私が稽古している心身統一合氣道にはいくつかのプリンシプルがあって,それに基づいて技を行うのだけれど,そのひとつに「争わざるの理」というものがある。
合氣道の演武をみると八百長にしか思えない技が数多くみられるが(本当に八百長もあるけれど),それはこの「争わざるの理」に従って技を行っているからに他ならない。私が稽古している合氣道では「相手の氣を導いて」技を行うことになっている。すなわち,相手の思うように攻撃させてあげるから(氣を尊んで導くから),技が成立するのである。
もちろん,相手の攻撃にはあたらないことが前提で,こちらがそれを導いてよけるわけなのだけれど,基本的に相手は(よけられるけれど)私を攻撃しようとする欲求を満たすことなるので,相手は私を攻撃している最中には(たとえば私を殴ろうとしてこぶしを振り上げておろす間には)別の攻撃をしてこないのである。その間に技を行う。これをアメリカンファイティングスタイルのように,相手が右手で殴り掛かってくるのをこちらの左手で止めると,当然その瞬間相手は左手を出してきて,いつまでたっても相手の攻撃はおさまらないことになる。私も攻撃を受けるのに精一杯でいつかはスキができてしまう。
相手の攻撃を受け止める,すなわち遮ると相手の次の攻撃がやってくる。相手の心に瞬間的な抵抗が生まれるからである(ほぼ格闘技の稽古によって無意識に次の攻撃が繰り出されるのでその心の働きは察知することは難しいけれど)。
合氣道の「争わざるの理」とは,この抵抗心を相手に起こさせないという意味も含まれているのではないかと私は思っている。相手の心を汲んで氣を導き,この抵抗心が相手に生じない限り,相手はよろこんで私についてきてくれる。だから合氣道の技が成立するのである。
またこのような技を行う限り,相手は反撃する機会を失ってしまう。結局,何をされたかわからないうちに投げられてしまうのである。その結果,道場の稽古だと相手は投げられると何をされたのかわからなくなるで,思わず笑ってしまうのである。
このように正しい合氣道の技が行われているのであれば,無理を通したゴツゴツとした技はありえない。そもそもゴツゴツとした技では,力と力のぶつかりあいがどこかにあるので,筋力などに大きな差があれば,技が成立しないのである。それをごまかすためには当身を多用することになる。(もちろん,私は有効な攻撃として当身を否定するものではない)
藤平光一先生が,280 kgの石を投げることはできないが,280 kgの相撲力士であれば投げることができる。それは心があるからだ,とおっしゃっていた。抵抗心を起こさせず,氣を導けば合氣道の技が可能となるということだろう。
合氣道の流麗な演武は,攻撃をする相手に抵抗心を起こさせずに導くから可能となるのである。
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