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うちの弁護士は手がかかる,は良質のコメディ・ドラマだった

 今期ですべての回を観たドラマのひとつが,「うちの弁護士は手がかかる」である。主演は,ムロツヨシ。相手役は平手友梨奈。その他,芸達者な俳優のみなさんが脇を固めている。内容もそれほど重くなく,それでいて少し考えさせるような,家族のみんなで見ることができる内容だった。 まずムロツヨシがいい。もちろんこの人の演技力というのは,真面目からボケまでそれは間違いないし,「どうする家康」では,狂気に満ちた新しい豊臣秀吉役を見せてくれた。本作では途中病気で短期間離脱したこともあったようだけれど,心優しい気配りの人を演じている。これが身近に感じられて,ドラマの魅力の中心になっていた。 平手友梨奈は私が好きな俳優 ・歌手で,自分の世界観をもっている(彼女が出てくるだけで平手友梨奈ワールドが広がる)希少なタレントであると思っている(その他では,木村拓哉とか)。今回はちょっとデジャブ感をもつ「かわった」弁護士で,頭はかたいけれど,心優しい変人という役どころ。やはり彼女しか出せない雰囲気が良かった。 村川絵梨,酒向芳,戸田恵子,松尾諭という事務所の仲間のボケぶりも良くて,気楽に楽しむことができるドラマだった(江口のりこも変に善人にならなくてよかったし)。こうしたコメディはテレビドラマがどんどんやるべき分野だと思っていて,今回はその手本のようなドラマだった。ムロツヨシも大河ドラマの秀吉は怖すぎたので,今回くらいの役がいいなぁ,と思った。 ただ,あちらこちらに80年代~90年代のドラマのネタが散りばめられていたのだけれど,相当ドラマを見ていないと理解できないものばかりで,大丈夫?と思って見ていた。まぁ,私はだいぶわかった方だと思うけれど。

鬼束ちひろ「流星群」

 研究室の学生と話していて,彼が以前放映されていたTVドラマ「TRICK」をネットで見たという話を聞いて,私も最近,鬼束ちひろの曲を聴いていたので,おっと少し思った。 私もなぜかこの一週間くらい鬼束ちひろの曲を聴いていた。といってもメジャーな曲ばかりなのだけれど,それらでも最近の若い人たちは知らないのだろうと思う。ただ相変わらず「TRICK」シリーズの番組と映画の人気は高いので,それらを見た人たちは番組の最後に流れる彼女の曲が心に残っているのではないだろうか。 私が大好きな彼女の曲は「流星群」という曲で,「TRICK2」の主題歌になっている。第1シリーズの主題歌の「月光」も良い曲でもちろん好きなのだけれど,ちょっと内容が重い。というか,神や罪を思わせる歌詞も出てきてテーマが広すぎる(ドラマの最終回のエンディングで出演して歌っていたのには驚いたけれど)。一方,「流星群」の世界はせつない恋愛の話のように思えて,身近なテーマに感じられ少しだけ気楽に聴ける。ただ相変わらず,心が少し痛む内容で,つらい。でもそこがよい。 鬼束ちひろは,もちろん本作を作詞作曲しているのだからソングライティングの才能も豊かであることは間違いないけれど,彼女の歌唱力がなければ本作も不朽の名作にはならなかったと思う。他に誰がこの曲をあんなふうに歌えるのだろう。 彼女の歌い方も独特だけれど,なんといっても声質が素晴らしい。私は歌手の才能というのは,半分以上はその人の声質で決まるものだと思っている。どんなに一生懸命練習して歌唱のテクニックを磨いても,その人が生来持っている声に魅力がなければ,名歌手にはならないし,作品も名作にはならないと思う。鬼束ちひろの声と歌い方はそれだけで歌の世界に引き込まれる魅力にあふれている。「流星群」はその才能を十二分に発揮している作品である。 彼女はいろいろトラブルに見舞われて,その後あまりヒット作を出していないようだけれど,「月光」,「流星群」の他にも,「眩暈」や「私とワルツを」などの曲も大好きである。また彼女にライトが当たって,活動がみんなに知られるようになるといいなと思う。

すべて忘れてしまうから,「そこそこ」の幸せ

 TVドラマ「すべて忘れてしまうから」(テレビ東京)が終了した。私としては 原作を含め ,とても好きな作品だった。 主人公は,TVの美術下請け会社に勤めながら小説を書いているちょっと情けない男で演じるのは阿部寛。彼は「下町ロケット」の主人公のような熱血漢を演じても素晴らしいが,こうした情けない男を演じてもピカイチである。今回も煮えきらない微妙な小説家を絶妙に演じている。私はこちら側の阿部寛も大好きである。そして彼の彼女がある日突然いなくなる。そんな彼の周りで起きる切ないエピソードが散りばめられているドラマである。 数々のエピソードは,「燃え殻」という著者が書いた「すべて忘れてしまうから」というエッセー集に収められているものから選ばれていて,ドラマの中にうまく溶け込まされている。その一方で彼女が理由も分からず失踪するという作品を貫く経糸のストーリーは番組オリジナルである。彼女が失踪することによって,主人公は少しずつ変わっていくのだけれど,その彼女を演じたのが尾野真千子。彼女も素晴らしい。失踪した彼女は半年後に戻ってくるのだけれど,彼女も種々な経験から以前とは少し変わってしまっていて,結局二人は別れてしまう。そこが大人苦い。 その二人が別れるエピソードは最終回の一つ前の回で描かれる。ある日(半年後?)ひょっこり戻ってきた彼女を主人公は何も聞かずそのまま受け入れ,また一緒に住み始める。そして二人で海に旅行に出かける話が描かれる。その話が本当に切ない。その旅行では(うろ覚えだけど)「そこそこ」美味しいものを食べて,「そこそこ」楽しい経験をする。この「そこそこ」というのが素晴らしい。それぞれの感動が「そこそこ」だからこそ,最大の記憶はなにげなく二人で過ごした時間になる。しかし,そんな観光や食事が目的ではない「二人で過ごす時間」が最高の思い出になった大人の旅行が,彼女の決別の決意のきっかけになっていて,見ていて胸が締め付けられる話だった。 大人ってそうだよな,と思う。若い頃は観光や食事がメインの楽しみになって当然なのだけれど,トシをとると二人で何気なく過ごす時間こそが貴重なものとなる。「そこそこ」の幸せだからこそ,時間を大切にできる。そんな大人の旅行に憧れをもたせてくれる話だった。 残された主人公はその別れを受け入れて,日々の生活を続けていく。大人苦い。本当に大人苦い。...

2023年のクリスマス・イブ

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 今日はクリスマス・イブなんである。この人生,もう何度も経験している。学生だったバブルの頃は,渋谷や住んでいた自由が丘などの街全体がとにかく盛り上がっていた。あの頃,若者たちがクリスマスにかける情熱というのは,現在の10倍以上はあったことは間違いない。恋人たちの一年のクライマックスがクリスマスだったのである。 最近のクリスマスは,長岡という田舎だからなのか,経済不況だからなのか,それとも私がトシをとって独りで過ごしているからなのか,どうも盛り上がりがないように思える。個人的には,昨年のイブはカツ丼を食べ,その前の年は学食でサイコロステーキ,その前は牛丼を食べていた覚えがある。全然クリスマスではない。 私はこんなにもクリスマスが好きだというのに 。 独りで過ごすクリスマスが定期点検のように当たり前になってしまった今となっては,楽しかった思い出も流星群の軌跡のように次々と消えつつある。寂しいけれど仕方がない。 最後に,このブログで話題にしたクリスマス関連のワードを挙げておく。少しでも記憶が消えないように。 #小説:ディケンズ「クリスマス・キャロル」,ポール・オースター「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」,カポーティ「クリスマスの思い出」,カポーティ「「あるクリスマス」 #映画:ミュージカル「スクルージ」,「3人のゴースト」,「The SMOKE」,「The nightmare before christmas」,「素晴らしき哉,人生!」,「エクソシスト3」 #クリスマスソング:山下達郎「クリスマス・イブ」,ジョン・レノン「ハッピー・クリスマス」,ポール・マッカートニーの「ワンダフル・クリスマスタイム」,ワムの「ラスト・クリスマス」,バンドエイドの「Do they know it's Christmas?」,佐野元春「Chiristmas time in blue」,「Little Drummer Boy」 いつも行くコーヒー店のクリスマスツリー いつかクリスマスの朝,生まれ変わった気分で街の少年に「七面鳥を買ってきておくれ」と頼めるような素敵なイブを過ごしたいものである。

すべて忘れてしまうから,燃え殻のあざとさ

 「 すべて忘れてしまうから 」読了。なんとも,著者の「燃え殻」が自分にひどく近いように感じてしまうエッセー集だった。 評としては文庫本あとがきにある町田康のものが秀逸なのでそれを読んでいただきたいのだけれど,決して人生の勝者ではない人たちのエピソードが並べられている。町田康も書いているけれど,しかし絶望で終わらない。そこにはかすかな希望の光が遠くに見えている,そんな終わり方のエピソードが多い。そこに救われる。いや救われはしないけれど,絶望しないで済む,そんな感じである。 もっとも心に残ったエピソードは,実はまえがきにある大槻ケンヂとのエピソードである。小説を書くきっかけになった大槻ケンヂの自伝的小説で,自分が心に残っているシーン,セリフがフィクションだと知らされる。このとき,著者はたぶんショックを受けたとは思うけれど,そこに小説の可能性の広がりを感じたのだろうと私は思った。大槻ケンヂはそのフィクションを「希望」と呼んだ。大槻は燃え殻に問う。「君の希望はどこにあるの?」。そして著者の希望は小説とこの作品に散りばめられている。 読了して思ったのは,著者の「あざとさ」である。あきらかに読者の心に引っかき傷をつけることを狙っている。その傷は深すぎず,浅すぎず,絶妙なラインにある。それを著者は意図的に書いているのではないか。もしかするとそれを無意識に達成しているのかもしれない。どちらにせよ,それは著者の才能なのだと思う。 とにかく,大きくはないけれど,でもそれほど小さくもなく,心を動かされた作品だった。小説を含む,別の作品も読んでみたいと思った。そして,まだテレビ業界の下請け会社で働いている彼の話している姿を見てみたい。そこに私の「希望」もあるかもしれない。

私の葬送曲候補(2):ブルックナー交響曲第9番第3楽章

 自分の葬式に流す音楽を決めることを,自分の終活の一項目としている。前回は, マーラー第9番交響曲の第4楽章 を第一候補として紹介した。今回はその第2弾として,ブルックナーの交響曲第9番第3楽章を挙げたい。 ベートーベン以降,交響曲を9つ書くと死に至るのではないかという迷信があったそうで,マーラーも9番目に作曲した交響曲は「大地の歌」として第9番の名前をつけなかった。そして前回紹介した第9交響曲を書き上げ,安心したところで第10番を作曲している最中に亡くなってしまった。マーラーの第10番交響曲は未完となったわけだけれど,ときどきその残された第1楽章が演奏されることもある。 今回挙げるブルックナー交響曲第9番も実は未完の作品である。第3楽章まで書き上げて,第4楽章を書いている途中で亡くなってしまった。やはり交響曲第9番の呪いはあるのかもしれない。 ブルックナーの交響曲は私はかなり好きな方 で,長大だけれど壮大な楽想が素晴らしく,一時期よく聴いていた。実のところ1,2,6番の交響曲はほとんど聴いたことがないのだけれど, 3番 , 5番 , 7 ,8, 9 番は何度も聴いていて,CDも何枚も所有している。 その中でも9番はもっとも厳しい音楽だと思う。第1楽章からして甘さが全くない。粛々と曲が進んでいく。第2楽章のスケルツォも厳しい限りである。笑顔はない。そして第3楽章。マーラー交響曲第9番の第4楽章は死の甘美さを有しているけれど,この第3楽章はそうした少しの甘えさえも許さない,なにもない終末の世界に流れているような,曲のイメージの色が思いつかない。そんなある意味モノクロな音楽である。 この楽章の秀逸なところは,クライマックスで最高潮に曲が盛り上がったのちに,ほんの少しだけ救いだと思われる旋律が遠くから聞こえるように演奏される箇所である。そのとき,灰色の薄暗い雲の切れ間から本当に薄い北の光が差し込むような気がする。その旋律は二度とは繰り返されず,そのまま曲は終了していく。 もしもこのあと第4楽章が書かれていたならば,どのような曲になったのだろう。ブルックナーは,第4楽章の完成が間に合わなかった場合にはその代わりに「テ・デウム」を演奏してほしいといったらしいけれど,テ・デウムはちょっと勇壮で華やかすぎる気がする。この作品は第3楽章で終了するのがやっぱり良い気がするのだ...

老眼とはどんな状態なのか,説明しよう

 老眼ってどんな感じなんですか?って聞かれることが多くなった。私が近くを見たり遠くを見たりするたびに眼鏡をはずしたり,つけたりするからだろう。 私も自分が老眼になってここまで不便になるとは思っていなかった。もともと近視と乱視であったので遠くをみるために眼鏡をかけていたのだけれど,老眼が強くなってきて眼鏡をかけたままだと今度は近くが見えないようになってしまった。本を読んだり,説明書を読んだりするときは,眼鏡をはずさないとよく文字が見えなくなっている。目がひどく疲れる。そして遠くを見るときにはまた眼鏡をかける。本当に不便である。 近視は遠くが見えなくなり,老眼は遠視に近いと聞いていて,トシをとったら2つがちょうどうまくかけ合わさって,世界がよく見えるようになるのではないか,などと思っていたけれど,実際はどちらもよく見えなくなる,というのが正解だった。では裸眼ではどうなるかというと,焦点があう距離が本当に狭くなる。ある距離にあるときにしかはっきりと見えないのだ。 したがって,モノを見るときは,そのモノを手で遠くに持っていったり,近くに持ってきたりして,ちょうど焦点があう距離までモノを持つその手で調整しなければならない。はなはだ不便である。 眼鏡には遠近両用というものがあるという。つまりはそういった眼鏡が近々必要になるということなのだろう... テレビ番組でチャンカワイさんが遠くを長時間見ることで視力を回復できるかというチャレンジをしているのを見た。私もそのような練習をしてみようかと本気で考えている。