2007年9月3日月曜日

「境界」に存在するモノを嫌悪する

先日,帰宅してTVをつけてみると,
「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK総合)が放送されていた.
見ると,大阪大学工学研究科の石黒浩先生の研究が紹介されている.
石黒先生は,愛知万博でも展示されていたアンドロイドを作成した
ロボット・アンドロイドの研究の第一人者である.
(他分野にほとほと疎い私であるが,
さすがに同じ大学の先生ということで,
名前は存じあげている)
これまでに製作されたアンドロイドが紹介されるとともに面白い話題が続き,
ついつい最後まで番組を見てしまうこととなった.

アンドロイドというのは人間に酷似したロボットのことである(らしい).
シリコンの人工皮膚を持ち,微妙な表情,しぐさまでが再現されている.
(生き人形といわれる人形製作の分野があるのだけど,
ここでは美術品ではなく実用品という印象を受けた)

しかし,人間に近ければ近くなるほど,
人間との違和感を埋めるのが大変になるという.
この問題は「不気味の谷」と呼ばれるらしい.

人間はある程度人の行動を予測しているものである.
話の内容やしぐさなどは予測していなければ
迅速な対応が可能とならない.

ロボットが人間とそれほど類似していない場合,
人間はロボットの単純な行動を見て予測し,安心し,
そして足りない部分は補ってしまう.
ASIMOなどのロボットの動作にかわいらしさを感じたり,
感情に似たものを感じたりするのは,
人間側が補っているからだと思われる.

一方,ロボットがある程度以上人間に近づいてしまうと,
その微妙なしぐさにおいて,私たちの予想を裏切ることになる.
アンドロイドは見かけはほとんど人間なので,
もう私たちの脳はアンドロイドの行動を擬人化して補おうとしない.
むしろ人間だと思って対応する.
そのときに,アンドロイドは私たちの予想を裏切りつづけることにある.
それが違和感を増長させるのではないだろうかと思うのである.

人間に近づきすぎて,
その人間とモノとの「境界」に存在するようになると,
人間はそれを嫌悪する.
この考えは,私に鷲田清一先生(大阪大学の学長である)の
「ちぐはぐな身体 ーファッションって何?」という著書の記述を思い出させた.

この本は,ファッションが意味するものについての思索を
身体性という観点から進め,若い人たちに紹介している本だが,
人間は「境界」に存在するものに不安を感じ,
それらを嫌悪するものだ
という考えが述べられている.

たとえば人間の排泄物,吐瀉物,垢,フケ.
これらは,ちょっと前までは人間の体内に存在したものであり,
そのときに汚いとは感じない.
それが身体の外に出された途端に汚いと嫌悪されるのである.
これらのモノはやはり身体の内と外の「境界」に存在するものなのである.

社会的にも「境界」に存在するものは
やはり激しく嫌悪されることが多いように思う.
こうした人間の性質は,民族問題,宗教問題,差別,
それらにも深く関わっている気がする.


ということで,ふたりの大阪大学の先生の研究について思いを巡らせ,
あらためて大阪大学の懐の広さを実感した次第.

しかし,私もその末席を汚しているだけに,精進いたそうと思う.
この末席が「境界」となって,嫌悪されないように努力しなければ...

0 件のコメント:

コメントを投稿

言葉が世界を単純化することの副作用

 人間がこれだけの文明を持つに至った理由のひとつは「言葉」を用いることであることは間違いないと思う。「言葉」があれば正確なコミュニケーションができるし、それを表す文字があれば知識を記録として残すことも可能である。また言葉を使えば現実世界には存在しない抽象的な概念(たとえば「民主主...