2007年5月21日月曜日

博士が就職難である理由

博士が就職難であるという記事を朝日新聞で読んだ(平成19年5月21日)。

官主導で,大学は博士号取得者の数を急激に増やしてきたものの,
受け皿である産業界の博士受け入れ態勢は整っておらず,
就職先に困っているという内容であった。

確かに,博士を取得しても任期付きの職を転々とすることが多い。
(かくいう私も任期付き職員である)

かつて政府は欧米に比べ日本の博士号取得者の数が少ないと嘆き,
博士増産計画に手をつけた。
一方,大学はもともと先進的な研究を行う学生が必要なため,
あるいは博士課程の学生を増やさなければ
予算の割り当てが少なくなるため,
政府主導に従って博士課程の学生の数を
言われるままに増やしてきた。

しかし,産業界はどうか。
はっきりいって産業界にとっては博士号をもって卒業した学生など,
実は厄介ものなのである。
すなわち必要性があまりない。

これは大学が育ててきた博士号取得卒業者の志向が原因なのだと思う。
博士号取得卒業者はいわゆる研究志向が強い。
自分の専門分野に固執する人が多い。
したがって,自分の好きな研究ができる大学や研究所への職を求める。
事実,そこでも自分の望む研究ができなければ
やめてしまう人が多いのである。

企業にしてみれば,利益を産む研究,
将来役立つ研究をしてほしいと思うのが当然である。
それに対して,企業に言われるとおりの研究が嫌だなどといって
不平をいったり,他分野への協力を断ったり,
企業人として当然の職務(まぁ,雑務ということだが)を断ったりする。
こうしたプライド高い態度が雇用者としては,
はなもちならないのは仕方がないだろう。
それでいて高給を要求したりするのだから。

企業が博士課程卒業者を採用するのは,
その企業との共同研究を行っていた場合に限る
などということも多くなっている。
使えない博士はいらないけど,
共同研究で即戦力になる博士は必要だということだ。
結局,大学が企業が求める博士を送り出していないということが
この状況を生んでいる。

しかし,(先進国の中では)日本ほど博士号の価値が低い国も珍しい。
よく驚かれるのであるが博士号を持っているからといって,
給料で優遇されることは,日本ではほとんどない。
初任給は修士卒よりも高いけれど,
それは修士が3年働いたのちにもらえる給料と同等なだけである。
すなわち,博士課程で学費を大学に支払う分,
生涯賃金が少なくなるというのがお粗末な現状なのである。
全く企業は博士号など評価していない。

それでは,海外の博士はどうなのか。
海外では博士号の有無で全く待遇が異なる。
博士号を持っていなければ,どこか冷遇されているような感じがする。
それは特に階級社会の名残が強いヨーロッパでは特に。
やはり海外で活躍するには博士号は不可欠なのだと思う。

日本と海外の博士の資質は,
すでに学生時代から異なっているのではないかと思う。
私も数少ない経験の中で感じたことであるが,
確かに日本の博士課程の学生と海外の博士課程の学生とは違う。

日本の学生は,たとえばある分野での議論においても,
「私の研究分野ではない」ということであれば,
全く議論に参加しなかったりする。
意見を述べることは少ない。

一方で,海外の学生は,どの分野でも自分の意見を述べることができる。
確かに専門知識はないかも知れなくとも,
それなりに議論に参加している。
(”押し”が強すぎることにうんざりすることもあるが)
日本の学生は,概して応用力・議論力に欠けるような気がする。

日本においては博士は専門的な知識に優れる人というイメージがある。
一方で,専門バカになるのもやむをえない
というイメージがあるのも否定できない。
これは日本の大学においては,
学生は世界最先端の研究成果の論文を書くことだけを要求されるからだと思う。
他の分野のことなど知らなくても,
論文が学術雑誌に掲載されることが大切なのだ。
(その本数によって,博士号が取得できるかどうかが決定される)

海外においては,博士は何でもできる人というイメージだ。
実際,電気工学で博士号を取得していたとしても,
別の分野で一線で活躍している人も少なくない。
また,研究所間を異動している人も多く,
その現場,現場で異なる課題に挑戦している。
博士は応用力とリーダーシップに優れた指導者たる人間なのだ。
こうした海外における博士のようであれば,
日本の産業界も欲しいといってもらえるのではないか。

大学は産業界の言いなりになれ,とは言わないけれど,
社会が求める人材というものを
もう一度よく考える必要があるのではないかと思う。

一昔前は,「末は博士か大臣か」という言葉があった。
どちらも子供の将来において,最高の栄達という意味である。
すなわち,どちらも尊敬される誉れ高い人物ということである。
このように以前の博士は,大臣と同様,
人間としての品格・総合知を持っていることで尊敬されていた。
博士と呼ばれるためには,
研究者として第一級の専門知識が不可欠であるとは思うが,
やはり社会から尊敬される人物であってほしいと思う。

総合知を備えた博士を目指して勉強してほしいと思う。
(もちろん,修士課程の人も同じだけど)
私たち教員もそのように指導を続けていきたいものである。
そうであれば,社会における博士の価値も上がり,
いつか産業界も受け入れてくれるだろう。

ただ現代においては,ノーベル賞を取った科学者であっても,
単なる専門知識に優れた人というイメージでしかないように感じてしまう。
世界的に科学者の価値が下落しているのかもしれない。

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