2011年1月26日水曜日

美しく清々しいブルックナー交響曲第5番

ブルックナーの交響曲といえば,
長大でメロディーが美しいとはあまりいえないから,
敬遠する人も多いのだけれど,
私は意外に好き,いやかなり好きなのである.
といっても,交響曲をすべて聴いたわけではなく,
聴いたことがあるのは3番以降なのだけれど.
(0番から2番は聴いたことがない)

最もポピュラーなのは4番なのだと思うけれど,
私は3,5,7,8,9番が好きである.
最も好きなのは9番で,何枚か(10枚くらい?)CDも
所有しているけれど,聴くのに覚悟がいる曲である.
最後の第3楽章で少し救いの光が見えるけれど,
それまではとてもとても厳しい音楽で,
聴き終わった後にぐったりとしてしまう.
(もちろん,素晴らしい余韻には浸れる)

8番は同様に心地よい疲労感が得られる
素晴らしい曲なのだけれど,ちょっと長い.
いや,ずいぶんと長い.
それがあの重大な音の厚みでやられるのだから,
聴いている時は楽しいのだけれど,
やっぱり疲れる.

7番が一番メロディーが美しい.
第1楽章,第2楽章の美しさは際立っている.
これを教会のような残響時間が長い会場で
聴いたならばどんなに素敵だろうと思う.
(CD録音では音のでディテイルが失われて
あまり良くはないと思うけれど)
第3楽章のスケルツオも耳に残る.
ショルティがどこかのインタビューで答えていたけれど,
7番の演奏会に出かけて,
この第3楽章のあまりの反復の多さに
辟易し居眠りをしてしまったらしい.
しかし,目が覚めたのに,また同じメロディーが
演奏されていて,たいへん呆れたとか.
確かに念を押しすぎのような構成である.
ただ7番は第4楽章が軽すぎる.
この楽章で,この交響曲の魅力は台無しになっていると
私は思っている.
もう少し,重大で華々しい終わり方であったならば...
そう思うと残念至極なのである.

で,3番.
3番は初期の交響曲だけれど,
改訂に改訂を重ねて,最終版の完成は
たぶん晩年のころではなかったかな.
第1楽章の深遠な雰囲気もいいけれど,
私はなんといっても第4楽章が好き.
あの加速感がたまらない.
世界が輝き始める気がする.

ということで,やっと今日の本題の
第5番交響曲.
昨晩,帰宅する際に車の中で聴いた.
クリストフ・フォン・ドボナーニ&クリーブランド管による録音.
第一楽章.
まるで目前にそびえ立つ高山のような
大きさを感じさせる.めまいがするくらいに.
そしてその峰には雪がつもっているような
清々しささえ感じる.
なんという高潔な音楽.

ドボナーニのこの録音は,
この曲の美点にぴったりの清々しい響きの演奏になっている.
彼の曲の途中途中でテンポを加速するのはいただけないが,
(せっかくの曲の安定感を損なっている)
その欠点を補って余りある美しさがこの演奏にはある.

第5番は所有しているCDの枚数は少なく,この他に
ヨッフム&アムステルダム・コンセルトヘボウ
ヴァント&ベルリン・フィル
の計3枚だろうか.
なかでもこのドボナーニの演奏は
重々しさを脱却した端正な美しさがある.
(その分,軽いという人もいるだろうけれど)
実は,この3枚の中でこのCDが一番手を伸ばす回数が少ない.
このCDを聴いたのは何年ぶりのことだろう.
少なくても関西に来てからは聴いた覚えがない.
この曲には今まで重厚さを求めてきたからだろう.

でも,昨日耳にして自分の不明を恥じた.
この清々しさはクセになる.
これから時々プレーヤーに乗る一枚になるのは間違いない.
私の耳も歳と共に変わってきているのだろうか.

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