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「手を出すときは心に情けを残すな」――夢の中のフルパワーから考える心の修行

 私は睡眠中の夢の内容を覚えていることはあまり多くないのだけれど,ときどき夢の途中で目を覚ますことがある。そういうときは夢の内容を覚えている。 こういう場合に見ていた夢はだいたい誰かと格闘をしていることがほとんどである。身体が動くこともあって,目を覚ますらしい。こうした夢の中の格闘は現実のものとは大きく異なる。それは,技に心理的なブレーキがかかるかどうかである。 実生活でもしも格闘をすることがあったら,破壊的衝動に心理的なブレーキがかかって,これまで稽古してきた技を100%の出力で使うことはないだろう。相手に技をかけることも難しいし,たとえ完璧に技を行えたとしても相手を壊すことは無意識にでも避けるだろうから,たぶん心のどこかでリミタをかけてフルパワーでの技は行わないと思う。 しかし夢の中は違う。無意識下においてはやはり起きているときと違っているらしく,破壊的衝動を開放してリミタをかけずにフルパワーでの技をかけてしまうのである。そのことに罪悪感を感じない。そのために夢の中では,相手の顔面をフルパワーで殴ったり,投げ技を危険な角度で使ったりしてしまっている。本来これらの状況はあってはならないものである。現実には絶対避けなければならない。そう,夢の中であっても避けなければならないのだ。これはひとえに私の心の修行不足なのだといえるのだろう。 漫画「拳児」に紹介されていた武術家の心得を示した言葉がある。 「手を出すときは心に情けを残すな。心に情けが残る時には手を出すな」 つまり,私は夢の中では心に情けを残さないらしい。夢の中で解放される衝動に日頃からどう付き合うか。そうした心の修行が必要である。

柴田理恵がとにかく最高!映画『来る』の対決準備シーケンスとお祓いシーンに痺れた話

 以前から観たかった映画 「来る」 (2018)をようやく観ることができた。結論からいうと期待通りの面白さだった。しかし,ネットをみてみると高得点のレビューとは言い難い評価が多いようだ。そのあたりの理由も含めて,私の感想をまとめてみたい。 まず,この作品には「ぼぎわんが,来る」というホラー小説大賞を受賞した原作小説があるのだけれど,映画ではこの「ぼぎわん」という化け物が実体となって出ることはない。この映画はそうした面で怖がらせるという感じではなく,あくまでも発生する怪奇現象を描いて恐怖感を与える。ときどきぐにゃぐにゃした物体のイメージの画像が流れるのも恐怖を煽らせようとしているのだろうけれど,私にとっては怖くもなく少し理解不能な印象であった。真っ暗な映画館内で見ていたらと違った印象になっていたかもしれないけれど。。。 そう,この映画はホラーなのだけれど,怪奇現象によって浮かび上がる人間の心の嫌な面こそが怖いのだ。私はSF小説においては特殊な設定下だからこそ描ける人間の物語があると思っているのだけれど,この作品はホラーという設定下だからこそ人間関係の裏側を浮かび上がらせることができているように思う。ぼぎわんから与えられる恐怖が,日頃の欺瞞や嫉妬,虚栄,後悔などをあぶりだしていく。妻夫木聡,黒木華,岡田准一,青木崇高がそれぞれイヤーな部分をうまく演じている。 作品は3つのパートに分かれていて,最初が妻夫木演じる夫の視点,次が黒木演じる妻の視点,そして最後はライターとして事件に関わった岡田の視点からそれぞれ語られていく。そこに青木が演じる民俗学の准教授が絡んでくるのだけれど,どの登場人物も観ていて気分が悪くなってくる。しかし,この映画においてこうして描かれる人間の嫌な部分が,ホラー映画を期待してきた観客の心情を裏切ることになり,評価が低くなっている理由になっているのではないだろうか。最後の結末も理解不能な意外な終わり方だったし。 では,この作品の見どころはどこかというと,間違いなく霊能者集団とぼぎわんとの闘いである。もっというと,闘いのための準備のシーンがめちゃくちゃカッコいい。松たか子演じる最強の霊能者が声をかけて,神職や巫女,ユタや研究者までを集合させてぼぎわんと対決しようとするのだけれど,日本全国から集結していくところや祭壇を作っていくところの過程などのカッ...

気分がアガる曲「大江戸捜査網テーマ曲」~死して屍拾う者なし~

 このブログでは元気がない時に気分がアガる曲をときどき紹介していて,以前には ブルックナーの交響曲3番第4楽章 や 「影の軍団メインテーマ」 を紹介した。今回は知る人ぞ知るという曲を紹介したい。その曲は, 「大江戸捜査網テーマ曲」 である。「大江戸捜査網」というのは江戸時代の隠密同心の活躍を描く時代劇で,人気だったためか何作かシリーズ化されていて,主人公も杉良太郎,里見浩太朗,松方弘樹と交代しながら長年続いた作品である。 新潟ではなぜか日曜日の昼間に放映されていた記憶があって,私が小学生の頃,父親と一緒に毎週のように見ていたような気がする。 番組のクライマックスで,隠密同心4人くらいが悪人を倒すために横に並んで道を歩いていくシーンがあったように思うのだけれど,そこで次の名ナレーションが入るのである。 「隠密同心 心得之條 わが命わが物と思わず 武門之儀 あくまで陰にて 己の器量を伏し 御下命 如何にても果すべし 尚 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし」 これが本当にカッコよくていまでも空で言えるくらい覚えている。最後の「 死して屍拾う者なし」の部分が繰り返されるのがいいのだ。小学生の私でさえ憧れるシーンであった。 そしてテーマ曲の話。時代劇なのにこの曲はアップテンポの西欧風のなんとなく複雑な拍子で演奏される。私は吹奏楽というのをあまり聞かないのだけれど,この曲は非常に魅力的だ。「大江戸捜査網」自体がずいぶん古い番組なので今はあまり聞かれることがないけれど,埋もれるのがもったいない本当に良い曲なので,一度耳にしてほしいと思う。そしてぜひ気分をアゲるためにドライブのお伴に連れていって欲しい。

一度見た映画、一度行った場所。時間を置いて「再訪」する本当の面白さ

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 本を再読することが重要であるという話をときどき見聞きする。年月を経て再読すると,内容の感じ方や興味をもつ部分が変わっていて,あらたな魅力を感じることができるし,自分の成長を実感することができる。 たとえば小説の場合,はじめて読んだときには主人公に共感し寄り添ってストーリーを読んでいたものが,年齢を経てから読むと主人公よりもその周囲の登場人物に思い入れをもったりする。その変化が自分の成長を感じさせてくれる。 映画だってそうである。私が初めて「グッド・ウィル・ハンティング」(1997)を観たときにはやはりマット・デイモン演じる主人公の心情に心を寄せたけれど,2回目に観たときには,ベン・アフレック演じる主人公の地元の少しガラの悪い友達が主人公を快く送り出す姿にすがすがしさを感じてたいへん感動した。初回ではそれほどでもなかったのに。私の中でなにかが変わったのだろう。 本や映画だけではなく,場所を再訪することも同様に面白いことに最近気づいた。今年の夏,水戸の偕楽園を再訪する機会があった。私は大学卒業後,茨城県那珂町の日本原子力研究所に勤めていたので偕楽園にはなんども足を運んでいたのだけれど,研究所を退職して以来,たぶん20年以上ぶりに訪れたことになる。 久しぶりに訪れた偕楽園はひどく暑かったけれど,過去の思い出と照らし合わせながら庭園の散策を楽しんだ。以前は気にしなかった庭園から徳川斉昭が建てた好文亭を見る眺めや,好文亭最上階からみた千波湖の景色に,強く心を惹かれた。年齢を重ねて歴史背景に思いを馳せる余白が生まれたということだろう。江戸時代の人たちはこの場所からコンクリートの建物など無い風景を眺めていたのかと思うと少し感傷的にもなった。 小説や映画のような作品同様,こうした場所を再訪することも,過去の自分と比較して,あらためて現在の自分の立ち位置を確認できるのだとしみじみ思った。 「もうあの場所は行ったことがあるから」と再訪することを最初から除外することはもったいないことなのだと思う。むしろ再訪することによって自分を知ることができるのだから。 好文亭から望む千波湖 好文亭のカフェで休憩することもできる

リーチャー ~正義のアウトロー~:アラン・リッチソンの肉体美の魅力

 ずっとJack Reacherに憧れていた。そして今年アマゾンプライムに入ったので, 「リーチャー~正義のアウトロー」 を見始めた。シーズン1と2をすでに見た。やっぱり期待通りの面白さである。 以前の記事 にも書いたけれど,このシリーズの魅力は主役リーチャーを演じるアラン・リッチソンに尽きる。彼なしではこのシリーズは成り立たないことは間違いない。トム・クルーズのジャック・リーチャーシリーズも面白いけれど(特にシリーズ1作目),オリジナルのリーチャーとの肉体的な違いが大きすぎる。原作では,リーチャーは195 cmの大男の設定らしいけれど,トム・クルーズは170 cmくらいしかない。アラン・リッチソンでさえ185 cmらしいからそれでもまだ10cmも足りない。 筋肉量も圧倒的に異なる。アラン・リッチソンの筋肉は,プロレスラーや相撲力士のような格闘者の筋肉とは違い, 見せる目的のものであるけれど,中身がつまっていそうな,すなわち密度が大きそうな筋肉である。 彼のまわりには,まるでその肉体の質量のため重力が働いていそうなくらいである。私が憧れてやまない北斗の拳のラオウのような身体。そんな彼の重量級の身体で行われるアクションは,ジェイソン・ステイサムのように格闘技の技術を見せるタイプのものではなく,筋肉をつかったストレートな肉体と肉体のぶつかりあいである。単純でわかりやすいだけに見ていて胸がすく。 しかし,リーチャーの魅力はアクションだけではない。軍警察で優秀だっただけあって,推理力はときにシャーロック・ホームズのようでもある。性格も部下を信じる正義漢そのものなのだけれど,それでいて会話にユーモアもある。そして必要なもの以外身に着けない。ドラマ内では,彼は少額の現金と歯ブラシ一本を持ち歩いているだけである。 シリーズ1,2とそれぞれ大きな陰謀に巻き込まれるのだけれど,周りを固める脇役たちも悪役を含めて素敵だ。それぞれに味があって,リーチャーの魅力を引き出している。彼らがいなければ,リーチャーがただのスーパーマンの絵空事になってしまうだろう。 現在はシリーズ4が放映されているというから,アメリカでも人気シリーズなのだろうと思う。いやアメリカでこそ人気が出そうな話かな。各シリーズ8話で完結しているのも見やすい。気分をスカッとさせたい人にはぜひおすすめである。 【余談:リ...

大好きだったベルギーの絵本――私が唯一集めた「タンタン」のキャラクターグッズ

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私はあまりキャラクターというものにこだわらないので,映画のキャラクター(たとえばゴーストバスターズのマークとか)やアーティストのマーク(ローリングストーンズやキッス,そしてオアシスとか),そしてもちろんキティやリラックマ,くまモンなどがついているものを身に着けることはほとんどない。もっというと,ときどき車のリアウィンドウに貼られているのを見かけるラジオやテレビの番組のステッカー,あるいは晴明神社のセーマンのステッカーなども貼る趣味がない。 そんな私が珍しく一時期キャラクターグッズに凝っていた時期がある。そのキャラクターは タンタン(Tin Tin) である。タンタンに初めて会ったのは図書館の絵本コーナーで,フランス風(実はベルギーのキャラクター)のバンド・デシネの大型本の装丁となっていて,とにかくキャラクター,色使い,そしてコマ割りなどがおしゃれだった。日本の漫画や絵本とは雰囲気が違っていて,一度見て忘れられない絵本になった。図書館の本もボロボロになっていた覚えがあるので,たぶん当時から多くの人が借りて人気の絵本だったのだろう。 大人になっても街でタンタンを見つけるとついつい目を引かれていた。以前は,タンタンのキャラクター専門店が「京都」と(なぜか)「新潟」にあって,近くに行く機会があるとついついお店に寄っていた。それなりに流行っていたように見えたけれど,実はそれほど日本での知名度が高くなかったのか,いつのまにかお店はなくなっていて,現在は東京と前橋の店舗だけのようである。 お店が新潟にまだあったころ,私は結構な数のキーホルダー,バッジなどを購入したはずなのだけれど,それらは身に着けているうちにいつのまにかなくなってしまっていて,いまではキーホルダー・キーリングが3つ残っているだけである。それでもこれらのタンタンのデザインを見ると,少し緊張がほぐれる感じがして,いまでも私のお気に入りとなっている。 手元に残ったタンタンのグッズ いつか東京の店舗に行って,またグッズを買い足したいと思う。タンタンは大人が身に着けていても恥ずかしくないような気がする。 #10年以上も前,タンタンの物語がスピルバーグによって映画化された。しかし,3Dで造形されていて,私にとっては魅力が半減していた。残念...

【夏曲】90年代のカッコよさが詰まった名曲「ENDLESS SUMMER NUDE」の魅力を語ってみる

 このブログではクラシック音楽の話題をすることが多いから,いつもクラシックばかりを聴いているかというともちろんそうではない。ロックも聴くし,ポップスも聴く。ただし,ちょっと古い曲ばかりだけれど... 今回は夏に聴きたいカッコいい曲を紹介。夏といえば,「若者のすべて」(フジファブリック)あたりがいまでも若者にも人気なのだけれど,私のイチオシはなんたって ENDLESS SUMMER NUDE (真心ブラザーズ) である(山Pのものではないよ)。 まず曲がいい。 原曲の「 サマーヌード 」もいいのだけれど,セルフカバーしたこの曲のアレンジが素晴らしい。ディスコ風な感じで原曲よりもずっと垢ぬけている。 次に唄がいい。 Music Videoの真心ブラザーズのボーカル YO-KINGもいい感じ に「サマーヌード」の頃より大人びていて,ボーカルも力が抜けている。そして少しぶっきらぼうなところが曲にあっている。このころのYO-KINGのカッコよさは90年代終わりころをよく代表していて,このカッコよさがあればジュディマリのYUKIが惚れたのも無理はないと思わせる。 この曲を知らない人はぜひ一度耳にして90年代のカッコよさというものを感じて欲しい。そしてすでに知っている人はこの夏にもう一回聴いてあの頃を思いを馳せて欲しい。 #RIP SLYMEの「 熱帯夜 」あたりは2000年代のカッコよさがにじんでいる

究極のコミュニケーションとは「相抜け」か?

 究極のコミュニケーションとは格闘技における試合ではないかと思っている。 ボクシングや空手,柔道などの試合を見ていると,相手と向かい合うときにヒリヒリとした緊張感が伝わってくる。誰が間合いを破って仕掛けるのか,どんな戦略で来るのか,そんなことを読みあっているのかもしれない。 武道における試合とは,本来生死をかけた真剣勝負であり「死合」である。だから合氣道では試合は禁じられていると藤平光一先生もおっしゃっていた。ルールがあって,勝負に終わりがあるスポーツ的な試合ではなく,命のやり取りをする試合だったとしたらどうだろう。相手は何をやってくるのかわからない,もしかすると武器を持っているかもしれないという状況の中で間合いを取り合い,相手の出方を読む。 このとき,全身全霊で相手に集中する。相手の一挙手一投足,そして一呼吸にまで気を遣う。こちらから相手の出方を探るのではなく,むしろ相手と一体化する。これは気の合う仲間と行うリラックスしたコミュニケーションとはまったく逆の状況であるけれど,極限まで相手とひとつになろうとするのは,ある意味究極のコミュニケーションなのではないかと思うのである。それも命を懸けた。 試合の結末はどちらかが命を落とすまでか,あるいは「相打ち」で双方が命を落とすかの二つであるならばなんと殺伐としたものだろう。究極のコミュニケーションの結末は常に悲劇的であるなんて。 しかし,ある流派がこの問題の解決を提案している。それは「無住心剣流」の「相抜け」である。この流派では,死命を決する,あるいは「相打ち(互いに斬り倒す)」で終わる畜生剣法ではなく,どちらも生き抜いて終わる「相抜け(互いに斬り合わず、刃を交えずに生き残る)」を究極の目標としている。そしてこのときの境地を「聖」と呼んでいる。 私は最初にこの流派を知った時には,まだ私も若かったこともあって崇高な目標に感激したものである。開祖 針谷夕雲と二代目小田切一雲が立ち合って「相抜け」を実現したときには,夕雲は一雲に向かって香を焚いたとされ,宗教的な意味もあったのだと思われる。しかし,この流派は実法よりも心法にはしりすぎたところがあって,全盛期は一万人以上の門下生がいたといわれるにも関わらず,失伝してしまったらしい。また三代目 真里谷円四郎と二代目小田切一雲が立ち合った際には「相抜け」とはならず,円四郎が一雲...

人生で最凶のおみくじをひく

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 この数年,私はたぶん人よりも高い確率で,おみくじの「凶」を引いていると思っている。それも「かなりの確率」で。 これまでもこのブログで, 厳島神社で3回連続して凶をひいた話 や 大阪の豊國神社で学生3人とおみくじを引いたら全員が凶だった話 などを紹介してきた。つい最近も近所のあるお寺でおみくじをひいたのだけれど,これが今までにない「最凶」の内容だったので紹介したい。 おみくじの写真を紹介するけれど,とにかくひどい。信頼する人に裏切られ,お金,恋愛,健康の全方面で失敗することになっている。 そして,今回のおみくじで本当におどろいたのが,最後の言葉。 「生き死には十中八九死ぬ」 こんなおみくじってある?あまりのワードの強さに開いた口が塞がらなかった。ということでぜひ紹介したいとこの記事を書いた。 ちなみに私はこのおみくじを持ち歩いていて,己を省みることを心掛けている。 凶のおみくじ前半。絵も強盗に襲われている おみくじ後半。とにかく内容がひどい。たぶん私はこの世からいなくなるのではないか?

異世界転生全盛期に、あえて『ハードSF』を読まずに死ねるか!

 「最近,ハードSF作品は人気がないのではないか」という話を学生としていた。アイザック・アシモフやアーサー・C.クラーク,フィリップ・K・ディックといったSF作家の作品に触れている人は,私が学生時代に比べどんどん減っているのではないか,という話題である。 最近は純粋なSFというよりももっぱらファンタジー要素多めの作品が多い。魔法や超能力など都合の良い設定が多いようである。もちろん,超能力をネタにするにしても,筒井康隆の「七瀬シリーズ」や小松左京の「エスパイ」とか,設定がかたい作品もあるけれど,現代では最初から最強のチート能力があったり,ピンチになると新しい超能力が覚醒するなどのご都合主義のものが,漫画でもアニメでも多くなっている。特に流行りの異世界転生物語などはSFではなく全くのファンタジーである。同じ異世界転生でも半村良の「戦国自衛隊」などは設定がちゃんとしていて読みごたえがあり,ファンタジーとは大きく異なるといえるだろう。 なぜハードSFが不人気なのかと考えると,まず (1) 設定が難しい ことが挙げられるだろう。その世界のルールを理解するために多くの背景となる科学的・技術的基盤を理解しなければならず,作品を楽しむためにそれなりの努力が必要となる。「SF」(アメリカではSci-Fi)とはもともとはScience Fictionの略なのだから,科学なしには成立しないのだから仕方がない。 次に (2) 気分直しにスカッとするような話が少なく哲学的なテーマ が多いことだろう。ファンタジー系のように最初から主人公がチート能力で悪役をバッタバッタと倒していくような話や,あるいは復讐劇で最後に留飲を下げるような展開ではなく,ハードSFではSFだからしか描けない設定の中で哲学的なテーマを取り扱っているものが多い。それもサイバーパンクやディストピアなど暗い未来の設定ばかり。 例えば,アシモフの「われはロボット」とか,クラークの「幼年期の終わり」,そしてディックの「高い城の男」などの古典もあるし,日本でも,戦闘機が意識を持ち始める話の神林長平の「戦闘妖精・雪風」や,人間には虐殺を行う器官があるという設定の伊藤計劃の「虐殺器官」など,読み応えがあるものが多い。ただし,この「読み応え」こそが若者がハードSF作品を敬遠する原因になっているのではないかと思っているのである。 それ...

キャンパスの掲示板で見かけた『攻殻機動隊』——科学技術立国の幻影とディストピア化する未来像

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 学内の掲示板で,「攻殻機動隊」のポスターを見つけた。文科省の「科学技術・イノベーション白書」の宣伝らしい。最近,オリジナルの「The Ghost in the Shell」のアニメが制作され放映開始となったことを知っている。確かにこの作品はハードSFに分類されるだろうから,SF好きな理系少年少女の興味を惹いてくれることを期待したいけれど,押井守の映画でさえ知らない学生が多いから,どれだけの中高生の興味を惹いてくれるかは残念ながら少し怪しいと思う。 掲示板で見つけた文科省のポスター 昨年のこのポスターではたしか「Dr. STONE」が採用されていた 。私は読んでいないけれど,どうも実際の科学考証にもとづいたネタを使った人気漫画だったらしい。同僚の先生に「Dr. STONEって知ってます?」と聞かれて驚いたことを覚えている。学生に尋ねてみたのだけれど,残念ながらこちらのポスターの認知度はたいへん低かった。 しかし,文科省はこうしたアニメや漫画に頼って少年少女への科学・工学への啓蒙をするしかないという状況がなんとも理工系への不人気を表しているようで,ほんとうに悲しい。昔はこんなことを言わなくても,「科学技術立国 日本」という看板を背負って理工系に進む学生が多かった。理工系に夢があった。 しかし, 現在は理工系の研究者・技術者になることが社会的にあまり成功と思われていない ようだ。この理由は一にも二にも理工系の人たちの 給与の低さが社会的な評価を下げている からだと私は思っているのだけれど,それに加えて 科学技術はどこか社会を支えるものではなく,「敵」だと思われているフシがある からのように思われる。極度に進んだ科学技術は人間社会の安定を脅かすものだと私たちはどこかで思っているのではないだろうか。 映像化されるSF作品の多くが輝く未来ではなくディストピアを描いているからかもしれない。AIだってすでに多くの人が便利だといって使っているわりにその進化には不安を抱いているように思われるし,人類がこのまま順調に発展していくと思っている人はそんなに多くないのではないかと思う。そうした社会的課題や不安を解決するための人類の武器が科学技術であるはずなのに,潜在的な危険ばかりに目を向けて科学技術から遠ざかろうとしているような雰囲気が特に子供たちの間にあるのが心配なのである。 ずい...

誠実で素敵である理想的な会話とは

 理想的な会話とはどのようなものか?と私はずっと考え続けている。残念ながら私はテレパシストではないので,誰かと意思疎通をするためにはなんらかのコミュニケーションを必要としていて,もっとも身近で人間的なコミュニケーションはやはりアドリブで行われる日常の会話であると思う。だから言語的そして非言語的な情報をやりとりして行う会話を改善する方法について日頃から興味をもって情報を集めている。 こうしたコミュニケーションに関する本などを見ると,ラポールを築くための方法について解説されていて,たとえば「相手の言うことを否定しない」とか,「相づちをタイミングよく打つ」とか,あるいは「話すスピードを相手に合わせて変える」,果ては相手の動作を真似する「ミラーリング」などのテクニックが紹介されている。 確かにそうしたテクニックはコミュニケーションを職業とするような人たちには大切なのだろうけれど,そんなテクニックを常に頭に置いて行う会話が本当に私の求めるものなのかと疑問に思う。相手が話しているというのに,次に話すことやその発声について考えていることが本当に誠実なコミュニケーションといえるのだろうか。あるいは話している相手の動作に注目し,思考を読み取ろうとすることが,敬意ある態度といえるのだろうか。 私の理想的なコミュニケーションとは,相手の話を,否定もせず肯定もせず全身で聴き,その反応としてどんどんと広がっていく考えや感情を素直に相手に伝えることであると思っている。でもこれは今思いつく要件のひとつで,その他にも満足したい要件はたくさんある。次にどうしたらいいのかなんて考えずに,相手の話をそのまま受け止めて自然に反応する。カフェで時間も気にせず,次から次へと話題が出てくる会話。そんな会話ができたらどんなに素晴らしいだろう。 ミラーリングのテクニックだって,本来,話が盛り上がっているふたりの動作や話し方が同期してくるという特性を逆に利用しているわけであって,素敵な会話ができればおのずと実現されるものである。わざわざミラーリングなんてしなくてもよいはずなのである。 また信頼する関係性があるならば,相手の言葉や動作の癖や視線に注意して心の中を探る必要もない。またこちらも手の内を隠す必要なんてないし,相手を誘導する必要もない。そんな立場が対等で相手を尊敬しあう会話ができたらどんなにいいだろう。...

SNSのおかげで対面のコミュニケーションのハードルが高くなってきている

 現代はSNSが発達し,コミュニケーションの方法が多岐に渡っている一方で実はそれぞれのコミュニケーションの質が落ちているような気がしている。 InstagramやTikTokなどを用いて私たちは数十年前にはできなかった画像や動画付きの発信が容易にできるようになった。しかしそれらはどうしても発信者からの一方通行であることが多く,受信者からの情報が発信者には届きにくい。 双方向コミュニケーションでいえば,以前の音声だけの通話に比べ現在はビデオ通話ができるではないか,という意見もあるだろう。確かにビデオ通話は大きな進歩である。例えば,祖父母と孫がいつもビデオ通話できていれば,実際にあった時に孫が「このおじいさん,おばあさんは誰?」と戸惑うこともないだろう。音声だけでなく,表情や身振りは電話では伝えることができない重要な情報である。 双方向のやり取りができるものとして最も使われているのは,LINEなどのテキストベースのツールだろう。しかし,こうした文字だけのツールではどうしても伝えきれない気持ち,雰囲気がある。送るテキストの不十分な短さがそれを増長している。だから顔文字みたいなものが発明されてきた。 結局,こうしたデジタルデバイス(電話はアナログだけれど)を介したコミュニケーションでは伝えきれない情報があり,そのためにいろいろな問題があることをみな毎日のように痛いほど経験している。 しかし,一方でこれらのデバイスに頼れば対面でコミュニケーションをとらなくて良いので気が楽なのも事実である。対面で謝るよりもテキストで謝った方が楽であるとか,テキストメッセージの方がこちらの様子が伝わらなくて都合がいいという場合も多々ある。いや,実際には対面でコミュニケーションをとるよりも,ずっとテキストベースの方が楽である場合の方が多い。それはこちらが伝える情報が対面よりもずっと絞られるからである。 こうして考えると,対面でやりとりされる情報がいかに多いかを思わざるを得ない。私たちは「 メラビアンの法則 」をあげるまでもなく,話の内容だけでなく,相手の身体の姿勢や表情・視線,身振りなどの視覚情報や,語調や声の高さ,スピードなどの聴覚情報によって,コミュニケーションを成立させている。テキストメッセージ(言語情報7%のみ)がいかに楽で、逆に対面(残り93%の非言語情報も処理)がいかに脳に負担...

白Tシャツで挑むカレーうどんと、あの夏のカレーの思い出

 テレビのCMではないけれど,夏になるとカレーライスが食べたくなる。それもちょっとスパイシーなカレー。食べるとしばらくして額に汗が浮かんでくるような大人の辛さが好きである。 日本人にはカレーライスを大好きな人が多い。「カレーは飲み物」といまだに言っている人もいるし,カレーを食べながら,「おどば阿蘇山たい!怒ればでっかい噴火山たい!」と叫んでいる人もいる(いや,いない)。昔は給食の人気メニューだった。おかわりのためにナベの前に子供たちが列を作っていたものである。いまでも子供たちの好きな給食メニューにカレーは含まれているのだろうか。 こだわりのカレーを提供する店も多くてそれぞれの店に特有の味がある。学生時代は古本をさがしに東京の神田をウロウロすることが多かったけれど,神田は古本だけでなくカレーの聖地だった。ちょっと一杯の値段は張るけれどいろいろなカレーを試すことも神田の楽しみだった。 渋谷にはボルツというお店があって,たしか辛さ30倍くらいのカレーも提供されていたような記憶がある。激辛カレーのはしりだったと思うのだけれど,そこで出されるトウガラシのピクルスなどさえも辛かった(チャツネは甘辛かったけれど)。今もボルツはあるのだろうか。 私が住んでいた自由が丘では,自由が丘デパート(?)2階にあった「レインボー」というお店によく行っていた。卵カレーを食べていたかな。スパイシーということではなかったけれど飽きの来ない味だったから(そして値段もそこそこだったから),ときどき訪れていた店だった。以前自由が丘を訪れた際に思い出してレインボーを探してみたけれど,残念ながら見つけることはできなかった。 一方,新潟では万代バスセンターのカレーが有名だ。典型的なそば屋が出す黄色いルーのカレーで,真っ赤な福神漬けと合わせて,昔ながらの味が提供されている。私が食べたのはミニサイズだったけれど,それでお腹がいっぱいになるくらいだったからコストパフォーマンスも良い。店に行くと長い人の列ができていて驚くけれど,基本,立ち食いなので席(?)の回転率は良く,意外と早く順番が回ってくる。昭和のカレーライスが好きな人にはぜひおすすめである。 ここまで私の好きなカレーライスについて話してきたけれど,実はカレーうどんも大好きである。ただカレーうどんも最近は高価格になってきた。東京駅の古奈屋というチェーン...

筋トレに本当に必要なのは「S・M・N」の三要素?昔の自分が鏡の前で学んだこと

 最近,24時間営業しているトレーニングジムがあちらこちらにできたり,マッチョな芸人が増えているのを見たりしていると,現在は相当なトレーニングブームなのだなと実感する。それだけ健康志向が強まっているのだろう。まぁ, トレーニングは自己肯定感を上げるために行うものであって,ダメな生活への免罪符である と思っているから,それだけつらい毎日を過ごしている人が多くなってきたということなのかもしれない。また他のレジャーに比べ時間が縛られず,比較的安価に続けられることも理由のひとつなのだろう。 私も大学時代,一時期ウェイトトレーニングに熱中していて,バーベルやダンベルなどのフリーウエイト,そしてドラゴンフラッグなどの自重トレーニングを,毎日のように行っていた。そして鍛えられた身体を鏡に映して悦に入っていたものである。 その頃, トレーニングにはS・M・Nの三要素が必要 だと思っていた。 まず,Sとはサディズムである。トレーニングとはどれだけ自分を苛め抜けるかという精神力が必要であると思っていた。肉体を苛めることに快感を感じるようになれば最高である。ウエイトを増やし,自分を苛める。この傾向がなければトレーニングは始まらない(現在のトレーニング理論では少しでもやりすぎるとコルチゾールが筋肉に悪影響を及ぼすことが知られているけれど)。 次に,Mとはマゾヒズムである。肉体を苛め,つらさや痛みを感じることが快感になるところまで自分を洗脳する。ゾクゾクして身体に与える負荷を増やすようになれば,トレーニングは自然と進む。 そして最後のNはナルシズムである。私はこれが一番大事な要素だと思っている。なぜならトレーニングで大切なのは全身がうつる姿見の鏡に毎日自分の身体を映してチェックすることだと思っているから。トレーニング後にパンプアップした全身の筋肉に惚れ惚れする。あるいは風呂上りに,大胸筋をピクピクと動かしたり,脂肪がそぎ落とされた腹斜筋にうっとりしたりするのだ。この自己陶酔が続く限り,トレーニング熱は続く。肥大していく筋肉こそ自分ができる人間であることを感じるようになったら,もう万全である。 ではなぜ現在,私はトレーニングを続けていないのだろうかと考えてみる。それは,S,M,Nのどの要素も昔に比べて自分の肯定感に影響を与えなくなってしまったからではないかと思われる。特に,N(ナルシズ...

学会の休憩時間はAIの情報交換の場になっている

 最近,学会に参加するとあちらこちらでAIの話題で盛り上がっているのを見かける。参加している学会はもちろんパワーエレクトロニクス関係のものでAIの学会ではない。しかし,会期中のコーヒーブレイクや昼休み,はては夜の懇親会まで,AIをどのように使っているか,という情報交換の場になっている。 実は,私がAIの存在を意識し始めたのはちょっと違っていて,都立大学の某先生から3~4年前からAIを使うべきだと強くお勧めをいただいていた。生成AIであるChat GPTが公開されてから一部で話題になっていたのは知っていたけれど,正直こんなに便利だとは思ってもいなかった。そして現在,ようやく重い腰をあげて私も使うようになったのである。 いくつかの生成AIを目的によって使い分けている人も多く,議事録作成だったら****,メールとの連携を考えるとXXXX,またコード生成だったらOOOOなどと便利情報を教えてくださる。おかげで私のブラウザのブックマークには,Chat GPT,Copilot,Geminiの3つのアイコンが並ぶようになった。Claudeはもう少しあとで試してみるつもりである。 私は古い人間のせいか,こうした新しいツールを使おうとする際に一応ちゃんとしたテキスト本(教科書的なモノ)を読むことにしている。AIの話を聞くと,「そんなのネットのあちこちの記事を読めば使えるようになるよ」とアドバイスを受けるのだけど,もう耄碌しているためかそうした部分部分の情報を自分の頭のなかで系統立てることが面倒になってきている。その点,本は系統立てて解説されているから脳への負担が少なくて済むのがいい。まぁ,その本でさえいまだに途中までしか読み終えていないのだけれど。 若い世代がAIへなんでもかんでも相談して依存してしまうことが問題となってきているけれど,確かにAIに頼るようになって自分の頭を働かすことが少なくなってきた。例えばメールを書くにしても説明する話題の順序などを考えなくて良いようになった。これまでそうしたことに時間を費やしてメールを書いてきたのだから,時短ができてそれはそれで素晴らしいことなのだけれど,脳が衰えてくるのも実感できている。自分の脳のアクティブさとAIへの依存のバランスを現在模索しているところである。 学会に参加するたびにAIに関する新たな知識を得て自分のレベルアップを図っ...

タンクトップのマッチョ男子学生をみると身体がむずがゆくなる

 夏になった。そして大学のキャンパスでもタンクトップを着ている男子をよく見かけるようになった。みんな発達した三角筋や上腕二頭筋を見せびらかすように歩いている(なぜか僧帽筋が発達している人はあまり見かけない)。私はそうした男子たちを見ると身体がムズムズしてくる。見ているこっちが恥ずかしくなるのだ。 私も大学時代,トレーニングに集中していた頃がある。大学のトレーニングセンターに毎日のように通って,今日は上半身の日,明日は下半身を鍛える日などと,フリーウェイトのトレーニングを続けていた。そしてちょっとナルシズムに浸っていた。たとえばスタンディングローで僧帽筋を鍛えていて,最後の回が終わるとバーベルをそっと床に置くのではなく,少し上から落として「ドン」という音をさせたりしていた(もちろん床には厚いゴムマットが敷かれていて床面は保護されていましたがあまり許される行為ではありません)。そして,バーベルが置いてあるスペースの前には大きな鏡が設置されているから,そこにパンプアップした筋肉を映して悦に入るのである。そして忘れずに牛乳でシェイクしたプロテインを喉に注ぎこむ。その頃のプロティンは牛乳に実に溶けにくく,ダマになったプロテインの粉を舌でつぶしながら飲んでいた。本当にまずかった... 大学で着ている服もノースリーブのTシャツを着たりして,肥大した筋肉が見えるような恰好をしていた。今思い出すと本当に恥ずかしい...私の黒歴史である。トレーニングをしていると自分の身体に自信を持つようになり,そうした筋肉を見せる服装をしがちであるけれど,若さゆえの自己顕示欲でしかない。その忘れ去りたい思い出がたぶん現在のマッチョな男子を見るときにむずがゆさを引き起こしているのだろう。 そんな私の筋トレライフはある日突然終わりを迎える。修士学生の頃,合氣道の師範に「三浦君,ウェイトトレーニングとかしているの?馬鹿になるからやめるように」と言われて,それ以来サンドバッグトレーニングと少々の自重トレーニングしかしなくなった。そして私はデブになった。

オフィスでハーフパンツを履けない、もう一つの理由

 夏の暑さが酷いので,オフィスでもハーフパンツを履いてはどうかという話がでてきている。おじさん(おじいさん)がハーフパンツを履くのは気持ち悪いという議論が持ち上がるのも仕方がないことだと私も思う。 ハーフパンツはどうもお子様っぽく見えてしまう。家では私も短パンやステテコを履いているけれど,さすがに職場では履く勇気がない。半袖のカッターシャツでさえ私は着るのを躊躇するのにハーフパンツとなると相当ハードルが高い。そもそも履きたいとも思わない。 そのうえ,私の場合はハーフパンツを履くために,エチケットとしてスネ毛の処理が必要だろう。学生時代,ローキック強化のためだといってビール瓶でスネを叩いて鍛えていたころはスネがツルツルになっていたけれど,今は毛を剃るか脱毛が必要だろう。その手間を考えるとちょっと遠慮しておきたい。 私のスネ毛はそれなりに生えていて長さもある。そのことを実感したのは,大学院生の頃。原子力学会の「若手夏の学校」で五島列島に合宿に行ったときのこと。そこでは講義の間に海を楽しむ休み時間が設けられていて,研究室のみんなと一緒にハーフパンツを履いて海へと繰り出した。海の水は本当に透き通っていて,誰もが青い海を満喫していた。私はふとスネをトントンと軽く叩くものがいることに気づいた。足元をみると小魚が波に揺らぐ私のスネ毛を海草と間違えて足の周りに集まってきていた。思いがけないスネ毛の森の訪問者に思わず笑ってしまった。それ以来,人前でスネをさらすのがますます恥ずかしくなってしまった。 ということで私はこの夏もハーフパンツをはいて人前に出ることは遠慮しておきたいと思っている。

一澤信三郎帆布の手さげかばんを新調する

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 最近,かばんを新調した。手提げのトートバッグである。これまで6年以上愛用してきたトートバッグの持ち手がボロボロになってしまったためにこのたび買い直した。 新調したのは 一澤信三郎帆布 の 手提げかばん (大)H-04である。この手提げかばん(トートバッグ)の良さは,構造がシンプルで,いろいろなモノをカバンのなかに「 ガフガフ 」気にせず放り込むことができることである。この「ガフガフ」という形容が私の感覚にはピッタリで,以前にかばん屋さんに行って,「なんでもガフガフ入れることができるかばんが欲しい」と店員さんに尋ねたくらいなのだけど,もちろん店員さんは理解できず,その後一生懸命説明した。毎日,着替えやペットボトル,その他,PCアクセサリ,A4書類など,なんでも放り込んで使っている。トートバッグは上部の口が開いているので,収納にジッパーを開けるなど頭や手を煩わせることがない。そこが気に入っている。 トートバッグといえばやっぱりL.L.Beanの製品に憧れていて,学生時代などは「メンズクラブ」や「BE-PAL」なんて読んでいたから,あのザックリと縫い合わされた生成りの白い帆布に青や赤の持ち手がついているバッグにタオルなどを詰め込んで,海やアウトドアに行くのが夢だった(実はインドア派なのでカッコだけに憧れていた)。氷や水をバケツのように運ぶことができるという機能性がカッコいいと思っていた。 一方,私が6年間使っていた一澤信三郎帆布の手提げかばんは,L.L.Beanのトートのように帆布でできているけれど白ではなく黒色であった。私はこのかばんを現在の大学に赴任する際に以前の大学の研究室の学生たちから記念品としてもらったものである。もちろん私はこのブランドは知っていたから,わざわざそれを選んでくれたことが本当にうれしかった。そして今回新調するにあたっても同じ型を選ぶことにした。 このかばんは、トートバッグとしての長所はもちろん、以下の4点ですこぶる使い勝手がいいのだ。 上部のハトメとひも: 開口部を閉めることができる(数回しか使っていないが便利)。 A4書類が縦に入る: クリアファイルを縦に突っ込める絶妙なサイズ感。 驚くほどの軽さ: しっかりした構造なのに思いのほか軽い。「かばんにおいて軽さは正義」である。 底鋲(びょう)による自立: 床に置いても自立するので...

「軽く説明します」にモヤッとする理由。言葉の『軽さ』と品のなさ

 最近気になる言葉遣いに, 「軽く説明します」 というフレーズがある。学生たちのプレゼンなどを聴いていると,このフレーズがあたり前のように使われているのだけれど,私はそのたびに少し「イラッ」とするのである。 もちろん意味がわからないわけではない。「軽く」という形容詞は,たぶん「簡単に」とか「短く」などという意味で使われているのだろうけれど,「説明」の内容自体が「軽い」ようにも意味が受け取れて好ましくないように思っている。どうも「 品がない 」ように感じてしまう。 同じように「品がない」と感じてしまうのが,「パーセント」を「パー」と短縮して説明することである。こちらもかなりの頻度で聞く。たとえば,"6%"を「ロッパー」などと読むのである。学会でもそのように話す人がほんとうに多いから,今では違和感を感じる人が少ないのかもしれない。でも,私の個人的な感覚ではやはりこの短縮は「下品」に感じられるのである。 研究室の研究進捗報告会などで,学生が「軽く説明します」などというと,「軽く?」と嫌味っぽく,たしなめることも多いのだけれど,あまりピンときていないようである。そもそもそうした話し方に上品も下品も感じないのだろう。 以前にも この題材で記事を書いた ことを思い出したのだけれど,それはもう17年も前らしい。17年経った今も、私の感覚は変わっていないらしい。