2010年1月14日木曜日

現代に弓道の名人はいるのだろうか

先日,弓道をやっている学生と話していて
驚いたのだけれど,彼も「日本の弓術」という
岩波文庫を知らなかった.
(以前も弓道修行者に尋ねたら,
知らないと言われた...)

「日本の弓術」といえば,日本武道の奥深さを
西洋に紹介した名著なのだと思っていたのだけれど...

著者はドイツ人,オイゲン・ヘリゲル.
東北大学の哲学の講師であった彼は,
1920年代に来日し,日本文化を学ぶため,
弓道を始める.
弓聖とよばれた阿波研造師範に師事.
以降,6年間の稽古を経て5段を認可されて帰国.
この際の経験をもとに,ドイツで講演を行い,
その後,「日本の弓術」としてまとめて出版されるにいたる.
その和訳が岩波文庫となって入手可能となっているのである.

今回の学生との会話を機会にもう一度読み返してみた.
ガチガチの合理主義者(ドイツ人らしいのかな)である筆者が,
阿波師範の諭す教えにずいぶんと戸惑い,悩み,
しかしそれでも惑いを乗り越えて精進を重ねるという話.
内容については,ずいぶん脚色が入っていると
いわれているけれど,阿波研造師範の了解も得たという
内容なのだから,ある程度の真実が書かれているのだと思う.

先生が,「矢を離そうと思って離してはいけない」とか,
「離れるときは自然にわかる」などと教えると,
「離そうとしないのに,どうやって離すことが出来るのか,
そのときがいつだとわかるのか」などと悩んだ経験が
書かれている.
そしてついには,先生が神業的な腕前を見せることによって,
その形而上学的な教えを身を持って教えるのだけれど,
これについては以前にも書いたので,今回は書かない.

しかし,読んでみて思ったのは,阿波研造師範の
心の広さである.
現代でも,上記のような質問を先生にしたら,
あっという間に破門になりかねない.
それをあの封建的な時代に,
じっと耐えて優しく諭している.
素晴らしい先生だったのだと想像する.

阿波研造師範も若い頃は強い弓を引いて,
技術の向上に邁進したそうである。
それが,このヘリゲル氏に教える頃には,
技術に走る弓を全く捨て,精神的な教えに
全面的に変更していたらしい.
弓をもって聖人にいたる道を弓道とし,
その境地を「一射絶命」などと呼んだ.

私は学生時代この本を読んで,
武道というものにたいそう憧れることになった.
そうなのだ.
弓道こそ数ある日本武道の中でも最も崇高なもので
あるにちがいないのだ.

なぜならば,和弓など現代には全く無用の長物である.
柔道,空手道,合氣道などはまだ学んだ技術の
使い道があるかもしれないが,弓道にいたっては
呼吸法などはまだしも,その弓を引く技術など
使い道がないのである.

なのに,なぜこれほどまでに人を惹きつけるのか.
それは阿波研造師範も示したその精神性にあることは
間違いない.
(いや,昔は「アイコ16歳」や「時をかける少女」を観て
憧れたという人もいたかもしれないが)

弓道には敵がない.
単に的を向かうだけのものである.
もちろんそれは自分に相対するものなのだけれど,
相手がいないということは,完全に自分のペースで
物事を進めることができるのである.
そんな武道,なかなか無い.

なのに,なのにである.
現在の弓道は(特に学生弓道は),聞くところによれば,
的に当てる,当てないの技術の向上に終始していることが
多いのだという.
そうであったら,本当に悲しい.
しかし確かに,学生弓道の「矢声」などを聞くと,そんな気がする.
私はあの声が大嫌いで,あれを聞く度に弓道に失望している.
弓道こそ神具であり(魔除けに鳴絃などする),
最も形而上学的な武道なのではないか.
その本義を忘れてはいないのだろうか.

単に技術の向上だけというのであれば,
役にもたたぬ技術を磨いてなんの意味があるのだろう.
やはりそこには精神性がなければならぬ.

ヘリゲル氏は的に対して矢を放つ稽古をするまでに
数年の月日を要したという.
(それまではただ弓を引いて離すだけ)
あくまでも精神だけが目的なのだ.
(そんな稽古をしたら,弓道修行者はぐっと減るのだろうけれど...)

武術は使えなければ無意味.という意見もよく分かる.
私もそう思う.
しかし,弓道においてはその技術そのものが
現代においては意味がないのではないだろうか.
単に人を射るだけであれば,ライフルさえあればいい.
またアーチェリーの方が容易に命中度をあげることができるだろう.

坂本龍馬の伝説にこういったものがある.
はじめ,龍馬にあったときには,
長い刀は実戦では使いにくいといって
龍馬は短い刀を見せびらかし,
次にあったときには,
これからはこれぜよ,といって
拳銃を見せびらかし,
そして最後にあったときは,
この前にはどうにもならんぜよ,といって
法科書を見せたという.
つまりは,目的が人を制圧するだけであれば,
龍馬のように自由に振舞えば良いのである.
命中率を上げるのが最終目標ならば,
どんなことをしてもよいのではないだろうか.

もちろん弓道はそんなことが目的ではない,と
多くの人が言うだろう.
しかし,では誰が現代にその形而上学的な
弓を引いているのだろうか?
誰が弓道の最終目的を体現出来ているのだろうか.
「その結果として」百発百中,矢が外れることが
無い境地の人がいるならばいい.
もしかして,そうした人が現在弓道界に
いないのではないだろうか.
(別に人格者である必要はないのだ.
人格者であるから名人というわけではない)

精神性こそがその武道の目的であるならば,
それを体現する名人の不在はまさに悲劇である.
(他の武術はまだ戦うという術の向上によって,
その存在意義があるだろうが)
私の憧れの武道である弓道がそうでないことを
祈るばかりである.

(弓道関係者で気分を害される方がいらっしゃったら
申し訳ございません.あくまでも「日本の弓術」に
憧れている一素人の考えです)

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