2024年8月24日土曜日

努力は嫌い

 私は「努力」という言葉が苦手で,正直あまり好きではない。自分は「努力」をするかといわれれば,確かに努力はしているけれど,決して好きではない,いやはっきりと嫌いである。

なぜ「努力」が嫌いかというと,そこにはまずどこかで「嫌なことをやっている」というニュアンスが含まれるからである。

もちろん,私だって仕事や合氣道において集中してタスクをこなしたり,反復練習したりする。しかし,それらはなるべく「努力」ではなく,「好きだから」という理由で行うようにする。そのために「そのタスクや稽古が好き」となるようにマインドをうまく制御するのだ。「イヤイヤ」感をどれだけなくせるか,ということが大事なのである。「イヤイヤ」感を持ちながら仕事や稽古をすると,どこか心の中でブレーキをかけながら行動をしていることになる。それはなんて非効率なことだろう。

もちろんタスクは好きなものばかりではない。そんなときはそのタスクの先にある大きな目標を考え,そのために必要なのだと認識してから,それを粛々と,淡々とこなしていくのである。あるいは給料のためと思って,「イヤイヤ」感を少しでも軽減してタスクに取り組むのである。そうすればそれは決して「努力」ではない。「当然行うべきこと」なのである。

「努力」が嫌いなもうひとつの理由は,その言葉にどこかで「報われることを目的としている」ニュアンスが含まれているからである。多くの人も言っているけれど,「努力は必ず報われる」とか「努力は全く無駄ではない」ということは,私も完全に間違いだと思っている。それはもちろん報われることもある。しかし,すべての努力が報われるかというとそれは絶対ない。そして「報われる」ことを前提としている努力は,その動機のためにどこか不純で,それが報われなかったときに,失望,絶望,恨みなどの負の感情が心を侵食する。それが大嫌いなのである。では「努力」が報われなかったらその物事をあきらめるのか?ということになる。

心に負の感情を抱えながら行う「努力」ではなく,「好きだから」あるいは「それが必要だから」ということで物事に取り組むことができれば,たとえそれが報われなくても,それがたいへんにつらいことでも心の中の達成感を得ることができる。そんな風に思うので,「努力」はしたくないのである。

#科研費などの申請書には当然のようにエフォート〇〇%などと書き込んでいるけれど。

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