2024年7月28日日曜日

世界にはSFが必要だ

私が中学生の頃に,SFのジュブナイル小説に出会った。それからSFに夢中になった。

ジュブナイル小説というのは少年少女対象の作品で,SF世界でジュブナイルというのが夢があってよかった。私が夢中になったのは図書館にあった鶴書房「SFベストセラーズ」で,「なぞの転校生」,「夕映え作戦」,「時をかける少女」,「時間砲計画」など,眉村卓,光瀬龍,筒井康隆,豊田有恒というそうそうたる作家が,少年少女のためにSFを書いていた。

「時をかける少女」は,映画にもテレビドラマにもなったけれど,図書館ではいつも誰かに借りられていて,ようやく借りることができた頃にはこの一冊だけ本の傷み方がひどかったことを覚えている。「時間砲計画」は「続・時間砲計画」もあって,宇宙戦艦ヤマトの設定にも参加していた豊田有恒が執筆している。タイムマシンの夢のある話だったなぁ。このSFベストセラーズはだいたい読んだのではないかと思う。

その他にも「ねらわれた学園」とか読んでいたような気がするけれど,小説だけでなくNHKの少年ドラマシリーズでもときどきSF作品が放送されていて,夕方6時過ぎになるとテレビの前にいることが多かった。「七瀬ふたたび」の多岐川裕美が綺麗だったことをよく覚えている。内容は覚えていないけれど(後年,深夜に民放でドラマ化された。主演は渡辺由紀。この人も綺麗だったなぁ。筒井康隆も出演していたけれど。その後,NHKでも再ドラマ化されていてこちらは蓮佛美沙子主演。ちなみに「家族八景」もドラマ化されていて,このときの主演は木南晴夏)。

とにかく,私が少年時代,SFに触れる機会が多かった。現在はどうだろう?SF設定のアニメは数多くあるけれど,少年少女向けのSFドラマって少ないのではないだろうか?キムタクの「安堂ロイド」くらいかな。。。

SFって科学技術的な夢をもつのにたいへん大切だと思っている。夢がない科学技術なんて面白くないだろうし。だから理系離れが進んだのではないか。

夢がない私だけれど,次の言葉は大好きで,あちこちで繰り返している。

アーサー・C・クラークが述べたと言われる3つの法則のうちの第三法則
"Any sufficiently advanced technology is  indistinguishable from magic. "(十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない)

科学技術は魔法を実現するのだ。世界にはSFが必要だ。

2024年7月27日土曜日

サイバーパンクが現実になりつつある現在,SF離れが進む

 雑誌「BRUTUS」で最近SFが特集されていた。ドラえもんとのび太が描かれた青い表紙の号で,「最近,全然本を読んでいないなぁ」と思い購入した。いろいろな観点からいろいろなSF小説が紹介されていて,まだまだ雑誌の1/3も読んでいないのだけれど,「この本も読んでみたいなぁ」と夢ばかりふくらんでいる。

そもそもSFがなんの略なのかも知らない若者も多くなっているのだという。もちろん,Science Fictionの略であり,海外の本屋にいくと「Sci-Fi」のコーナーがドーンととってある。海外の方が日本よりSF人気が高いような気がする。

ただSFの定義が難しくなってきているとは思う。例えば日本ではSFをSci-Fiとは別にScience Fantasyと読み替えることも多くなっているらしい。異世界転生ものはScience Fantasyに含まれるのだろうか。確かに「ブギーポップ」あたりからファンタジー色が強い作品が増えてきていて,最近は「ハードSF」が減っているような気がする(私が最近本を読んでいないだけなのかもしれないけど)。

私も本当に本を読まなくなった。SFに限ればさらに少ない。伊藤計劃の「虐殺器官」,「ハーモニー」,そして神林長平の「いま集合的無意識を、」や戦闘妖精・雪風シリーズの途中までくらいが最後だろうか。なんとも恥ずかしい。「三体」とか「DUNE」とか映像化された作品も読んでみたいなぁ,とは思っているのだけれど...

ドラえもんも立派なSFである(藤子F氏はSFを「すこし,ふしぎ」と呼んでいたようだけれど)。だがドラえもんの誕生までにはまだ技術力が全く足りない。鉄腕アトムの誕生は2003年だったけれど,もうとうに過ぎている。夢の技術の実現はまだまだ遠い。しかし,サイバーパンクな世界だけは現実になりつつあるような気がする。「ブレードランナー」は2019年の設定だし,「AKIRA」も2020年の東京オリンピックが開かれた時代だ。科学技術はまだまだSF世界に追いついていないけれど,情報が支配するディストピアだけは現実化している。

SFというのはもっともらしい科学的設定(ウソ)の上に成り立つ物語だと思うのだけれど,サイバーパンク世界は私たちにとってはすでにウソではなく,現実に向き合わなければならないものになってしまった。SFに夢を見る時代ではなくなったのかもしれない。

2024年7月21日日曜日

Sophisticatedされている

 私の通っていた大学は「ダサい」ということで有名だった。確かに白衣を着て登校してくる人とか,いつもツナギを着ている人などがいたし,一般学生も,七三分けで銀縁の四角いメガネ。チェックのネルシャツにスラックス,そしてジョギングシューズを履くようなファッションの人たちが多くいた。当時はユニクロはまだない。

バッグもA4サイズの資料が縦に入るバッグを肩から下げていて(デイバッグなんてなかったし),いつも教科書類でパンパンになっていた(ノートパソコンもなかった時代)。

私が大学に合格して上京したばかりのころ,津田塾大学に通っている先輩2名と話していて,私が通う予定の大学の男子学生の評判を訊いたところ,「あー,Sophisticatedされているかな」「うーん,そうそう」と含み笑いをしながら教えてくれた。

私はその単語の意味が分からなかったので後日辞書で調べると(スマホもネットもない時代だったので),「洗練された」と書いてある。それで気分を良くしたのだけれど,実際に大学に行ってみるととてもファッションに気を使っているとは言えない人たちばかりだった(自分も含めて)。

そこでようやく「Sophisticated」が,男子学生を褒める言葉がなく皮肉めいた意味で使われたことを知った。東京の世界は複雑で難しい,と思い知った出来事だった。

2024年7月20日土曜日

突然,遺族になる可能性(日本怪奇ルポルタージュを見て)

 また「日本怪奇ルポルタージュ」の話である。「あさま山荘事件」の次は,「突然遺族になってしまった家族」の話であった(Tver限定?)。

ヤジマXというミュージシャンの方のお姉さんは,大阪西成で医者を営み,かつ献身的なボランティア活動を行っていた。それがある日,木津川で遺体となって発見されたのだという。突然遺族となったヤジマさんの話は,聞いていてつらくなる。当初,お姉さんは自殺として処理されたのだけれど,不審な点が多く遺族の申し出もあって現在では事件として扱われているらしい。しかし,まだ真相は解明されていない。2009年11月に事件が発生して以来,毎月14日には西成でビラ配りをし,事件が風化しないように活動している。

ヤジマさんは当時のことを淡々と話していたけれど,突然のことにパニックになったという話に胸が痛くなった。理解が追い付かなくなるのだろうと思う。自分だったら...と思った。

出演者の佐久間氏も,お父さんが突然海外出張先で亡くなったのだという。その事実を整理するまで,数年を要したという。そう,突然自分が遺族になる可能性は普段考えているよりもずっと高い。自分だって明日突然,脳梗塞や心筋梗塞で亡くなる可能性もあるのだ。

それでも毎日こうして暮らしていけているのは,自分(だけ)は大丈夫とどこかで思っている「正常性バイアス」のおかげなのだろう。毎日そうした恐怖におびえていたら,とても暮らしていけないかもしれない。

先日,母から部屋をきれいにしておくようにと言われた。私もいつこの世からいなくなるかもしれない。そのときに備えて身の回りの整理を進めなければ。今年の目標のひとつ,終活。もっと真剣に進めていこう,と思った。

2024年7月15日月曜日

細い文字のフォントが流行っている?

新しいテレビドラマが始まる時期である。この半年くらい尋常ではない忙しさで,テレビを観る時間を確保するのが本当に難しかったけれど,先週で少し整理がついたので,これからの下半期はもっと落ち着いて,自分の時間を持ちつつ,活動していこうと思う。だから今期は4本くらいドラマを観ることができるだろうか,と思っている。

そのうちの一本が「降り積もれ孤独な死よ」という成田凌主演のミステリードラマなのだけれど,そのタイトルを見て「またか」と思った。タイトルのフォントが細くてカクカクした文字になっている。最近,こんな細字の,手書き風のフォントで書かれたタイトルをよく目にしているような気がする。

例えば,「アンチヒーロー」もそうだった。細い手書き文字だった。少し古いところでは,「未来への10カウント」も手書き風だった。こちらは少し丸い。ドラマのタイトルが手書き風の文字で書かれているのは珍しくないのだけれど,その中でも,文字が丸みを持たずカクカクしているタイトルが増えているような気がするのだ。と言われても今思い出せないのだけれど。。。

丸みをもつ文字では,番組の内容をうまく表せないということだろうか。「降り積もれ孤独な死よ」も相当つらい話で甘くはないから,角ばったフォントなのだろうとは思うけれど,そうしたフォントばかりだと飽きてしまう。考える人もたいへんである。

と思って考えてみれば,各ドラマのタイトルはみな工夫されたフォントになっていることにあらためて気づき,感心する。それを専門としたデザイナーもどこかにいるのだろう。誰がどのように発注して,誰がそれを形にしているのか,ちょっと気になっている。

#話変わって,成田凌にはやっぱり惹かれる。なぜなんだろうと不思議に思う。

2024年7月14日日曜日

80年代のコカ・コーラのCMに似たBig MacのCM

 先日,テレビをみていたら聞き覚えのある「I Feel Coke~」という歌が流れてきた。画面を見ると,私の学生時代,あのキラキラしていたバブル時代のコカ・コーラのCMのような映像が流れている。「あー,あの頃を思い出すなぁ」と,女性3名が髪を揺らしながら歩いていく後姿の画面をみて思っていたら,なんと画面に映されたロゴは「Big Mac」。「???」と思いながらもう一度確認すると,やはりコカ・コーラの音楽が流れ,コカ・コーラのCM風の映像が流れて,そしてBig Macの映像。混乱して,ちょっとボーっとしてしまった。

ネットで調べてみると,やはり間違いない。マクドナルドとコカ・コーラのコラボCMとのことである。今,50代の大人の心に刺さるCMなのではないかと思う。

あの頃,DCブランドのスーツを着た男が黒太のセルフレームの四角い眼鏡をかけて,髪の毛を持ち上げて決めて,女性を相手に噴水をバックにカッコよくスポーツをする。女性もやはりスーツ姿。私の現実とは遠く離れていたけれど,憧れがそのCMにはあった。私の通っていた大学はダサいって有名だったけれど,同級生の誰かがコカ・コーラのCMに出演したという噂が流れて,それは凄い話題になっていた。

今,多くの人の憧れになるライフスタイルってどんなものだろうか?個別化が進みすぎて,誰もが憧れるライフスタイルって思いつかない。個人個人で好きなライフスタイルを追求する時代なのだろう。でも共通の価値観がないのも,なにか寂しい気もする。

ということで,私はマクドナルドの思惑通りにCMに心動かされ,Big Macとコーラが食べたくなったのである。そして,あの頃のことをちょっとだけ思い出した。


#実は,「I Feel Coke」は昨年あたり水曜日のカンパネラの詩羽が歌っているバージョンがCMで流れていた。そのときは,綾瀬はるかが出演していた。でもやっぱり「I Feel Coke」には,今回のような映像が似合う。

2024年7月13日土曜日

マイケル・ジャクソン 1993年スーパーボウル,ハーフタイムショー

沈黙についていろいろ考えている。これまでもそのことについてブログ記事を書いてきたけれど, 私が考える最もカッコいい「沈黙」についてはまだ書いていないことに気づいた。

私が考える最もカッコいい「沈黙」は,1993年のアメリカ,スーパーボウルのハーフタイムショーにおける伝説のマイケル・ジャクソン(MJ)のものである。

その年のハーフタイムショーは特別だった。まずショーが始まるとスタジアムのスクリーンにMJが映し出され,その後スタンドに設けられた舞台の下からMJが射出される。ほんとにすごい勢いで射出されるのだ。その結果MJはジャンプして着地する。そして何事もなかったように,すたっと立ち姿をとる。すると今度は別の方角のスクリーンにMJが映し出されて,また舞台下からMJが射出される。そして着地のあと静かに立つMJ。MJが複数人いるわけがない。そう,彼らは影武者たちなのだ。

そして最後に中央に設けられたメインステージから本物のMJが射出される。すたっと着地するMJ。そしてここからがすごい。着地して顔を右に向けたカッコいい立ち姿をとったままピクリとも動かないのだ。会場の注目は当然MJに集まる。しかし何も動かない彼の姿に観客の注目はますます集まり,MJの静かさと逆に興奮はヒートアップしていく。そして次に顔だけを左に向けるまで,なんと90秒以上もMJはなにもせずただステージの中央に立っていただけなのである。それからまた数十秒間のMJの沈黙。さらに観客は熱狂していく。彼はゆっくりとサングラスを外す。観客の熱狂が最高潮に達した時に「Jam」のギターイントロが演奏され始め,MJは「アーオッ!」と叫んでとうとう歌い始める。結局,この歌い初めまでおよそ2分,彼は一言も発せず,沈黙と2,3の動作だけで,スタジアム全体の注目を集め,スーパーボウルのゲームの興奮以上の熱狂を引き起こしたのである。彼の「間」というべき「沈黙」の勝利である。

これほど沈黙を効果的に使った例はそうそうないのではないだろうか。スタジアムだけでなく,同時中継をされていた全世界の視聴者をくぎ付けにした2分ちょっとであったに違いない。「間」というものに人間が支配されることの実例であり,その影響と有効性の大きさに怖くなるほどである。

ただこの「間」を制御,支配するためには,超人的なカリスマ性,オーラが必要なことは間違いない。凡人にはちょっと難しい。。。

2024年7月7日日曜日

日本怪奇ルポルタージュ,あさま山荘事件,総括

 不定期で放映されているテレビ番組「日本怪奇ルポルタージュ」。先週突然に放映されて,今回は放映時間が延長されていた(もちろんテレビ東京なので新潟では放送されていないので私はTverによる視聴。Tver万歳!)。

私はこの番組が大好きで,かなり重い,悲しい事件をなるべく偏見なく,まじめに取り上げようとしていることに好感を持っている(意見の押し付けがない)。これまで,「虐待」,「ヤングケアラー」,「京アニ放火事件犯人を治療した医者」などのトピックスを扱ってきたが,今回は「あさま山荘事件」がテーマだった。私は恥ずかしながらこの事件のことをほとんど知らなかったのだけれど(役所広司主演の映画も見ていないし,山本直樹の「レッド」も読んでいない),あさま山荘事件以前に若者12人が亡くなった「山荘ベース事件」というものを今回知って,たいへんにショックだった。

なぜ12人もの仲間が死ななければならなかったのか,という点に番組では焦点を当てていて,そこで行われた「総括」という行為を紹介していた。「総括」というのは,自己否定のための儀式であり,いじめである。自己反省という形で自己否定をさせ,集団圧力によって仲間同士で罰しあうという,結局のところ「リンチ」である。

私はここで日本人の特性がこの「総括」に強く表れていると思った。山荘に孤立しながらの小規模の集団生活。厳しい規律と上下関係。革命思想に歪んだ倫理観。そしてその倫理観が自分たちの首を絞めていく。日本人が暴走しやすい条件がそろっていた。結局,ぬきさしならない状況になっていくことは誰もが心の底で思っていたのではないか。でもそのことを指摘できない,指摘したら自分がやられる,まさに現代のイジメと同じ構図ではないのかと考えさせられる。

当時の連合赤軍のメンバーのインタビューもされていて,その現場では誰かが「やめよう」ということができなかったのだという。誰かが死んでいくたびに,彼らの死を無駄にはできない,やめたら彼らに申し訳が立たない,という考えがますますメンバーを締め付けていったのだという。

あまりの悲惨な状況に番組を見ているのがつらくなった。それでも見てしまうのは,現代の若者も全然変わっていないと心のどこかで理解しているからなのだろうと思った。

私が高校生だったころ,学生運動が盛んだった時代の若者は現代の若者よりもずっと大人だと思っていた。しかし,彼らの思想や行動を知ることによって,それは違うのだと思うようになった。当時の若者は単に政治思想にかぶれていただけで,それは一種の大人ぶるというファッションであり,その行動原理などは現代の若者とほとんど変わっていないのだ。行動に出てしまっていたのは,昔の若者の方が接する情報が少なく世界が狭かった分,「純粋」言い換えれば「単純」だっただけなのではないだろうか。今はいろいろな情報を知ることによって少しだけ行動にブレーキがかかるようになっただけなのではないだろうか(洗脳はされやすくなっているかもしれないが)。

今回の番組もいろいろなことを考えさせられた良い内容だった。次回はどんなテーマに切り込むのか期待して待ちたい。

#どうもギャラクシー賞をもらったらしい


2024年7月6日土曜日

瞽女唄をきく

 最近「日本最後のシャーマンたち」という本を読んでいて,「瞽女(ごぜ)」の話が出てきていて少し気に留めていたところ,瞽女唄を聞く会があるとたまたま知ったので(新潟妖怪研究所の案内で),先日新潟市まで聞きに出かけた。

瞽女というのは盲目の女性の唄を歌ったり語りをする人たちで,晴眼の人に連れられて集団で村から村へと渡り歩いて,そこで芸を披露して宿と食べ物を提供してもらう人たちである。先に挙げた本によれば,昔は盲目の女性は娼婦に身を落とすか,瞽女になるかという厳しい時代だったようで(東北では瞽女の代わりにイタコになる),昭和の時代までは少なくとも瞽女はいたらしい。

なぜ瞽女に興味をもったかというと,明治の近代以降,瞽女が盛んだったのはこの北陸,特に新潟県地域だったらしく,長岡近辺出身の私の母も瞽女の話をしたことがあったような気がするからである。人間国宝にもなった「小林ハル」は長岡瞽女だったという。

修行は相当過酷だったらしく,「日本最後の...」に瞽女が紹介されている数ページには,胸が痛くなるようなエピソードが並んでいる。十年以上も厳しい師弟関係の中で芸を受け継ぎ,生きているのが奇跡と思うような修行・罰を経験している。小林ハルも最終的には老人養護施設に入り,昭和まで存命だったらしいが,彼女の人生の悲しみを思うとつらくなるほどである。

今回聞くことができたのは,この小林ハルの孫弟子にあたる「金子まゆ」さんのもので,内容は「葛の葉子別れ」だった。安倍晴明が母である狐と別れる話で,こんな風に三味線で語られるのだなぁ,と感動した。テレビもラジオも,ましてネットなどなかった時代,こうして村を回ってくる彼女たちの語りこそがエンターテイメントだったのだろう。みな固唾を飲んで耳を傾けていたに違いない。またこうした瞽女を泊め,もてなすのは村々の名家であって,それが富を持っていることの証のひとつだったのだろうと思う。

金子さんは晴眼の主婦の方で4年間師匠について勉強してその後工夫をされているのだという。瞽女にもいろいろな方がいて,いろいろな唄い方があったのだろうから,今後もぜひこうした芸を受け継ぎ,紹介することを続けていっていただきたいと思った。YoutubeやCDなどの録音で聞いてもあまり心が動かない。やはりこうした唄は生で聞かなければ魅力は伝わらないということもよくわかった。

2024年7月1日月曜日

長谷川博己を強く推す!

 長谷川博己という俳優は,私はすごく大好きで,彼の出演している作品を観ることが多い。その彼が主演をしていたテレビドラマ「アンチヒーロー」もなかなか面白かった。長谷川が演じる主人公はダークヒーローで,全然笑わない。ほとんど不法な行為を平然と行うことができる人間である。

こうした人間を演じることも,長谷川はうまい。「まんぷく」の主人公の主人のように(安藤百福がモデル)コメディを演じることもできるが,今回のように影をもつニヒルな役もたいへんにうまい。ニヒルに笑う姿がカッコいい。悪役ではあるが決して下品にならない男。それが長谷川博己なのである(安藤百福役はコメディではあるけれど,はっきり言って狂気を感じた)。

明智光秀を演じた「麒麟がくる」では追い詰められていく理想主義者であったし,「リボルバー・リリー」では育ちのよさそうなダンディな弁護士役で綾瀬はるか演じるリリーを支えていた。彼には華がある。

彼の好きなところは,意外に滑舌がいいことである。「アンチヒーロー」でも難しい法律用語のあるセリフもたいへん聞き取りやすく話していた。それもダークな雰囲気を壊すことなく,である。彼の演技の実力は相当なものだと知る。

ということで,とにかく私は長谷川博己という俳優が大好きでこれからも注目していきたいのだけれど,ひとつだけどうしても観たい番組がある。それはNHK BSで放映された彼が金田一耕助の「獄門島」である。宣伝動画で彼が狂った金田一を演じていてとても気になっていた。しかし見逃したのである。

あー,彼の狂気の金田一も観てみたい。それをまたいつかの楽しみにしているのである。

志賀直哉旧居にて「志賀直哉」を堪能する

 9月初旬,奈良春日野国際フォーラムで開催された国際会議のあと,奈良公園の中にある「 志賀直哉旧居 」を訪問することができた。昭和初期に志賀直哉自身が設計し建築した半和風・半洋風な邸宅なのだけれど,現在は奈良学園のセミナーハウスとなっている(見学可)。 志賀直哉の美的センスが感じ...