もっというと「背表紙のタイトル」くらいのものである。それらだとちょっと頼りない(書店のポップは意外にあてになるけれど)。それを補うものが新聞の書評欄であり,本を紹介してくれる「ダビンチ」であった。 ダビンチは,毎号あるテーマにしたがっていろいろな本を紹介してくれていて,新聞の書評欄とは違う親しみやすさがあった。文芸書であっても高尚なものとはせず,エンターテインメントとして扱ってくれた。そのカジュアルさが好きだった。 しかし,最近は書店で棚に並んでいるのを見ると,「誰が買うのだろう?」と正直思っていた。私は時々購入していたけれど,内容を見ても現代の若者(特に私の周りの大学生など)が買いたいと思うものではないように感じていた。 現代の若者はとにかく時間が足りないのだ。小説を読む時間があったら,ネットで動画を見る,あるいはゲームをする。小説を読むための環境,すなわち,「時間」「静かな環境」「集中力」などの条件が若者には不足しているのだ。 小説がふたたび力を取り戻すためには、やはり小中学校の頃から「腰を据えて活字を読む」という環境に触れ、小説を読むことの豊かさを体感する訓練が必要なのだろう。それがどれだけ難しいか,理解しているけれど。 小林秀雄が言っていた(うろ覚えだけど)。「難しい言葉でしか伝えられない難しいことがある」と。小説や随筆などを読むことは,人生で大切なことを理解するための大事な訓練なのだ。...

最近気になる女性の化粧法

若い人の感覚がわからないというのは、単なる私の時代遅れなつぶやきかもしれないけれど、今回は,最近どうしても気になってしまう女性の「化粧」について、少し書いてみる。 まず,目尻のアイライン。目尻で黒い線を跳ね上げるように描いている人を良く見かける。それも結構な長さで。古代エジプトの時代からアイラインは重要視されているから,万古不変の化粧法なのだろうけど,目尻で跳ね上がったアイラインは何を狙ったものなのだろう?目が大きく見えるからなのだろうけど,あまりにもくっきり長く描いてあると歌舞伎の化粧を思い出してしまう。 次に,涙袋の下側の線に沿ってわざわざ影を強調してラインを引く化粧法について。涙袋が「かわいい」の一要素になったのはいつのころからなのだろう?そのために,涙袋を強調するような化粧法が発展するのも理解できる。しかし,あまりに強調しようとしすぎて,わざわざ影のような線を描いてまで強調するのはやりすぎなのではないか,と思っているのである。やりすぎだと小顔効果も薄れる。確かに漫画に出てきそうな顔にはなるのだけれど。 最後に,鼻筋のハイライトが強すぎる人が多いこと。テレビを見ていても強調され過ぎているタレントさんも多い。私には「キツネの嫁入り」の祭りなどで子供たちがキツネのメイクをしていることを連想させる。もしかして,目尻のアイラインで吊り目を強調して,全体として「キツネ顔」を演出するのが最近の化粧法のひとつのトレンドなのかもしれない(実際,私はキツネ顔の人は素敵だと思うけれど)。 バブルの頃に比べて,現在の化粧はたいへんナチュラルに感じられるけれど,ナチュラルだからこそ,いくつかのやりすぎた化粧法は不自然に感じられるのだろう。今,バブル時代の太眉と青いシャドウのメークを見たら、やっぱりおかしく感じられるだろうな。。。

30年前、メールも今のチャット同様に「カジュアル」だった

 若い人と話していて,最近特に思うのが,若者はメールよりもチャットを好むということ。なにか情報の共有やレポートの提出をお願いしても,「チャットでいいですか?」と訊かれる。うーん,私としては情報を一括管理したいのでメールの方がうれしいのだけれど。 なぜメールよりもチャットの方を好むのか,理由を尋ねてみた。すると,チャットの方が心理的なハードルがメールよりも低いからとのことである。メールの作法については,本学でも少し時間をとって指導があったりする。そうなると,メールにはどこかフォーマルな雰囲気が漂う。確かに,ビジネスにおいてもメールで重要な情報のやり取りをすることは多いけれど,チャットは仲間内,という雰囲気がする。 もちろん,職場のグループチャットで仕事情報を共有することも多いから,チャットの良さもそれはそれで理解はできるのだけれど,私にとっては心理的なハードルはそれほど違いがない。 いまから30年近く前のこと,メールがビジネスでも用いられるようになった頃は,メールというのはずいぶんとカジュアルな雰囲気がしたものである。だから,大事な用件はメールで送ってそのあとに電話をかけて確認するのが普通だった。「(ある電機メーカー)の役職者は,一日一回はメールソフトを開かないと注意されるらしいよ」なんて話に驚いていたりもした。この数十年でメールでの情報伝達が普通になり,今後はチャットによる情報共有が普通になっていくのだろう(いや,もはやなっている?)。 メールとチャットのニュアンスの違いの感じ方がデジタルジェネレーションギャップなのだろう。正直,この年齢になると若者の感覚に追いついていこうとは思わないけれど,彼らの考えは理解してあげたいと思う。 #文章の最後の句点「。」の有無の違いの感覚もずいぶんと若い人と違う。。。

手の甲をみて老いを感じる

 私の手は指が短く,長らくぷよぷよしていてまるで子供のようで,それが私のお気に入りだった。だから手の甲もぼっちゃりしていて,すじばったところはほとんどなかった。子供のような手だとは他の人からもよくからかわれていたものである。私はそのたびに,「いいとこの生まれで,銀の箸より重たいものを持ったことがないんです」と答えていた。 しかし,60歳が近づいてきた今,とうとう手の甲に血管とスジが浮き出るようになってきた。気づいたのはこの数年。たぶん手の甲の脂肪分が落ちてしまってきたのだろう。つまりは老化の兆候である。 男性でも女性でも,老いが隠せない身体の部分というものがある。私はそれが「手の甲」と「首筋」だと思っている。女性がどんなに化粧をして着飾っていても,デコルテの首から鎖骨へのスジは隠せない。やはり脂肪分が落ちてくるのだろう。 手の甲もそうだ。私のようにどんなに力仕事をしなくとも,手の甲もやがて骨と血管が目立つようになり,「おじいさんの手」になっていく。私の手もとうとうその段階を迎えつつある。 もうため息しか出ない。身体のどの部分をみても「おじいさんの身体」に近づいている。人類が太古より「不老の薬」を追い求めるのもよくわかる。 「わがみよにふるながめせしまに」

開錠するとき鍵をどちらに回すか

 「鍵」というのは昔から何かを暗示することが多いモノである。「鍵をかける」は,もちろん実際の施錠を意味することもあるけれど,誰の目にも触れることができない「秘密にする」という意味もある。「鍵をあける」は,開錠のほかに人の心の扉を開くという意味もあったりする(矢野顕子の「ひとつだけ」の歌詞とか)。さらに,「鍵(キー)」自身にも物事を解決するヒントという意味がある。映画「マトリックス リローデッド」においてもいくつもの世界へのドアのカギを開けることができるキーメーカーという人物が登場するのはわかりやすい例だ。こんな風に「鍵」というものは,私たちの生活に暗示的な意味を持って役立っている。 今回はそんな哲学的な話ではなくて,鍵を回す方向の話。私が関西に住んでいたころ,鍵を開ける場合は左回し(反時計回り)に鍵を回し,施錠するときは右回しに回していた。水道の蛇口やバルブを開くときには左回しにするので,鍵を開けるときも当然その方向だと思っていた。 しかし,長岡市に住んでから,私の住宅のドアも大学の居室のドアも施錠のときに左回しする鍵になった。最初,ひどく驚いたし,長岡に住んで6年になるけれどいまだに慣れていない。こんな左右が逆な世界なんてある?と思ったものである。 鍵を回す方向が逆だなんて驚いたのは長岡に来てからである。それまで住んでいた新潟市,東京,茨城,大阪,兵庫では不自然に感じたことは一度もなかったから,鍵は左回しで開錠していたのだろう。長岡だけが左右逆な世界なのだろうか,と疑問に思っていた。 そしてネットで調べてみた。結局のところ,どうも鍵を回す方向は統一されていないらしい。ただ調べてみた感覚だと,私が昔から慣れ親しんでいる開錠時に左回し(反時計回り)の方が多いような気がする。ネット上でもその方向に統一してほしいとの声があちらこちらに見られた。 そういえば,私の実家の洗面台も現在のものになる前は,蛇口レバーを回す向きが逆だったことを思い出した。蛇口やバルブは統一されているのに,なぜこうした不統一があるのだろうかと不思議に思う。またメーカとしてもなぜ両方作り続けているのか不思議に思う。 ただこの鍵の話であらためて思ったのは,常識だと思うことが異なっている世界もあるということ。頭はいつも柔らかくしなければ。

おみくじで「凶」をひいたこと

 5月に入ってすぐに,ある神社でおみくじをひいた。私はあちらこちらでおみくじを引くことが好きなのだけれど,新潟市のそのある神社ではたいへん久しぶりに「凶」を引いた。ここしばらく「凶」の文字を見ることがなかったので,少し驚いた。おみくじに書かれていたことは,要は「やることなすことうまくいかないので,心正しく暮らせ」ということで,私はそれを機にしばらく静かに暮らそうと思ったのである。 おみくじを引いてしばらくして,私はお気に入りのキーホルダーを落としたことに気づいた。いつのまにかキーリングについているキャラクター,タンタンの部分がなくなっていたのである。 タンタンは。。。と書き始めると長くなるので,その話はまた別の機会に譲ることにして,とにかく長年使っているお気に入りのキーホルダーだったのでかなり凹んだ。やはり「凶」なのだ,と思った。 それからしばらく,運が悪いことばかりが続いた。食事に行ったお店が営業時間内のはずだったのにすでに終了していたり,仕事も思いがけないことがあったり,そしてトドメは 食中毒 である。どうしてこんなに運が悪いのだろうと思わず愚痴を言いたくなるほどである。 やはり「凶」のおみくじは,ここ最近の運勢を示したものだったのだろう。。。と思いたいのだけれど,私はやっぱり理工系なので,次のように考える。 「吉」「凶」の出来事は,おみくじを引いても引かなくても,以前と変わらず同じ確率で起こっている。しかし「凶」のおみくじを引いたことによって私の心理的なバイアスが働いて,凶事が起こるとそれを「凶」のおみくじと関連付けて,印象強く思ってしまっているのではないか。 こうして考えると,おみくじを引く意味がないではないか,と思う人もいるかもしれないけれど,おみくじは結局自分の生活態度を省みるためのきっかけとして私は重要だと思っている(以前から同様のことを,おみくじや占いを行う意味として 繰り返し書いている けれど)。 とはいえ,最近はやっぱり運が悪いことが多く起こっている。こうしたときの対策は結局自分の行動を改めて,自己肯定感を高めるしかない。ということで私が好きな言葉を最後に挙げておく。 天薄我以福、吾厚吾徳以迓之。 天労我以形、吾逸吾心以補之。 天阨我以遇、吾亨吾道以通之。 天且奈我何哉。(菜根譚より)  天が私に福を薄くするならば私は徳を厚くし...

食中毒になる(2)

  というわけで,数日間ほとんど食べられず食中毒で倒れていた のだけれど,お腹の調子は回復しても,その後ずっと,めまい,ふらつきに悩まされている。下を見るとふらつく。しばらくは真っ直ぐ歩くのも難しかった。自分の中の鉛直線が横からの加速度を感じて傾くような感じ。身体自体が斜めになるような感じが続いていたのである。 大学の保険医に相談して,近くの脳神経クリニックを受診することになった。MRI検査の結果,幸い脳には異常はなく,三半規管も検査で見る限りは問題ないとのことだった。ホッとする。 しかし,大学の保険医も脳神経医も同じ診断だった。「過労」であると。結局,ただでさえ忙しいところに,食中毒で栄養が取れなくなって身体のダメージが大きくなったということらしい。 週末から国際会議に参加すると医者に相談すると,「命」と「仕事」,どちらが大切ですか?と双方から言われた。。。私は心の中で,「国際会議に出席したほうが,仕事が楽になるんです」と思っていたけれど。 実際のところ,めまいとふらつきはかなりつらくて,今も完全に回復したわけではない。ときどきフラフラッとしながら,毎日を暮らしている。睡眠時間が最近かなり短くなっているのも原因と思われるとのことだったので,今はいかに夜に睡眠をしっかりととるかということに苦心している。夜にスマホで動画をみるのを少し控えないとダメかな。。。

食中毒になる(1)

 5月31日から6月4日まで,長崎で開催されたパワーエレクトロニクスに関わる国際会議IPEC2026はたいへん盛況のうちに終わったけれど,私にとってはかなりつらい会議だった。 内容云々の話ではなくて,自分の体調がひどかった。少し疲れると,めまい,ふらつきでクラクラする。歩いていても平衡感覚がおかしくなる。そんな感じで会議はときどきホテルに帰って休んでいた。 原因は,食中毒にあると思っている。5月14日木曜日の昼,私はある料理店に行ってランチを食べた。地元では有名なお店なのだけれど私はこれまでに訪ねる機会がなく,たまたま近くで仕事があったため初めてその店を訪れたのである。 ランチを美味しくいただいたのだけれど,翌日金曜の夜から強烈にお腹が痛くなった。下痢というよりは物理的に胃腸が痛かった。布団の上で七転八倒して夜を過ごし,翌日に病院に行った。CTも撮ったけれど,結局下された診断は感染症の胃腸炎とのことだった。 土日はほとんど栄養ゼリーと飲むカロリーメイト,水分だけを補給して生きていた。身体が食べるものを欲しないのだから,空腹でつらいということはなく,ときどき体重計に乗ってはどんどんと減っていく体重に喜んでいたくらいだった。 そして月曜日。なんとか出勤。研究室で飲み会があったのだけれど,残念ながら(当然だけれど)欠席。その日の夜にネットを見ると,私が訪れた料理店がノロウィルスによる食中毒のため営業停止となったニュースが流れていた。5月11日と13日に提供された料理が原因で50名以上の人が被害にあったとのことである(12日は定休日)。あまりの運の悪さに思わず,笑ってしまった。私は14日に訪れたのだけれど,その店が営業停止となったのは15日から。土曜日にかかった病院に行ってこの話をすると医者は「お気の毒に」という気持ちがわかるかすかな笑いで応えてくれた。 お腹については,水曜日にはずいぶん回復していて,昼にモスバーガーのホットドッグとフライドポテト,夜には味噌ラーメンを食べるほどであった。火曜日くらいまでまともなものを食べていなかったためか,これらの食事がたまらなく美味しく感じられた。モスのポテトがこんなに美味しく感じられるとは!! ときどきプチ断食をしてもよいかも,と思っている。 #余談だけれど,CTを撮った際に,お腹のあちらこちらに胃のレントゲン写真を撮ったとき...

It tells time.

 最近,スーツを着る機会が続いたので,腕時計もそれにあわせていつも着けているGarminのスマートウォッチではなく,3針のものを着けることが多かった。さすがに GarminのInstinct では,ごついだけでなくおもちゃのように見えて,ちょっと見栄えが悪い。そもそもワイシャツの袖にも隠れないし。映画「コントラクター」で主演のクリス・パインが演じる退役軍人が身に着けていたと思うけれど,ビジネスシーンにはやっぱり似合わない。 同じくごつい腕時計といえばG-shockであるけれど,私が持っているMAD MASTERはごつすぎて論外。たとえ人類が滅んでも動き続けていそうなくらい無駄にタフネス。この腕時計は重すぎて,大きすぎて,まったくスーツに似合わない。 同じG-shockでは,映画「スピード」でキアヌ・リーヴスが着けていた 四角い形をしたスタンダードなモデル ならば,まだ許される気がする。映画「SP」で岡田准一や堤真一が,SPのスーツ姿に着用していたように,カッコいい感じがする。 以前,憧れたのは,Hamiltonのカーキフィールドチタニウム。これは,映画「エージェント:ライアン」で主演のクリス・パインが着用していた。主人公のジャック・ライアンは経済アナリストのエリートで,かつCIA捜査官というエリート。そのエリートが着用しているのだから,間違いない,と思っていた。しかし,機械式だったのであきらめた。 もしも本当にフォーマルなシーンであれば,黒革のベルトの腕時計がふさわしい。私も一本黒革ベルトのDufaの青い3針のものを持っているけれど,ビジネスの場ではちょっと違う気がする。もちろん問題ないとは思うのだけれど,少し重い感じがする。また夏場はベルトが汗を吸ってしまいそうで,着けるのを避けている。映画「ジョン・ウィック」ではキアヌがカール・F・ブヘラの黒革ベルトのものを着用していたけれど,それはジョン・ウィックだからであって,私が着けても何の意味もない。 結局,ビジネスシーンではやっぱり金属ベルトのアナログ腕時計が無難でいい。とりあえず銀色のブレスレットに2針,あるいは3針のものを着けていれば問題ないように思う。その腕時計に目をとめて,モデルを探るのはマニアだけであり,普通の人はそんなことには構わないはずである。 スーツのカッコいい着こなしといえば,007のジェーム...

物語の世界のリアリティは文体によって創られる

最近,どうもYoutubeの動画を見ることが多くなって,本を読む機会がめっきり減ってしまった。もちろん,「本」というのは,教科書やノウハウ本ではなく,小説を指す。もちろん忙しくて読書の時間がうまく確保できないこともその理由のひとつだけれど,加齢と過労で長時間本を読む集中力が損なわれてしまっていることも大きな理由のひとつである。もう本を開いてじっとページに集中することができなくなっているのだ。 次々と紹介されるYoutubeのショート動画やXの動画は自分で選択することのハードルが 低く,私は見ているうちに刺激の垂れ流しに慣れきってしまった。自ら意欲をもってコンテンツに集中することの訓練ができていないから,長時間の動画を見ることも億劫になってくる。まして読書などに意欲をもって取り組むことは,脳の負担が増えるためか無意識に避けるようになってしまった。 しかし最近,本を読まなくなって心がやせ細ってしまったような感覚が確かにある。自分で文章を書こうとしても事務的な,あるいは理系的な文章しか書けず,以前のようにこのブログのような内容を書くことが難しくなりつつあるのだ。小説を読んで思うのは,ストーリーだけが大事ではなく,作者の文体(語り口)がその世界をつくる大きな要素となっているということである。その文体によって描かれる雰囲気によって包まれた世界の中で,登場人物たちが活躍するのである。その語り口が感じられないショート動画では,その世界に触れることができないのだ。そうした文体を感じる機会が少なくなってしまった現在,私の創造力が欠乏し,心がやせ細ったのである。 作者が創造した物語の世界を感じることこそが読書という行為の醍醐味であり,たとえストーリーが単純であっても,その世界に没入できれば私たちの心は変容することできる。その世界を構築するのは,ストーリーやその設定だけでなく,作者の描く登場人物たちの何気ない会話や行動,そしてその雰囲気を醸し出す文体なのだと思う。また,こうした世界は作者によって構築されるけれど,実はそれだけでは不十分で,読者の想像力によって心の中に再創造される。すなわち,受け取り手である読者の能力によってその世界のリアリティと緻密さが変わるのである。私は忙しさに心が枯れ,このような能力が失われてしまった...どんなに短い時間でもそうした創造世界に没入できる時間を作りたい...

財布を新調する

 ゴールデンウイークにメガネだけでなく,財布も新調した。これまでの財布は10年以上使っていて,さすがに痛みが目立つようになってしまった。実際私にお金はないけれど,ボロくなった財布は私の貧乏感をさらに加速させるような感じだったので,とうとう新調することにした。 財布を購入する際に,まず決めなければいけないのは長財布か折り畳み財布かということである。今回も折り畳み財布を選んだ。長財布がズボンの後ろのポケットからはみ出しているのはどうも好きではないからである。一方,折り畳み財布を後ろのポケットに入れるのは,ポケットが膨らんでみっともないことも知っている。しかし,それでも折り畳みの方がマシだと思っている。 また,最近の財布は,カード重視のものであることが多い。小銭入れがないタイプも増えてきた。実際,キャッシュレスが増えてくると,硬貨なんて使わなくなってきているのは事実である。まぁ,私は神社のさい銭のために小銭は必要なので,小銭入れは必須なのだけれど。これまで使っていた財布もカードが10枚以上ささるものだったけれど,今回も10枚程度を収納することができる。またいろいろなポケットがついているのがうれしい。 そして財布の色は緑がお金がたまるとか,黄色が金運が良いとか,いろいろと聞くけれど,やっぱり黒に決めた。地味だけれど,ビジネスの場で財布を取り出すときに,周囲の人がギョッとすることがない。人生,目立たないことをモットーとする私としては,黒色がよい感じである。 ということで,黒皮の財布を購入した。今回はなるべくお尻のポケットには入れないようにして,大事に使っていきたいと思っている。少なくとも引退まではこの財布で頑張ろう。

サングラスが似合わない

 メガネは人の印象を変えることができる。だからこそこれからの季節,サングラスに憧れる。トップガンのトム・クルーズやグランメゾン東京の木村拓哉みたいにカッコよくなってみたいと思う。 しかし,私は残念ながらサングラスをほとんどかけない。これまでの人生で2,3本購入したこともあるけれど,ほとんどかけなくなってしまった。 そのうちの一本は,イタリアのベネチア・マルコポーロ空港で購入したことを覚えている。ベネチアに到着して,あまりの日差しの強さにサングラスを購入しようと決心した。当時はユニクロや中国製の安いサングラスなんて売っていなかったし,空港の免税店で購入することになったから,それなりの値段がするブランド品を購入することにした。ベネチアのおみやげにもなるし,日本に帰ってからも使えるし,と自分の欲望を正当化して思い切って購入することにしたのである。 さて,店内で並んでいるサングラスを見てもどれが良いのかなんて全然わからない。さまざまな形のサングラスがあり,いろいろな価格帯のものが並んでいた。結局,どの形が自分に似合っているかさえ判断できなかったので,店員さんに相談してみた。彼女が推すサングラスをいくつか試してみて最終的に買ったサングラスは,グラスが少しオーバル形の黒いものだった。そのときは自分でもイケている!と思ったのだけれど...帰国してからかけてみると,どうみてもアジア系マフィアにしか見えない。まぁ良く言って,映画「マトリックス2」に出てくるセラフみたいな感じだった。店員さんからみると,アジア人の私にはそうした形が似合っていると思われたのだろう。そんな自分がイヤになって,以来そのサングラスはかけなくなった。 トム・クルーズや木村拓哉のレイバンも全然私には似合わないし,かといってグラスが丸くなるとマフィアか芸人にしか見えなくなってしまう。うーん,この人生,サングラスには縁がないのかなとあきらめている。夏にサングラスをかけて車を運転している人をみると,少し嫉妬してしまう。 #実際は,私の瞳は真っ黒なせいか,日本にいる限りサングラスが必要になったということはほとんどない。ビーチであっても困らない。スキー場にもこの数十年足を運んだこともないし。

メガネを新調する

 メガネを新調した。実はこれまで使っていたメガネは結構お気に入りだったのだけれど,先日誤って踏んづけてしまって,それ以来,どうもかけたときのフィット感がイマイチになってしまったのである。使えないことはないのだけれど,ゴールデンウイークを機に新調することにしたのである。 メガネは顔の印象を変えるので慎重に選びたいと思っている。以前から私は人相が悪いと言っているけれど,少し丸みを帯びたメガネをかけていると周りの人が少し私に対して優しくしてくれる気がする。もちろん,メガネのおかげで目を細めて人を見ることが少なくなるので,表情がちょっとはマシになるからということもあるけれど,メガネが私の印象を「丸く」変えているからということが大きな理由だろう。 芸能人にも印象をコントロールするためにフレームだけのメガネ,いわゆる伊達メガネをかけている人が多い。例えば,さま~ずの大竹さん,宮川大輔さん,キャイ~ンの天野さん,山里亮太さん,古いところでは大橋巨泉さんとか。こうした人たちはメガネをアイキャッチとして使っている。 私はもちろん伊達ではなく,近視,乱視,老眼のためにメガネをかける。だからこそ日常の印象を決めるフレーム選びが重要なのだと思う。 私の趣味としては,銀の細いメタルフレームが好きだ。自分が繊細そうな文学青年に見えるようなメガネに憧れている。いつだったかテレビドラマで反町隆史さんが神経質そうな役を演じる時に,そのようなメガネをかけていて,か弱い男こそ理想と思っている私としてはぜひ同じものが欲しいと思っているのである。実はそのとき,すぐに眼鏡屋に行って探した。店員さんに「ひ弱そう,繊細そうに見える銀の細いメタルフレームのものを探してください」と頼んだら,店員さんに鼻で笑われた。実際かけてみると,全然あわない。どうも顔がいかつくて,とても「繊細」という雰囲気はでないらしい。 ということで今回はセルフレームのものを選んだ。私の怖いと言われる印象が少しでもメガネのおかげで和らぐことを祈っている。

理想的なプロポーズの言葉

  男性が女性に告白するときに,「幸せにしてやる」「俺の女になれ」などという 無責任な言葉を好きな人には言えないという話の続き。 私はこんな無責任な言葉を愛する人に言うなんてとても信じられないのだけれど,「あなたを幸せにします」という言葉は,告白の場面で定番のセリフになっている。これと同じようなことだけれど,男性が女性の両親に挨拶する場面で,「娘さんを幸せにします」というセリフも定番である。もしも私の娘の彼氏が私にそんな言葉をいうのであれば,とてもその彼氏を信じられない。まぁ,娘を幸せにする実現可能なプランを具体的に説明できるのであれば,聞いてやらなくもないけれど。適当にそんなセリフを吐いているような彼氏ならば私の評価では失格である(まぁ,私の考えなど娘の決断には関係ないだろうけれど)。 では,どんな言葉ならば許せるのか。 「愛と誠」という漫画に登場する岩清水は,「きみのためなら死ねる!」とまで言っていたけれど,ちょっと重すぎる。たぶんそんなセリフを言われたら,ドン引きするだろう。 そんな私にとっての理想のプロポーズのひとつが,「釣りバカ日誌」のハマちゃんのものである。 「僕はあなたを幸せにする自信はありません。でも僕が幸せになる自信はあります。」(釣りバカ日誌) 他人を幸せにするというのは,自分ではコントロールできない相手の心についての努力を言っている。一方,このハマちゃんのプロポーズは,少なくともコントロールできる自分の心について言っている。なんて素晴らしいプロポーズなのだろう。たしか学生時代,スキーツアーのバスの中で,この映画を見ていて感動したのを覚えている。 他人が幸せに感じるように自分は最大限の努力はできるけれど,その結果,相手が幸せを感じるかどうかは自分で責任は取れないと思っている。私は,こんなことを言っているから女性にもてないのだろうけれど。。。 #私の娘の彼氏に求める条件は,私に「勝つ」こと。文武どちらでもよいけれど,私に勝てる男でなければ娘を任せられない。。。

若いカップルに対する私の対応

 もうこの年齢になると若いカップルを見ると,子供を見ているように微笑ましく感じる。しかし,見ていると恥ずかしくなって,こちらの身体がかゆくなるようなカップルも結構見かける。どうも私はそのようなカップルに偏見があるのだろう。たとえば,そのようなふたりの間では,男性が女性に,「幸せにする」とか「俺の女になれ」とかそんな言葉を簡単に言ってそうに思ってしまう。私にはとてもそんな責任を持てないことは言えない(もちろん,そういう男の人が好きな女性が多いことも知っているけど,そうした無責任な言葉をいう人を基本的に私は信じることができない)。 中高生や大学生のそうした雰囲気のカップルには,街を歩いていると,ときどき敵意ある視線を男性側から向けられることがある。たぶん私が汚らしい老人で人相も悪いからだろう。そしてイキっている男性がそのことによって女性を守っていると感じることができるからだろうと思っている。 そうしたときに,私は弱そうにスゴスゴと距離をとることにしている。男性は良い気分になれるだろう。私は心の中で,「今回は私に感謝しろよ」と思って離れるのだ。

サウナが苦手

 一頃のブームは去ったけれど,今もサウナは人気である。昔はサウナといえば男性の話ばかりだったけれど,今ではサウナ用の水着や帽子などお洒落なグッズも販売されるようになって,女性の愛好者もたいへん多いようである。 しかし,実は私はサウナが苦手である。一時期,サウナには「整う」という感覚があると聞いて,私もよくネットなどで見かけた手順で体験できるかと試してみてはいたのだけれど,結局,体験できずじまいでそのうちにやめてしまった。「整う」という感覚は,暑いところから涼しいところに急激に移動することによって,血管が拡張し(血圧が下がり,脳が一種の貧血(気絶?)を起こしていることなのではないか,などと浅慮して,イソップ寓話のキツネのすっぱいブドウのように負け惜しみを言っている(普通は寒いところから暖かいところにいくことによって血管が拡張するのだけれど,たぶん高温すぎるとやはり緊張によって血管が収縮するのではないかと推測している。いや,本当はやっぱり逆なのかもしれないけれど,いずれにしろ血圧の急激な変化が脳に大きな影響を与えているに違いないとは思っている)。 実際,サウナは苦手なだけで嫌いではない。ただあの暑さに耐えられないのである。サウナ室に入ったとたん,足の裏からしてもう床の熱さに耐えられない。頑張って座る場所を見つけて,人の前を「すみません,すみません」などと言いながら進んで座るのだけれど,すぐに身体中の皮膚が熱さで痛くなる。耐えられない。そこで,5分もしないうちにすぐにまた立って,「すみません,すみません」と言いながら人前を出口に向かって歩いていく。そのたびに身体をよけて私を通してくれる人たちに申し訳なさを感じる。。。だいたい毎回そんなことの繰り返しである(もちろん,私はサウナは苦手だから,サウナ専門店には入らず,銭湯とセットになっているところで利用する)。 若い頃はサウナが決して苦手ではなかった。長時間入っていても心地よく汗をかくことができたし,サウナ室を出てから入る水風呂も最高に気持ちよかった。それが今ではできない。結局のところ加齢のためにサウナという高温環境に耐えることの体力がなくなったのだろう。 若い頃に比べると体重もずいぶん増えたから,身体の熱容量も増えているし,加齢によって身体の感覚も鈍くなっているから,ちょうど東京の銭湯の熱い風呂のようにおじいさんがじ...

なにもかも手に入れた金持ちは武術の習得を目指す?

 人生におけるほとんどの幸せはお金で買える。これは間違いの無い真理であり,私は全く同意する。 しかし,もしも自分がたいへんな金持ちになって,世界を救おうなどと考えず(笑),自分のためにそのお金を使うことができるようになったら,私は次に何をするだろう? なにもかも欲しいものが買えるようになったら。。。たぶん次の目標は「修行の達成」である。精神的な満足を求めて,修行を始める(続ける)に違いないと思う。それは,武術かもしれないし,仙道かもしれない。つまりは,お金では買えない幸せを次に追い求めるのにちがいないと思う。 「セイバーキャッツ」という漫画の中にはそんな話が出てきたと記憶している。登場人物がお金持ちになると宇宙中の(漫画なので,国とか世界中とかではなくスケールがでかくなる)武術の達人を探し,その教えを乞うのである。そして修行して天地とひとつとなることが金持ちのひとつの目標となる。 このアイデアに私は大いに賛成する。お金は大事だけれど,お金の次の目標は自己実現である。社会的地位で自己実現をする人もいるが,武術の修行で自己実現を目指す方が私にもあっている。お金もそんなにかからないし,社会的地位が上がって仕事や社会的責任が増えることもない。 ただ武術とは仙術などとは違って,日常万般に活用することこそ目的である(日常生活で武技を使うということではない)。武術の考え方,身体の運用法を用いて「事上磨錬」をすることこそ修行といえる。社会とのつながりを断つ修行もあるだろうけれど,社会とのつながりを重視して修行するのが武術なのかと思う。私は金持ちではないけれど,ささやかに修行の達成を目指したい。

もしもサイコキネシスがあったなら

超能力があったらいいのに 。そんなことを私は今でも思う。 もしもサイコキネシス(念動力,念力)があったなら,グローブボックスなしで実験ができる。遠隔からいろいろなものが操作することができれば,wired, wirelessなどのリモートコントローラなど不要となるだろう。実験が実に簡単になる。なんてすばらしい理科学世界! という冗談はやめにして,ハリウッド映画など見ると超能力バトルがアクション映画の見せ場になっていることが多い。巨大な岩や大きな建物が念力によって飛んでいって敵を倒す。スカッとするシーンである。 マンガでもこうしたシーンは多い。例えば超能力で人が壁に飛ばされると背面のコンクリートの壁が半球型に大きくくぼむ。その画をみて,私たちは放たれた念力の大きさを感じる。ちなみにこうした超能力表現は,大友克洋の「童夢」が最初ではないかという話を聞いたことがある。それまでの超能力は,光線のような線が主人公から引かれて何かエネルギーの放出を表していたけれど(ドラゴンボールのかめはめ波のように),大友克洋はその力が作用した側の物体の変形を描いて念力の大きさを表した。素晴らしい漫画表現の変革である。 そうした表現を用いた映画「AKIRA」の超能力シーンももちろん素晴らしいし,「幻魔大戦」の念力もスケールが大きい。アニメで再制作された「Night Head」も念力バトルになっていたし(オリジナルの豊川悦司と武田真治のドラマではガラスのコップが壊れるくらいのもう少し抑制が効いた念力だったが),最近だと韓国の「The Witch 魔女」シリーズの戦闘シーンが面白い。念力を用いた暴力のアイデア集になっている。 そうなのである。こうした表現が当たり前になりすぎて,私たちは念力バトルを想像するとそうした物体の破壊が伴う戦闘が思い浮かぶようになった。しかし,もしも念力があるのであれば,そんな大げさな戦闘をするだろうか? 私だったらそんなことはしない。またせいぜい数百グラムのものを動かすことができる念力さえあれば十分である。なぜならただ術者の脳の中の神経を少し壊すだけで十分だからである。たとえば敵の視床下部の細胞を物理的に壊す,あるいは発熱ができるのであれば,脳の一部を加熱してその機能を不全にする。それだけで相手を倒すには十分なのである。(もしも超能力を用いた物理実験をする場合にはもう少し力...

インバータ制御ではないエレベーター

 横須賀で泊ったホテルのエレベータの話。乗って目的の階に止まるときの動作がどうもぎこちない。エレベータが止まるときの振動が尋常ではない。ぎくしゃくとした動作が乗っているものの不安をかきたてる。 どうしてなんだろう,と思っているとエレベータの中に「横須賀市で第1号のエレベータである」との張り紙を見つけた。そしてインバータ制御ではないので,動作がぎくしゃくするのはご容赦ください旨のメモも貼ってある。すごい。インバータ制御ではないエレベータなのだ。この時代,それらはほんとに珍しい。 そこで次々に疑問が湧いてきた。インバータ制御でないエレベータの昇降はどのように制御されているのだろうか?加減速はどのような制御系で行われているのだろう?停止した時のブレーキ,そしてロックの機械的な機構は?そして昇降開始の時にモータに突入電流が流れないのだろうか?などなど。インバータによるきめ細かい速度制御ができる現代のようなエレベータと違うのだ。モータの直接投入,もしかして機械的な変速機の利用,ブレーキロック機構,ダンパー機構など,現在では電気制御によって解決されている数々の問題が,インバータの無い時代にどのように解決されていたのか。たいへん興味深い。。。 製造メーカは「横浜エレベータ」。今も同社によって丁寧にメンテナンスがされているらしい。乗るのはちょっと怖いけれど,いつまでも変わらず運転されて欲しいと思う。 #横須賀は昔ながらの趣きが残っている良い街だと感じた。道路は細くて大変だけど。

横須賀にて薄着の人をうらやむ

 先日,仕事で横須賀に行く用事があった。もう4月も半ばのことだったので三浦半島はすでに初夏の兆しを感じるくらいに暖かかった。海から吹き付ける風は強かったけれど,それでもコートは着なくても良いと感じるほどであった。 長岡から出張していた私は,過剰なくらいな防寒装備のウィンドブレーカーを着こんでいてために,少し歩くだけで暑さを感じるだけでなく,行き交う人の薄着に恥ずかしさを感じるくらいだった。 そう,横須賀の人は薄着だった。長袖シャツが風に吹かれて揺れていても颯爽と歩いている人が多かった。道行く人に海外の方が多いのも驚いたけれど,そうした海外の人たちはTシャツ1枚で歩いている人も多くてびっくり。寒くないのだろうかと疑問に思うと同時に私の厚着のひどさがますます恥ずかしくなってきた。 そういえば海外の人は寒くてもなぜ薄着で平気なのだろうかと思うことが多い。11月の木枯らしの季節でもTシャツを着て平気な顔をしていたりする。皮下脂肪が厚い割に寒がりの私から見るとうらやましい限りである。 今回の横須賀もそうだった。もしかして米軍関係の人が多くて,鍛えられた身体はそんなに寒さを感じないのかもしれない。いや,日本の高校生くらいの若い人も多く見かけたけれど,彼らも薄着だった。これは 衣がえのヒステリシス が関係しているのだろうか?いや,身体の代謝の効率が違うのだろう。。。 私も身体の代謝を高めて,寒さを感じなくなるようになりたい。代謝を高めるということはダイエットにも良い影響を与えるだろうし。

同じ話を繰り返す理由

 以前から老化のせいか,同じ話を繰り返すことが多くなっているような気がする。ある人にその話をしたかどうかが曖昧で,結局同じ話を繰り返してしまっていることがあるのだ。そして話が中盤に差し掛かったころに,「それは~でしたよね」と話のオチを相手から言われて,「うっ。またやってしまった」と気づいて顔が赤くなる。 しかし,実は意図的に同じ話を繰り返していることもあるのだ。同じ話を繰り返すのはその内容が大事なことだからなのである。 ある教えに関する話を再び聴くとする。このとき,「この話,前にも聞いた」と思ってしまうと,すぐに頭が真剣に聴くことを拒否しようとし始める。少なくとも話の内容について新鮮さが損なわれ,傾聴の真剣さが目減りして聴いてしまうのだ。そして心のどこかで「わかった」ような気になってしまうのである。 しかし,重要な話であればこそ何度も何度も繰り返す必要がある。話の内容である教えを一回で理解し実行できるような人がどれだけいるだろうか。だいたいのところ,一度や二度話を聴いても,それを「 知行合一 」のレベルで理解できる人は少ないのではないだろうか。 孔子の弟子の子貢は同門の顔回の才能について,「一を聞いて十を知る」と評したことは有名だけれど,たとえ「一を聞いて一を知る」だけの才能だけでも十二分に天才と呼ばれるにふさわしいと思う。どれだけ学習速度が速くなることだろうか。私などは「一知半解」もよいところである。。。 人に伝えたいと思う重要なことは,やはり何度も何度も話を繰り返すべきのだ。そして話を聴く側は,話を繰り返すことの意味を理解し,真摯に耳を傾けるべきなのである。たしかにそれは人間のなまけようとする特性からして,なかなかできないことなのだけれど。 #そして私の場合は上記のような深い意味から話を繰り返すのではなく,単に老化によるボケであるけれど。。。

悠久山は桜の名所

 長岡市で桜の名所といえば悠久山が挙げられる。悠久山には,蒼紫神社という長岡藩牧野家代々の墓所がある他,サル山を有する動物園があり,池などが整備された公園がある。そして,今悠久山公園の桜が満開なのである。夜になればライトアップがされるし,綿あめなどの夜店も出ている。長岡なので夕方は気温が下がって少々肌寒いのだけれど,それさえ気をつければ,たいへん良い観光名所となっている。 山の頂上には城の形をした郷土史料館があって,長岡出身の偉人たちがゆかりの品々と一緒に紹介されている。もちろん,河井継之助や山本五十六なども紹介されている。やはり私もこのふたりのことは大好きで,戦争に反対しつつも身を投じざるを得なかったというふたりに共通する境遇を思うとつらくなる。史料館に足を運ぶたびに展示されている書などを見て,彼らの生き方を思う。(そういえば,以前に展示されていた山本五十六の白い軍服は最近見かけなくなってしまった) そして史料館を出ると,花びらが舞う桜が目に入ってくる。感慨ひときわである。 研究室では,花見を恒例行事としたいと思っているのだけれど,今年は私の参加はスケジュールの関係で難しそうでちょっと悲しい。毎年の桜は変わらないように見えるけれど,見に来る研究室のメンバーは毎年変わっている。そのことを思うたびに次の言葉を思い出す。 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

袈裟斬り

 日本刀の斬り方に,袈裟斬りというものがある。自分の右側に刀を振りかぶって左下側に斜めに斬り下ろす技である。斬られる方からみると,自分の左肩から右脇腹にかけて斜めに斬られることになっていて,ちょうどお坊さんが着る袈裟と同じように左肩から右脇腹に斜めの軌道を描くことになるのが特徴である。 現在の剣道では相手を真っ直ぐに斬り下ろす正面打ちが重視されていて,防具の面を外して肩から袈裟斬りしてもたぶん有効打とは認められないので,試合ではほとんど見ることができない(と思う)。 しかし,この斬り方は斬る方の人間の身体的特性によくあっていて,剣を真っ直ぐに斬り下ろすよりも袈裟斬りの方が刃筋も立ちやすく,実戦向きであると思われる。また殺傷能力も強く,鎖骨を砕き,その下の動脈まで刃が達すれば致命傷を与えることができる。実際,戊辰戦争などの刀傷の記録などを見ても袈裟斬りで斬られたものが多かったという記事をどこかで読んだ(たぶん雑誌「秘伝」)。 戦国時代ころまで鎧兜をつけて戦闘をしていたころは,兜が邪魔になって太刀を真っ直ぐ振り上げることなどできなかっただろうから,太刀を斜めに振り下ろす技法が中心だったと思われる。もともとは斜めに斬り下ろす方がメジャーな方法だったと想像される(そもそも甲冑をつけた闘いで,戦場で太刀で戦うことなど少なかったと思われるが)。江戸時代になって介者剣術から素肌剣術となり,正面打ちの重要性が増していったと思われるけれど,わざわざ難しい正面打ちを稽古するのは,いくぶん(精神的な意味も含めて)修行的な意味もあったのではないだろうか。 もちろん剣を右肩付近に立てて構える「八相の構え」などは多くの流派に存在しているし,示現流などは八相よりもさらに高く構える「蜻蛉の構え」が特徴となっているから,古流などでは袈裟斬りがちゃんと重要視されていると思われる。「剣道」の競技の発展が袈裟斬りの存在を薄くしていったのではないだろうか。 最近は時代劇が少ないので,「袈裟斬り」といわれてもピンとこない人が多くなってきている。袈裟斬りにも,「左袈裟斬り」(袈裟斬りの左右反対の斜め斬り)や「逆袈裟斬り」(袈裟斬りの軌道と逆に自分の左下から右斜め上に斬り上げる),この逆袈裟にも左右があったりして,なかなか分類がややこしい。私も恥ずかしながら,ときどきどちらがどちらだったのか迷うときがある...

2026年のエイプリルフール

 もちろん,4月1日に書いた内容は実はエイプリルフールの冗談です.<しかし,最近,>以降の文章はほとんどウソです。そもそもポールシフトは短時間で起こるものではなく,数千年オーダーでゆっくり起こるものであって,リングに誘起される電圧はいくら超伝導導体であっても小さくなるものと予想されます。また技術的にも実際の構想では,リングの途中途中に半導体電力変換器などが挟まれるために過電流が流れることはありません。だからウソなんです。まあ,この夢の構想は昔からあるものなんですが。。。 本来,4/1の午前中早々に記事が公開されるべきものですが,今年もエイプリルフールをすっかり忘れていて,学生さんに言われてはじめて思い出して,昼休みに30分程度で書いたウソになってしまいました。昨年もウソをつき忘れていたので,今年は焦りました。 相変わらずひねりもなく,誰にも注目されないウソでした。来年のエイプリルフールはもっと素敵なウソをつきたいと思います。 これまでのエイプリルフールのウソ 2026年  夢の世界太陽光発電電力システム構想 2023年  グリッド・ファイティング・インバータ 2022年  仮想Siインバータ(Virtual Si Inverter) 2019年  AIを用いたリバースエンジニアリング 2018年  髪の毛のTHD 2017年  パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則 2016年  地球を利用した無線電力伝送システム 2011年  パワエレの系統 2010年  電力の産地指定購入 2009年  人間の共振現象 2008年  夜中の台所にて,パワーエレクトロニクスの音色に耳を澄ます  

夢の世界太陽光発電電力システム構想

 電力の問題点のひとつは,発電する場所と使用する場所,すなわち供給と需要の地域が遠くに離れることが多いということである。たとえば,柏崎の原子力発電所において発電した電力を遠く離れた東京に送電している。そこには当然送電ロスも発生するわけで,遠くであればあるほど,無駄が大きくなることになる(実際には長距離になればなるほど,系統の安定性の維持や事故時の保護が難しくなるなどのもっとややこしい問題がある)。だから家屋の屋根で発電してすぐに電力を使用できる太陽光発電などは,電力を送るという観点からは非常に有効であるといえる。 しかし,太陽光発電にも問題はある。まず,メガソーラーなど大規模な発電所を作ろうとするとやはり都市部から遠く離れた広い土地が必要で,そこからの送配電設備がやはり必要となり,長距離送電によるロスという既存の発電所と変わらない問題が生じる。さらに太陽光発電は夜間に発電できないという根本的な問題がある。この問題の解決策としては蓄電池を使用して,昼間に発電した電力を貯蔵して夜間に使用するということが考えられているが,蓄電池のコストが高すぎてなかなか導入が進まない難しい状況である。 こうした問題を一括して解決する方法がある。それは世界太陽光発電電力システム構想である。簡単に説明すると,地球を一周する超伝導導体による直流の送電システムを作るのである。すなわち地球の赤道上に一本の超伝導導体のリングを巻き付けるのである。そこに,世界各地に設置された太陽光発電システム(太陽光パネル+変換器)をそれぞれ接続する。 地球のどこかは昼間であるから,このシステムのどこかでは常に電力が発電され,24時間世界中に供給されることになる。これで,太陽光発電は夜間は発電しないという問題が解決される。 次に送電ロスの問題であるが,送電線を超伝導導体で作ればロスは冷却分だけになりかなり効率化される(もちろん高温超電導体を用いる)。地球一周4万Kmの長さであっても送電ロスは基本的には問題にならない。系統の安定性の問題も,交流ではなく直流であるため解決されるはずである。 このシステムさえ実現できれば,世界のいつも地球上のどこかで発電し,その電力を共有することができるのである。エネルギー偏在の問題もこれで解決できる。まさに夢のシステムである。 しかし,最近,この夢のシステムにある問題があることに...

私のコーヒーの好みをまとめてみた

  月に2~3度は珈琲店を訪れ,美味しいコーヒーを飲みながらブログ記事を書いている 。長岡に来てから6年が経つから,これまでに相当な杯数のコーヒーを飲んでいるはずである。そこで私のコーヒーの好みについて,たまには書いてみようかと思う。 珈琲店ではハンドドリップコーヒーを飲むことが多いのだけれど,その銘柄はいつも店のお薦めを飲んでいるから訪れるたびにコーヒーの種類は変わっている。コーヒーの名前には,ブラジル,コロンビア,コスタリカなどの産地名が冠されていて,そのたびに少しは気にするけれど,コーヒーを飲んで産地が分かる,なんてことは全くない。その他名前には,ナチュラルとかウオッシュドとかアナエロビックなんて製法名が含まれていたり,ときにはinfusedとか書かれたりしている。これらの言葉を私が理解しているかといえば,そんなことは全くない。コーヒーは全然詳しくない。そもそも私は味音痴なのだ。そんな製法にこだわるような男ではない。ただし,それでも,「美味しい」と思うか,「まずまず」と思うか,その判断はする。そうした基準で私が選ぶコーヒーは次の通りである。 ・ブレンドでなくスペシャルティの単一の豆を用いたコーヒーを選ぶ:まず,私はブレンドコーヒーというものがあまり得意ではない。ブレンドコーヒーというものはどうも味がはっきりとしない。各店舗によるオリジナルブレンドをよく飲むけれど(普通の喫茶店やチェーン店ではいつもこれ),味はあまりぱっとしないというのが私の印象である。豆の味の特徴が混ざり合って凡庸になっているような気がするのだ。もちろん,これまで私が素晴らしいブレンドコーヒーに出会っていないだけかもしれないが。 ・苦いコーヒーよりも酸っぱいコーヒーを選ぶ:苦いコーヒーも時には美味しく感じるのだけれど,普通の体調のときはどちらかというと酸っぱいコーヒーが好きである。フルーティーなものも大好きである。口に含んだときに香りが口の中に広がって,その後酸味を感じられるようなコーヒーが好きなのである。 ・できれば時々水を飲みながらコーヒーを飲む:コーヒーを飲んでいると,舌が味にどうしても慣れてきてしまう。水を時々口に含むと舌がリフレッシュされて,美味しさを味わえる時間が長くなるような気がする。またコーヒーを飲んだ後の口臭も抑制されるようである。 ・ぬるすぎるコーヒーは文章を書くの...

珈琲店の会員制度の終了とブログの更新頻度

 ブログ記事は,週末に少しお洒落な珈琲店でコーヒーを飲みながら書くというのがこの数年のルーティンになっている(この記事もそうだ)。美味しいコーヒーを飲みながら,こうして記事を書きながら考えをまとめる時間は,それなりに日常生活の中で重要なものになっている。まるで誰かに愚痴を言うように,記事がとりあえずまとまるとスッキリするのがストレス解消になっているようだ。 ブログ記事を書く場所にこの珈琲店を選んだのは,内装が木製で心が落ち着くからであるし,それでいて若いカップルや熟年夫婦などが会話やコーヒーをにぎやかに楽しんでいる姿をみるのも心を温めるからでもある。しかし,なんといってもこの喫茶店を訪れる理由は,会費を払って月会員になるとハンドドリップコーヒーが半額になるという特典があったからである。 コーヒー3杯を飲めばもうお得なのである。 しかし,この会員制度が今月で終了することになってしまった。店から届いたメッセージには昨今の価格高騰が終了の理由だと書かれてあった。それは確かに仕方ない。輸送費を含め物価は何もかも上がっているし,コーヒーだってブラジルなどの不作で世界的に高騰しているとどこかで記事も読んだ覚えがある。よくぞここまで価格を抑えてきてくれた,と感謝したいくらいである。 しかし,それでも,である。出費が増えるのはつらい。この店を訪れる頻度もそれなりに少なくなってしまうだろう。しかし,これは好機であるともいえるかもしれない。これまで会員だからということでこの珈琲店に通ってきたわけだけれど,他にも美味しい珈琲店は市内にあるだろう。そうした店をひとつずつ開拓する楽しみも今後はあるに違いない。 ただブログ記事を書くほど落ち着いた環境の店というのはなかなか見つからないかもしれない。そのときは,このブログの更新頻度も残念ながら下がることになるだろう。もしも更新頻度が下がったら,そうした理由なのだと推しはかっていただければと思う。

最近,デスゲームのルールが複雑すぎる

 「呪術廻戦」はテレビのアニメをこれまで見てきて,今期も期待して視聴を続けているのだけれど,最近正直をいうと見るのがなかなかつらくなってきた。今期は「死滅回遊」と銘打って,呪術師同志の殺し合い,すなわちバトルロワイヤルを描いているのだけれど,このデスゲームのルールが複雑になってきて,頭が追い付いていかないのである。 そもそも私が番組を見るのは,頭の中を空っぽにして何も考えずに楽しみたいからであって,知的ゲームを解き明かしていくという楽しみを求めているわけではない。主人公と敵との単純な構図があって,味方と敵とが戦いあうようなスカッとした物語が好きなのである。 それが今期の「呪術廻戦」といえば,登場人物たちの業を説明する話がところどころに挿し込まれ,殺し合いについても複雑なルールがプレーヤーたちに課されている。ルールが複雑になると,そしてそのルールの盲点を突いた攻撃などがあると,そのルールがどうだったのか,そのたびに確かめる必要が出てくる。それが面倒なのである(そのルールを確認しても理解できないこともしばしばだけれど)。そしてその面倒くささが,私から番組の視聴を遠ざけるようになっていく。 (ちなみに登場人物の背景の説明も実は苦手である。この理由のために「鬼滅の刃」の映画を観に行く元気がまだ出ていない。。。) 同じ理由で苦手な漫画が「ハンター×ハンター」である。物語の途中からはルール(制約)が多すぎて,とても理解できない。単行本を読んでいても,途中からとても漫画とは思えない文字数で紙面が埋められ,まるで小説を読まされているような気分になる。それが好きな人もいるのだろうが,私みたいに単純な話を好む人間には少々つらいものになっている。 カイジやライアーゲームなども,正直苦手である。。。頭が単細胞でできている私には,単純な話がお似合いなのだ。「ハンター×ハンター」のあの文字で埋め尽くされたページをめくっていると,これを本当に理解して読んでいる人はどれだけいるのだろう。。。といつも思うのである。

丹田に関わる修行法について

  「丹田」という概念が武道の修行において重要視されている が,修行する武道などによって説明が異なっており,それぞれの方法において異なる解釈がされえちることがわかる。しかし,「丹田」という概念は,東洋において,武道に関わらず精神や心の修行に重要であることは共通であるようで,その概念や修行法においては多くの類似点が見られるようである。 「丹田」は「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと区別されることもあるが,たとえばこれらの概念は,インドのヨガなどで言われる「チャクラ」の概念に近いと思われる(多くの人がそう思っているだろう)。人体においてチャクラは,尾骨,仙骨,胃,胸,喉,眉間,頭頂付近に計7つ存在するといわれていて,それぞれ生命力や感情などを司ると言われている。ヨガや呼吸法などの修行法はこれらの「チャクラを開く」ことを意識して行われる。最近では「チャクラ」という概念はヨガの普及とともにかなりメジャーな概念となっている。もしかすると「丹田」は知らなくても「チャクラ」は知っているという人の方が多いのかもしれない。 こうしたチャクラの開発においては体内のエネルギーの循環を意識して修行されるが,その修行法に類似しているものが,中国道教(気功法)における「小周天」という気をめぐらす功法である。体内の経脈にしたがって気を循環させるのだという。気の循環を天地と行えば「大周天」となるらしい。体内にエネルギーの循環をイメージする点では同じである。 そして日本にはもっと静的な修行法として禅がある。これは丹田をしずめて瞑想することが指導されるようで,あまり体内のエネルギーの循環を意識するということは聞いたことがない。しかし,剣豪 白井亨が行ったといわれる白隠禅師の練丹の法「軟酥の法」は「軟酥」の移動を意識するのでなにかしらのエネルギーを移動するイメージが使われているといえ,やはり修行法に共通点があるように思われる。 結局のところ,体内のエネルギー(のようなもの)の循環を意識するという修行法は東洋においては普遍的なものであり,普遍的であるということはこれらの修行法の実効性が高いということを示しているといえるだろう。 ただし,これらの修行法にはどうも危険が伴うらしい。ヨガにおいてはチャクラの開発においてクンダリーニが暴走してしまい,心身に不調をきたすことがあるらしいし,道教においても修行...

丹田という概念

 私が稽古している合氣道では,「丹田」ではなく,丹田を一点に集約した「臍下の一点」という体内の点を重要視する。すなわち「臍下丹田」の「臍下」であり,臍下三寸くらいのところと教わる。しかし,一般的にはそこまで細かいことを言わず,「丹田」全体に言及する武道が多いだろう(丹田を重要視するのは武道だけではないけれど)。 「丹田」は通常はこのように下腹の部分を指し,よく,大事な時には「下腹に力を入れろ」などと言われたりする。しかし,この丹田という概念が実はあいまいなのではないかと思っている。そもそも「丹田」という概念を言い出したのは誰なのだろう? この「丹田」も「上丹田」「中丹田」「下丹田」などに分かれて解説されることがある。 私の理解では ,「上丹田」は額の中心の「天帝」とも呼ばれる場所(お釈迦様の白毫の位置)であり,「中丹田」は「膻中」付近の場所,「下丹田」は下腹である。それぞれ心や気の修行には重要であるとされているが,昔の武芸書を読んでみて「丹田」ではなく「上丹田」「中丹田」「下丹田」などと分類されているものを見たことがない。これらの概念は誰が言い出したものなのだろうかと不思議に思っている。もしかすると近代以降,中国やインドの知識が入ってきてからの概念なのではないかと考えている。 さて,私が稽古している心身統一合氣道では,力を抜くことを重要視する。普通に丹田を意識すると確かに下腹に力が入りやすい。それは面積をイメージするからである。意識するのが点であるならば力の入れようもなく,全身の力も抜ける。なので「臍下の一点」に心をしずめるのである。たいへんよくできた指導であると思っている。

宝石商が本物を見分けるための修行の話

 以前にも書いたけれど,いかにも人生の大事なことを示しているような例え話が嫌いである。誰かの名言というのは好きだけれど,どこの誰が話したかもよくわからなくて若者を大人がだますような感動話というのが嫌いである。いや,個人的にはそうした話を収集するのは大好きなのだけれど,自分自身はそうした話に安易に納得するのが大嫌いなのである。 以前に書いた 「壺と大きな石,小さな石」の話 が典型的なのだけれど,今回はまた別の話を紹介する。 伝統ある宝石商における修行の話。その店では新入社員に,持ち込まれる宝石のどれが本物でどれが偽物かを見分ける方法については具体的には教えないのだという。その新入社員にはただひたすらに本物の良い宝石だけを見るようにさせる。そのうちに修行年月が経つと偽物を見たときに本物とどこかが違うとおのずとわかるようになるのだ。という話。 これはある武道の先生から伺った話である。すなわち,本物の技を見て練習していれば,おのずとインチキで偽物の技を見分けることができるという教えであった。 私はこの話を聞いたときに,なぜ宝石商の例え話を出してくるのかと思った。最初から武道の技の話として話せばよいのに,と思っていたのである。この話が示している内容はある意味真実であると今では理解できているけれど,その当時は宝石商の例え話に嫌悪感をもったことを覚えている。また,初級者に教えをありがたさせるための話だ,などと思っていた。 しかし,現在では,嫌いではあるけれど例え話の目的も少しは理解できるようになってきた。それは私の講義の中の雑談と同じである。教科書の内容ばかりを講義しても学生の記憶には残りにくい。ところどころに雑談を交えて,そのくだらない話にバインドさせて重要なことを覚えやすくするための工夫なのだ。実際に私もこうしてこの宝石商の話を覚えている。そしてこの話を思い出すと,本物を見る修行の重要性もまた思い出されるようになっているのだ。 # 藤平光一先生が話された千利休の話 もよく覚えている。この話には嫌悪感はあまり抱かない。たぶん内容は同じでも誰が話すかということが大事なのだろう。酒場で同じ話を聞いても心に残る度合いは全く違うだろう。

刺身にあうお酒とは

 長岡に来て,日本酒を飲む機会がぐっと増えた。それまで日本酒は少し遠ざけるところがあって,あまり注文することがなかったのだけれど,長岡に来てスッキリと美味しい日本酒を飲めるようになって,すっかりその魅力にハマってしまった。いまでは刺身や煮魚などの日本料理を見ると日本酒の味を思い出して喉がゴクリとなるほどである。 こう思うと,日本酒は刺身や煮魚,焼き魚によくあうお酒なのだとあらためて思う。実は私はビールでこれらの料理を食するのも大好きなのだけれど,刺身とビールの組み合わせが苦手な人もいることについては理解できる。日本料理には日本酒一択という人も多い。 私も刺身などには日本酒かビールを合わせることが多い。一方で若い人によく見かける刺身にチューハイやハイボールを合わせることは苦手である。ましてソフトドリンクとして,コーラやオレンジジュースで刺身を食べているのをみると,彼の口の中に広がるであろう味をついつい想像してしまって,「うっ」となってしまうのだ。その甘い飲み物と刺身の組み合わせはないだろう。ウーロン茶などならよいと思うけれど。。。 いつだったか,子連れ狼などの原作者で知られる小島一夫が, 日本の大人の男には、「金を持ったにすぎない子供」の男が多過ぎる。大の男の暇潰しが課金ゲームではいけないし、コーラで飯を食ってもいけないし、聴いているCDに握手券が付いていてもいけないのである。大人の男として扱われたいのなら、大人の男になれ。いつまでも、少年のフリは出来ないのだ。 とツイートしていたのを思い出す(ネットで調べました)。日本酒と刺身の組み合わせの素晴らしさに気づくには味覚の成熟が必要なのだと思う。私も長岡に来てから成熟中なのかもしれない。

大人の舌と胃袋の老化

 苦いものの美味しさを理解できるようになって,大人の舌になってきたと思うようになったのは30歳を超えたくらいの頃だろうか。ビールに限って言えば,22歳の頃にはあの苦みがたまらなくなっていたけれど,その他の料理,たとえばフキノトウとかセリなどの苦みが美味しく感じられるようになったのは30歳を超えたくらいの年頃だろう。 一方で,たんぱくな味を美味しく感じるようになったのは40歳くらいだろうか。たとえばタイやヒラメ,フグ(めったに食べたことはないが)などの刺身,湯葉やこんにゃくなどは,どういう味なのか説明はできないけれど,美味しく感じられるから不思議だ。 一方,脂を身体が受け付けなくなりつつある。魚の白子も今はそれほど量を食べたいと思わなくあったし,ホッケやノドグロなどの脂ののった焼き魚も少量で十分である。もっというと,すき焼きなんかは,2枚目の肉からはあとは食べることが「修行」となってしまうし,ステーキや焼き肉も,A5ランクの霜降りのお肉よりも赤身が美味しく感じられるようになってしまった。これが胃袋が年をとるということかと実感している(最後の砦である トンカツもとうとう量が食べられなくなりつつある し)。 この先,仙人のようにカスミしか食べられなくなるのではないかと心配しているが,コレステロール,中性脂肪の値はいまだ高いので,まだまだ修行は必要なようだ。

バツ印がみつからない

 最近は老眼が進んで小さな文字が見えづらくなってきた。特にスマホでブラウジングなどしていると,書いてある文字が見えづらくなる。だからiphoneの私はよく拡大機能を使ったりしている。年は取りたくないものである。 もっと困るのが小さな記号が見えないこと。具体的にいうと,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないことである。 ブラウジングをしているとページを移行した際に,広告のウィンドウなどが勝手に開かれることが多くある。それはなにか商品の広告ページであったり,数秒のCMを見るとブラウジングを続けられるであったりとか,とにかく次のページを読みたい私にとっては邪魔するものたちなのである。 最近腹が立つのは,こうした広告ページが開かれた際に, ウィンドウのCloseボタン(バツ印)が見つからない ことである。例をあげると, 「バツ印」がそもそも小さくて見つからない 「close」と書いてあるけれど,その文字がウィンドウとは全然異なる位置に表示されている あるいは「close」がページの端かド真ん中の位置に表示されていて見つかりにくい 「close」の文字や「バツ印」がわざと広告の図の中に重なって表示されて見つかりにくい 背景を透過色のグレーにして,「close」の文字もグレーで表示される   などなど とにかくひどい。ReadabilityというかVisibilityというか,ウィンドウを閉じるためのボタンが見つからないのである。もうイライラしてしまう。 若い人を見ていると,それでもちゃんとスムースにcloseボタンを見つけて次のページに移動しているようなので,やはり老化による対応の悪化なのだろう(若い人でもときどき怒ったようにスマホの画面を指でたたいている場面を見ることがあるから,老化とばかり言えないのかもしれないけれど) PCであってもcloseボタンを探すのに苦労する。この先,もっと複雑な表示になっていったら,もう私などは対応できなくなるだろう。Webページのデザイナーはもう少し,老人にやさしいページ作りをして欲しいと切に思う。

「人間力」という言葉が嫌い

 私が嫌いな言葉に「人間力」がある。「人間力」とはなにか定義がはっきりしていないのに,あたかも人間としての魅力を測るような能力としてちやほやされている,偽善的な言葉にしか感じられないのである。 人を惹きつけるというのであれば,「人たらし」という言葉があるし,コミュニケーションが上手であるならば「社交的」という言葉がある。「人間力」などというあいまいな言葉を使うことによって,あたかも素晴らしい能力であるかのような印象を与えている。そうやって一種「煙に巻く」ための手段として使われている場面にあうと,「あー,また騙している」と思ってしまうのである。 こうした「いかにも」といった話は,ビジネスのスキルアップのような話の中ではよく出てくる。私はそういった人生訓のような話を聞くと,「フン」と鼻で笑ってしまう人間なのだけれど,実はそうした話を聞くのは好きだったりする。なぜならば,どんな教訓が人間に響くのかと考えられてその「うまい」話が作られているのか,なかなか興味深いからである。 たとえば,壺と大きな石,小さな石の話。壺の中に石を順番に入れていく際に,小さな石から入れていくと,大きな石が入らなくなってしまうという話。この石は目標,願望であり,目の前の小さな目標に心を捉われてばかりいると,人生にとってもっと重要な大きな目標がたっせできなくなってしまう,という教訓の例え話になっている。 もちろん素晴らしい話なのは認めるのだけれど,私はやっぱり鼻で「フン」と笑ってしまうのである。そんな単純な話ではないのに,身近な例が人生の深淵につながっていると思わせる手法である( 実際は日常の些細なことが重要なことにつながっているのは真理だとは思うけれど )。いかにも啓発セミナーにありがちな話なのである。 人生の経験を積めば,現実がそんなに単純でないことは身に染みてわかっている。だけれども人間は話を単純化し,そこに教訓を求めようとする。人間は,単純化されたものを好むから仕方がないのだろう。現実は複雑で,複雑なことをありのまま複雑に受け止めればよいのに。。。 単純化された教えは,単純であるがゆえに強いものになって,自分を縛るだけでなく,周りの人にも強制し始めることもしばしばである。どこかの宗教の教義のように。 私たちは,複雑なことを複雑なまま受け止める訓練をしなければならないのだと思う。AIが発...

大事なことは単純化できない。言語化できないこともある。

 最近は,物事を単純化して考えることが流行している。複雑な困難事を小さく分解して,それぞれについてそれらの困難を解決していく,というのは昔からあるデカルトの重要な教えだし,科学的な考え方でもある。しかし,物事をいきすぎて単純化することの弊害について私は懸念している。 たとえば,二分法。物事を,良し悪し,善悪,などに分解することは,判断を単純化し意思を決定しやすいけれど,二分法で考えることができるところまで困難事を落とし込んでいくまでに多くの重要なことを切り捨ててしまっている可能性があるのではないかと思う。複雑なことを分解し不要だと思われることを切り捨てていく段階で,その切り捨てるための判断基準には自分の思考のバイアスがかかっているし,決断するまでの時間的な制約もあって検討が十分でないこともあるだろう。しかし,こうした切り捨てられた多くのことの中に,実は将来を見据えた解決策のヒントがあったりすることも多いように思われる 書店に行くと,「言語化する」ことの重要性を説いたビジネス本を多く見かける。確かに人はテレパシストではないので,人に情報を伝えるためには言語化することが必須である。いかに的確に簡潔に人に情報を伝えるかというスキルはビジネスで不可欠だし,日常生活においてもその効率化においてたいへん重要なことだと思う。また「言語化」する過程において思考が深化されたり,ロジックが整理されたりするだろう。 しかし,それでも言葉で伝えられない多くの大事なことがあるのである。それを昔から 「不立文字」 という。特に武道においてはそうである。秘伝書にいくら言葉で技術が解説されていたとしてもそれを読むだけでは習得できない。師から経験を通じて伝承が行われ,その感覚を自分のものとすることができて,技術をようやく承継することができるのである。そこには肉体的な伝達だけでなく,心的な伝達こそが大きな役割を占める。すなわち 「以心伝心」 である。 (余談:中国の武侠ドラマのように武道の伝書を読むと頭の周りに金の文字が回り始め,読み終えるとすでに技を習得する,なんてことはないのである。また,映画「マトリックス」ではヘリコプターなどの操作マニュアルが時空を超えて主人公の頭の中にロードされていた。たしかにマニュアルという情報レベルであれば,将来そうしたことも可能かもしれない) 以前から 世の中が...

慈眼温容(2)~小我を捨てる~

 「慈眼温容」が私には必要で,眉間にシワを寄せる癖を直すために努力を始めたという話 の続き。 眉間にシワを寄せることをやめようと決意したのだけれど,ふと気づくと眉間にシワを寄せて歩いている。あるいは考え事をしているのである。眉間にシワを寄せることは本当に無意識的なものであり,それが癖になっているのだ。 そして,自分の心身を細かく見てみると,眉間にシワを寄せているとき,身体には緊張がいくばくかあることに気づいた。この少しの緊張の重大さについて考えてみた。 私が稽古している心身統一合氣道では「眉間にシワを寄せると氣が止まる」と教えられる。この武道では完全にリラックスした状態を統一体と呼び,この状態を維持することを目的としている。どこかに力が入っていると,この統一体が崩れるのだ。統一体である状態を「氣が出ている」といい,統一体が崩れている状態は「氣が出ていない,止まっている」などと表現する。すなわち眉間にシワを寄せるということは統一体が崩れるということを意味する。 心身はひとつであるとするならば,身体に緊張があるとき,心にも緊張があることを示している。私はこれまで「眉間にシワを寄せる」ということは,眉間に力を入れるということになるので,氣が止まるのだ,と単純に思っていた。しかし,「眉間にシワを寄せているとき,身体の奥深くに少しの緊張がある」ということに気づいたときに,実は眉間に力を入れるのではなく,もっと心の奥深くで緊張を生み出しているということを実感したのである。 往年の大横綱,千代の富士に藤平光一先生が,千代の富士があるときから立ち合いの際に相手をにらみつけるのを止めた理由について尋ねたことがあるという。そのときに千代の富士は,誰かからもらった本ににらみつけると気が止まると書いてあったからやめた,と答えたとのことだけれど,藤平光一先生が私の他にそんなことをいう人が他にいるのかと思い,誰の本かと尋ねたところ,結局それは藤平光一先生の本だった,というオチなのだけれど,その話を伺ったとき,この意味は私には単に顔に力を入れることを戒めるものである思われた。 しかし,違うのだ。もっとこの話には含蓄があることに最近「慈眼温容」を心掛けるようになって気づいた。なにか外部からの刺激に対して,無意識に「抵抗しよう」とする心が起こっているときに眉間にしわが寄るのだ。ほとんど反射的...

慈眼温容(1)~眉間にシワを寄せるのをやめる~

 私が一番にご恩を受けている合氣道のO先生のお話。 O先生はたいへんご自分に厳しく,自己を律していらっしゃった。しかし,あるときに藤平光一先生が, 「O君は,”春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む”ではなく,人に接するときも秋霜を以てしているね」 とおっしゃられたそうである。また,あるときには藤平光一先生自ら 「 慈眼温容 」 という言葉お色紙に書いてO先生に贈られたと伺った。O先生は眉間にシワを寄せる癖があったということである。 私はこのお話を伺った際には,「そんなものか」と思っていたのだけれど,最近,私自身も「眉間にシワを寄せる」癖がいつのまにかついていることに気づいた。 私はいわゆる人相が悪い顔立ちで,眉間にシワを寄せるなどしたならば相当イヤな印象になっているに違いない。そう思うようになったのは,私とすれ違う人が私に微笑むことが多いことに気づいたからである。特に米国出張のときなど,道行く人たちが私と目を合わせるたびにニッコリとほほ笑んでくれる。そして次の瞬間目をそらすと元の無表情な顔になって歩き去っていくのだ。この切り替えがあまりにもはっきりとしすぎていて笑ってしまうくらいである。 目があったら微笑むことは海外でよくあるマナーなのだけれど,あるときひょっとして私の人相が悪すぎるから,目があった人は「自分は敵意を持っていない」ということを表明するために私に微笑みかけることを意識的に(あるいは無意識的に)行っているのではないかと気づいたのである。たしかに街をあるいていて,ショーウィンドウなどに映る自分の顔をみると確かに眉間にシワを寄せて歩いている。。。 そこでO先生の「慈眼温容」のお話を思い出した。私もいつのまにか無意識に誰かをにらむような表情になっていたのだ。そのことにはちょっと前から気づいていたけれど,昨年末から本気で直そうと心掛けている。しかし,これがなかなか難しい。眉間にシワを寄せてしまうのは常日頃の心の在り方が根本的な問題であることに気づく。本当に根が深いと実感している。

2026年の目標(2025年の反省)

 新しい年が来た。私もとうとう数え年で還暦となった。 昨年に立てた目標 も当然のことながら,なにひとつ達成できていない。なんと夢も希望もない還暦なのかと思う。 しかし,毎日絶望のもとに生きているのかというとそうでもない。ネットの動画を楽しんだり,細々と合氣道の稽古も続けている。いわゆる小確幸はそこそこ生活の中にある。 私に足りないのは,長期的な視点に立った目標である。仕事,日常生活,体力,いずれも長期展望に欠けている。還暦を迎えたということはそろそろ自分の終わりを考える必要があるということだ。このブログでも何度もそのタイミングが来た,と書いている。しかし実際には目の前のことにあくせくして対応し,先のことから目をそらしている状態である。 ということで今年は,一日のうち,起きている時間の20%いや1時間でいいから自分のために使うことにしたい。加えてトレーニングも行いたい。これを第一の目標としよう。 <今年の目標> 一日のうち1時間を自分のために使う トレーニングを毎日行う そして昨年からの目標をここに引き継いで書く。先のない人生,目標を達成することの重要性とその難しさを実感する。 <心の目標> 慈眼温容  ←昨年末から眉間にシワを寄せないように気をつけている 沈思黙考 ( 明鏡止水 ) ←これができないと心が仕事から逃げてしまう。。。 稽古三昧  ←とにかくこれができたら幸せ 玉簾不断 (Mindfullness) ←年をとって集中が続かなくなってきた <目標> 「 叶えたい夢を見つける 」 ←いまだ見つからず 「 身体を鍛えて体重を5kg減らす 」 ←体重に変わりなし 「 合氣道の稽古量を増やす 」 ←全然増えていない。ひとり稽古を始めるか... 「 本を12冊読む 」 ←2025年は2冊しか読んでいないらしい...それもオカルトと武道。 「 映画を12本観る 」 ←2025年は15本観た。しかしどれも映画館ではなかった... 「 人生をもっと楽しむ 」 ← 昨年,生まれて初めて自分のために旅行をした 「 身体の姿勢に気をつける 」 ←背中の筋肉と骨格の使い方に気づきがあった 「 終活をはじめる 」← 全然進んでいない 「 誠実に機嫌よく生きる 」 ←がんばろう。。。