最近,「感染呪術」と「類感呪術」という言葉を知って,呪術に関する考えがまた少し整理された。この二つの言葉は,どうも文化人類学者フレイザーによって提唱されたものらしいのだけれど,呪術がなぜ効果をもつかということを示唆しているように思えて,興味深い。
「感染呪術」とは,呪う相手の毛髪や爪,使用していたもの,息(!)などを用いて行うものであり,藁人形の中に相手の髪の毛を入れるとか,「ひとがた」の紙に息を吹きかけるとか,そうした相手につながる直接的なイメージを用いる方法のことであるらしい。昔の人が自分が出したゴミを残さないようにするのはこうした呪いから自分を守るためであって,例えば織田信長が切った爪を森蘭丸が捨てる話がよく知られている。
一方,「類感呪術」とは,「感染呪術」よりも一段階抽象度があがった,すなわち高度な呪術だといえるだろう。呪いだけでなく,マジナイとか縁起担ぎにつながる方法である。たとえば,安産祈願を「戌の日」に行うのは,犬が多産で安産であることが多いから,それにあやかっているからだといわれている。
そんなことをいったら,正月に食べるおせちだって,「エビ」は腰が曲がるので長寿の象徴だったり,「田作り」や「くわい」は「子孫繁栄」や「芽でたい」という縁起担ぎである。もちろん藁人形やブードゥーの人形のようにもう少し直接的なイメージを用いた呪いも「類感」といえるだろう。こうした似たものを用いることや抽象度があがった象徴として人間とは異なるものを用いるのは,思考によって縛られる人間らしい呪術であるといえるだろう。
しかし,こうした呪術は逆にいうと,呪う相手が自分と同様の類感をもつ,すなわち平たく言えばイメージを共有できなければ効果がないのではないかと思うのである。おせちを,えびやくわいの入った単なる豪華な御膳としてとらえるか,それを縁起物として食べるかでは,おせちの意味が異なってくる。また,おせちを用意してくれた人の気持ちを汲むことができるかどうかという違いにつながる。
呪いも同様である。ひどい話でいえば,犬や猫の死体を呪う相手の玄関先に置くという呪いがあるが,これだって死体を単に「生ゴミ」としか思わない人にとっては,効果を及ぼさないのではないかと思われる。
呪術というのは,私たちが「文化」という共通の枠組みの中で,イメージを共有する思念の世界でつながっていることによってはじめて効果を及ぼすものではないかと思うのである。
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