宗教的儀式によって深層心理を操作するという話の第4回目。
人をトランスに入れて,一種の暗示を与えることによって,人々の心理を変化させようとすることは,宗教では普通に行われてきたということになる。この人々の心の変容が,その人の役にたつのであれば良いのだけれど,誰かのために都合よく行動するような価値観を植え付けられるようになるとそれは「洗脳」となる。
それを容易に行う方法は古来研究されてきていて,そもそも「洗脳」という言葉も朝鮮戦争における思想教育から生まれている(中国語。英訳はBrainwash)。もちろん,思想だけでなくカルトな教団の偏った教義を植え付けるのにも洗脳は使用されている。簡単なのは独房などに閉じ込め,視聴覚刺激や薬物と一緒に洗脳を行うことだろうけれど,この方法は下手をするとその人の心を壊してしまう可能性がある。洗脳が「やりすぎ」になりがちなのである。
その点,伝統宗教は長い歴史の中で,「ほどほど」な量を把握している。例えば密教は厳しい修行によって悟りを得る宗教だけれど,次の命がけの厳しい修行に耐えられるかどうかを,高僧たちが判断し,許可してから修行を行うのだという。そこらへんのボーダーラインは1000年以上の歴史の中で成功した人と失敗した人のデータを積み重ね,「ここまでだったら大丈夫」という検討によって得られているのだと思われる。一方,新興宗教やカルト宗教では,その境界の判断を飛び越えて,安易に薬物や視聴覚の効果を与えることで,「悟り」を得ようとすることや「洗脳」しようとするので失敗してしまう人が出てきてしまうのだろう。儀式の真似事をすることで不十分な儀式となってしまい,失敗して重大な結果を招く,というのはモキュメンタリー「飯沼一家に謝罪します」でも描かれていたことである。
そして私には武道の世界でも同様なことがあると思われる。段階を踏んで修行を進めていかず,一足飛びに高度な修行に入ってしまうと,身体だけではなく心の健康も損ねてしまう修行法が古来伝承されている武道にはあったりする。あるいはいきなり高い段階の修行をしようにもその効果が得られなかったり,そもそも意味が理解できないものもある。適切に伝承されてきた武道にはそうした修行のノウハウが伝統宗教同様に蓄積されているものである。
こうして考えると宗教であっても,武道であっても,修行の高い段階に進むためには,それを伝え,また修行時期を判断できる良い指導者の存在が不可欠であることがわかる。この良き修行者が不在となれば,こうした珠玉の遺産は継承されず潰えてしまうのである。いままでにどれだけの「法(技術)」と「教え」がこの世の中から消滅してしまったのだろうか。そして将来,また誰かがそれらを再発見することは可能なのだろうか。人類が失ってきた遺産の大きさについて思う。
(とりあえず,このシリーズ完結です)
#例えば,継承が途絶えてしまった古武術などどれだけあるのだろうか?例えば,江戸時代初期,往時1万人以上の門弟がいて隆盛を誇っていたという無住心剣流がその後急速に力をなくし,潰えてしまったという。技術が高度化しすぎるのも(天才しか理解できなくなり)継承が難しくなってしまうので課題なのだなぁとしみじみ思う...