「飯沼一家に謝罪します」の記事においても書いたけれど,人間にとって宗教的儀式は確かに効果があると思っている。
人類において「神が先か,儀式が先か」という議論があるけれど,やはり「儀式が先」の説が有力らしい。それほど人間にとって,儀式は重要な意味を持っているのだ。
儀式は簡単に言えば,人をトランスに入れて,そのうえで深層心理を操作するものであると考えている。日頃から人々に教義を植え付けておき,十分な信心があるうえでトランスに入れるのだから,トランスにも入れやすいだろうし,その深さも深いものになるだろう。
宗教的儀式が行われる環境もトランスに人を入れやすいものになっている。例えばキリスト教。見上げるような荘厳なゴシック建築の教会。その中は薄暗く,ステンドグラスからの光を見上げるように作られている。目の前には由緒あるキリストの像がゆらめくろうそくの炎の向こうに見える。そしてまるで天から降り注ぐようなパイプオルガンの低音を響かせた和音が鳴り響き,合唱ののちに神父をはじめとする朗々とした朗読が始まって集団で祈りを捧げる。集団トランスに入る準備は万全である。
宗教でこうした儀式によるトランスを重視するのは,それによって人々が「救われた」と思うからではないだろうか。日常生活の中で単に神父から説教を受けるよりも,教会の儀式の中でトランスに入り,潜在意識にはたらきかけるように「物語」として暗示がなされる。そして「困難の中にあってもそれは神が与えたものだ」,「正しいことをしているので不安に思うことはない」,「将来救済される」などの考えの種が潜在意識の中に植え付けられていくことによって,人々の心は軽くなり「救われた」という感覚を得ているのではないだろうか。
神様の非合理的な話は,トランス状態だからこそ論理的な判断を行う顕在意識の殻をスルーして,直接潜在意識の奥深く,自分では認識できない深層心理に届きやすいのではないかと思う。トランスに入った人が認識できないうちに深層心理が操作される可能性があるのである。
人々をまとめていくには,政治学よりも宗教の方がより効率的であり強固な団体を作りやすいことは明らかである(皆が宗教を信じればの話だけれど)。古来,集団生活が必要だった人類は,だからこそ神がいなくとも儀式が必要であったのではないかと思うのである。
トランス状態にして深層心理を操作する。そこに宗教的儀式の意味があると思うのである。
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