2024年3月24日日曜日

言葉が世界を単純化することの副作用

 人間がこれだけの文明を持つに至った理由のひとつは「言葉」を用いることであることは間違いないと思う。「言葉」があれば正確なコミュニケーションができるし、それを表す文字があれば知識を記録として残すことも可能である。また言葉を使えば現実世界には存在しない抽象的な概念(たとえば「民主主義」とか「学習」とか)も表すことができるから、論理学、哲学などが発達してきた。言葉が世界を作っているといっても過言ではないと思う。

もうひとつの言葉の重要な役割が、概念の「単純化」であると思う。たとえば木製の扉を見たときに、これは「扉」であると認識すれば、人は特別なことがない限りはその木製の板の集まりを深くは考察しない。一方、「扉」と認識することで、「開閉されるもの」、「空間から別の空間に移動するためのもの」、「空間を仕切るためのもの」、「使い方」などの「扉」という言葉に付随される概念が無意識に私の中に準備されて、毎日の日常で問題を起こさずに生活できるようになっている。

木製の扉をみるたびに、この木の板の集まりは何なのか、どのような目的で作られたものなのか、と考える必要があるのであれば、さぞかし生活は毎日大変なことだろう。私たちがそうした煩雑さから解放されているのも、「言葉」のおかげなのだろう。

しかし、「言葉」による「単純化」には同時にネガティブな副作用もたくさんあると考えている。「言葉」によって単純化された抽象的概念のために、本来「木の板の集合体」がもつ特徴・特性が切り捨てられているように思うのである。「これは扉だ」と思った瞬間から、「思索」や「考察」、付随する複雑な特徴に対する「想像・イメージ」が省略されてしまっているのではないだろうか。

もちろん、単純化・抽象化するからこそ論理学のように思索を進めることができるのだけれど、言葉が持つ概念が現代となってはあまりにも抽象化され過ぎていて、思考が単純化されすぎたり、物事に対して持つイメージが薄っぺらいものになりすぎたりしているのではないかと思っているのである。

オカルトの世界ではよく、「超能力」やら「霊能力」やら超自然的な能力を本来人間は持っていたけれど、いつの間にかその力を忘れてしまったなどという話がよく話題にあがる(この説についての私の考えは別の機会に書くことにしたい)。もしも本当にそうであるならば、その原因のひとつはここまで発達しすぎた「言葉による単純化」なのではないかと思う。モノが本来持っている特徴・属性・イメージの中の多くのものを、私たちは「思考」するために切り捨てている。モノをただ見てそれを素直に感じるということができれば、もっと私たちの感覚は研ぎ澄まされていくような気がするのである。

「言葉」に縛られず、自分の中の既成の「概念」、「先入観」、「思想」、「考え方」から解放されて、正しくモノを見てもっと多くの情報を受け取ることができれば、この世の中、見たり感じたりできるものが増えて、毎日がより素敵になるかもしれない。たまにはそんなトレーニングをしてみたい。


#途中まで書いてみて、クリシュナムルティが同様のことを書いていたかもしれないと思い出す(「条件付け」からの自由みたいなこと)。やはり私の考えは、若いころ読んだ書物に影響されているのだろう。

#相変わらず自己満足の記事ですみません

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