今期は「降り積もれ孤独な死よ」というテレビドラマが面白かった。いろいろな謎が次々と提示され,新しい事実が明らかになって物語が進んでいく。謎が謎を呼び,展開も加速する。そしてそれらの謎を回収していく最終回。そしてみんなが言う。「きれいな結末だった」と。
しかし,どうだろう。物語は謎と伏線を回収して,きれいな着地点に降りることがそんなに重要なのだろうか。
この「降り積もれー」も最初は謎がどんどん増えていき,物語を広げていく展開だったから,話の広がりに私はワクワクしていた。事件とその背景はますます複雑化していき,「この先,いったいどうなっていくのだろう?」と思いながら見ていた。物語のスケールの大きさを感じながら毎週毎週ドラマを見ていた。
しかし,最終話に近づくにつれ,話はこれまでの謎と伏線の回収に終始する。それはある程度仕方ないのだけれど,物語のスケールが急にシュリンクし始める。謎は明らかになっていき,話の結末に収束していく。しかし,それとともに物語のスケールは小さくなり急に魅力が半減していった感じは否めない。仕方ないけど私は強く残念に感じるのである。
今年観た映画「デッドデッドデーモンズ デデデデ デストラクション」にも似たような感想を持った。前章では,そのスケールの大きさに衝撃を受け,この先どうなってしまうのだろう?という気持ちでシーズンエンドを迎えた。後章は,伏線が回収されきれいな結末だったのだけれど,前章で感じたワクワク感は明らかにシュリンクしていた。
謎と伏線は,そこまで解明されて回収されなければならないのだろうか?たぶん現在は,謎をそのまま残して物語を終了するとあちらこちらから批判される世の中なのだろうと推測するのだけれど,それによって作品のキラキラ感,ワクワク感,そしてスケール感が損なわれるのはたいへんにもったいないと思う。
謎は謎のまま残されたっていいじゃないか。そんな作品,昔からいっぱいある。「結局あれってどういう意味だったのだろう?」「あれは誰が行ったのだろう?」などと疑問を抱えたまま物語がエンディングを迎えたっていいんじゃないだろうか。魅力を維持して終わる方がずっと良いのではないか。
ディビッド・リンチだって,村上春樹だって,作品の中で謎がすべて解明されたわけではないじゃない。スタンリー・キューブリックの「シャイニング」だって,リドリー・スコットの「ブレードランナー」だって謎が残されたからこそ今だって議論が絶えないのだ。そんな終わり方だって全然いいじゃないか。
「降り積もれー」も「デデデデ」も美しいエンディングを迎えたけれど,そうでなくたって良かったと思う。謎は謎のまま残し,世界の不確定性を示して終わったってよいじゃないか。世の中の「伏線回収」への圧力に負けず,そうした魅力的な作品が今後増えればよいと切に思うのである。
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