2010年10月18日月曜日

大乗

私はこれまでずいぶんと人に
ひどいことを言ってきたようだ.
それについては,申し訳ないと思う.

しかし,私は心にもないことを言うことが嫌いだし,
周りくどいことも大嫌いである.
だから会話でも,最初から結論を言う.
良いなら,良い.
ダメなら,ダメ.
直截的に言ってしまう.
そのほうが効率的だし,感情よりも事実が大切,
それで良いと思っていた.

しかし,先日も母にそのことをたしなめられた.
おまえはキチキチしすぎる.
確かに言うことは正しいかもしれないが,
それでは傷つく人がいるかもしれない,と.

私はこれまで,世界の事実は事実として受け止め,
逆にいうと,自分も含めて感情というものに
左右されない世界を求めていた.
良いも悪いも自分で決め,自分で責任をもつ世界.
それで良いと思っていた.

母に言われて,そればかりではない人もいることに
思いがようやくいたるようになった.
そうした人たちにとっては,世界の事実が
必ずしも重要なのではない.
それよりも感情が大切だと思うのだろう.
(そうとばかりが良いとは,私はまだまだ思っていないのだが)

仏教で言えば,今までの私は「小乗」であった.
自力本願がすべてである.
しかし,そうではなく,「大乗」であることも
重要なのかもしれない,とも思うようになってきた.

厳しい修行を誰もができるわけではない.
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで
救われるべき人たちもいるのだ.
そして,私もその中に入る時が来るのかもしれない.
他力本願でもいいではないかと,少し思い始めてきた.
そこには,そこでなにか別の心境があるような気がする.

ちょっと私も変わるのかな,と思う.
まぁ,今まで「自力本願」できたわけでもないのだが...

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