2012年4月3日火曜日

人を呪うということ

今日はすごい雨風だった.吹田の空も暗くなってきたと思ったら,ゴーッと滝のような,まるでガソリンスタンドの洗車機で洗われている車の中にいるような横殴りの雨がスタートの合図を待っていたかのように降り始めた.私の居る建物には鎧戸が廊下についているのだけれど,そこから雨がザーザーと降り込んできていて水たまりが当たり前のようにできていた.全く窓の役割を果たしていなかった.まるでだれかが呪詛をかけたような嵐だ,と思ったのだけれど,「呪詛をかける」ということの意味についてふと考えをめぐらせた.人に呪いの言葉をかけるということの意味を実はあまり知らない人がいるのではないかと思ったのである.

ときどき,他人にひどい言葉をかける人を見かける.感情的だから悪意をむき出しにした言葉が許される,ということは絶対に無い.そして,そうした呪いの言葉は,必ずなんらかの影響をもたらすのである.その言葉を発した人に必ず.

ある人に悪意をもった言葉を投げつけられたとする.しかし,あなたの価値がそれによってなんら変わることがないことを理解すれば,その言葉によってあなたが傷つくことはない.そのことをしっかり理解する必要がある.確かに信頼していたと思っていた人からそうした言葉を言われたら悲しいだろう.しかし,相手はそれこそ感情的だからそうした言葉が出たのかもしれないし(私個人は感情的であっても決してそれを許しはしないが),もともとそうした言葉をいうような人格の持ち主であなたにふさわしい人ではなかったのかもしれない.でもあなたの価値がそれによって減ずることがないことを理解すれば,むしろ相手を憐れむことができさえすれば,その言葉はあなたに影響を及ぼさなくなるだろう.そのことによって,相手の言葉による呪いは解けるはずである.

呪いを解くために相手を許すことができれば,最高だろうけれど,私はすべての人を許せとはとてもいえない.だが相手を逆に憎むことは最悪である.それこそ相手の呪いにかかってしまうことになるのである.

大丈夫.あなたが相手を憎み,呪わなくても,その言葉を発した人は,自分のその言葉で自分を呪っているのである.心は身体とひとつである.発した言葉は,古来言霊といわれるように,自分の心の中ではそれは本当のこととなる.心の中に憎しみが生まれれば,その人の身体には必ず影響が現われる.心身一如なのである.別に梅干しを思い出すと唾が出るという具体的な例をあげるまでもない.感情は脳に,神経に,内蔵に,そして筋肉に必ず影響を及ぼす.そんなことは武道の修行を長く行っていれば当たり前のことなのだけれど,それを知らずに悪意を人にむき出しにする人は結局自分を呪っているのである.自分で自分の心と身体を痛めつけているのである.そしてその悪意は壊れた動画再生機のように,その人の心の中で何度も何度もリピートされ,心と身体に毒素となって定着する.

だから,あなたは安心していればよい.むしろ相手を憐れめばよい.相手はちゃんと自滅するのである.「人を呪わば,穴二つ」ではなく,あなたが心を健全に保つことができれば,「人を呪わば,穴ひとつ」すなわち,相手が「墓穴を掘る」だけのことなのである.(一般の人が)呪いをかけるということは,結局そういうことなのである.悪意をむき出しにした人がちゃんとバカをみるようにできているのである.

では,私はどうか.私は人を呪わずにいられるのだろうか(「魔太郎がくる!」に私はひどくシンパシーを感じてしまうけれど(笑)).少なくとも私は感情的に悪意をむき出しにするようなことはしないように努力しているつもりである.しかし,ただ言えるのは,「呪い」というのは本来「言葉による呪い」だけではない,ちゃんとした「呪い」もあるということである.武術というのは,決して体育的なものだけではない.精神的な技術も多く存在する.少しばかり長く修行していると,そういうことだけはいえる.私に言えるのはそれだけである.

#こうした話は悪意をむき出しにした人を救うことになるので,別にしなくても良いのだけれど(そしてこれまではやんわり書いてきたのだけれど),今日の嵐を見て,少し気分を変えて書いてみました.

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