2011年6月9日木曜日

逢魔が時に走る

本日も時間が無いために,他愛のない話を.

ダイエットのために,ジョギングを始めたのだけれど,
走るのは主に夕方.
夕方に雨が降りそうなときや用事があるときは,
仕方なく昼休みに走るけれど,昼休みだと知り合いに
走っているところを見られて恥ずかしい.
それはなるべく避けたいのである.
自分でいうのもなんだけれど,
走っている姿はほんとうにかっこわるいのです.

そこで夕方に走ることが多いのだけれど,
これは涼風に身体をさらして走るので,
本当に気持ちが良い.
こうした気持ちよさがなければ,
ジョギングも長くは続けれらないだろうと思う.
これから夏,ただでさえ暑くなるのだから,
やはり昼間に走るのだけは,なんとか避けたいものである.

さて,夕方といっても,最近はずいぶん日が長いので,
19:00頃に走っても,まだまだ薄暗い程度の街である.
だから歩道のでこぼこなどはまだ判別できるから
安心して走ることができるのだけれど,
残念ながらその他は世界が霞んでよく見えなくなる.

「誰そ彼」どき,とは良くいったものである.
すれ違う人の顔もぼんやりとして,
よくわからなくなる.
こうして誰なのかよくわからない時間帯なので,
「たそがれ」どきは,「誰そ彼」どきであり,
それが人であるとも限らず,魔がすれ違うこともある.
だからその時間は「逢魔が時」とも呼ばれるのである.

今夕も走っていて,本当にすれ違う人が
よくわからないと実感した.
実は,男性か女性かも判別できなかった.
私の場合は,目の老化のせいも多々あるだろうが,
電灯もなかった時代では,
この時間帯は,やはり魔モノとすれちがう
特別な刻だったに違いない.

しかし,正直にいって,すれ違う複数の人たちの
男女の区別がつかなかったのは,本当にショックだった.
すっかり,オジサンなのだと実感する.
視力はもう二度と回復しないのだろうか...


#さらに雑談ですが,
昔,物の怪は,二度同じ言葉を繰り返すことができないと
信じられていたらしい.
だから,逢魔が時,人に声をかけるには,
「もしもし」と二度繰り返したそうな.
そして,電話の「もしもし」の語源である「申す,申す」も,
相手に見えないけれど私は怪しいモノではありません,
という意味だったとか,
そんな都市伝説が語り継がれている...

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