2010年4月8日木曜日

剣や杖が勝手に動く感覚

剣や杖を遣っていると,
それらが勝手に動いている,といった
感覚をもつようになる.
私はただその動きにあわせて
手や腕を添えているだけである.
むしろ剣や杖が自ら動くのを
妨げないようにする.
それが稽古の目的のように思えてくるのである.

この感覚について考察してみる.

いきなり結論だけれど,私の顕在意識が
潜在意識でコントロールされた身体の動きを
あとから認識しているのではないかと思うのである.

稽古において,「右腕を挙げて」と誰かに言ってみる.
もちろん,右腕を挙げてくれるのだけれど,
それをどのような軌道を描いて,
どのようなスピードで挙げようかと,
予め考えてから動かす人はいない.
つまりは無意識のうちに右腕を
コントロールしているのである.

この「無意識」というのがクセモノで,
ある程度は自分の顕在意識の影響下にはあるけれど,
細かいところは自律的に動いているようである.
その自律的に動いている顕在意識は,
意識的な思考を経ないで働くので,
(たとえばためらわない.ただ,
危険を察知した場合には警告を発するけれど)
たぶん応答が速い.
稽古を重ねていくと,たぶん剣や杖は,
この無意識が遣うようになるのだと思われる.
そして,自分が「意識」だと思っている顕在意識は,
その応答をあとから認識するので,
剣や杖が勝手に動いているように感じるのでは
ないだろうかと思うのである.

無意識が行う動作は過去の経験の学習によって
決定されていると考えられる.
したがって,稽古をすることによって,
剣や杖を遣う動作は,顕在意識から潜在意識に
役目を受渡され,その後,正確に,高速に,
繰り返して,行うことができるようになる.
そしてそれは身体的記憶として
(俗に「身体が覚える」ということ)
「技」として定着するのである.

(したがって,最初にどれだけ正確に
技を行って,覚えるかということが重要になる)

私が自分の「意識」についてもっているビジョンは
次のとおりである.
自分の脳の中に,サブ意識とも呼ばれるシステムが
複数個存在しており,それらがネットワークによって
接続されている.
自分が「自分」であると感じる顕在意識は,
その複数の中のいくつかのサブ意識が
そのときどきに応じて,アクティブになっている,と
思われるのである.
(顕在意識にならないサブ意識もあるのではないか.
何を「意識」と呼ぶかも問題になるが)

武道の稽古の目的は,
いかにそのサブ意識による身体の操作を
効率良く,高速に行えるようになるか,
ということにあると思う.

一刀流の始祖 伊藤一刀斎は
夢想剣を会得する際には,
物陰に動くものを感じ,
それを敵と判断し,
切り捨てる,という一連の動作を
無意識のうちに一瞬で行ったという.

無意識・潜在意識をうまくコントロールすることこそ,
武道の目的なのかもしれない.

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