「いかに死ぬかということはいかに生きるかということと同じ意味である」と思うようになって,「どのような死を迎えたいのか」と考えることが多くなった。
さすがに,若い頃のように,「誰にも知らないところで,ドブ川に独り浮いて死んでいる」ような死に方が良いとは思わないようになったけれど(その頃は,必殺仕事人 中村主水の死に方はそうあるのが理想だと演じる藤田まことが話していたことに影響を受けていた),どういうシチュエーションで死を迎えるかということについては,いろいろ想像する。
現実的には,独居老人だから孤独死も仕方ないけれど,発見が遅くなるとそれもたいへんなことになってしまうので,病院で死なないと周囲に迷惑をかけるだろう。
そうした実際的な死に方も悩むけれど,そのときにどういう社会環境に自分がいるのか,それを考えることも大切だ。もちろんいろいろな人に見守られて死ぬのは素晴らしい。しかし,そうした人たちを私はこれから作ることができるだろうか。私のために泣いてくれる人ができるだろうか。
今年,私の伯父さんが逝かれた。そのちょうど一週間ほど前にコロナ明けでたいへん3~4年ぶりに伺い,ご挨拶することができた。「横になる時間が長くなってしまった」とおっしゃっていたけれど,まだまだしっかりとされていた。それが急に亡くなられてしまわれたので,ショックだった。でも,前日までも自分でトイレにいかれていたということだし,朝にベッドの上で穏やかに亡くなられていたということらしい。年齢は90歳をゆうに越えられていたので,まさに大往生である。そんな逝き方もうらやましい。
まだ私が逝くまでに時間が残されているのであれば,いかに死ぬかをもっとよく考えて,その理想に近づくように努力したいものである。
村上春樹の作品に「タイランド」という短編がある。その中に,四十代半ばの主人公の女医に,タイ滞在のガイドのおじいさんが「少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることは、ある意味では等価なのです」と諭す場面がある。この作品を読んでからずっとこの言葉が心に残っている。この主人公よりももう10歳ほど私は年をとってしまっているが,生き方のシフトを変えていく試みを私もしなければ,と思う。
#「ノルウェイの森」(「蛍」だった?)の中では次の有名な言葉がある。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」
#「呪術廻戦」でも,おじいさんが死ぬときには主人公に「大勢に囲まれて死ね」みたいなことを行っていた
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