2024年8月11日日曜日

当事者でもない人が誰かの失敗を非難すること

 パリオリンピックももう最終盤である。日本の選手の活躍は本当に素晴らしい。選手の皆さんはたとえメダルは取れなくとも,オリンピックの場に立てることだけでも誇り高きことなのである。

なのに,ネットでは選手を誹謗中傷する人が多いのだという。本当に悲しい。

最近は,誰かの倫理に反する行動や失言に対して,非常に厳しく攻撃することが多い。倫理観,価値観などは人それぞれ異なっていていいのだけれど,それをもとに人を非難するのはよくないことのように思う。

特に,その状況にまったく利害関係のない人がそうした人や物事を好きなように外部から叩くのはちょっと違うのではないかと思う。たとえばオリンピックなんてほとんどの人が関係ないのだから,選手を応援・称賛することはあるにしろ,非難なんてできないと思う。もしも選手を非難できるとしたら共に戦った人たちだけで,そして誇りをかけて戦ったその人たちはたぶん非難することなどないだろうと思う。それなのに,結果が悪いとか,態度が悪いとか,性格が悪いなどと言う人がいる。

オリンピック選手に限らない。最近は著名人が不倫やら暴言やらで失敗すると,徹底的に叩かれる。確かに彼らには倫理的には問題があるかもしれないけれど,当事者でない立場の人が非難するのはちょっとおかしいと思う。当事者同士で納得が済むまで話し合えばよいのである。利害関係のない当事者以外のものが口をはさむ必要はないし,はさむべきではないと思う。

そのように人を非難する人は,自分が正義の側に立っているという優越感があり,それでいて自分は攻撃されない安全地帯にいるから,言いたい放題を言う。ネットだと匿名性が高いからさらに言いたい放題である。

スマイリーキクチさんの事件を思い出す。デマをもとに掲示板に中傷コメントを書いていたのは,普通の生活をしている人たちだった。「ムシャクシャしていたから」,「生活に不安があったから」などという理由で,キクチさんを中傷し続けていたという。現在のオリンピック選手,著名人にひどい言葉を投げつけている人たちもそんな普通の人たちではないだろうか。

なぜか私は村上春樹の小説「沈黙」を思いだす。人々が無批判に社会に迎合し,一方で感情のままに非難を吐き続ける。そこには共通点があるかもしれないと思う。私は「集団」,「匿名」というものが嫌いなのだろう。自分は切にそうはなりたくないと思っている。

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