2024年8月14日水曜日

「隠されたもの」を探すために武術を稽古する

8月12日は振替休日だったのに,休日更新を心掛けているこのブログをお休みしてしまった。ということで,お盆休みにひとつ自己満足的な記事を書いてみたい。

私はオカルトが大好きなのだけれど,それはなぜかと考えてみた。

まず,「恐怖」は自らの命を守るために存在する人間の根源的な本能に基づく感情であるから,食欲などと同様に人間はその感情から逃れることができない。一方で,「恐怖」を感じると「自分が生きている」と実感することができる。なぜならば自分の命や存在が脅かされることによって感じる感情だから。毎日の生活が社会の虚構に浸食されている中で,「恐怖」は自分の存在を実感させてくれる。

次に,「人間は答えを追い求めてしまう」動物だから。人はそこに謎があれば,「なぜ」と知的探求が始まってしまう。そうした本能から人間は文明を築いてきたのだけれど,逆に答えが与えられなければずっと不安な状態に置かれてしまう。人間が安心するためには,そこに(科学的でなくとも)答えが必要なのである。「幽霊」や「妖怪」の存在もそうだし,「呪い」や「祟り」もそうである。古来,自分の子供が事故にあったとして,「なぜうちの子が」と嘆く親の問いに,実際はわからなくとも(あるいは偶然であったとしても)なにかしらの答えが必要なのである。「妖怪のせい」「呪いのせい」,「祟りのせい」,そのように考えることで,人は心に平安を維持してきた。人間の社会的生活には常に「問い」と「答え」が必要なのである。

「オカルト」という言葉には,もともと「隠された」という意味が含まれているという。したがって,人間が「答え」を見つけようとして隠された神秘である「オカルト」を追い求めてしまうのは,仕方がないことなのである。

私が「武術」に興味をもつのもまさにその点なのである。「武術」には多くの心理的な技術が存在する。そして古来,神秘的・宗教的な手法が存在する。そこには隠されたなにかしらの真実があると私は信じている。まさに「オカルト」なのである。その謎があるかぎり,やっぱり私も「答え」を追い求めたいと思っているのである。。


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