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6月, 2026の投稿を表示しています

ダビンチ休刊に思う

 本の雑誌「ダビンチ」が今秋に休刊するそうである。私も薄々予感していたから,とうとうそのときが来たか,と思っている。 なぜ休刊を予感していたかというと,やはり読書人口の減少である。まず私自身が本を読まなくなってしまった。最後に小説を読んだのがいつのことなのか,全然思い出せない。村上春樹の短編小説も長編小説も部屋の片隅に積読状態である。 まして新しい作家の作品に触れてみようなんていう気持ちにはなかなかなれない。結局は時間不足なのだ。 以前は,「次に読む本」を探すことはひとつの冒険だった。新しい作家に出会うことにワクワクしていた。そして,その冒険の羅針盤のひとつが「ダビンチ」だった。ネットで本を購入することに比べ,リアルな書店で本を探すことの良さは,「本との思いがけない出会いがあることだ」,とよく言われるけれど,そのときの判断基準はだいたい「書店のポップ」や「本の装丁」,もっというと「背表紙のタイトル」くらいのものである。それらだとちょっと頼りない(書店のポップは意外にあてになるけれど)。それを補うものが新聞の書評欄であり,本を紹介してくれる「ダビンチ」であった。 ダビンチは,毎号あるテーマにしたがっていろいろな本を紹介してくれていて,新聞の書評欄とは違う親しみやすさがあった。文芸書であっても高尚なものとはせず,エンターテインメントとして扱ってくれた。そのカジュアルさが好きだった。 しかし,最近は書店で棚に並んでいるのを見ると,「誰が買うのだろう?」と正直思っていた。私は時々購入していたけれど,内容を見ても現代の若者(特に私の周りの大学生など)が買いたいと思うものではないように感じていた。 現代の若者はとにかく時間が足りないのだ。小説を読む時間があったら,ネットで動画を見る,あるいはゲームをする。小説を読むための環境,すなわち,「時間」「静かな環境」「集中力」などの条件が若者には不足しているのだ。 小説がふたたび力を取り戻すためには、やはり小中学校の頃から「腰を据えて活字を読む」という環境に触れ、小説を読むことの豊かさを体感する訓練が必要なのだろう。それがどれだけ難しいか,理解しているけれど。 小林秀雄が言っていた(うろ覚えだけど)。「難しい言葉でしか伝えられない難しいことがある」と。小説や随筆などを読むことは,人生で大切なことを理解するための大事な訓練なのだ。...

最近気になる女性の化粧法

若い人の感覚がわからないというのは、単なる私の時代遅れなつぶやきかもしれないけれど、今回は,最近どうしても気になってしまう女性の「化粧」について、少し書いてみる。 まず,目尻のアイライン。目尻で黒い線を跳ね上げるように描いている人を良く見かける。それも結構な長さで。古代エジプトの時代からアイラインは重要視されているから,万古不変の化粧法なのだろうけど,目尻で跳ね上がったアイラインは何を狙ったものなのだろう?目が大きく見えるからなのだろうけど,あまりにもくっきり長く描いてあると歌舞伎の化粧を思い出してしまう。 次に,涙袋の下側の線に沿ってわざわざ影を強調してラインを引く化粧法について。涙袋が「かわいい」の一要素になったのはいつのころからなのだろう?そのために,涙袋を強調するような化粧法が発展するのも理解できる。しかし,あまりに強調しようとしすぎて,わざわざ影のような線を描いてまで強調するのはやりすぎなのではないか,と思っているのである。やりすぎだと小顔効果も薄れる。確かに漫画に出てきそうな顔にはなるのだけれど。 最後に,鼻筋のハイライトが強すぎる人が多いこと。テレビを見ていても強調され過ぎているタレントさんも多い。私には「キツネの嫁入り」の祭りなどで子供たちがキツネのメイクをしていることを連想させる。もしかして,目尻のアイラインで吊り目を強調して,全体として「キツネ顔」を演出するのが最近の化粧法のひとつのトレンドなのかもしれない(実際,私はキツネ顔の人は素敵だと思うけれど)。 バブルの頃に比べて,現在の化粧はたいへんナチュラルに感じられるけれど,ナチュラルだからこそ,いくつかのやりすぎた化粧法は不自然に感じられるのだろう。今,バブル時代の太眉と青いシャドウのメークを見たら、やっぱりおかしく感じられるだろうな。。。

30年前、メールも今のチャット同様に「カジュアル」だった

 若い人と話していて,最近特に思うのが,若者はメールよりもチャットを好むということ。なにか情報の共有やレポートの提出をお願いしても,「チャットでいいですか?」と訊かれる。うーん,私としては情報を一括管理したいのでメールの方がうれしいのだけれど。 なぜメールよりもチャットの方を好むのか,理由を尋ねてみた。すると,チャットの方が心理的なハードルがメールよりも低いからとのことである。メールの作法については,本学でも少し時間をとって指導があったりする。そうなると,メールにはどこかフォーマルな雰囲気が漂う。確かに,ビジネスにおいてもメールで重要な情報のやり取りをすることは多いけれど,チャットは仲間内,という雰囲気がする。 もちろん,職場のグループチャットで仕事情報を共有することも多いから,チャットの良さもそれはそれで理解はできるのだけれど,私にとっては心理的なハードルはそれほど違いがない。 いまから30年近く前のこと,メールがビジネスでも用いられるようになった頃は,メールというのはずいぶんとカジュアルな雰囲気がしたものである。だから,大事な用件はメールで送ってそのあとに電話をかけて確認するのが普通だった。「(ある電機メーカー)の役職者は,一日一回はメールソフトを開かないと注意されるらしいよ」なんて話に驚いていたりもした。この数十年でメールでの情報伝達が普通になり,今後はチャットによる情報共有が普通になっていくのだろう(いや,もはやなっている?)。 メールとチャットのニュアンスの違いの感じ方がデジタルジェネレーションギャップなのだろう。正直,この年齢になると若者の感覚に追いついていこうとは思わないけれど,彼らの考えは理解してあげたいと思う。 #文章の最後の句点「。」の有無の違いの感覚もずいぶんと若い人と違う。。。

手の甲をみて老いを感じる

 私の手は指が短く,長らくぷよぷよしていてまるで子供のようで,それが私のお気に入りだった。だから手の甲もぼっちゃりしていて,すじばったところはほとんどなかった。子供のような手だとは他の人からもよくからかわれていたものである。私はそのたびに,「いいとこの生まれで,銀の箸より重たいものを持ったことがないんです」と答えていた。 しかし,60歳が近づいてきた今,とうとう手の甲に血管とスジが浮き出るようになってきた。気づいたのはこの数年。たぶん手の甲の脂肪分が落ちてしまってきたのだろう。つまりは老化の兆候である。 男性でも女性でも,老いが隠せない身体の部分というものがある。私はそれが「手の甲」と「首筋」だと思っている。女性がどんなに化粧をして着飾っていても,デコルテの首から鎖骨へのスジは隠せない。やはり脂肪分が落ちてくるのだろう。 手の甲もそうだ。私のようにどんなに力仕事をしなくとも,手の甲もやがて骨と血管が目立つようになり,「おじいさんの手」になっていく。私の手もとうとうその段階を迎えつつある。 もうため息しか出ない。身体のどの部分をみても「おじいさんの身体」に近づいている。人類が太古より「不老の薬」を追い求めるのもよくわかる。 「わがみよにふるながめせしまに」

開錠するとき鍵をどちらに回すか

 「鍵」というのは昔から何かを暗示することが多いモノである。「鍵をかける」は,もちろん実際の施錠を意味することもあるけれど,誰の目にも触れることができない「秘密にする」という意味もある。「鍵をあける」は,開錠のほかに人の心の扉を開くという意味もあったりする(矢野顕子の「ひとつだけ」の歌詞とか)。さらに,「鍵(キー)」自身にも物事を解決するヒントという意味がある。映画「マトリックス リローデッド」においてもいくつもの世界へのドアのカギを開けることができるキーメーカーという人物が登場するのはわかりやすい例だ。こんな風に「鍵」というものは,私たちの生活に暗示的な意味を持って役立っている。 今回はそんな哲学的な話ではなくて,鍵を回す方向の話。私が関西に住んでいたころ,鍵を開ける場合は左回し(反時計回り)に鍵を回し,施錠するときは右回しに回していた。水道の蛇口やバルブを開くときには左回しにするので,鍵を開けるときも当然その方向だと思っていた。 しかし,長岡市に住んでから,私の住宅のドアも大学の居室のドアも施錠のときに左回しする鍵になった。最初,ひどく驚いたし,長岡に住んで6年になるけれどいまだに慣れていない。こんな左右が逆な世界なんてある?と思ったものである。 鍵を回す方向が逆だなんて驚いたのは長岡に来てからである。それまで住んでいた新潟市,東京,茨城,大阪,兵庫では不自然に感じたことは一度もなかったから,鍵は左回しで開錠していたのだろう。長岡だけが左右逆な世界なのだろうか,と疑問に思っていた。 そしてネットで調べてみた。結局のところ,どうも鍵を回す方向は統一されていないらしい。ただ調べてみた感覚だと,私が昔から慣れ親しんでいる開錠時に左回し(反時計回り)の方が多いような気がする。ネット上でもその方向に統一してほしいとの声があちらこちらに見られた。 そういえば,私の実家の洗面台も現在のものになる前は,蛇口レバーを回す向きが逆だったことを思い出した。蛇口やバルブは統一されているのに,なぜこうした不統一があるのだろうかと不思議に思う。またメーカとしてもなぜ両方作り続けているのか不思議に思う。 ただこの鍵の話であらためて思ったのは,常識だと思うことが異なっている世界もあるということ。頭はいつも柔らかくしなければ。

おみくじで「凶」をひいたこと

 5月に入ってすぐに,ある神社でおみくじをひいた。私はあちらこちらでおみくじを引くことが好きなのだけれど,新潟市のそのある神社ではたいへん久しぶりに「凶」を引いた。ここしばらく「凶」の文字を見ることがなかったので,少し驚いた。おみくじに書かれていたことは,要は「やることなすことうまくいかないので,心正しく暮らせ」ということで,私はそれを機にしばらく静かに暮らそうと思ったのである。 おみくじを引いてしばらくして,私はお気に入りのキーホルダーを落としたことに気づいた。いつのまにかキーリングについているキャラクター,タンタンの部分がなくなっていたのである。 タンタンは。。。と書き始めると長くなるので,その話はまた別の機会に譲ることにして,とにかく長年使っているお気に入りのキーホルダーだったのでかなり凹んだ。やはり「凶」なのだ,と思った。 それからしばらく,運が悪いことばかりが続いた。食事に行ったお店が営業時間内のはずだったのにすでに終了していたり,仕事も思いがけないことがあったり,そしてトドメは 食中毒 である。どうしてこんなに運が悪いのだろうと思わず愚痴を言いたくなるほどである。 やはり「凶」のおみくじは,ここ最近の運勢を示したものだったのだろう。。。と思いたいのだけれど,私はやっぱり理工系なので,次のように考える。 「吉」「凶」の出来事は,おみくじを引いても引かなくても,以前と変わらず同じ確率で起こっている。しかし「凶」のおみくじを引いたことによって私の心理的なバイアスが働いて,凶事が起こるとそれを「凶」のおみくじと関連付けて,印象強く思ってしまっているのではないか。 こうして考えると,おみくじを引く意味がないではないか,と思う人もいるかもしれないけれど,おみくじは結局自分の生活態度を省みるためのきっかけとして私は重要だと思っている(以前から同様のことを,おみくじや占いを行う意味として 繰り返し書いている けれど)。 とはいえ,最近はやっぱり運が悪いことが多く起こっている。こうしたときの対策は結局自分の行動を改めて,自己肯定感を高めるしかない。ということで私が好きな言葉を最後に挙げておく。 天薄我以福、吾厚吾徳以迓之。 天労我以形、吾逸吾心以補之。 天阨我以遇、吾亨吾道以通之。 天且奈我何哉。(菜根譚より)  天が私に福を薄くするならば私は徳を厚くし...

食中毒になる(2)

  というわけで,数日間ほとんど食べられず食中毒で倒れていた のだけれど,お腹の調子は回復しても,その後ずっと,めまい,ふらつきに悩まされている。下を見るとふらつく。しばらくは真っ直ぐ歩くのも難しかった。自分の中の鉛直線が横からの加速度を感じて傾くような感じ。身体自体が斜めになるような感じが続いていたのである。 大学の保険医に相談して,近くの脳神経クリニックを受診することになった。MRI検査の結果,幸い脳には異常はなく,三半規管も検査で見る限りは問題ないとのことだった。ホッとする。 しかし,大学の保険医も脳神経医も同じ診断だった。「過労」であると。結局,ただでさえ忙しいところに,食中毒で栄養が取れなくなって身体のダメージが大きくなったということらしい。 週末から国際会議に参加すると医者に相談すると,「命」と「仕事」,どちらが大切ですか?と双方から言われた。。。私は心の中で,「国際会議に出席したほうが,仕事が楽になるんです」と思っていたけれど。 実際のところ,めまいとふらつきはかなりつらくて,今も完全に回復したわけではない。ときどきフラフラッとしながら,毎日を暮らしている。睡眠時間が最近かなり短くなっているのも原因と思われるとのことだったので,今はいかに夜に睡眠をしっかりととるかということに苦心している。夜にスマホで動画をみるのを少し控えないとダメかな。。。

食中毒になる(1)

 5月31日から6月4日まで,長崎で開催されたパワーエレクトロニクスに関わる国際会議IPEC2026はたいへん盛況のうちに終わったけれど,私にとってはかなりつらい会議だった。 内容云々の話ではなくて,自分の体調がひどかった。少し疲れると,めまい,ふらつきでクラクラする。歩いていても平衡感覚がおかしくなる。そんな感じで会議はときどきホテルに帰って休んでいた。 原因は,食中毒にあると思っている。5月14日木曜日の昼,私はある料理店に行ってランチを食べた。地元では有名なお店なのだけれど私はこれまでに訪ねる機会がなく,たまたま近くで仕事があったため初めてその店を訪れたのである。 ランチを美味しくいただいたのだけれど,翌日金曜の夜から強烈にお腹が痛くなった。下痢というよりは物理的に胃腸が痛かった。布団の上で七転八倒して夜を過ごし,翌日に病院に行った。CTも撮ったけれど,結局下された診断は感染症の胃腸炎とのことだった。 土日はほとんど栄養ゼリーと飲むカロリーメイト,水分だけを補給して生きていた。身体が食べるものを欲しないのだから,空腹でつらいということはなく,ときどき体重計に乗ってはどんどんと減っていく体重に喜んでいたくらいだった。 そして月曜日。なんとか出勤。研究室で飲み会があったのだけれど,残念ながら(当然だけれど)欠席。その日の夜にネットを見ると,私が訪れた料理店がノロウィルスによる食中毒のため営業停止となったニュースが流れていた。5月11日と13日に提供された料理が原因で50名以上の人が被害にあったとのことである(12日は定休日)。あまりの運の悪さに思わず,笑ってしまった。私は14日に訪れたのだけれど,その店が営業停止となったのは15日から。土曜日にかかった病院に行ってこの話をすると医者は「お気の毒に」という気持ちがわかるかすかな笑いで応えてくれた。 お腹については,水曜日にはずいぶん回復していて,昼にモスバーガーのホットドッグとフライドポテト,夜には味噌ラーメンを食べるほどであった。火曜日くらいまでまともなものを食べていなかったためか,これらの食事がたまらなく美味しく感じられた。モスのポテトがこんなに美味しく感じられるとは!! ときどきプチ断食をしてもよいかも,と思っている。 #余談だけれど,CTを撮った際に,お腹のあちらこちらに胃のレントゲン写真を撮ったとき...