2022年10月15日土曜日

人は物語によって踊らされる

 人は事実によってではなく,それに付随する物語,ストーリーによって心動かされ行動する,という話をこのブログでは何度も取り上げている。人々はデータそのものではなく,そのデータを説明する文脈において判断しているように思われる。だから,新聞の記事なども執筆者が考えるストーリーにしたがってデータが解釈される。その解釈を私たちは理解し,そのストーリーを信じてしまう。そんな事実を何度も繰り返し見てきた。

1999年,東海村で発生したJCOの被爆事故。2名の当事者が多量の被爆で亡くなられたけれど,周囲の住民への影響はその被爆量の小ささからほとんど無いと考えられた。しかし,新聞や週刊誌などは被爆して健康被害がある,という文脈で記事を書き,結局住民の不安をあおり,風評を呼び,多くの人を傷つけた。私はその頃東海村に住んでいたので,そうしたマスコミの無責任さに本当に腹が立った。

例えばある新聞では,被爆症状の例を記事で取り上げていた。被ばく線量が広島・長崎の原爆による被爆レベル(数シーベルトとか)以上の急性被ばくの場合に現れる症状を紹介したのち,今回の周辺住民の被ばく量は数マイクロシーベルトレベルと想定される,と記事を結んでいた。1000000倍も違うような事例を並列して例示し,そのうえ「マイクロ」の部分は小さな文字で記されていた。明らかに印象操作を狙っている。そんな記事が数多くあって,本当に悲しくなった。

東日本大震災のときも同様である。ある新聞の連載では原発事故のために関東圏でも人が住めなくなる,なんて記事も掲載されていた。あるいは東京都で鼻血を出す子供が増えているだの,魚から大量の放射線量が検出されただの,とても科学的なデータ処理に基づいた記事とは思えない記事が多かった。ある個人の主張だとして記事を掲載すれば,新聞社の責任は問われないと思っているのだろうか(新聞社の意見は,「読者の意見」欄に表れると言われているが)。

テレビだって同様である。ある研究者もテレビ局の取材を受けた際に,全く逆の主張をしているように編集されて放映されて非常に憤慨していたのを知っている。

つまりは,私たちはこうした記事,番組を見るときには,よほど気をつけなければならないということなのだけれど,それはたいへんに難しい。意図・主張が明らかにされていなくても,いつのまにかある印象を持たされるようなことはたくさんある。そして,私たちもそうしたストーリーを(無意識的にも)求めているために,そうした記事,番組が数多く作られていくのだ。

私たちはどうしても単純な善悪に二分割されたストーリーに惹かれる。世界中の神話からしてそうした構造になっている。誰かが悪者になるのをどこかで欲している,世の中が陰謀によって動いていることをどこかで信じたい,そして自分のこの幸せでない状況は私自身のせいではないと信じたい,そんな欲求が,こうした物語を変わらず生ませているのだろうと思う。

人間が物語によって生の価値を求めている限り,私たちは誰かの物語に踊らされるのだろう。自分の物語を確立して,踊らされることなく生きていくことは可能なのだろうか。

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