2024年3月20日水曜日

最古の呪物は縄文人の装飾品ではないのか

 というわけで新潟県立歴史博物館に行ったのだけれど,そのときに思いついたのは,発掘された縄文人のヒスイなどの装飾品こそが呪物なのではないか,ということである。

世間ではよく昔のものがいわくとともに伝えられて,「呪物」のように扱われることが多い。そして現在,また「呪物ブーム」が起きているように思う。そして,その呪物は古ければ古いほど,その呪力が強いにように思ってしまう。

しかしそうであるならば,私が博物館で見た縄文人の装飾品や剣こそが最大の呪物になるのではないだろうか?そんなことを思いながら博物館で展示を見ていた。

でも実際はそんなことは全然言われない。この理由について考えてみた。

まず縄文時代の装飾品や剣などがなぜ呪物と呼ばれないのか。祭事に使ったものであれば,あるいは墓所から発掘されたのであれば,相当「念」がこもっていそうである。しかし,私たちは怖さを感じない(私は逆に感じたりするけれど)。その理由のひとつとして,具体的な「いわく」が伝えられていないから,なのではないかと思うのである。

特に文字が伝来する前である縄文や弥生時代では,その由来などを伝える手段は口伝のみであり,仔細を正確に伝えるのは相当に難しかったに違いない。一方,古事記や日本書紀が書物化された時代からは,急に由緒などが伝えられ始めることになり,現在でも各神社などにそうした神器などが祀られている。人がモノの価値を知るのは,そのモノにまつわるエピソードなのである。それが無いモノは単なる遺物でしかない。

次に,遺跡からの発掘物にあまり呪物性を感じない理由のひとつは,「エピソードの風化」である。伝承されるエピソード自体も年月を経るにつれ,不正確になり,忘却されていく。そして,そのエピソードを受取る私たちの価値観も大きく変わって,畏怖や恐怖を感じなくなってしまう。時代が経つにつれ,そのモノがもつエピソードの生々しさは薄れていき,ついには呪物は単なるモノになっていく。人が畏怖や恐怖を感じるのはモノ自体ではなく,そのモノに付帯するエピソードなのである。これが理由ではないかと思う。

エピソードだけではない。亡くなる人の思いも,周囲の人が持っている亡くなった人の思い出も,どんどん薄れていく。「リメンバー・ミー」という映画(見ていないけれど)でも,人々の記憶から消えたときに霊の存在が無くなってしまう,という設定のようだったけれど,まさにそうだと思う。小林秀雄もある講演で「「魂」なんてあるに決まっているじゃないか。みんなの中に魂は存在し続ける」のようなことを話していたけれど,このことを言っているのではないかと私は思っている。

だから,なぜ縄文人の幽霊がいないのかという疑問に対する答えも同じである。もしもすべての亡くなった人が霊になるのであれば,この世の中は幽霊で溢れているはずである(あの世で霊が溢れてインターネットを通じてこちらの世界に染み出してくるという「回路」(黒沢清監督)という映画もあったけれど)。しかしそうなっていないのは,私達が忘れてしまっているからなのではないだろうか。

オカルトの世界では,ある時代以前の幽霊が現れないのは私たちの問題ではなく逆に幽霊の思いが薄れていくから,という説明もされている。よく人を祟るのも七代までというけれど,七代という時間を経ると思いが薄れてしまうから,というのだ。七代というとちょうど戦国時代あたりで,最近落武者の幽霊を見たという話が無くなったのは,ちょうどそのくらいの年月が経ったからではないか,という話なのである。これもまた面白い。

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