以前にも書いたけれど,いかにも人生の大事なことを示しているような例え話が嫌いである。誰かの名言というのは好きだけれど,どこの誰が話したかもよくわからなくて若者を大人がだますような感動話というのが嫌いである。いや,個人的にはそうした話を収集するのは大好きなのだけれど,自分自身はそうした話に安易に納得するのが大嫌いなのである。
以前に書いた「壺と大きな石,小さな石」の話が典型的なのだけれど,今回はまた別の話を紹介する。
伝統ある宝石商における修行の話。その店では新入社員に,持ち込まれる宝石のどれが本物でどれが偽物かを見分ける方法については具体的には教えないのだという。その新入社員にはただひたすらに本物の良い宝石だけを見るようにさせる。そのうちに修行年月が経つと偽物を見たときに本物とどこかが違うとおのずとわかるようになるのだ。という話。
これはある武道の先生から伺った話である。すなわち,本物の技を見て練習していれば,おのずとインチキで偽物の技を見分けることができるという教えであった。
私はこの話を聞いたときに,なぜ宝石商の例え話を出してくるのかと思った。最初から武道の技の話として話せばよいのに,と思っていたのである。この話が示している内容はある意味真実であると今では理解できているけれど,その当時は宝石商の例え話に嫌悪感をもったことを覚えている。また,初級者に教えをありがたさせるための話だ,などと思っていた。
しかし,現在では,嫌いではあるけれど例え話の目的も少しは理解できるようになってきた。それは私の講義の中の雑談と同じである。教科書の内容ばかりを講義しても学生の記憶には残りにくい。ところどころに雑談を交えて,そのくだらない話にバインドさせて重要なことを覚えやすくするための工夫なのだ。実際に私もこうしてこの宝石商の話を覚えている。そしてこの話を思い出すと,本物を見る修行の重要性もまた思い出されるようになっているのだ。
#藤平光一先生が話された千利休の話もよく覚えている。この話には嫌悪感はあまり抱かない。たぶん内容は同じでも誰が話すかということが大事なのだろう。酒場で同じ話を聞いても心に残る度合いは全く違うだろう。
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