2011年9月19日月曜日

チャンドラーの小説がある世界:さよなら,愛しい人


聴き始めたら,聴くことを止めることができない
音楽がある,ということを記事に書いたけれど,
当然のように,読書にもそうした本がある.
そう,読むのを止めようにもやめられず,
ついつい次のページをめくってしまう,
そんな魅力的な本が.

最近もそうした本にめぐり合うことができた.

「さよなら,愛しい人」(R.チャンドラー,村上春樹訳)

原題は,"Farewell, My Lovely"であり,
長い間親しまれてきた清水俊二の旧訳では,
さらば愛しき女よ」というタイトルであった.
これは2009年の村上春樹の手による新訳である.

私は,確か清水訳をもうずいぶん昔,
大学時代に読んだはずなのだけれど,
もう詳細などすっかり覚えていない.

しかし,先行して出版された同じく村上春樹の手による
新訳「ロング・グッドバイ("The Long Goodbye")」が
あまりにも素晴らしいものだったから,
今回もかなり期待して(しかし文庫化を待って),
本を手にしたのである.
(「ロング・グッドバイ」については,
村上春樹がいうように,本当に夢のような作品で,
これについては,いつか記事を書きたいと思うのだけれど,
自分の思いのたけがありすぎて,なかなか筆が進まない)

村上春樹があとがきで述べているように,
この作品のフィリップ・マーロウは,
「ロング・グッドバイ」に描かれてる彼より,
明らかに若さを感じさせる.
本作は1940年に,「ロング・グッドバイ」は1954年に
書かれていて,その間の14年間の年月は,
やはりマーロウを熟成させているらしい.

とはいえ,若いから魅力がないというわけでもなく,
それはそれで無茶をやるマーロウは素敵だし,
(今回は,特にマーロウの冒険譚となっている),
チャンドラーの筆も冴え渡り,出てくる登場人物,
すべてに奥深さが与えられ(それが小さな虫であっても!),
その陰影がまた物語を魅力的にしている.
確かにチャンドラーの人物や風景の描写は,
ときに執拗なくらいなのだけれど,
村上春樹の文体とあいまって,全然くどく感じられない.
詳細がしっかり書きこまれていても,
そこに嫌味を感じられない,そうした文章が
チャンドラーの筆力によって成立している.
それがこの物語の最大の魅力なのではないかと思う.


個人的に思ったのは(感想などみな個人的なものだが),
本作のマーロウのセリフも皮肉だらけなのだけれど,
そしてそれは若さも手伝って
しばしば饒舌になっているのだけど,
それでもやはり洒脱な会話として成立している.

彼に憧れる私も皮肉屋であることは
変わりがないのだけれど,洒脱さに欠け,
嫌味だけが残ってしまうようだ.

この違いは,やはり男としての魅力の欠如が
原因となっているらしい.
マーロウ,やはり君は男なのだ...

それともう一つ,言わせていただくならば,
洒脱な会話として成り立つためには,
会話の相手も,皮肉を理解し,
当意即妙な受け答えをしてもらわなければならない.
しかし,そんな人,小説の中にしか
見当たらないのが,現実なのである.
マーロウが現代に生きていたとしても,
私の生活環境では,ずいぶんとやりにくいに違いない.
(そんな風に私は自分を弁護するのであるが)

文庫本のオビには,訳者あとがきから,
次の言葉が引かれている.

「チャンドラーの小説のある人生と,
チャンドラーの小説のない人生とでは,
確実にいろんなものごとが変わってくるはずだ.
そう思いませんか?」

さすが村上春樹.
私もまったくそう思う.
あなたがチャンドラーの小説に触れたら,
なにかが変わることは間違いないのである.
それは,チャンドラーの小説がある世界なのである.


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