2012年1月19日木曜日

グスタフ・レオンハルト

グスタフ・レオンハルト氏の訃報を聞く.
彼のコンサートを聴けたことは,これまでの人生の中でも最良の経験の一つである.
下記の文章は,彼のゴルトベルク変奏曲について書いたものである.

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現代のバッハといえば、真っ先に思い浮かぶのが"グスタフ・レオンハルト(GUSTAV LEONHARDT)"である。ブリュッヘンをしてそう言わしめたといわれるほど、明哲な音楽家としてあまりにも著名である。

彼は「アンナ・マクダレーナ・バッハの日記」という映画にも出演している。残念ながら未見なのだが、バッハを演じているという。まさに当たり役なのだろう。

なんといっても彼の業績は、現代の古楽器演奏の流れを確立したことである。彼の前には、現在行われているような古楽器を演奏するスタイルは無かったという。それが当たり前になった時代から聴き始めた私には信じられない話だ。現在では、バッハは古楽器で演奏する方がむしろ当たり前である。彼は数々の困難を乗り越え、道を切り開いた開拓者なのである。

彼は古楽器研究家であるとともに、音楽史の研究家でもあり、哲学者でもある。その姿は長身で品格にあふれ、まさに紳士、まさに哲学者、そしてまさに現代のバッハである。

一度だけ、彼の実演に触れたことがある(1996年)。
フランスの18世紀の作品を中心としたプログラムだった。
チェンバロのためにいつもより空調の温度をさげた会場。そこに彼が現れた。
すっくと立った長身の姿。音楽家というより、なにか大学教授といったような雰囲気を醸し出していた。

拍手も早々に切り上げられ、チェンバロの前に座る彼。会場に緊張が走る。
しかし、彼がチェンバロを弾き始めると途端に会場の緊張がほどけていく。言いようもない美しい音が弾かれるようにして広がっていく。彼の演奏している姿から一瞬たりとも目が離せなくなっていた。

ふと彼が立ち上がりお辞儀をして前半が終了した。すでに時間の流れが全くわからなくなっていた。そして会場の寒さも、もはや気にならなくなっていた。
プログラムには休憩が設けられていた。そして、チェンバロの調律のために客は一時会場から退場することになっていた。粘りに粘って私は会場から最後にでた。ドアを出るとき振り返ると舞台の袖から彼がやってきた。彼自身が調律を行うのだ。

後半は最初から暖かい雰囲気の中で演奏が行われた。彼の集中力と音楽への愉悦が会場を支配していた。
演奏がすべて終了したとき、手が痛くなるほど拍手をしながら、私は涙が流れているのに気付いた。演奏会で涙を流したのは今までにこの一回だけである。激情で熱くなったとか、悲しくて泣いたとかではない。奏でられた音楽自体は、そんな激情とはかけ離れた"品の良い"ものであったのだ。それでも私は涙を流していた。なぜなのか、その心境は複雑で今でも理由をはっきりと述べることはできない。しかし、その音楽の場に居得たこと、一期一会というべき貴重な時間を過ごしたことに感謝の気持ちがあふれていたことだけはよく覚えている。

彼の業績と録音については、多くの専門家による解説がある。興味を持たれた方は、ネットを探してみるだけでも多くの記事を見つけることができるだろう。

ここでは、このゴルトベルク(下記参照)について書いてみたい。
実は購入した当時(実演に触れる前だったが)、このCDをあまり気にとめることはなかった。可もなく不可もない演奏という印象だった。しかし、いろいろなゴルトベルクを経験し改めてこの録音を聴いてみると、その演奏の暖かさに驚いた。

テンポはそんなに速くない。むしろゆっくりとこちらに話しかけてくるような調子である。しかし、その中で行われる微妙なテンポの揺れ、間の取り方、アクセントのつけ方が、聴き手の心を一瞬キュッと捉える。本当に微妙なタイミングの揺れ、ズレだからこそ耳を惹きつけられるのだ。それでいて決して踏み外すことのない演奏の上品さが、音楽をすることの楽しさ、古楽の楽しみ方とはこういうものだということを優しく教えてくれる。

レオンハルトが育てた弟子は数多い。しかし、われわれ一般の聴き手に対しても、彼は優しい古楽の先生であるのだ。

■ゴルトベルク変奏曲
グスタフ・レオンハルト (Gustav Leonhardt)
Deutsche Harmonia Mundi
1978年録音(Cembalo)
(私が持っているこのCDでは、BWVが985となっている。988の間違いではないだろうか)

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