村上春樹の短編集「一人称単数」の一篇である「石のまくらに」を読んだ。彼の作品を読むのは久しぶりだ。
主人公「僕」は,大学時代,アルバイト先にいた女性の送別会の夜,彼女と一夜をともにする。彼女は,好きな人はいるが,その人からは身体は良いが顔はちょっと...と評価されている。しかし彼女は彼が好きなのでいわゆる「都合のよい女」として扱われていた。そして彼女はもっと高い給料の職場を求めて主人公のバイト先をやめることになっていた。
と作品を読み進めていくと,「いつもの村上作品にでてくる都合の良い女なのか」と思い始める。「僕」は女性の名前も顔も思い出せず,一夜を過ごしたという記憶だけが残る。彼女のなまめかしい肢体と振る舞い,そして鼻の脇にある2個のほくろなどの思い出だけが語られる。
こうした女性は村上作品によく登場する。女の名前も顔も忘れるがエピソードだけが心に残っている,みたいなことが,「蛍」や「ノルウェーの森」の「直子」や,「羊をめぐる冒険」の葬式の女などで繰り返し語られている。
それはそれでよいのだけれど(女性からはこうした都合のよい女の存在が村上春樹を嫌う理由になっているけれど),本作では彼女が「短歌」を読むということが特徴的だ。彼女は歌集を自費出版して,その中の一冊(たぶん28番目の冊子)を主人公に後日郵送してきている。その歌集は素人のもので,世間的には全く知られないものであるけれど,「僕」はその中の8首が心にずっと残っているという。
この作品では,「短歌」が彼女の生きた証,記録となっている。村上作品として相変わらず女性については「死」のイメージが色濃く描写されているけれども,これらの短歌が彼女がこの世に存在したという示すものになっていて,少なくとも主人公にとっては忘れることができない理由になっている。
なぜか。それは「短歌」が彼女の生きざまから絞り出すようにして詠まれたものだからであり,そのことを主人公が理解しているからである。この作品では,作家(短歌の作者である女性と現在小説家である主人公)というものが,どのようにして「作品」をつくりだしていくか,その過程が村上春樹的な比喩を用いて語られている。私は,「作品」は生きていることの証として,すなわち「生存理由」として,命をかけて作られているのだ,という印象を受けた。
村上作品によくある「都合の良い女」という私の印象は,読後には一人の女性の生々しい生きざまを主人公とともに目撃したのだというものに変わっていた。村上春樹の作品はいつも複雑で感想を書くことが難しいのだけれど,この短編は女性の生き様をはっきりと意識させられるものとなった。
#タイトルの「石のまくらに」とは,「石のまくら」の上に首をのせて自分の心,命を差し出すという覚悟が,自分の言葉を(作品を)あとに残すためには必要だ,ということが書かれているので,作家としての覚悟と生き様を表しているのではないかと思う。