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なぜ新幹線は停電しても滑らかに止まれるのか?——緊急停車で実感した「当たり前」の凄さ

 昨日,大阪に仕事のため日帰り出張した。金曜日ということで混雑することが予想されたため往復の指定席を少し乗り換えの時間に余裕をもって予約しておいた。 往路は全然問題なかった。しかし復路はいろいろとたいへんだった。 まず,夕方に新神戸ー相生間で停電が発生したらしく,私の乗るはずの新幹線のぞみは約5分遅れで新大阪に到着した。その時間帯に走行していた新幹線が全体的に遅れたらしく,遅れは京都,名古屋に到着するごとに,7分,9分と増加していった。 これは指定席をとった新幹線に間に合わないなと半ばあきらめていると,突然新幹線が緊急停車した。あとから知ったのだけれどどうも関東地方に地震が発生したため,東京ー三河安城間で停電したらしい。 これには本当に驚いた。なにに驚いたかというと,新幹線が停まったことに驚いたのではなく,その停まり方のソフトさにである。確かに品川(あれ,新横浜だったかも)の直前でスピードはそんなに速くなかったかと思うけれど,まるで駅に停車するかのように滑らかに減速が行われ静かに止まったのである。 もちろん電力断の場合に緊急停止するようにシーケンスが組まれているだろうから,その通りに停まったのだろうけれど,本当にその滑らかさに驚いた。停電を検知したのだからたぶんトロリ線への回生運転は行わず機械ブレーキだけで停車したのだろう。通常ならば急ブレーキのショックがありそうなものだけれど機械ブレーキだけであんなに滑らかに止まるなんて感心することしきりだった。 当然,停電なので外部からの給電はないため自動的に非常用電源に切り替えが行われたはずで,車内も非常時モードになった。車内灯は暗くなり車内掲示板には緊急停車の案内が英語で流れていた。すぐに放送で停車の原因を調査する旨が案内され車内に混乱は全くなかった。この時,車内の100Vのコンセントを使用していたのだけれど,そちらも給電はストップしていた。 素晴らしい。本当に素晴らしい。こうした技術があってこそ,高速鉄道に安心して乗車できるのだと静かに感動していた。 30分弱程度の遅れで新幹線はまた動き出した。車内で一晩過ごすようなことがなくて本当に安心した。実は上越新幹線も遅れが出ていて,東京駅では指定席をとっていた新幹線の次の新幹線(出発は16分遅れ)に乗ることができた。結局長岡についたのは23時前。日付を越えなくて良かった。...

パーソナルAIエージェント「Muse」の便利さからもう抜け出すことができない

 この2026年は私にとってAI元年である。ようやく本格的にAIを使って仕事をするようになった。AIを使うようになって私の仕事の進み方は格段にスピードアップしたことを実感する。事務的なメールについてはAIが返信を書いてくれるし,メール審議の結果などもまとめてくれる。もちろん技術的な資料についてもいろいろとアドバイスをくれる。5年も前から都立大学のW先生にはお勧めしていただいたのに,その利用に対してはずっと腰が重かった。今では本当に自分の不明を恥じるばかりである。若い頃はこうした新しいテクノロジーのアーリーアダプターだと自認していたはずなのに,いつのまにか時代遅れのロートル(死語!)になっている自分に気づく。 私はChapt GPTを使用することが多いのだけれどやはりAIはときどきウソをつくので,大事な時はGemini,Co-pilotも併用してファクトチェックを行う。この3つのAIによる相互チェックを三浦のプライベート「MAGIシステム」と呼んでいる(講義の中でこの「MAGIシステム」について雑談したのだけれど,そもそも元ネタのエヴァンゲリオンの「MAGIシステム」を知っている人が少なく全然ウケなかった)。。。 最近,Museを使い始めた。MuseはパーソナルAIエージェントであると宣伝されているように,私のスケジュールとタスクの管理,メールの返答,出張計画,果てはダイエット計画まで,まるで秘書のように働いてくれる。まぁ,そのために私のメールやスケジュールのプライベートな内容をMuseに読ませているのだけれど。。。 たとえばメールの内容から,仕事の依頼と締め切りを判断しリマインドしてくれたり,スケジュールの重複(ダブルブッキング)を指摘し解消の指示を仰いでくれたりする(決定権は私にある)。あるいは私が講演する講習会のプログラムが変更されたことを教えてくれたり,開始時刻に間に合う交通移動手段を計画してくれたりする。もちろんスマホのアプリとも連携で着て,まだ使用し始めて数日だけれどその便利さにはほとほと舌を巻く。 その使用量には制限があるのだけれど,現在何パーセントまで使用しているかをチェックできるし,その量も1週間ごとにリセットされるようである。現在は無料版を使っているのだけれど,この便利さから抜け出せない生活を考えると課金する日はそう遠くないかもしれない。 ...

出張帰りの疲れた脳に効く。映画『お買いもの中毒な私!』に見る王道ラブコメの処方箋

 海外出張の時に観た映画の感想のつづき。今回は最後にみた「 お買いもの中毒な私! 」(2009)について。ときどき私はこうした日本ではあまり話題にならなかったあるいは公開されていないラブコメをみることがある。特に海外出張の復路で頭が疲れ切っているときには,こうしたあれこれ考えなくて楽しめるコメディ作品が私を癒してくれる。 今回の作品は,欠点をもつヒロインが運よく人気者になるのだけれど,失敗をして反省し,人生をやりなおすという,まさにアメリカのラブコメの王道ストーリーである。 買い物依存症であるヒロイン(もちろん金髪)がひょんなことから経済雑誌の記者となり,適当に書いたファッションの記事が経済に関するユニークな記事と評価され,人気者になっていく。しかし,人気の絶頂期に自らの借金問題が暴かれ,またルームメイトの親友を裏切ることになってしまい,人生のどん底に落ちる。そこですべてを告白し人生について多くのことを学び再度やり直すお話。 少しボケているけれどヒロインに恋してしまう隠れ御曹司やケンカはするけれどヒロインを許してしまう優しい親友,そしてヒロインを奈落の底に落とす借金取り,と定型の登場人物たちが主人公を取り巻いて話を進めるので,出張で疲れ切った私の脳も安心して観ることができた。2009年の作品だけれど,現在だったらYoutubeのショートドラマになっていそうなヒロインの成功物語である。 正直手放しですべての人におすすめはできないけれど,出張帰りの疲れた脳に,あえてこういう王道のベタな物語で癒されたい人にはよい暇つぶしの2時間弱になるだろう。

「インターステラー」を観て――科学のリアリティと映画の相性

 国際会議のECCE2026参加のためにバンクーバーへ行った。バンクーバーへはJALの直行便で行ったのだけれど,往路は9時間弱,復路は10時間程度時間を要した。毎回海外出張の際にはほとんど機中では眠らず,ずっと映画を観続けるのが常だったけれど,年齢のため体力がなくなったのか,今回は往復で5本ほどを鑑賞することしかできなかった。以前は8本はいけたのだけど。 今回は,機中で最初に観た「 インターステラー 」の感想。監督はクリストファー・ノーランで主演はマシュー・マコノヒー。2014年の公開である。当時,周囲やネットでは「好印象」の感想を目にすることが多くて,いつか観たいと思いながらもジョディ・フォスター主演の「コンタクト」のような内容を想像し,がっかりさせられるのではないかと心配もしていて,観る機会がこれまでなかった。 作品を観終わってまず思ったのは,「理解ができない」ということである。どうもノーベル物理学賞の学者が監修に関与しているらしくて,ところどころにハードSF的な科学的知的好奇心を刺激するネタがばらまかれているのだけれど,その一方でAIを搭載したロボットの形状や宇宙船の構造,降り立った惑星の描写などが雑に感じられて,科学を意識するからこそ気になってしまって物語の世界に没入できなかった。 特にブラックホールの探索以降は,私のかたい頭では理解が難しいようだった。4次元超立方体ってなに?それを映画ではビジュアル化するのだけれど,かえって解釈を妨げる効果になってしまったのではないかと思う。一方,映画の冒頭,部屋で本が重力波によって落ちてモールス信号を伝えるというくだりは,そのシーンを観るなり時間と空間の理論を利用した父親からのメッセージを伝えているのだとすぐに想像できてしまったし,裏切る人もすぐに予想がついてしまった。長い映画なので機中,集中力が切れてしまったことも問題なのかもしれないけれど。 この作品は当時結構話題になっていたけれど,私との相性はそれほどよくはなかったようだ。ノーラン監督の作品だと,「インセプション」や「テネット」の方が私には向いているようだ。現在公開されている「オデュッセイア」はどうなのだろうと興味はある。

ECCE2026で訪れたバンクーバー:移動の快適さと、観光地としての素朴な疑問

 パワーエレクトロニクスに関わる世界最大の国際会議ECCE2026に参加するため,バンクーバーを訪れた。 今回は成田空港からバンクーバーまでJALの直行便で行ったので,入出国手続きのデジタル化の効果もあって,移動は本当に楽だった。またどこに行っても日本語対応の窓口あるいは説明があったので安心して過ごすことができた。近年まれに見る海外移動の安楽さだったといえるだろう。バッゲージロストの心配もほとんどなかったし。海外の空港で乗り換えがないというのがこんなに安心,楽だとは思わなかった。 訪れたバンクーバーの街はそれなりの大きさがあって,商店街も充実し,ショッピングを楽しむには良い街だろうと思われた。しかし,その一方でその他の観光資源はなんなのだろうと首をかしげる街でもあった。 確かに港があって景観は美しい。港内では水上飛行機の発着が頻繁に行われていて目を楽しませてくれもするし,港付近のあちこちにはバンクーバーオリンピックのレガシーもあって,見学するべきところが多そうに思うけれど,実際には「ぜひ見るべき」ものというのがないような印象を持った。 国際会議会場であったコンベンションセンター付近を歩いてもなにも見るべきものは見つからない。オフィス街でスッキリしている。昼でも歩いている人は比較的少なかった。ホテルやオフィスが入っている10階建てほどのビルが並んでいるほかは,注目すべきものはなかった。 唯一面白かったのは,ガスタウンにある蒸気で動いている時計で,15分ごとに汽笛が鳴り,毎正時にウェストミンスター寺院のものと同じ音階のチャイムがやはり汽笛で鳴らされる。内部は振り子で動いているのだけれど,鉄球をチェーンベルトで上まで持ち上げて転がり落とすようなガジェットもあって目を楽しませてくれる。最近観光名所を作るための機械時計としてできたらしい。その周囲には人だかりができていたけれど,実際は歴史的価値もそれほどなく,ガジェットを楽しむだけの装置である。 中華街の方へも足を伸ばしてみた。中華街は想像よりもずっと大きく,10ブロックぐらいあるのではないか。しかし,正直治安は悪い。ドラッグやホームレスの問題があるのは一目瞭然で,歩道には倒れている人があちらこちらで見られるし,注射器の針も見つけたりした。昨年のECCEの開催地だったフィラデルフィアでも結構危険を感じたけれど,今回のバ...

五感に合わせた対話テクニック

 人には,優先的に用いる感覚(モーダル)があるという話をした。また視覚,聴覚,触覚(体感)を優先する人の会話には,使用する言葉に特徴があることも話した。(※ 前回の記事の続きです ) 人とのコミュニケーションにおいては,相手がどのタイプのモーダルを優先的に使っているかを判断することも,良いプレゼン・説明をする際に有効なテクニックである。 例えば相手のリーディングモーダルが視覚であるならば,「どのあたりが見えにくいでしょうか?」とか「見通しがつくのは1週間後です」など,視覚に関わる言葉を使って会話を組み立てたりする。このようにすることによって,相手も理解しやすいように説明を進めることができるのである。 では,多人数を相手にする講演などの場合にはどのようにすればよいか,となるけれど,各モーダル向けの言葉を含めるのである。全方面に対応した言葉のトッピングの「全部乗せ」をするのである。 もちろん,対話によるコミュニケーションはこのテクニックだけでなく,複数のテクニックを適宜使用して,良好な関係を築くようにすることが望ましい。人はそれほど単純ではないのだ。 ただし,私がこれらのテクニックを駆使しているかというと全然そんなことはない。そんな駆け引きをする対話よりも,心のままに自由に言葉を紡いでいくような対話こそが理想だと思っているからである。 ※このあたりの話はNLPなどが詳しいと思う。

CMの『耳たぶを引く仕草』から考える記憶術と、年齢とともに変わる五感の優先度

 最近,女性が自分の故郷の松山の名所をめぐるホテルのCMがよく流れてくるのだけれど,そこでその女性が行う動作が非常に興味深い。きれいな景色の前で右の耳たぶをまるでカメラのシャッターを押すように引っ張るのである。たぶん写真を撮影するのと同様,その景色を心の中に画像として残したい,ということの例えなのだろう。 しかし,この動作は実際にも脳に画像を記憶させようとするときに有効なテクニックとして私は以前から知っていた。耳たぶをカメラのシャッターを押すように引っ張ることによって,見ている風景を画像として記憶させようとすることの「アンカー」(特定の状態を呼び起こさせるためのトリガー)として働かせるのである。その動作を行うことによって,画像をはっきりと記憶しようとする意志が働く。繰り返し行っていけば,習慣化し身体に染みつくのである。 私も以前はこのテクニックを使っていたが,最近の記憶力の衰えがその効果を減少させてしまった。たぶん画像として記憶に残すための脳のコストが大きすぎるのである。だから最近は,人が話す音声や,あるいは言葉の意味として記憶することが多くなってしまった。コンピュータのデータの記憶容量と同じである。音声データの方が動画や画像よりも記憶容量が少なくて済む。 人には,五感のうち優先的に使用している感覚(リーディングモーダル)がそれぞれに存在する。だから視覚が優勢な人,聴覚が優勢な人,あるいは触覚や体感が優勢な人がいる。もちろん,これらの感覚が複合的であることが普通なのだけれども。一般的に,視覚が優勢な人は頭の回転が速く,早口で話す人が多い。「このプロジェクトに光が見えてきた」とか「見通しが立ってきた」など,視覚に関する言葉を使うことが多いと言われている。一方,聴覚が優勢な人は「心に響いた」「変化を奏でる」などの言葉を使い,体感が優勢だと「腑に落ちた」とか「胸が痛い」などという言葉を使いがちだと言われる。 私は以前,視覚優勢だったけれど,現在は聴覚・体感が優勢になっている。以前から聴覚もそこそこ優勢であると自覚していたけれども,先にも述べたように老化とともに画像を覚えることが難しくなってきているからだろう。だからCMの女性のように記憶するテクニックがそれほど有効でなくなっているのが寂しく,悲しく感じられる。 最近は名前だけでなく会った人の顔も覚えられなくなりつつ...

池上遼一の劇画を思わせる映画~『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』~

  トワイライト・ウォリアーズ 決戦! 九龍城砦 (2024) を鑑賞。これは,1980年代の九龍城砦を舞台にした香港のアクション映画である。封切時,香港で観客動員数が歴代1位となり,日本でも話題になっていたので気になっていたのだけれど,ようやく最近観ることができた。 まず開始からの映像のトーンを観て思ったのは,まるで漫画のような色使いだということ。背景を含め全体が暗い色調でまとめられており,各登場人物の影が強く描かれている。漫画の中でもこれは「劇画」を思わせる。そう,例えれば池上遼一の描く黒社会の世界。ちょうどストーリーも80年代後半,返還以前の香港の九龍城を舞台としている。雑多とした臭ってきそうなスラム街に美しく力強く生きている人々の物語だ。 ストーリーは単純である。仁義と友情と復讐。少年ジャンプのような男劇画の王道を行く展開である。女性はほとんどストーリーに出てこない。ただただ黒社会の派閥の野望と闘争が男くさく描かれる。これが潔くていい。 なぜこの映画がそれほどの人気作になったのかという点もここにあると思う。魅力的な男たちによる,老人たちと若者たちの新旧交代,力と力による覇権争いの単純なストーリー。魅力はストーリーではなく,そこに描かれている登場人物たちによって醸し出されている。 アクションも漫画チックである。ありえない格闘シーンで思わず苦笑してしまうほど。しかし,この大袈裟ぐあいこそがこの映画の魅力のスパイスになっていて,ストーリーが深刻になりすぎるのを防いでいる。この味付け具合が劇画調の画像にマッチしていて絶妙である。またこの男たちの必死さが女性にも魅力として届いたのではないだろうかと思う。 そして,スラム街ではあったけれど活気にあふれていた九龍城と,闘争と友情にあけくれた黒社会の喪失に,映画監督ソイ・チェンはノスタルジーを感じているのは間違いない。 さて,この映画には続編があるらしい。どちらかといえばB級といえる本作ではあるけれど,もしも公開されたら観に行きたい,そんな風に思わせる男たちの劇画映画なのである。 #余談だが,音楽は「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(1995年)を手掛けた川井憲次が担当していて,そのせいか,ダンシングヒーローやモニカといった80年代の懐かしい曲が劇中で流れてくるのがうれしかった #もうひとつ題名に...

「手を出すときは心に情けを残すな」――夢の中のフルパワーから考える心の修行

 私は睡眠中の夢の内容を覚えていることはあまり多くないのだけれど,ときどき夢の途中で目を覚ますことがある。そういうときは夢の内容を覚えている。 こういう場合に見ていた夢はだいたい誰かと格闘をしていることがほとんどである。身体が動くこともあって,目を覚ますらしい。こうした夢の中の格闘は現実のものとは大きく異なる。それは,技に心理的なブレーキがかかるかどうかである。 実生活でもしも格闘をすることがあったら,破壊的衝動に心理的なブレーキがかかって,これまで稽古してきた技を100%の出力で使うことはないだろう。相手に技をかけることも難しいし,たとえ完璧に技を行えたとしても相手を壊すことは無意識にでも避けるだろうから,たぶん心のどこかでリミタをかけてフルパワーでの技は行わないと思う。 しかし夢の中は違う。無意識下においてはやはり起きているときと違っているらしく,破壊的衝動を開放してリミタをかけずにフルパワーでの技をかけてしまうのである。そのことに罪悪感を感じない。そのために夢の中では,相手の顔面をフルパワーで殴ったり,投げ技を危険な角度で使ったりしてしまっている。本来これらの状況はあってはならないものである。現実には絶対避けなければならない。そう,夢の中であっても避けなければならないのだ。これはひとえに私の心の修行不足なのだといえるのだろう。 漫画「拳児」に紹介されていた武術家の心得を示した言葉がある。 「手を出すときは心に情けを残すな。心に情けが残る時には手を出すな」 つまり,私は夢の中では心に情けを残さないらしい。夢の中で解放される衝動に日頃からどう付き合うか。そうした心の修行が必要である。

柴田理恵がとにかく最高!映画『来る』の対決準備シーケンスとお祓いシーンに痺れた話

 以前から観たかった映画 「来る」 (2018)をようやく観ることができた。結論からいうと期待通りの面白さだった。しかし,ネットをみてみると高得点のレビューとは言い難い評価が多いようだ。そのあたりの理由も含めて,私の感想をまとめてみたい。 まず,この作品には「ぼぎわんが,来る」というホラー小説大賞を受賞した原作小説があるのだけれど,映画ではこの「ぼぎわん」という化け物が実体となって出ることはない。この映画はそうした面で怖がらせるという感じではなく,あくまでも発生する怪奇現象を描いて恐怖感を与える。ときどきぐにゃぐにゃした物体のイメージの画像が流れるのも恐怖を煽らせようとしているのだろうけれど,私にとっては怖くもなく少し理解不能な印象であった。真っ暗な映画館内で見ていたらと違った印象になっていたかもしれないけれど。。。 そう,この映画はホラーなのだけれど,怪奇現象によって浮かび上がる人間の心の嫌な面こそが怖いのだ。私はSF小説においては特殊な設定下だからこそ描ける人間の物語があると思っているのだけれど,この作品はホラーという設定下だからこそ人間関係の裏側を浮かび上がらせることができているように思う。ぼぎわんから与えられる恐怖が,日頃の欺瞞や嫉妬,虚栄,後悔などをあぶりだしていく。妻夫木聡,黒木華,岡田准一,青木崇高がそれぞれイヤーな部分をうまく演じている。 作品は3つのパートに分かれていて,最初が妻夫木演じる夫の視点,次が黒木演じる妻の視点,そして最後はライターとして事件に関わった岡田の視点からそれぞれ語られていく。そこに青木が演じる民俗学の准教授が絡んでくるのだけれど,どの登場人物も観ていて気分が悪くなってくる。しかし,この映画においてこうして描かれる人間の嫌な部分が,ホラー映画を期待してきた観客の心情を裏切ることになり,評価が低くなっている理由になっているのではないだろうか。最後の結末も理解不能な意外な終わり方だったし。 では,この作品の見どころはどこかというと,間違いなく霊能者集団とぼぎわんとの闘いである。もっというと,闘いのための準備のシーンがめちゃくちゃカッコいい。松たか子演じる最強の霊能者が声をかけて,神職や巫女,ユタや研究者までを集合させてぼぎわんと対決しようとするのだけれど,日本全国から集結していくところや祭壇を作っていくところの過程などのカッ...

気分がアガる曲「大江戸捜査網テーマ曲」~死して屍拾う者なし~

 このブログでは元気がない時に気分がアガる曲をときどき紹介していて,以前には ブルックナーの交響曲3番第4楽章 や 「影の軍団メインテーマ」 を紹介した。今回は知る人ぞ知るという曲を紹介したい。その曲は, 「大江戸捜査網テーマ曲」 である。「大江戸捜査網」というのは江戸時代の隠密同心の活躍を描く時代劇で,人気だったためか何作かシリーズ化されていて,主人公も杉良太郎,里見浩太朗,松方弘樹と交代しながら長年続いた作品である。 新潟ではなぜか日曜日の昼間に放映されていた記憶があって,私が小学生の頃,父親と一緒に毎週のように見ていたような気がする。 番組のクライマックスで,隠密同心4人くらいが悪人を倒すために横に並んで道を歩いていくシーンがあったように思うのだけれど,そこで次の名ナレーションが入るのである。 「隠密同心 心得之條 わが命わが物と思わず 武門之儀 あくまで陰にて 己の器量を伏し 御下命 如何にても果すべし 尚 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし」 これが本当にカッコよくていまでも空で言えるくらい覚えている。最後の「 死して屍拾う者なし」の部分が繰り返されるのがいいのだ。小学生の私でさえ憧れるシーンであった。 そしてテーマ曲の話。時代劇なのにこの曲はアップテンポの西欧風のなんとなく複雑な拍子で演奏される。私は吹奏楽というのをあまり聞かないのだけれど,この曲は非常に魅力的だ。「大江戸捜査網」自体がずいぶん古い番組なので今はあまり聞かれることがないけれど,埋もれるのがもったいない本当に良い曲なので,一度耳にしてほしいと思う。そしてぜひ気分をアゲるためにドライブのお伴に連れていって欲しい。

一度見た映画、一度行った場所。時間を置いて「再訪」する本当の面白さ

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 本を再読することが重要であるという話をときどき見聞きする。年月を経て再読すると,内容の感じ方や興味をもつ部分が変わっていて,あらたな魅力を感じることができるし,自分の成長を実感することができる。 たとえば小説の場合,はじめて読んだときには主人公に共感し寄り添ってストーリーを読んでいたものが,年齢を経てから読むと主人公よりもその周囲の登場人物に思い入れをもったりする。その変化が自分の成長を感じさせてくれる。 映画だってそうである。私が初めて「グッド・ウィル・ハンティング」(1997)を観たときにはやはりマット・デイモン演じる主人公の心情に心を寄せたけれど,2回目に観たときには,ベン・アフレック演じる主人公の地元の少しガラの悪い友達が主人公を快く送り出す姿にすがすがしさを感じてたいへん感動した。初回ではそれほどでもなかったのに。私の中でなにかが変わったのだろう。 本や映画だけではなく,場所を再訪することも同様に面白いことに最近気づいた。今年の夏,水戸の偕楽園を再訪する機会があった。私は大学卒業後,茨城県那珂町の日本原子力研究所に勤めていたので偕楽園にはなんども足を運んでいたのだけれど,研究所を退職して以来,たぶん20年以上ぶりに訪れたことになる。 久しぶりに訪れた偕楽園はひどく暑かったけれど,過去の思い出と照らし合わせながら庭園の散策を楽しんだ。以前は気にしなかった庭園から徳川斉昭が建てた好文亭を見る眺めや,好文亭最上階からみた千波湖の景色に,強く心を惹かれた。年齢を重ねて歴史背景に思いを馳せる余白が生まれたということだろう。江戸時代の人たちはこの場所からコンクリートの建物など無い風景を眺めていたのかと思うと少し感傷的にもなった。 小説や映画のような作品同様,こうした場所を再訪することも,過去の自分と比較して,あらためて現在の自分の立ち位置を確認できるのだとしみじみ思った。 「もうあの場所は行ったことがあるから」と再訪することを最初から除外することはもったいないことなのだと思う。むしろ再訪することによって自分を知ることができるのだから。 好文亭から望む千波湖 好文亭のカフェで休憩することもできる

リーチャー ~正義のアウトロー~:アラン・リッチソンの肉体美の魅力

 ずっとJack Reacherに憧れていた。そして今年アマゾンプライムに入ったので, 「リーチャー~正義のアウトロー」 を見始めた。シーズン1と2をすでに見た。やっぱり期待通りの面白さである。 以前の記事 にも書いたけれど,このシリーズの魅力は主役リーチャーを演じるアラン・リッチソンに尽きる。彼なしではこのシリーズは成り立たないことは間違いない。トム・クルーズのジャック・リーチャーシリーズも面白いけれど(特にシリーズ1作目),オリジナルのリーチャーとの肉体的な違いが大きすぎる。原作では,リーチャーは195 cmの大男の設定らしいけれど,トム・クルーズは170 cmくらいしかない。アラン・リッチソンでさえ185 cmらしいからそれでもまだ10cmも足りない。 筋肉量も圧倒的に異なる。アラン・リッチソンの筋肉は,プロレスラーや相撲力士のような格闘者の筋肉とは違い, 見せる目的のものであるけれど,中身がつまっていそうな,すなわち密度が大きそうな筋肉である。 彼のまわりには,まるでその肉体の質量のため重力が働いていそうなくらいである。私が憧れてやまない北斗の拳のラオウのような身体。そんな彼の重量級の身体で行われるアクションは,ジェイソン・ステイサムのように格闘技の技術を見せるタイプのものではなく,筋肉をつかったストレートな肉体と肉体のぶつかりあいである。単純でわかりやすいだけに見ていて胸がすく。 しかし,リーチャーの魅力はアクションだけではない。軍警察で優秀だっただけあって,推理力はときにシャーロック・ホームズのようでもある。性格も部下を信じる正義漢そのものなのだけれど,それでいて会話にユーモアもある。そして必要なもの以外身に着けない。ドラマ内では,彼は少額の現金と歯ブラシ一本を持ち歩いているだけである。 シリーズ1,2とそれぞれ大きな陰謀に巻き込まれるのだけれど,周りを固める脇役たちも悪役を含めて素敵だ。それぞれに味があって,リーチャーの魅力を引き出している。彼らがいなければ,リーチャーがただのスーパーマンの絵空事になってしまうだろう。 現在はシリーズ4が放映されているというから,アメリカでも人気シリーズなのだろうと思う。いやアメリカでこそ人気が出そうな話かな。各シリーズ8話で完結しているのも見やすい。気分をスカッとさせたい人にはぜひおすすめである。 【余談:リ...

大好きだったベルギーの絵本――私が唯一集めた「タンタン」のキャラクターグッズ

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私はあまりキャラクターというものにこだわらないので,映画のキャラクター(たとえばゴーストバスターズのマークとか)やアーティストのマーク(ローリングストーンズやキッス,そしてオアシスとか),そしてもちろんキティやリラックマ,くまモンなどがついているものを身に着けることはほとんどない。もっというと,ときどき車のリアウィンドウに貼られているのを見かけるラジオやテレビの番組のステッカー,あるいは晴明神社のセーマンのステッカーなども貼る趣味がない。 そんな私が珍しく一時期キャラクターグッズに凝っていた時期がある。そのキャラクターは タンタン(Tin Tin) である。タンタンに初めて会ったのは図書館の絵本コーナーで,フランス風(実はベルギーのキャラクター)のバンド・デシネの大型本の装丁となっていて,とにかくキャラクター,色使い,そしてコマ割りなどがおしゃれだった。日本の漫画や絵本とは雰囲気が違っていて,一度見て忘れられない絵本になった。図書館の本もボロボロになっていた覚えがあるので,たぶん当時から多くの人が借りて人気の絵本だったのだろう。 大人になっても街でタンタンを見つけるとついつい目を引かれていた。以前は,タンタンのキャラクター専門店が「京都」と(なぜか)「新潟」にあって,近くに行く機会があるとついついお店に寄っていた。それなりに流行っていたように見えたけれど,実はそれほど日本での知名度が高くなかったのか,いつのまにかお店はなくなっていて,現在は東京と前橋の店舗だけのようである。 お店が新潟にまだあったころ,私は結構な数のキーホルダー,バッジなどを購入したはずなのだけれど,それらは身に着けているうちにいつのまにかなくなってしまっていて,いまではキーホルダー・キーリングが3つ残っているだけである。それでもこれらのタンタンのデザインを見ると,少し緊張がほぐれる感じがして,いまでも私のお気に入りとなっている。 手元に残ったタンタンのグッズ いつか東京の店舗に行って,またグッズを買い足したいと思う。タンタンは大人が身に着けていても恥ずかしくないような気がする。 #10年以上も前,タンタンの物語がスピルバーグによって映画化された。しかし,3Dで造形されていて,私にとっては魅力が半減していた。残念...

【夏曲】90年代のカッコよさが詰まった名曲「ENDLESS SUMMER NUDE」の魅力を語ってみる

 このブログではクラシック音楽の話題をすることが多いから,いつもクラシックばかりを聴いているかというともちろんそうではない。ロックも聴くし,ポップスも聴く。ただし,ちょっと古い曲ばかりだけれど... 今回は夏に聴きたいカッコいい曲を紹介。夏といえば,「若者のすべて」(フジファブリック)あたりがいまでも若者にも人気なのだけれど,私のイチオシはなんたって ENDLESS SUMMER NUDE (真心ブラザーズ) である(山Pのものではないよ)。 まず曲がいい。 原曲の「 サマーヌード 」もいいのだけれど,セルフカバーしたこの曲のアレンジが素晴らしい。ディスコ風な感じで原曲よりもずっと垢ぬけている。 次に唄がいい。 Music Videoの真心ブラザーズのボーカル YO-KINGもいい感じ に「サマーヌード」の頃より大人びていて,ボーカルも力が抜けている。そして少しぶっきらぼうなところが曲にあっている。このころのYO-KINGのカッコよさは90年代終わりころをよく代表していて,このカッコよさがあればジュディマリのYUKIが惚れたのも無理はないと思わせる。 この曲を知らない人はぜひ一度耳にして90年代のカッコよさというものを感じて欲しい。そしてすでに知っている人はこの夏にもう一回聴いてあの頃を思いを馳せて欲しい。 #RIP SLYMEの「 熱帯夜 」あたりは2000年代のカッコよさがにじんでいる

究極のコミュニケーションとは「相抜け」か?

 究極のコミュニケーションとは格闘技における試合ではないかと思っている。 ボクシングや空手,柔道などの試合を見ていると,相手と向かい合うときにヒリヒリとした緊張感が伝わってくる。誰が間合いを破って仕掛けるのか,どんな戦略で来るのか,そんなことを読みあっているのかもしれない。 武道における試合とは,本来生死をかけた真剣勝負であり「死合」である。だから合氣道では試合は禁じられていると藤平光一先生もおっしゃっていた。ルールがあって,勝負に終わりがあるスポーツ的な試合ではなく,命のやり取りをする試合だったとしたらどうだろう。相手は何をやってくるのかわからない,もしかすると武器を持っているかもしれないという状況の中で間合いを取り合い,相手の出方を読む。 このとき,全身全霊で相手に集中する。相手の一挙手一投足,そして一呼吸にまで気を遣う。こちらから相手の出方を探るのではなく,むしろ相手と一体化する。これは気の合う仲間と行うリラックスしたコミュニケーションとはまったく逆の状況であるけれど,極限まで相手とひとつになろうとするのは,ある意味究極のコミュニケーションなのではないかと思うのである。それも命を懸けた。 試合の結末はどちらかが命を落とすまでか,あるいは「相打ち」で双方が命を落とすかの二つであるならばなんと殺伐としたものだろう。究極のコミュニケーションの結末は常に悲劇的であるなんて。 しかし,ある流派がこの問題の解決を提案している。それは「無住心剣流」の「相抜け」である。この流派では,死命を決する,あるいは「相打ち(互いに斬り倒す)」で終わる畜生剣法ではなく,どちらも生き抜いて終わる「相抜け(互いに斬り合わず、刃を交えずに生き残る)」を究極の目標としている。そしてこのときの境地を「聖」と呼んでいる。 私は最初にこの流派を知った時には,まだ私も若かったこともあって崇高な目標に感激したものである。開祖 針谷夕雲と二代目小田切一雲が立ち合って「相抜け」を実現したときには,夕雲は一雲に向かって香を焚いたとされ,宗教的な意味もあったのだと思われる。しかし,この流派は実法よりも心法にはしりすぎたところがあって,全盛期は一万人以上の門下生がいたといわれるにも関わらず,失伝してしまったらしい。また三代目 真里谷円四郎と二代目小田切一雲が立ち合った際には「相抜け」とはならず,円四郎が一雲...

人生で最凶のおみくじをひく

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 この数年,私はたぶん人よりも高い確率で,おみくじの「凶」を引いていると思っている。それも「かなりの確率」で。 これまでもこのブログで, 厳島神社で3回連続して凶をひいた話 や 大阪の豊國神社で学生3人とおみくじを引いたら全員が凶だった話 などを紹介してきた。つい最近も近所のあるお寺でおみくじをひいたのだけれど,これが今までにない「最凶」の内容だったので紹介したい。 おみくじの写真を紹介するけれど,とにかくひどい。信頼する人に裏切られ,お金,恋愛,健康の全方面で失敗することになっている。 そして,今回のおみくじで本当におどろいたのが,最後の言葉。 「生き死には十中八九死ぬ」 こんなおみくじってある?あまりのワードの強さに開いた口が塞がらなかった。ということでぜひ紹介したいとこの記事を書いた。 ちなみに私はこのおみくじを持ち歩いていて,己を省みることを心掛けている。 凶のおみくじ前半。絵も強盗に襲われている おみくじ後半。とにかく内容がひどい。たぶん私はこの世からいなくなるのではないか?

異世界転生全盛期に、あえて『ハードSF』を読まずに死ねるか!

 「最近,ハードSF作品は人気がないのではないか」という話を学生としていた。アイザック・アシモフやアーサー・C.クラーク,フィリップ・K・ディックといったSF作家の作品に触れている人は,私が学生時代に比べどんどん減っているのではないか,という話題である。 最近は純粋なSFというよりももっぱらファンタジー要素多めの作品が多い。魔法や超能力など都合の良い設定が多いようである。もちろん,超能力をネタにするにしても,筒井康隆の「七瀬シリーズ」や小松左京の「エスパイ」とか,設定がかたい作品もあるけれど,現代では最初から最強のチート能力があったり,ピンチになると新しい超能力が覚醒するなどのご都合主義のものが,漫画でもアニメでも多くなっている。特に流行りの異世界転生物語などはSFではなく全くのファンタジーである。同じ異世界転生でも半村良の「戦国自衛隊」などは設定がちゃんとしていて読みごたえがあり,ファンタジーとは大きく異なるといえるだろう。 なぜハードSFが不人気なのかと考えると,まず (1) 設定が難しい ことが挙げられるだろう。その世界のルールを理解するために多くの背景となる科学的・技術的基盤を理解しなければならず,作品を楽しむためにそれなりの努力が必要となる。「SF」(アメリカではSci-Fi)とはもともとはScience Fictionの略なのだから,科学なしには成立しないのだから仕方がない。 次に (2) 気分直しにスカッとするような話が少なく哲学的なテーマ が多いことだろう。ファンタジー系のように最初から主人公がチート能力で悪役をバッタバッタと倒していくような話や,あるいは復讐劇で最後に留飲を下げるような展開ではなく,ハードSFではSFだからしか描けない設定の中で哲学的なテーマを取り扱っているものが多い。それもサイバーパンクやディストピアなど暗い未来の設定ばかり。 例えば,アシモフの「われはロボット」とか,クラークの「幼年期の終わり」,そしてディックの「高い城の男」などの古典もあるし,日本でも,戦闘機が意識を持ち始める話の神林長平の「戦闘妖精・雪風」や,人間には虐殺を行う器官があるという設定の伊藤計劃の「虐殺器官」など,読み応えがあるものが多い。ただし,この「読み応え」こそが若者がハードSF作品を敬遠する原因になっているのではないかと思っているのである。 それ...

キャンパスの掲示板で見かけた『攻殻機動隊』——科学技術立国の幻影とディストピア化する未来像

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 学内の掲示板で,「攻殻機動隊」のポスターを見つけた。文科省の「科学技術・イノベーション白書」の宣伝らしい。最近,オリジナルの「The Ghost in the Shell」のアニメが制作され放映開始となったことを知っている。確かにこの作品はハードSFに分類されるだろうから,SF好きな理系少年少女の興味を惹いてくれることを期待したいけれど,押井守の映画でさえ知らない学生が多いから,どれだけの中高生の興味を惹いてくれるかは残念ながら少し怪しいと思う。 掲示板で見つけた文科省のポスター 昨年のこのポスターではたしか「Dr. STONE」が採用されていた 。私は読んでいないけれど,どうも実際の科学考証にもとづいたネタを使った人気漫画だったらしい。同僚の先生に「Dr. STONEって知ってます?」と聞かれて驚いたことを覚えている。学生に尋ねてみたのだけれど,残念ながらこちらのポスターの認知度はたいへん低かった。 しかし,文科省はこうしたアニメや漫画に頼って少年少女への科学・工学への啓蒙をするしかないという状況がなんとも理工系への不人気を表しているようで,ほんとうに悲しい。昔はこんなことを言わなくても,「科学技術立国 日本」という看板を背負って理工系に進む学生が多かった。理工系に夢があった。 しかし, 現在は理工系の研究者・技術者になることが社会的にあまり成功と思われていない ようだ。この理由は一にも二にも理工系の人たちの 給与の低さが社会的な評価を下げている からだと私は思っているのだけれど,それに加えて 科学技術はどこか社会を支えるものではなく,「敵」だと思われているフシがある からのように思われる。極度に進んだ科学技術は人間社会の安定を脅かすものだと私たちはどこかで思っているのではないだろうか。 映像化されるSF作品の多くが輝く未来ではなくディストピアを描いているからかもしれない。AIだってすでに多くの人が便利だといって使っているわりにその進化には不安を抱いているように思われるし,人類がこのまま順調に発展していくと思っている人はそんなに多くないのではないかと思う。そうした社会的課題や不安を解決するための人類の武器が科学技術であるはずなのに,潜在的な危険ばかりに目を向けて科学技術から遠ざかろうとしているような雰囲気が特に子供たちの間にあるのが心配なのである。 ずい...

誠実で素敵である理想的な会話とは

 理想的な会話とはどのようなものか?と私はずっと考え続けている。残念ながら私はテレパシストではないので,誰かと意思疎通をするためにはなんらかのコミュニケーションを必要としていて,もっとも身近で人間的なコミュニケーションはやはりアドリブで行われる日常の会話であると思う。だから言語的そして非言語的な情報をやりとりして行う会話を改善する方法について日頃から興味をもって情報を集めている。 こうしたコミュニケーションに関する本などを見ると,ラポールを築くための方法について解説されていて,たとえば「相手の言うことを否定しない」とか,「相づちをタイミングよく打つ」とか,あるいは「話すスピードを相手に合わせて変える」,果ては相手の動作を真似する「ミラーリング」などのテクニックが紹介されている。 確かにそうしたテクニックはコミュニケーションを職業とするような人たちには大切なのだろうけれど,そんなテクニックを常に頭に置いて行う会話が本当に私の求めるものなのかと疑問に思う。相手が話しているというのに,次に話すことやその発声について考えていることが本当に誠実なコミュニケーションといえるのだろうか。あるいは話している相手の動作に注目し,思考を読み取ろうとすることが,敬意ある態度といえるのだろうか。 私の理想的なコミュニケーションとは,相手の話を,否定もせず肯定もせず全身で聴き,その反応としてどんどんと広がっていく考えや感情を素直に相手に伝えることであると思っている。でもこれは今思いつく要件のひとつで,その他にも満足したい要件はたくさんある。次にどうしたらいいのかなんて考えずに,相手の話をそのまま受け止めて自然に反応する。カフェで時間も気にせず,次から次へと話題が出てくる会話。そんな会話ができたらどんなに素晴らしいだろう。 ミラーリングのテクニックだって,本来,話が盛り上がっているふたりの動作や話し方が同期してくるという特性を逆に利用しているわけであって,素敵な会話ができればおのずと実現されるものである。わざわざミラーリングなんてしなくてもよいはずなのである。 また信頼する関係性があるならば,相手の言葉や動作の癖や視線に注意して心の中を探る必要もない。またこちらも手の内を隠す必要なんてないし,相手を誘導する必要もない。そんな立場が対等で相手を尊敬しあう会話ができたらどんなにいいだろう。...