流れていて,すぅっと肩の力が抜け,
救われた気持ちになった.
静寂に収束していくような,そんな浄化作用を感じる.
私はキリスト者ではないけれど,
人が神様に祈る気持ちは好きである.
神様はいるのかどうかはわからないけれど,
大いなるものに祈るしかない,という気持ちは
よくわかるような気がする.
キリスト教というのは,布教していく際に,
あの大きな伽藍をもつ教会と,
こうした美しい楽曲が持つ人々に
畏れと癒しを与える効果をうまく利用してきたと思う.
一種の文化的な侵略なのかもしれないけれど.
ただ作曲者たちは,本当に神様を信じていたのではないかと思う.
その良心こそが,私も信頼できるものであり,
それだからこそ,人々は美しさを感じ,感動するのだろう.
(少し脱線するけれど,なぜ人は目に見えない楽曲を
「美しい」と感じるのかも大変興味深い話題ではある)
ずいぶん前のことだけれど,日曜日のニューヨークを
訪れていて,街の大きな教会を見学したことがある.
教会の中ではミサが開かれていたけれど,
外部からの参加も自由と入り口に書かれていた.
ホールの中に入っていくと,
それはたいへん大きな教会で,多くの人が,
椅子に並んでじっと祈りを捧げていた.
私もいくぶん敬虔な気持ちになり,片隅の椅子に
腰をかけてしばらく静かにしていた.
教会の中には実に美しい音楽が流れていたのだけれど,
それがバーンスタインのチチェスター詩編の中の
一曲だとは知らなかった.
一緒にいた方が教えてくださった.
私は,その美しさに言葉もなく
ただ聴き入るのとともに,
バーンスタインという現代作曲家の音楽が
すでにこうして教会という保守的な世界で
取り入れられていることに驚いていた.
欧米での宗教という文化の背景は根深い.
しかし,キリスト教に限らない.
どこの国の宗教であっても,
神に捧げられる音楽は美しい(静寂とは限らないけれど).
その根底には,人が祈るという行為の中の良心が
あるからだと思う.
私たちはその音楽を聴くことによって,
それに触れることができ,救われるのだ.
昨日の朝は,出勤途中,FMのラジオから流れる
シューベルトの交響曲「グレイト」を聴いて救われた.
いつのときでも,私は音楽に救われている.
音楽の神様は誰にでも微笑みかけてくれている.
震災に遭われた方々にも,
この音楽を届けることができたら,と思う.
#N響アワーでメータ&N響のチャリティコンサートを
放映していたので見ていた.
ベートーベンの第九交響曲の第一楽章が終わり,
一息ついたところで,第四楽章が始まった.
私は怒りで言葉が出てこなかった.
第二,第三楽章を飛ばして放送するなんて.
もう,あまりのショックにテレビを消した.
第二,第三楽章の無い第九がこんなに
つらいものだとは思わなかった.
(Twitterで,BSプレミアムでの放映があることを
教えてもらいました)
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