2009年8月14日金曜日

新潟で籠手田安定に会う

今年の盆も親の顔を見に帰省している。
以前にも書いたけれど、
親と過ごす時間は、もはやあと何年、
というのではなく、あと何回会える、と
回数で数えるのがふさわしくなっている。
できる限り、その回数を増やしたいものである。

新潟への道のりはJRで大阪から約7時間。
自宅から大阪まで、新潟から実家までの
時間を入れるとおよそ9時間の旅となる。

列車の中での時間は、それはそれは
たいへん貴重で贅沢な時間となる。
今年はたいそう意気込んで、

5冊も文庫本や新書をカバンに詰め込んで
乗り込んだのだけれど、
出発が朝5時半だったためか、
せっかくの時間もほとんど睡眠に費やしてしまった。
少しは読書をしたのだけれど、
睡眠不足のためか、電車の揺れに
すぐに気持ちが悪くなってしまった。
復路に期待することにしよう。

今回は、新潟の旧県議会議事堂を訪れた。
新潟で育ってはいたのだけれど、
見学するのは、初めてのことである。
(レインボータワーも乗ったことが無いことに
今回気づいた)

建物はいかにも明治時代に建てられた
西洋建築様式で、左右対称の洋館である。
議事堂の他に、会議室、応接室などが
備え付けられているが、どれもが小さい。
あまりの小ささに、用意された椅子の数である
5~6人が部屋に入ったら、すぐに
息が詰まりそうなくらいである。
昔の人は、本当に膝を突き合わせて
議論したのだろうか。

県議会に関する建物ということで、
歴代の知事に関する資料が公開されていた。
そこで始めて知ったのが、籠手田安定
新潟県の知事であったことである。

籠手田安定は、山岡鉄舟の高弟であった。
山岡鉄舟が剣術を大悟した際に、
初めて竹刀を交え、その師匠の到達した剣境に
頭を下げたということになっている。
これは大変有名なエピソードで、
この後、山岡は無敵といわれるようになり、
浅利又七郎から一刀流の正伝を継ぎ、
自ら無刀流を開いたのである。
ただし、大森曹玄氏の「山岡鉄舟」という著作によれば、
大悟のときに山岡と立ち会ったのは
籠手田ではないと籠手田の家族から申し出を
受けたとあったように思う。
しかし、いずれにしろ、 籠手田安定は
山岡鉄舟の非常に重要な弟子であったことは
間違いないのである。

籠手田安定は山岡との関わりもあってか、
滋賀県知事、新潟県知事などを歴任しているようである。
今回目にした資料に寄れば、非常に農政を
重要視し、県内を巡視し、いろいろな陳情を受け付けたという。
また、常に握り飯を持って巡視し、
接待をことごとく退けたために、
「握飯知事」と呼ばれていたとのエピソードがあった。
まさに山岡一門の面目躍如である。
そうしたことを知って、なぜかしら嬉しくなった。
武人たるものそうであってほしいのである。

茨城県に住んでいた時には、
山岡が茨城県の初代参事であったことにも
驚いたけれど、幕末から明治にかけての
剣豪は政治的にも活躍したものが多いようである。
(もちろんそうでない人もあまたいただろうけど)
武道というものはそうであって欲しいと、
つくづく思うのである。

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