2024年9月14日土曜日

最短距離ばかりを選んでいるといつか行き詰まる

 世の中,「効率化」が進みすぎて「この先,これで大丈夫か?」と思うことが多くなった。学生のみなさんの行動を見ると,コスパ,タイパばかり気にして,常に「最短距離」,「最小労力」で目的を達しようとしている。

それはある意味正しくて,正義である。特に私のような工学者は,より効率的に,より短時間に,より低コストで,ということを目的として研究をしている。そして工学の分野だけでなく,世の中全般にそうした目的は「正義」である。予算だって,労働力だって,無駄を省くことが仕事においては第一義的に正しいとされている。

しかし,「教育」,「学習」という面では,「最短距離」,「最小労力」がいつも正しいとは限らない。「最短ではない」,「最小ではない」というやり方,道すじでしか学習できないことが多くあるのだと思っている。一般的に「失敗」と呼ばれる経験であっても,そこから学ぶことがあり,それが次に活かされれば,それは無駄ではなくなる。逆に,そうした失敗をしなければどこでその知見を手に入れるのだろう。

学生は幼いころから,テストのために短時間で正解にたどり着く方法だけを効率的学ぶようにトレーニングされている。そうした教育の弊害なのだろう。

昔は本を読むだけでは本当の知識は得られないと言われた。知識だけだと「畳水練」だと笑われたものである。しかし,今はその本を読む時間,労力さえも惜しまれる。ネットなどで「最適なやり方」だけを学ぶだけである。それは本当に身銭を切って他に入れた技術と言えるのだろうか。

小説や映画だってそうである。時短動画やあらすじ動画を見て理解した気になる人がいるらしい。しかし,小説や映画の本当の面白さはメインの物語だけではない。各登場人物の描写,しぐさに人の心の機微が現れている。その機微を見逃しておいて,この作品は面白かったなどというのは違うのではないかと思う。作品の情緒・雰囲気は言葉と言葉の行間に漂っている。それをタイパよく感じることはできない。

もちろん学生の研究でもそうである。自分でいろいろ試し,苦労するからこそ,知識が定着し,スキルを身に着けることができる。そのうえ,他人が示す最短距離ばかりを進んでいて,どうやって新しいアイデアを生み出そうというのか。

「最短距離」,「最小労力」がいつも正しいとは限らない。遠回りすることによってはじめて気づくこともある。みんなわかっていることだけれど,今は社会がそれを許さない。若い人たちはどうなっていくのだろう。

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