2017年3月24日金曜日

大学の講義 今昔

大学の講義もずいぶんと変わった.
私が学生の頃は,ノートパソコンなんてなかったから(パソコンは8インチディスクから5インチディスクに移行する頃だ),パワーポイントで講義資料を作成するなんてありえない時代だった.気の利いた先生はOHP(Over Head Projector, 今は知らない人が多いと思うけど)を使っていたけれど,ごくごく少数派で,ほとんどの先生は自分のノートを持ってきて,教科書を片手に黒板に板書しながら講義する,というスタイルだった.その他は配布資料が補助資料として少しあったくらいだった(さすがにコピーは青ヤキの時代ではなかったけれど).

中には,講義が始まるとやってきて,挨拶をしたらすぐに黒板に向かってコツコツと書き始め,そのまま終わりまで一度も生徒の方を向かずに講義して,それで帰っていく先生なんかもいた.あるいは,途中でタバコ休憩をとる先生もいた.そうした講義でも何かを吸収しようとする学生がいて,一所懸命ノートをとっていた(そしてそのノートは試験対策期に高価な値段でコピーが売れることになるのだが).そもそも先生の海外出張が多くて,講義が学期中に半分くらいしか行われないものもあった.でもそれでも許されていた.おおらかな時代だったのだ.

学生たちにとっても,不便であったがために講義中に行わなければならない努力が多く,それが勉強に役立っていたのかもしれないと今となっては思う.現在の講義は,パワーポイントのスライドをプロジェクタでスクリーンに映し,カラフルで,ときにはアニメーションも使ってわかりやすく解説する.補助資料も多く準備され,講義手法についても学生からのアンケート結果も教員にフィードバックされる(声が小さいとか,板書の文字が汚いとか,いろいろな意見がくる.また大事なところは大事だと言ってくれ,などという意見もある).講義はあらかじめ予定された回数で行われるし,煙草休憩なんてもちろん無い.まるで塾のような講義状況なのである.

学生たちは,現在まさにマクドナルド状態.店員ならぬ教員から「~はどうですか?」,「~もあります」などとサービスをされ,それを受け入れるだけで済むという便利な時代なのだ.私はそれが悪いとは思わない.それで学生の理解が進むならば,それは結構なことだと思う.ただ,講義で得られた知識のありがたさだけは昔の方が大きかったように思う.人は苦労をして手に入れたものをありがたく感じ,長く身につけることができるからである.

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