2026年2月14日土曜日

「人間力」という言葉が嫌い

 私が嫌いな言葉に「人間力」がある。「人間力」とはなにか定義がはっきりしていないのに,あたかも人間としての魅力を測るような能力としてちやほやされている,偽善的な言葉にしか感じられないのである。

人を惹きつけるというのであれば,「人たらし」という言葉があるし,コミュニケーションが上手であるならば「社交的」という言葉がある。「人間力」などというあいまいな言葉を使うことによって,あたかも素晴らしい能力であるかのような印象を与えている。そうやって一種「煙に巻く」ための手段として使われている場面にあうと,「あー,また騙している」と思ってしまうのである。

こうした「いかにも」といった話は,ビジネスのスキルアップのような話の中ではよく出てくる。私はそういった人生訓のような話を聞くと,「フン」と鼻で笑ってしまう人間なのだけれど,実はそうした話を聞くのは好きだったりする。なぜならば,どんな教訓が人間に響くのかと考えられてその「うまい」話が作られているのか,なかなか興味深いからである。

たとえば,壺と大きな石,小さな石の話。壺の中に石を順番に入れていく際に,小さな石から入れていくと,大きな石が入らなくなってしまうという話。この石は目標,願望であり,目の前の小さな目標に心を捉われてばかりいると,人生にとってもっと重要な大きな目標がたっせできなくなってしまう,という教訓の例え話になっている。

もちろん素晴らしい話なのは認めるのだけれど,私はやっぱり鼻で「フン」と笑ってしまうのである。そんな単純な話ではないのに,身近な例が人生の深淵につながっていると思わせる手法である(実際は日常の些細なことが重要なことにつながっているのは真理だとは思うけれど)。いかにも啓発セミナーにありがちな話なのである。

人生の経験を積めば,現実がそんなに単純でないことは身に染みてわかっている。だけれども人間は話を単純化し,そこに教訓を求めようとする。人間は,単純化されたものを好むから仕方がないのだろう。現実は複雑で,複雑なことをありのまま複雑に受け止めればよいのに。。。

単純化された教えは,単純であるがゆえに強いものになって,自分を縛るだけでなく,周りの人にも強制し始めることもしばしばである。どこかの宗教の教義のように。

私たちは,複雑なことを複雑なまま受け止める訓練をしなければならないのだと思う。AIが発達したとしても,矛盾をそのまま受け止めるような,清濁併せ呑むような,そんな実世界との向かい合い方が必要なのだろうと思っている。その間口の広さ,奥行きの深さこそが人の深みであり,「人間力」なのだろう。















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