2022年11月13日日曜日

結局,信心とは傾聴である

 父の十三回忌の法事において住職に伺った説話を紹介してきた(その1)。

結局のところ,浄土真宗では,私たちは仏の御心をいただいているのだから,人を導くためにはただただ傾聴することが重要らしい。

しかし,人の話を自らの先入観,価値観にとらわれることなく,そのままに聴くことの難しさは,これまでの人生で嫌というほど感じてきている。

  • 人の話の進み方が遅いと(説明の要領が悪いと),話の途中で「結論を話せ」と遮ってしまう
  • 人の話をただ聴けば良いだけなのに,解決法を考えてそれを相手に押し付けてしまう
  • 自分の価値観で人の話を判断してしまい,話している人がなにに悩んでいるのか理解しない(理解できない)

などの反省を私は山ほどしなければならない。

しかし先入観なしで話を聴くということはどれほど難しいことか。住職にこんなクイズを出された(テレビでやっていたそうだけれど)。

Q: 白い豆と黒い豆を混ぜて鍋でよく煮た。煮たあとに白豆と黒豆をたった3秒で分けることができた。どのようにしたのか?

私は「煮汁によって白豆はすべて黒豆のようになったので分ける必要がなかった」とひどい答えをしたのだけれど,住職から聞いた答えは「黒豆は最初から一粒しかなかったから」というものである。つまりは,先入観によって,白豆も黒豆も多くあると勝手に想像してしまっていたために答えを導けなくなっていたわけである。

他人の話も同様で,自分の先入観,価値観にとらわれず,ありのままに受け入れるということがどれだけ難しいことか。つねに自分というフィルタを通してでしか理解できない。しかし,それは人間の認識の限界で仕方ないと私は思う。結局,自分の価値観のフィルタから逃れることはできないということを認識し,それを考慮した理解,行動をしていくしかない,ということだろう。

人に話を聴いてもらう。それだけで救われる人も多い。信心を背景として人の話を傾聴して癒やしていく,それが寺の住職の昔からの役割だったのだろうと思う。

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